Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

私と君とでは、見ている世界が違うのだよ

2006-01-31 23:50:53 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月
 天気が悪く、事務所でずっと仕事していた。





とりあえず、ひとつの仕事に区切りをつけたのだが、実は別件の方が優先だったようで、ちょっとあせってしまう。とはいえ、ある程度までは進めていた案件なので、まぁなんとかなる、というかなんとかするほかはない。

さておき、取引先から連絡があり、どうやら成果物の色味に問題があったらしい。
ぶっちゃけ、CRTキャリブレーションの問題なので、電話やメールでやり取りしてもあまりいいことはない。しかも、どうやら先方はその辺の液晶モニタでチェックしているらしく、個人的なつぼにジャストミートしまくりで面白くなってしまう。もちろん、自分ではどうしようもないので、餅は餅屋ということにしていただき、とりあえず技術者同士のやり取りで事なきを得る。
でまぁ、代わっていただいた担当者は古い知り合いで、おまけに写真好きだったりもするので、ついつい雑談に花が咲いたりもする。というか、なぜか先方がこのブログを読んでいて、えらくたまげさせられたりもしたのだけどね…

ちなみに、なにがどう問題だったのかについては、よければこちらのサイトも参照してください。

それにしても、電話の向こうに対して「私とあなたでは見ている世界が違うのです」などというわけにもいかないよな(でもブログには書くけどね)、なんてネタをかっ飛ばしながら、古参の人々に対するあれやこれやで盛り上がる。といっても、印刷媒体ではダイナミックレンジが極端に狭まるので、昔は職人が適当に表現する幅を決めていたんだけど、今はデジタルになっていいのやら悪いのやらとか、あるいは「網点の傾きをいじってモアレを消していた話」とか、要はDTP板の愚痴というか昔話というか、そういうあれこれだったんだけど、まぁこういうときって「そういうのがおもしろい」やな。

とりあえず、今でも「謄写版版画」とか「石版多色刷り」とか、そういうのやってる人がいたら、ちょっと話を聞いてみたいものです(いや、聞くだけですよ)。

それから、宣伝じゃないけど、もし本気だしたいなら、やっぱキャリブレーションツールは押さえといてください。特に写真関連の人、よろしくね。

これは宣伝で恐縮なのだが、今週の土曜に伊藤剛氏が横浜国大で公開講座を持つそうだ。詳しい内容はフライヤーを参照(PDF形式)していただくとして、学生との質疑応答が中心になるかもしれないというのは、なかなかエキサイティングな講座になるような気がする。
非常に残念ながら、自分はいろいろ予定があって受講できないのだけど、興味のある人にはぜひともお勧めしたいですね。
そうそう、これは全くの蛇足なのかもしれないけど、自分はキャリアに対する伊藤氏の控えめな態度が大好きです。伊藤氏と自分は本当に同世代なんだけど、恐らくは業界人(特にいわゆるオタク方面)の「さもしさ」にうんざりさせられている口なんだろうなと、勝手に推測しつつそういうところに共感していたりもするのです。

とりあえず物語的ななにかをひとつ…2

2006-01-29 23:25:39 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

 ふと思い立って、新宿コニカミノルタプラザ宮下俊一写真展「Partition」を観に行く。


松代と時期はかぶっていないものの、宮下氏も金村修ワークショップの受講生だったので、正直そういう縁もなくはなかったのだが、もしまったく無関係の作家だったとしても、観に行ったであろうと確信を持って断言できる。また、もっと多くの人々の目に触れてほしい作家の一人でもあるし、個人的に今後の活動が非常に楽しみな作家の一人でもある。展示については、自分なんかがだらだらと語るより、やはり実際に観ていただきたいのだが、ポストカードから想像していたほど抽象的ではなく、どちらかといえば具象的な作品が多めで、親しみやすいとまでは行かないまでも、決してとっつきにくい展示ではなかった。あくまでも個人的な趣味で言わせてもらえば、同時開催されている展示の中で、最も気に入っている展示だった。いや、ひいきの引き倒しになりかねないのを承知で言わせていただくならば、質的にも一番よかったと思う。会場では宮下氏とも少しお話したのだが、彼の作品はやはり銀塩ならではの表現で、印刷媒体では非常に再現しづらいし、また作家の意図も表現しづらいと思う。もちろん、階調表現力の乏しいデジタルでは複製にもなりはしないのだが、そういう表現を可能にするだけの技術を持っているというのがかなりうらやましい。まぁ、そうなると作家の表現を堪能するためには、どうしてもオリジナルプリントを鑑賞しなければならなくなるし、今度は展示環境という問題も発生してくるのだが、写真でもそういう方向性で活動する作家が増えてほしいと思うところだ。


話は少し前後するが、展示を観に行く途中で連絡があり、あまりゆっくりしている間もなく会場を後にする。数日前に浮上した案件が急展開したということで、とるものもとりあえず知人と合流し、そのまま打ち合わせというあわただしさ。まぁ、打ち合わせの中身は新たな状況の確認と、それに応じた方針変更の磨り合せといったところだが、どちらかといえば連絡がメインだったので比較的簡単に終わる。


 とはいえ、自分も知人もオタクなので、用件だけで話が終わるはずもなく、しばらくだらだらと話をする。知人も美術方面には多少なりとも興味があるので、やはり話のメインはさっきまで観ていた展示となるのだが、その前にコニカミノルタがカメラ事業とフォト事業から撤退した話で盛り上がるのも、またオタク的といえるだろうね。


さておき、知人に宮下氏のポストカードを見せた感想は、まぁ「ちょっと高尚過ぎやしない?」というもので、さもありなんというところではあった。ただ、興味深かったのは、知人が「写真を知らない(鑑賞経験の乏しい)鑑賞者にとって、こういう『物語的要素のまったくない』写真は、どう対処していいのかわからなくなる」と指摘した点だった。もちろん、いかなる鑑賞者を想定するかという問題はあるのだが、もしも鑑賞経験の乏しい鑑賞者のみが評価を下すのであれば、こういう「お前の好きな作品(そしてお前が制作するような作品)は、きわめて民主的かつ徹底的に社会から排除されるだろう」という指摘については、残念ながら全面的に同意せざるを得なかったのである。知人はサロン的なインナーサークルによって芸術分野がリードされることに対して、きわめて強烈な嫌悪感を抱いており、同時にその害悪についても舌鋒鋭く切り込んでくるのだが、逆にコニカミノルタプラザのような存在が宮下氏に展示の機会を与えることの意味についても十分に理解しており、物語装置の代替物としての権威装置が必要であることも認めている(不承不承ながら、ではあるが)。もちろん、完全無欠のシステムなど存在はしないのだが、それにしても「もう少し中庸的ななにかいい方法」はないものかと、思案に暮れてしまうのであった。


そういえば、コニカミノルタがカメラ事業とフォト事業から撤退を発表した時、一部の銀塩愛好者は「本当に芸術を愛好する人々の手によって感材は作られ続けるから大丈夫」と高らかに宣言したが(実際に、フジフイルムが供給の継続を表明した)、こういう「表現の多様性を担保する制度や装置としてのメーカー」という存在について、多少なりとでも思いをめぐらせた上での発言だったのかどうか、いささか怪しいような気がしてならない。コニカミノルタプラザは、ニコンサロンと並ぶ若手写真家の登竜門として、非常に重要な社会的機能を果たしてきたが、今後もこれまでのように「銀塩写真の振興活動」を継続してくれるかどうか、率直に言って心もとない。すでにニコンサロンはデジタル作品(あるいはデジタル処理された作品)が主流となっており、当然ながらコニカミノルタプラザも同様の方針転換を図るだろう。そして、そうなってしまったが最後、たとえ「本当に芸術を愛好する人々の手によって感材は作られ続けるから大丈夫」だったとしても、物語装置に依拠しない銀塩作品に発表の機会がどれだけ与えられるのか、それこそ「民主的かつ徹底的に社会から排除される」のではないかと、そう思えてならない(とはいえ、そうなっちゃうと今度は「銀塩写真という物語装置」が機能し始めるので、それはそれでなんとかなりそうな気もするんだけどね)。


とりあえず物語的ななにかをひとつ…

2006-01-28 23:56:41 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月
週末だが事務所で仕事…






とりあえず納期最優先で作業を進め、なんとか営業時間内に成果物を納品するが、クオリティについてはいささか問題が残る。納品後、夕方から出かけるためばたばたしていると、別の取引先から連絡があり、仕様が変更されたとのこと。簡単な作業なので先につぶしておこうと思いつつ、なんとなく先送りにしていたのだが、結果的にはそれでよかったってことだな。


その後、銀座で知人と合流してポストカードを渡し、まぁ久しぶりだから四方山話のひとつでもといいつつ、なんだかんだで展示やらポストカードやらについて、技術的な問題も交えつつ話をしたので、気持ちはすっかり打ち合わせ。
その後、事務所付近に戻って本当の打ち合わせがあり、今はこうしてブログを書いているのだから、なんだか本当に忙しい1日だったんだなぁ~

と思ったら、メール着信。
納品先から修正要求だった...OTZ

でまぁ、知人と話した内容で印象に残ったのは、やっぱり「物語性という要素をどう処理するか」が大事でということ。そして、たとえ物語性を排除するにしても、無意識無自覚になんとなくいやだから遠ざけているかのように思われたら、それは非常によくないので、そこは自覚的に作家的な意図を持っていることが伝わるようにすべきだろうという点だった。
特に、自分は金村修氏のワークショップを受講しているし、そうでなくても自身のブログなどで金村氏の連載記事を度々取り上げているのだがら、やはり金村氏が強く打ち出している「物語性の否定」と結び付けられるのは避けられない。もちろん、実際に影響を受けているのも明らかだが、それは事実としても「受講生が意味もわからないまま、ただ単に講師の真似をしている」などと受け止められたら、それでなにもかもおしまいなのは間違いない。

物語性というの装置はあまりにも自明のこととして社会に蔓延しているため、肯定するのは非常にたやすいし、そもそも説明さえ不要といえる。つまり、作家が物語を提示すれば、その段階で物語性を肯定しているのだ。ところが、例えば物語性の否定を意図して「物語を提示しない」となると、物語性を自明とするあまり「観客が勝手に物語を生成し始める」という、きわめて厄介なジレンマに陥る可能性があるのだ。
知人の指摘した「受講生が意味もわからないまま、ただ単に講師の真似をしている」というのはその典型ともいえるだろうし、あるいは「物語性を提示しないという物語」や「物語を否定するという物語」とか、さらにありがちなのは「晦渋である事が現代芸術の基本なのだから仕方ない」という物語すら、受け手はいとも気軽に生成してしまう。

もちろん、物語性というのはそれほどまでに強力だし、また多くの人々は「物語性によって作品に惹きつけられる」のだから、物語性を利用しないほうがどうかしているとさえいえるのだ。実際、ブログでも何回か取り上げた「同人フィギュア計画」にしても、単に興味深い作品世界を持つフィギュアを製作したというだけではなく、オタクがわざわざ中国くんだりまで出かけてオリジナルデザインのフィギュアを生産するという物語まで含んでいたからこそ、多くの人々の心をつかんだし、ある意味で伝説的な事件とさえなったのは間違いない。

では、なぜ自分も展示で物語性を利用しないのかという点については、やはり展示によって表明するほかはないし、またブログで気軽に語るようなものでもない。ただ、既にブログへ投稿した内容からも明らかになっているとは思うが、あまりにも無自覚に物語性を自明とすることに対する違和感や、あるいは疑問というのが根底に存在するのは否定できない。
知人との話にも出たのだが、例えば「一写入魂」を標榜しつつ、いわゆるクラシックカメラや、あるいは大判カメラなどで撮影した素材を、気軽にウィンドウズマシンと「液晶モニタ」でデジタル処理しつつ(下手するとノート機で処理)、無邪気に喜んでいるような人々に対して、やはり多少の距離を置いておきたいという欲求は存在してしまう。なんというか、カメラ事態の持つ「歴史性」や、あるいは「単純な解像度の高さ」の持つ物語性を自明としつつも、古いカメラやレンズとは決して相性がよいとは言えず、ダイナミックレンジの狭さからまたせっかくの高解像度を台無しにしかねないという欠点を踏まえたうえで、あえてデジタル処理を行う意味性について、多少なりとも考察した上での決断ならば、まぁとくにどうこう言うものでもないのだろうが…
少なくとも、モニタの色再現性問題だの、プリンタやスキャナのファームウェアだのに神経を尖らせつつ、発注者の求める物語性を複製、あるいは捏造することに腐心している知人や、また自分にとってみれば、無自覚に物語性を自明とすることに対して、一定の警戒感を抱くのは当然の心構えなのだ。

ポストカード受領

2006-01-24 23:55:12 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

 ポストカードを受領し、まず最初はプレイスMにおかせていただく。

ポストカードを持ってギャラリーを訪れると、いよいよ展示が迫ってきたというか、ぶっちゃけ「引き返せないところまで来ちゃった」というか、そういうあれやこれやがこみ上げてくる。幸か不幸か、対応したのはほとんど面識のないスタッフだったこともあり、結局は通り一遍の挨拶をして早々に退散する形となってしまった。本来ならば、日ごろの感謝も含めてきちんとご挨拶すべきなのだろうけど、なまじいつも暗室を使わせていただいているだけに、改まって筋を通すというのが妙に照れくさかった。
ほんとに、子どもじみたお話ですけどね…

午後には取引先から電話があり、作業状況を報告する。正直言って、いささか難航気味だったのだが、そろそろねじを巻きなおして、ここでスパートをかけねばならないだろうなぁ~
幸い、すでにきちんとした構想がまとまっていたので、その辺はかなり楽観している。

事務所に戻った後、夜には食事をしながら別の取引先と打ち合わせ。
打ち合わせといっても、仕事の話はすぐに終わってしまい、オタク2人で取り留めのない話を膨らませる。いちおう、展示の話しもするにはしたが、どちらかといえば物語装置の問題とか、感情的に受け手をあおることの問題とか、そういった話がメインだった。
オタクとしてオタク相手に商売するということは、当然ながら「物語装置への依存を自明とし」て、かつ「受け手を感情的にあおる」ことをためらってはならないのだが、やっぱりそういうのはあまり得意じゃないね。実際、物語装置というのはあくまでも「受け手の側に内在する」ものだから、物語装置への依存というのは、とりもなおさず受け手の側の蓄積に依存することを意味する。まして、感情的に受け手をあおるとなると、ぶっちゃけ権威を笠に着て使い古されたイメージを再利用するのが、実は最も手っ取り早いということになりかねない。

まぁ、個人的には歴史というジャンルでそういう種類の物語装置には散々お世話になっているし、どちらかといえば物語装置を使ったり、受け手を感情的にあおったりする側に位置している。だが、それだけに展示においてはそういうことをしないように、そういう背景がにじみ出ないようにしなければならないと思うのだ。


ワークショップ初日

2006-01-23 23:06:18 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

今日は今年で最初の金村修ワークショップで、先日プレイスMで伸ばした検討用のプリントなどを持参したのだが、案の定というかなんと言うか、まぁコテンパンにやられてしまい、ちょっと凹んだ。それも、全然自覚していなかった欠点を指摘されるのなら、そこにはそれとしてひとつの発見であり、またステップアップのきっかけも存在しているのだが、ある程度まで自覚していた欠点を突っ込まれるのは、単なる怠慢の産物に他ならない。まぁ、自分を責めるほかないのだけど、もうちょっとなんとかしておきたかったなぁ~


なんとかなぁれぇ~パン!(打一筒


とかなんとか言いつつも、それはそれでなんとかはなっているんですけどね。


さておき、当然ながらワークショップ参加者の間でも金村氏の連載は評判で(金村修の写真愛「記憶」)、なにかと話題に上っていた。内容に関しては日本カメラ本誌を購読していただくとして、自分自身にとっては「実作者の文章でありながら、評論的な側面を持っている」点に注目している。もちろん、実作者が評論すべきでないとか、そんな馬鹿げたドグマにとらわれているつもりはなく、むしろ積極的に実作者が評論活動を展開したほうが面白いと思っているのだ。かつて、スーザン・ソンタグロラン・バルトはあくまでも写真を撮られる側から写真を論じ(スーザン・ソンタグ「写真論」、ロラン・バルト「明るい部屋―写真についての覚書」)、また美術であると同時にまぎれもない「産業」であるという写真の特性からか、美術における表現上の差異や接点よりも文化や社会全体を巨視的に捉えつつ、ある意味「社会制度、社会装置としての写真」が論じられることが多かったように思える。個人的には、アラン・トラクテンバーグの「アメリカ写真を読む―歴史としてのイメージ」がその方面の最高峰じゃないかと思うのだが(ただし、トラクテンバーグには写真の心得がある)、いずれにしてももう少し実作者の立場から評論が行われても悪くはないのではないかと思う。ただ、1970年代には中平卓馬らが「決闘写真論」や「プロヴォーグ」を通じて、実作者の立場から特筆すべき評論活動を展開しているし、現在でも実作者の立場から評論活動を展開することには一定の意味があるとは思うのだ。


というわけで、まぁ当然のことながら金村氏にはその辺のことを期待してしまうのだが、そんな期待は無責任極まりないし、そもそもひいきの引き倒しに過ぎるといわれてしまうと、左様でございますといって引き下がるほかはないというのがなんとも悲しいところである。


これはまったくの余談なのだが、どうやらマンガと美術の関係性においても、評論的な位置づけというのは微妙なものらしい。伊藤剛氏のブログによると-「美術」と「マンガ」という対比においては、表現上の差異や接点よりも、制度的な扱われ方をめぐる議論が先行する嫌いがあります。もっともそれは、日本において「美術」が美術館や美術展などの制度の整備を通して自らを権威づけていった過程がある以上、避けられないことではあるんですが、この特集も、目次をぱっと見た限りでは、そういった制度的な問題に引き寄せられた感があります-ということなので、世界の違う話ではあれど興味深い。とはいえ、伊藤剛氏自身はかつてマンガ家を志したか何かでかなりの実作経験があり、その気になればアシスタントぐらいは務められるぐらいの技量をお持ちだそうだから(アミューズメントメディア総合学院コミック学科の講座においても、その知識と経験は大いに役立っているといううわさだ)、彼のような論者がどんどん世に出て行けば、マンガの世界もだいぶ変わっていくのだろうなとは思う。


さてさて、写真のほうはどうなっていくことやら…


今日も今日とて

2006-01-20 23:55:14 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月
 昨日に引き続き、今日も仕事の合間に撮影する。





とはいえ、さすがの自分にも多少の学習能力はあるので、今日はフィルム1本(8カット)で切り上げた。そもそも、今日はまだ土地勘のない場所へ出かけたので、撮影といってもロケハンがてらのようなものだったしね。
でまぁ、ついでに機材をメンテナンスに出したんだけど、技術者の話がいろいろと面白く、長居をしたら昼休みがなくなってしまった。レンズボードとシャッターのあれこれやら、古典レンズにはまったおじ様方のお話やら、面白いというか味わい深いというか、技術者の人柄がしのばれて、ついつい聞き入ってしまった。
撮影そのものは今日もぱっとしなかったけど、新たな土地勘を得たり、面白い話を聞いたりと、なかなかに有意義な1日だった。

おなかすいちゃったけどね。

貧乏症

2006-01-19 23:10:06 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

 今日、打ち合わせの合間に撮影した。

ただし、この「合間に」というのがひどく曲者で、最終的にはほとんど集中できないまま、無駄なカットばかりだったから、ひどくもったいないことをしたものだ。こんなことになるなら、最初から撮影なんかしなければよかったものだが、撮影したのはあれやこれやが「もったいない」からというわけで、それこそ本末転倒もはなはだしい有様だ。

そもそも、発端となったのは昨夜の天気予報だった。
天気予報によると「19日はよく晴れるが、20日から天気が下り坂となり、週末は雨か雪」ということだったので、せっかくの晴天を無駄に過ごすのは「もったいない」し、またどうせ打ち合わせに出るのだから、ついでに撮影しないと「もったいない」なんて、文字通り貧乏くさいことを考えたところから、全てが始まったのだ。
そして、朝にはカメラにフィルムを装てんし、バッグを担いで職場へ向かう。職場ではちょっと予定になかったあれやこれやがあり、早めに出るはずが時間ぎりぎりとなってしまう。まぁ、この段階で撮影なんかすっぱりあきらめ、バッグを事務所においていけばよかったのだろうが、せっかく重いものを持ってきたんだし、最初からあきらめるのは「もったいない」というわけで、大荷物を抱えて打ち合わせに出かける。
幸か不幸か、打ち合わせそのものはあっという間に終わり、ちょっと時間が余ってしまった。ところが、そのころには微妙な薄雲が出ていて、光線条件がころころ変わっている。雲の動きをにらみつつ撮影するのはストレスがたまるし、それにどうしても時間がかかってしまう。というわけで、撮影なんかしないですっぱり戻ればよかったのだが、せっかく時間が余ったのに「もったいない」というわけで、その辺をぶらぶらしつつ撮影を始めてしまった。

というわけでなんとなく撮影し始めたのはよいのだが(いや、ほんとはよくないのだけど…)、どうにもこうにも勝手が違ってなかなかうまくいかない。それも、初見の場所じゃなくって、だいぶ前に何回か撮影したことがあり、多少の土地勘もあるような場所なのだが、これがにっちもサッチモってぐらいだめだめワンダフルワールドなんだな。
もちろん、季節の変化や流れる雲による光線条件の相違というのはあるし、また微妙に再開発が始まっていたりして、町そのものの印象が変化しつつあるというのも見逃せないポイントではあるが、それ以前に自分の撮影スタイルが激変していて、その土地とマッチングしなくなっているというのが最大の問題なんだろう。おかげで、当初の予想よりもずっと時間がかかってしまったし、なによりたびたび違和感を覚えてあまり撮影を楽しめなかった。
数カット撮影した段階で切り上げればよかったのだろうが、せっかく撮影はじめたんだし、途中でやめるのは「もったいない」ような気がしてしまい、持参したフィルムが尽きるまでやめられない。その上、そういうときに限って無駄なカットが多く、なんだかんだでフィルム3本(24カット)も消費、いや浪費しているんだから、それこそどっちが「もったいない」んだかわかったもんじゃない。ここまで来ると、単なる貧乏性じゃすまなくて、貧乏症って病気なんじゃないかと思う。
とまぁ、親父くさい駄洒落はさておき、ほんとは強迫神経症の発作が出てるだけなんだろうけどさ。

それにしても、やめる勇気ってのはほんとに大事だね。
少なくとも、こういう制作活動に関しては実行力と同じくらい、まずいと思ったときに引き返す決断力も必要だろう。

そういやぁ、毎日新聞で「MOTTAINAI運動」とか展開していたけど、どうなっちゃったんでしょうねぇ~
まぁ、自分は逆効果になりそうだから、関わらないようにするけどね。

とかなんとかだらだら書いていたら、コニカミノルタがカメラおよびフォト関連事業から撤退するそうじゃあぁりませんか!
前のエントリーで「コニカミノルタでガラス乾板作ってるのね」って書いたばっかしなのに、ほんとになんだかなぁ~
いやぁさぁ、やめる決断ってのは大事だけどねぇ~

マジで紙ネガ作りの練習でもするかな…


値上げで音を上げる

2006-01-17 23:49:43 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

年が明けてから気がついたのだが、コダックの感材がかなり値上げされていた。


35はろくにチェックしていないのだが、120や220はカラーもモノクロも結構な上がり方で、特にTMXやTXPといった定番アイテムは影響が大きいだろうなぁ。とはいえ、ロールフィルムはまだましなほうで、シートフィルムにいたってはちょっとびっくりするような上がり方だったので、棚を見たときはめまいがしましたよ。嫌なのは、どうやらこれは日本だけの価格改定らしきことで、アメリカの業者は今まで通りのプライスで販売しているんだね。でまぁ、早速お取り寄せかと思いきや、輸入すると関税やら何やらで追加出費があるので、手間の割りに得をしないことがわかる。もちろん、先方も商売なので、ぎりぎりの線を狙っているのは百も承知なのだが、シートフィルムはそれでも輸入したほうが割安なんだから、代理店としてはそういう意思表示なのだろうね。


それにしても、デジタルへの流れに棹差して銀塩というのは、やはり贅沢というかなんと言うか、作家のエゴなのかもしれないなぁ。印画紙については鶏卵紙という裏技もあるし、個人的には何回かプリントした経験もあるのだけど、問題はネガだよなぁ。ガラス乾板の自製は難しいっぽいし、かといって湿式写真はもっと面倒だなぁ、とか思っていたら、今でもコニカミノルタでガラス乾板作ってるのね(一般小売してないと思うけど)。問題は、そういう古典技法で作画したら、技法が主張しすぎて作品の印象が薄くなるってことだけど、まぁそれはそのときになってから考えればいいか…


感材をチェックしたついでに、日本カメラを立ち読みする。新年号より金村修氏の連載(金村修の写真愛)が始まったという話は聞いていたのだが、チェックしそびれたまま2月号の発売日が迫ったので、あわてて探したという次第。内容については、こんなところでどうこう言うものでもないのだが、当然のように金村節全開で、好き嫌いがきっぱりと分かれるのは間違いない。個人的にツボだったのは「物語装置」を全否定したところで、やはりこの人はこうでなくっちゃと膝を打つことしきりだった。明日には2月号が店頭にお目見えするだろうが、今から次が楽しみでしょうがない。


それにしても、物語装置に依拠することなく、純粋に作品を提示するというのは本当に難しく、かつ勇気のいることだと思う。もちろん、自分もそうするつもりなのだけど、それがうまくいくかどうか、ちゅうか自分の力量に見合った行為なのかどうかは、まったく別問題なんだよね。


初体験と追体験

2006-01-14 23:44:10 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月


天気は悪かったが、かねてより約束していたこともあり、知人と東京都写真美術館に出かける。


お目当ては植田正治:写真の作法~僕たちはいつも植田正治が必要なんだ!~展で、貴重なオリジナルプリントを存分に堪能することが出来た。自分としては、出来れば同時開催の写真展・岡本太郎の視線も観たかったが、いろいろばたばたして時間が押していたこともあり、残念ながら今回は見送らざるを得なかった。知人は鳥取まで植田正治写真美術館を観に行くほどの植田ファンなのだが、残念ながら自分はそこまでではなく、もっぱら印刷媒体で作品をいくつか観ていたことがある程度だった。つまり、知人にとって今回の展示はある意味で「追体験」なのだが、自分にとっては全てが「初体験」であり、いろいろと考えさせられることの多い展示でもあった。


それにしても、改めて感じさせられるのはオリジナルプリントを観る事の重要性だ。今回の展示でも、そこには圧倒的なまでの「本物感」が横溢し、作家と作品に対する認識や評価を一新させるに十分な刺激を受けた。とりあえず、図録代わりの写真集(植田正治写真集:吹き抜ける風)を買い求めたが、写真集といってもオリジナルプリントと印刷物はまったくの別物で、やはり同列に評価することが出来ないだろう。もちろん、印刷時には原版を可能な限り忠実に再現するよう工夫されており、今回買い求めた写真集もかなりよくがんばっているのは間違いない。だが、印刷物には印刷物としての評価や「読み」が必要であり、単純に作品の「複製」と受け止めることは、いささかナイーブに過ぎるといわざるを得ない。


というわけで、松代は「印刷物からオリジナルプリント」という体験を初めて経験したのに対して、すでに植田正治写真美術館でオリジナルプリントに触れていた知人にとって、今回の展示は「追体験」であると同時に「礼拝的な意味」を持っていたのではないかと思う。植田正治が評価された戦前から敗戦直後の時代において、大半の人々は印刷媒体によって植田の作品を目にしただろうし、かつての自分もそうだった(ただし、当時のアナログ印刷では製版職人がそれこそ「職人技」を駆使して網点を打っていたし、製版カメラやスキャナーの違いもあるので、これまた現在の印刷物とは同列に語れないのだけど)。そして、かつての自分がそうであったように、当時の人々は印刷物で植田の作品を評価し、あるいは評価しなかったわけだ。しかし、オリジナルプリントと印刷作品との間に決定的な違いが存在するのであれば、かつての自分や当時の人々(もちろん、オリジナルプリントを目にした一部の編集者や写真家は別として)が下した評価は間違いということになりはしないだろうか?


例えば、先に同行した知人が鳥取まで植田正治写真美術館を観に言ったと書いたが、そこには「本物を求める巡礼者的な意識」が存在したかもしれない(もちろん、存在しなかったかもしれない)。写真とは典型的な複製芸術であるかのように認識され、自分自身もそのように認識しているのだが、もしも複製を鑑賞した経験がある意味において「まやかし」であり、オリジナルを鑑賞しない限りは作品を「本当に鑑賞した事にはならない」のであるならば、写真に対する認識は根底から覆されてしまうのではないか?


オリジナルプリントと印刷物との違いを無邪気に語りつつ、同時にそのことがはらむ問題の重さ、深さについても、ぼんやりと考えさせられた展示であった。


まったくの余談だが、先日このブログで紹介した伊藤剛氏は、自身のブログにおいて東京都写真美術館で開催された「おたく」展を寺になぞらえていたことを、ふと思い出してしまった。大量に存在するオタクアイテムを展示しつつ(グローバルメディア2005 おたく:人格=空間=都市)、しかしながら全体として「複製不能で一回限り」の空間であることが展示の礼拝性を強めており、伊東氏はそのことに引っ掛けて展示をお寺と表現したようなのだが(ブログにも「空間の展示」であることを繰り返し明記している)、それでもなお「本物を求める受け手の側の欲求」に対する遠まわしな皮肉なのではないかと思えたことが、強く印象に残っていたのだ。


選択肢の幅

2006-01-13 23:02:19 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

 今日は、プレイスMで朝から暗室作業。


とりあえずフィルム21本分のコンタクトを取って、いけそうなカットを検討用に引き伸ばすのだけど、まずコンタクトを取るだけでも大騒動。なんでもそうだけど、やっぱりこういうのは日ごろからこまめにやっとくのが大事で、少なくとも溜め込むもんじゃぁないよな。
作品用のネガは15本(315カット)あって、3本で5枚のコンタクトシートになるのだけど(1枚は半分に裁断)、ネガアルバムのホルダーごと印画紙に密着させるから、枚数の割りに楽ちんなのが救いだねぇ。以前はコンタクトプリンターにネガを差し込んでいたから、これだけの本数になると半日仕事だったですよ。
コンタクトをとり終わってお昼を食べると、今度はいけそうなカットのセレクトと引き伸ばし作業だが、とりあえず28カット伸ばした段階で印画紙が尽きた。たぶん、今日コンタクトを取った15本(315カット)から、検討用に伸ばすのはいいところ100カット、しかもその大半は検討段階で消えてしまうから、残るのはいいところ15~20カットだろうか。そして、そこからさらに絞り込んでいくのだから、一写入魂系の人からすればなんて馬鹿なことしてるのだろうって事になるのだろうな。
とはいえ、編集する立場からすれば「素材は大いに越したことはない」わけで、必要とあらばコンタクトの再検討もするし、場合によっては技術的にいまいちなカットでも日の目を見るかもしれない。ただ、そういう編集の自由度を確保するには、まぁ数を押さえとくしかないわけで、この辺は互いに解りあえないところなのだろう。


ただ闇雲にシャッターを切ってもしょうがないのだが、どれほど緻密な計算に基づいた撮影であっても、得られたカットが状況に適していなければ、やはり作品の持つ意味は薄れてしまうだろう。時にはすばらしい出来の1カットをお蔵入りさせる決断も必要だし、たくさん撮影することによってのみ、その決断は可能となるのではないかと思うよ。


正直しんどい

2006-01-12 23:19:07 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

昼過ぎから繁華街の撮影に出かけ、そのままとある立体造形の作家氏と話をする。撮影といってもフィルム1本(8カット)程度で、しかもマスターアップ明けなのでかなりへろへろしていた。マスターアップといっても、自分は直接の作業担当者じゃなかったので(というか、作業者だったらへろへろじゃすまない)、それでもたかは知れているのだけどね。写真のほうもそれなりで、おおかたブログのにぎやかし程度にしかならないだろうが、週末は天気が悪くなるそうなので、気晴らしにはちょうどよかったかもしれない。
ところが、夕方以降にひどくばたばたさせられたため、後から考えると。実はこの気晴らしがものすごく貴重な至福のひと時だったんだよね(そして、いささかもったいないことをしたと、それこそ仮眠でもとればよかったよと、ひどく悔やむことになる)。



夜には別の作家氏とチョコチョコ打ち合わせした後、金村修ワークショップの受講生と合流して、約束していた品を渡す。まぁ、品物の受け渡しだけではいささかなになのであれこれと雑談もするが、もちろん話題の中心はやはり写真であり、他の受講生が計画している展示のあれこれだった。その受講生も個展を計画しているのだが、お互い個展は初体験なので、どうしても話が抽象的な方向へ流れてしまう。
それこそ「どんな運命が待っているんだろう」状態なのだが、高橋瞳のように鼻の穴を膨らませてもわからないものはわからないのだから、本当にしょうがない。とはいえ、とらえどころのない中にも、やはり自分の立ち位置を見極めたいという欲求はあり、また手がかりのようなものがないわけでもない。
例えば、前に書いた制作し、編集するという立場がそれだ。他方、その対極にあるのが、編集すること(あるいは編集「される」ことも含めて)を拒否し、あくまでも「制作者であることに固執する」立場であろう。
古参の写真愛好者などが、時たま「一写入魂」という言葉を口にするが、これは単に「ひとつひとつのカットを丁寧に撮影する」という意味を超えて、撮影段階でピント位置や構図、露出もすべて完全に確定させ、全くすきのない写真を撮影するという意味がこめられている。そして、そういった「すきのない写真」とは、とりもなおさず「1枚で成立する写真」であろうし、同時に「編集する余地のない写真」ともいえよう。
もちろん、撮影段階で画面に存在するあらゆる要素をコントロールし、無駄のない映像を構成することは非常に重要だし、そもそもいかなる撮影であっても丁寧な作業を心がけるに越したことはない。しかし、そもそもピント位置や構図、露出などの要素について、あたかも数式のような最適解が存在するのか、あるいは「存在しえるのか?」という疑問があるのだ。
つまり、撮影した段階(あるいはネガを現像した段階)で作品を固定させるのではなく、発表する媒体や形式に合わせて「編集の余地を残す」という考え方も存在するし、少なくとも自分はその立場をとっている。そして、自分はその立場をさらに推し進めて、作家はあえて作品の最適解を提示することなく、受け手の読みに委ねる、あるいはそこまで行かなくても、受け手の解釈余地を大きく残しておくという考え方に傾斜しつつある。


もちろん、この考え方は非常にオタク的であり、ある意味でパロディ的ですらある。


例えば、これは二次創作同人と元ネタである商業作品の関係にも通じるもので(というかそのもの)、サークル楓のはらわたを主宰している武藤礼恵氏のブログにも、ファン意識と作品を自由に解体し、読み、そして「萌え」るプロデューサー意識とが相半ばする様子が現れている(と、松代は「読む」わけです)。さらに、この辺は伊藤剛氏の「テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」のテーマにも通ずるところがあり(というか、松代はそれこそがメインテーマではないかと「読んで」いるのだが)、朝日新聞の書評からはそのこと(物語という作家の自己表現ではなく、受け手の多様な読みを受容するキャラクターや萌え要素が重要になっていったこと)をショッキングに受け止めた人が少なくなかったらしいことがうかがえる。


しかし、そもそも作品とは、ひとたび公開された瞬間から、受け手の自由な、あるいは好き勝手な読みにさらされるわけで、受け手の「読み」をあまりにも露骨に誘導することは、やはり作者のエゴそのものなのではないかと思えてしまうのだ。もちろん、著しい誤解は問題だが、しかし誤解でさえも「恥をかくのは当人」であり(そう、松代がウォーカー・エバンスを誤解して恥をかいたように)、別にフラグが立って人生がプレイ不能になるわけでもなかろう(まぁ、無限ループに陥るとは思うけど)。それこそ、人生は盲導犬型RPGじゃないんだから…


例えば、松代のさまざまな活動や言動を知った上で展示を観た受け手が、そこに「性的なファンタジー」を感じ取ったとしても、それはそれでありだと思うし、なにか説得力のある形でその感覚を提示してくれるのであれば、すごく興味深く受け止めるだろう。他方、例えば武藤礼恵氏のさまざまな活動や言動を知った上で同人誌を買った受け手が、そこに「政治的なドキュメント」を読み取ったとしても、それはそれですごく愉快なことじゃないかと思うのだ。


国際化時代のオタク産業と生産技術形成3

2006-01-10 23:05:18 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月
打ち合わせの合間に、桜田門付近で撮影。天気もすばらしく、フィルム1本分(21カット)をさっくり撮りきって、気持ちよく事務所へ戻る。ただ、電車の遅れや予想外のトラブルなどもあり、撮り始めたのはお昼過ぎで、昼食をとる時間がつぶれてしまったのにはちょっと困った。


知人から連絡があり、ウォーカー・エバンスの「アメリカン・フォトグラフス」がまた再刊されるというので、早速アマゾンで予約する。ウォーカー・エバンス本人や、恐らくは彼の代表作といえる「アメリカン・フォトグラフス」については、自分があれこれ言うよりも、リンク先の解説を参照していただいたほうがよいだろうが(あるいは中平卓馬の「決闘写真論」とか)、なにしろ古書が数万円で取引されている状況だっただけに、再刊は本当にありがたい。
かつて、自分はウォーカー・エバンスをあくまでもFSAの作家であり、ある種「土門拳的ドキュメンタリー作家」だろうと「誤解」していた。だが、晩年のインタヴューで語った「写真というのが編集だということだ。撮影し、編集する、これが写真なんだ」という言葉に触れ、そのような認識がまったくの誤解であり、スティーグリッツやスタイケンの対極に位置されるとか、またはルイス・ハインの延長線上にあるとか、そういった捉え方ではまったく理解できない存在であることをいやというほど思い知らされた。

多少なりとも業界の裏側に触れ、経験を積んだオタクにとって、そうでなくても単に同人誌や同人ゲームを作り続けているだけのオタクでさえ、制作と同様に編集や、あるいはプロデュース作業もまた重要であることは自明といえよう。その意味で、ウォーカー・エバンスの言葉はきわめて重要であり、ややもすれば編集者と対立したり、場合によっては敵対的な関係に陥った木村伊兵衛のような作家たちとは決定的に異なる存在といえるのだ(作家の中には編集者やプロデューサーに対する侮蔑の念を隠そうとしない連中さえもいるが、そういう輩に限って作品の質が低いのは興味深い)。


身内の話で恐縮だが、やはり井上純弌は作家であると同時に間違いなくプロデューサーでもあり、またオタクであるということは、すなわち「世間にあまた転がっているネタを編集すること」であることを理解している人物だとも思うのだ。あえてウォーカー・エバンスの言葉を借りるなら、オタクとは編集ということで「編集し、プロデュースする、これがオタクなんだ」ということなのだ。まぁ、プロデュースといっても「自腹を切っている」わけで、決して「自腹を切らない」ブロードウェーのプロデューサーとは比べ物にならないほど作家的なのではあるけれどね。


ただ、作家であると同時に編集者、あるいはプロデューサーであるといっても、ウォーカー・エバンスとオタクの立ち位置というか、方法論はまったく正反対だったりもする。


そして、自分はウォーカー・エバンスの側に立っているという点が、非常に深刻かつ大きな問題だったりもするのだ。


国際化時代のオタク産業と生産技術形成2

2006-01-08 23:05:36 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

 御徒町で古い知人と会い、展示についてあれこれ相談する。


 知人はいわゆる業界人であり、広告関連の仕事も手がけているが、美学校時代のつながりから現代アート方面の状況もある程度まで理解しているし、なによりオタクなので、いろいろと話がしやすくて助かる。とりあえず、展示のテーマ設定や表現形式についてはまぁいいとして(そう「まぁいいとして」ですよ)、問題は周辺情報の出し方、あるいは「出さないやり方」にあるという点で意見が一致したのはうれしかった。知人にも指摘されたのだが、ややもすると自分は「予想される突込みどころを先に自分からさらけ出して、その言い訳まであらかじめ提示しようとする」悪癖があるので、そういうのは絶対にやめとけという話になる。もちろん、そんなことをしてやぶへびになっただけで目も当てられないのだが、ありがちな突っ込みや質問を回避したいという心理が強すぎて、あたかもFAQでも作って楽をしようというか、そういう投げやりさが現れてしまうと、展示そのものに対する印象まで極端に悪くなる可能性さえある。


まぁ、そういう否定的な周辺情報の出し方は論外としても、作品以外の形式で作者自身やその周辺のあれこれを提示するときは、やはり細心の注意を払わねばならないと思うし、また知人もその点についてはまったく同意見だったのはうれしかった。知人も自分もまずオタクだし、さらに知人は広告関連の仕事をしている関係もあって、ややもすると作品に物語的な背景を付与することを自明としかねないのだが、やっぱりそういうのはまずいだろうとね。


もちろん、商売という観点からは「きわめて有効な方法論」であり、自分も知人も「業務としては日常的に行っている」のだけど、展示にまでそういう商売くささを持ち込むほどナイーブじゃないよと、そういうポイントをきっちり抑えておくことが重要なのだ。


すき焼き食べ放題をおごってもらうの巻

2006-01-05 23:03:42 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

今日、プレイスMの暗室を予約し、今年の作業を本格始動する。夜には古い知人から食事をご馳走してもらい、仕事のことなどについて、あれこれだらだら話をした。自分と違い、彼は早くからブログに興味を持っていて、さまざまなブログをまめにチェックしているので、ブログについてもなんだかんだと話を聞かせてもらったが、残念ながらあまりしっくり来る内容ではなかった。というのも、彼の話からはブログ作者の多くはブログという手段でなにかを行うのではなく、ブログを作成することが目的となっているような、そういう違和感を覚えてしまったのだ。まぁ、その違和感は彼自身の覚えている感覚でもあるようで、少なくとも彼というフィルターを通したブログ感なのだが、そうはいっても自分自身にも共感するところがあったのは間違いない。翻って、自分自身のブログはどうなのかというと、それは時間をかけて表現していくしかないのだろうと思う。


国際化時代のオタク産業と生産技術形成

2006-01-03 23:18:17 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

天候が回復したこともあり、とりあえず昼過ぎには湾岸方面へ撮影に出かける。


本当はもう少し早めに出かけたかったのだが、なんとなくだらだらして時間が過ぎてしまった。しかも、出かける直前になって厚い雲が低く垂れ込めて、現地へ到着したころには完全に曇り空が広がっていた。以前の自分だったら、雲が広がり始めた段階で撮影自体を中止するか、自宅で様子を見ていたところだが、最近は曇り空も積極的に活かすようにしている。カラーだとコントラストが鈍くなったり、色味が変わるという問題もあるのだが、冬場だと特に太陽高度が低くて影が伸びるため、曇天のほうが構図を自由に選べるという利点が大きいのだ。というわけで、あっという間に30カット強(フィルム1本半)を消費し、気持ちよく撮影を終えた。実は、地下鉄で移動し、次の場所へたどり着いたころにはすっかり晴れていたのだが、少し前に湾岸で撮影したとき、晴れていて明暗のコントラストに悩まされたこともあり、以前のようにひどくがっかりするというわけでもなかった。


その後、ここしばらくテーマになっている複製(というか生産?)問題について、知人と少しやり取りしてから仮眠を取る。


いわゆる現代芸術の文脈において、複製問題は常に大きなテーマとなってきたのだが、マンガやアニメ、ゲームを基本とするオタクの世界では、複製作品が基本というか自明というか、複製されない作品のほうが「想定外」という状況なので、意識の次元があまりにも違いすぎて興味深かった。もちろん、自分はオタクのそういう世界をよく知っているし、知人も美術を専攻していたので、お互いネタ的にもてあそんでいるだけとはいえ、それはそれなりに面白い。特にツボだったのがフィギュア話で、なにしろ身近な人間が中国で「同人フィギュア」なんか生産してるもんだから(そう、生産ですよ)、複製芸術がどうこうなんて小さな話じゃ収まらない。むしろ、生産工程の管理とか、ラインの組み方といった生産技術も含めた、非常に工業的な次元の話で、まさに制作と製作の違いがそこに凝縮されているといえるだろう。