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東京の夜景動画ブログです。

それは初心かい?

2007-01-22 23:34:29 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日のエントリーですが、初心会といっても、ゲームネタではありません。



今日も今日とて、夕方から知人と打ち合わせだったのだが、やはり例のごとく途中から雑談となる。まぁそれはそれとしていいのだが、今日も知人がブログの話題を振ってきたので、途中からいささかうんざりしながら聞き流していた。



というのも、自分は「ブログ」に対して少々(いや激しく)原理主義的なところがあり、例えばこのブログにしても確かにブログでありWeb日記でもあるが、決してBlogやWeblogではありえないと考えている(実名表記でWeb界隈のテーマを拾うこともあるが、そのことをテーマにしているわけではない)。また、日本にはブログへのコメントやトラックバックを許可制にすることを奨励する人々すらいるが、いくらコメントスパムトラックバックスパムを回避するのが目的とはいえ、コメントを検閲して管理者にとって都合がいい意見のみを掲載したり、自由なトラックバックすらも許さないブログは、それがなぜ「ブログと名乗ってWEB上に存在しているのか」すら疑われても仕方がないと信じている。
そもそも、コメントスパムやトラックバックスパムにおける最大の被害者は、やはりシステムやシステム管理者であり、ブログ管理者の被害は2次的なものに過ぎないのだが、その点をすっかり忘れた議論があまりにも横行している。
それに、日本におけるブログはコモディティー化された2ちゃんねるといった趣のものがあまりに多く、情報の質は2ちゃんとあまり変わらない。そのため、自分はブログをほとんど観ないし、知人の話にもついていききれない部分があった。



今日は納豆ダイエットデータねつ造事件に関するトピックが俎上に乗ったのだが、こうしてエントリーのためにチェックしてみると、それらの大半は小市民的な憤激をただナイーブに表明したのみか、あるいは見当違いの社会批判やメディア規制論を並べ立てたものもあり、正直言ってうんざりさせられた。
もっと性質が悪いエントリーになると、賢しらに「日本人は熱しやすく冷め易いなんてのは昔から変わらない」とか、あるいは「誰かが問題起こして攻撃受け始めると、それに便乗して攻撃したり、したり顔で正義の味方を気取る人って非常に多い」とか、何様のつもりか評論家気取りで「大衆」を小ばかにした中二病全開エントリーまであり(あれじゃ2ちゃんの釣りスレ未満だよ)、これでは愚痴のひとつも言わずにはいられないだろうと、今になって知人の気持ちが多少は伝わってきた。



とはいえ、今回の騒動をある程度冷静に分析したエントリーも見つけたので、ここに紹介しておく(書き手はプロだけどさ)。



磯島大の「マーケティング夢想」(^_^)1月22日「納豆ダイエット データ捏造事件の本質



でまぁ、前置きというか知人に触発された中二病発作をひとくさり書き散らしたところで、ヨウヤク本題へと入っていくのだ。知人に言わせると、フィリップ・K・ディックの小説世界に描かれるようなメディアの欺瞞に気がつく人が増えれば、自分が最近制作しているような作品に注目する人も増えるだろうし、その端的な実例としてあげたのが納豆ダイエットデータねつ造事件をめぐるブログ界 (Blogosphere) の騒動っプリだったというわけ。
ただ、残念なことに知人がその端的な実例を話し始めた段階で、早くも自分が中二病の発作を起こしてしまい、本題にはほとんど入らずじまいでタイムアウトとなってしまった。



とはいえ、知人には非常に申し訳ないのだが、もし本題をきちんと最後までうかがったとしても、自分には納得いかなかった可能性が高い。事実、自分が作品で表明した「全てのものを外側から見ろ」というメッセージや、フィリップ・K・ディックの小説世界に描かれる世界の欺瞞というものは、受け手に疑うことさえも疑うことを強要するというか、誌的な表現を用いるのであれば「疑いの深淵と正面から向き合い続ける」ことを求めているわけだ。
しかし、知人が提示したブログ界 (Blogosphere) における騒動というのは、例えばメディアを信じられなくなった人々の「もっと上手に気持ちよく信じさせてくれなかったこと」に対する怒りだったり、または別の何かを信じていた人々による「異教徒へのあざけり」に過ぎず、いずれにしても「何かを信じたい、信じさせてほしい」という願望や、あるいは「自分以外の何かを信じると表明することで、自分の責任を軽くしたい」という心情の表れと観ている。



つまり、本質的な意味では2ちゃんねるでくだを巻いているねらーたちと変わらないわけで、そういった人々へ「疑いの深淵と正面から向き合い続ける」よう求めても、控えめに言ってもよい結果は期待できないと思うのだ。



ただ、知人が指摘したように自分はフィリップ・K・ディックの小説世界をこよなく愛しており、かつてはそういう暗い世界観を作品へ持ち込もうと苦心していた。あれから月日も流れ去り、自分も歳を喰ってしまったが(比喩表現じゃなく、マジで)、また初心に帰ってみるのも悪いことではないかもしれない。



とりあえず「スキャナー・ダークリー」でも観に行くか…