Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

コモディティー地獄

2007-01-04 23:24:04 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今朝は天気がよかったので、出勤前に撮影しようかと思って支度していたら、見る見るうちに曇ってしまった。
とはいえ、このままぐだぐだしてても仕方がないし、せっかく早起きしたんだからというわけで、朝から御茶ノ水方面へと出かける。駅から聖橋へ出てみると、ちょうどいい塩梅に雲の切れ間から太陽が顔を出していたので、そのまま適当にシャッターを切りつつ、神田明神のほうへ向かってみた。
あきれたことに、もぅ三が日もあけて今日から仕事始めだというのに、ものすごい数のおっちゃんたちが集まって、屋台まで普通に営業している。どうやら、仕事始めの前に明神詣でをするというのがここいらのしきたりらしく、コミケで言うと3日目の壁ぐらいに混雑していた。しかも、なぜだかやたらと中国人が目に付く。
どうやら、観光半分の仕事半分といったところだが、こぅ見えても人ごみは苦手なので、そそくさと神田明神を後にしつつ、近所にあるイラン人の店を覗いてみる。



残念なことに、店はまだ営業しておらず、どうやら正午に開店するらしい。
もしかして、正月休みかと思わなくもなかったが、ムスリムがグレゴリオ暦の新年を祝うかどうか微妙だったので、時間を置いてリトライすることにした(イラン人はイラン暦ヒジュラ暦を使うが、日本ではどうしてるんだろう?)。



なんだかんだでフィルム3本(24カット)を消費したころに先方から連絡があり、少し遅れるとのこと。ちょうどいいので、さっきはまだ開店していなかったイラン人の店へ行くと、今度は普通に営業していた。
スパイスなどを適当に買い求め、また駅方面へ歩いていると、先方から到着の連絡があった。



新年の挨拶もそこそこに、仕事についてかなり突っ込んだやり取りをする。
もちろん、その内容をここで語ろうとは思わないが、クリエイターサイドに立って考えるのであれば、コモディティー化は破壊と荒廃しかもたらさないという意見には、個人的に深く同意するところがあった。
例えば、写真というメディアの歴史は、とりもなおさずコモディティー化の歴史と言え、また日本においてはコモディティー化が究極まで進行しているとさえいえよう。つまり、かつて写真は写真館でプロフェッショナルが撮影し、現像と焼付けを経て、始めて人々の手に渡っていた。それに対して、まず機材の進歩によって撮影行為のコモディティー化が進行し、そしてデジタル技術の進歩によって現像(RAW変換だけどね)と焼付けもコモディティー化が進行した結果、単に美しいだけの写真であれば、本当にだれでも簡単に手に入れることができるようになった。



まぁ、それはそれで否定すべきことばかりでもないし、またコモディティー化が進行したからこそ、産業として大きく成長していったという側面もある。反面、写真に対してはただ単に被写体の美しさや可愛さ、珍しさや、あるいは撮影者のメッセージを求めるのみで、そのほかの価値観(写真の観かたといってもよいか)は全くといってもよいほど育っていない。
その結果、よい写真を撮影するということが、美しくて可愛くて珍しい被写体を探すことや、またはメッセージ性の高いテーマを選択することと、ほとんど等価になっている。



写真は画面内に収められた画像情報が全てであり、そのほかの要素には眼を向けないという考え方は広く、かつ根強く残っている。しかし、自分はもっと異なる写真の観かたがあり、価値判断の規準があると信じているし、そして異なる観かた、異なる価値判断で選択された写真もまた、この世界に存在している価値があると確信しているのだ。



コモディティー化が進行すると、やがては単一の価値基準で仮借なき競争を強いられることになり、それはすなわちその世界の荒廃を意味していると思う。実際、現在の写真をめぐる様々な有様は、荒廃以外の何者でもないように思えてならないのだ。