Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

死してなおTaroは戦い続ける

2007-01-08 23:32:48 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は朝から天気もよく、風もかなり収まっていたので、絶好の撮影日和だった。だが、昨夜の間に知人から誘われたこともあり、撮影はお休みして岡本太郎記念館へ出かけた。
現在は「太郎のなかの見知らぬ太郎へ」と題して、気鋭の美術評論家である椹木野衣氏が企画した展示を開催しており、会場には極めて野心的かつアグレッシブな展示空間が広がっていた。



白状してしまうと、自分は椹木氏の「シミュレーショニズム」や「日本・現代・美術」に思いっきり感化されちゃった過去を持っているので、今回の展示も興味は持ちつつもどこかで向き合うのを避けていたというか、展示をきっかけにビョーキが再発するのを恐れていたんだけど、やっぱりまたやられちゃったね…



展示に関する説明は、公式サイトのテキストに任せたいところだが、自分はシュルレアリスムの王道というか、正に人為を超えた現実、現実を超えた現実を具現化したものとして、非常に深い感銘を受けた。



ちなみに、知人が自分を誘ったきっかけは、昨日放送された新日曜美術館の「アート・シーン」コーナーにて、この展示が紹介されたことらしい。恥ずかしながら、自分は完全に忘れ去っていたので、知人が誘ってくれなかったらスルーしていた可能性が高い。
まぁ、こういう偶然って、よくある話だけどね。



無数の偶然が積み重なったところへ、ほんの少し人為を加えることで、予想もしなかった現実が生じる。
ただ、シンクロニシティはやっぱり呪術的思考だと思うし、今回の展示も偶然性をテーマにしているわけではないのだが、人為や人智を超えたなにかというのは、やはり芸術において重要な働きをすると思うのだよ。


新品の大判機材が売れた話の巻

2007-01-07 23:21:25 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は朝からよく晴れたので、早速機材を担いで撮影に出かけた。
いつもの撮影場所でのんびりシャッターを切っていたら、昼前ぐらいから急速に雲が広がってきた上,、風も強くなってきたため、シートフィルム8枚を消費した段階で切り上げた。いったんは帰宅したのだが、思いのほか時間をもてあましてしまったので、買い物ついでに量販店へ立ち寄った。



なじみの販売員氏が店頭に立っていたので、新年のご挨拶かたがた営業半分の四方山話というか、まぁ適当にいろいろ聞かせていただいた。ちょっと面白かったのは、年明け早々に高価なブランド大判機材が売れた話で、なにかと批判的に語られる事の多い量販店の現場であっても、おじ様たちの間ではかつての写真機店を思わせる営業トークが展開されていたのには、ちょっと新鮮な驚きがあった。
また、おじ様たちの間で最近は大判がはやっているのは少し知っていたが、新品で一式そろえる人がまれではないことを聞かされ、そっちのほうはかなりマジでびくりちまちた!



でも、大判でなに撮るんだろう?


呪物崇拝(フェティシズム)の呪縛

2007-01-05 23:23:22 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は朝から本当に天気がよかったものの、午後からは知人との予定もあったので、早めに家を出ていつもの撮影場所へ向かう。早目とはいっても、出掛けになんだかんだで時間をとられてしまったため、フィルム3本(24カット)を消費した段階で切り上げて合流場所へ向かった。
途中、知人より「予定より早く到着した」とのメールが届き、あわてて待ち合わせ場所へ急いだ。



知人と会うのは半年かそこいら振りだが、元気そうなのが本当になによりだった。
そして、今年から知人は職場を変えることなど、積もる話に花を咲かせていたら、あっという間に日が暮れてしまう。
その後、やや早めの夕食を共にしつつ、ちょっと面白い話を聞かせてもらった。



知人いわく、今でこそ操作する喜びだの、機械任せにしない人間臭さだのいわれているけど、いわゆるクラカメ(クラシックカメラ)って、ほとんどが大衆機の成れの果てなんだよね、と。



つまり、誰でも簡単に、機械任せで失敗せずに写真を撮ることを目指している点においては、いわゆるクラカメと最新カメラとの間に本質的な違いは無いのだ。無論、どちらもコモディティー化を前提としていることに変わりはなく、単にその度合いが異なるだけといっても過言ではない。
そのため、使うカメラが全く異なってはいても、いわゆるクラカメ愛好者も、最新型カメラを使う多くの人々も、撮る写真については大差ないといえる。実際、同じようなテーマで同じような画像を生成して、同じように消費していくという点については全く変わりがない。
とどのつまり、使う機材をいくら変えたところで、背景となる思想(この場合は誰でも簡単に、機械任せで失敗せずに写真を撮ること)が同じ機材であれば、使用した結果(この場合は生成される画像)はほとんど、あるいは全く変わらないのではないかという、ある意味ではカメラマニアの呪物崇拝(フェティシズム)を全否定するような話である。



まぁ、いわゆるクラカメよりもさらに強力な呪力、例えば村正エクスカリバー並みの呪力を持つフラッグシップ機となると、多少は呪物崇拝(フェティシズム)の構造も変わってきたりするのだろうが、いずれにしても機材の背景にある思想や、あるいは機材がもたらす可能性をきちんと把握しない限りは、単なる呪物崇拝(フェティシズム)の域を出ないということなのだろう。



全くの余談だが、IT medhia Newsの「変わりつつあるクラシックカメラの世界」コラムに登場する、量販店における嘆かわしい光景については、販売におけるコモディティー化が先鋭化した形態で表面化したと見るべきではないか?
実際、商業的な発展という意味では売り上げの増大をもたらしたわけで、むしろ歓迎すべき出来事とすらいえるかもしれない。
問題は、売り上げのためにコモディティー化を自明とした、量販店的な販売形態にあるのだが、商売ってぇのは文字通り「売ってナンボ」の世界だから、そこを問題視しても仕方ないのではないかと思う。


コモディティー地獄

2007-01-04 23:24:04 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今朝は天気がよかったので、出勤前に撮影しようかと思って支度していたら、見る見るうちに曇ってしまった。
とはいえ、このままぐだぐだしてても仕方がないし、せっかく早起きしたんだからというわけで、朝から御茶ノ水方面へと出かける。駅から聖橋へ出てみると、ちょうどいい塩梅に雲の切れ間から太陽が顔を出していたので、そのまま適当にシャッターを切りつつ、神田明神のほうへ向かってみた。
あきれたことに、もぅ三が日もあけて今日から仕事始めだというのに、ものすごい数のおっちゃんたちが集まって、屋台まで普通に営業している。どうやら、仕事始めの前に明神詣でをするというのがここいらのしきたりらしく、コミケで言うと3日目の壁ぐらいに混雑していた。しかも、なぜだかやたらと中国人が目に付く。
どうやら、観光半分の仕事半分といったところだが、こぅ見えても人ごみは苦手なので、そそくさと神田明神を後にしつつ、近所にあるイラン人の店を覗いてみる。



残念なことに、店はまだ営業しておらず、どうやら正午に開店するらしい。
もしかして、正月休みかと思わなくもなかったが、ムスリムがグレゴリオ暦の新年を祝うかどうか微妙だったので、時間を置いてリトライすることにした(イラン人はイラン暦ヒジュラ暦を使うが、日本ではどうしてるんだろう?)。



なんだかんだでフィルム3本(24カット)を消費したころに先方から連絡があり、少し遅れるとのこと。ちょうどいいので、さっきはまだ開店していなかったイラン人の店へ行くと、今度は普通に営業していた。
スパイスなどを適当に買い求め、また駅方面へ歩いていると、先方から到着の連絡があった。



新年の挨拶もそこそこに、仕事についてかなり突っ込んだやり取りをする。
もちろん、その内容をここで語ろうとは思わないが、クリエイターサイドに立って考えるのであれば、コモディティー化は破壊と荒廃しかもたらさないという意見には、個人的に深く同意するところがあった。
例えば、写真というメディアの歴史は、とりもなおさずコモディティー化の歴史と言え、また日本においてはコモディティー化が究極まで進行しているとさえいえよう。つまり、かつて写真は写真館でプロフェッショナルが撮影し、現像と焼付けを経て、始めて人々の手に渡っていた。それに対して、まず機材の進歩によって撮影行為のコモディティー化が進行し、そしてデジタル技術の進歩によって現像(RAW変換だけどね)と焼付けもコモディティー化が進行した結果、単に美しいだけの写真であれば、本当にだれでも簡単に手に入れることができるようになった。



まぁ、それはそれで否定すべきことばかりでもないし、またコモディティー化が進行したからこそ、産業として大きく成長していったという側面もある。反面、写真に対してはただ単に被写体の美しさや可愛さ、珍しさや、あるいは撮影者のメッセージを求めるのみで、そのほかの価値観(写真の観かたといってもよいか)は全くといってもよいほど育っていない。
その結果、よい写真を撮影するということが、美しくて可愛くて珍しい被写体を探すことや、またはメッセージ性の高いテーマを選択することと、ほとんど等価になっている。



写真は画面内に収められた画像情報が全てであり、そのほかの要素には眼を向けないという考え方は広く、かつ根強く残っている。しかし、自分はもっと異なる写真の観かたがあり、価値判断の規準があると信じているし、そして異なる観かた、異なる価値判断で選択された写真もまた、この世界に存在している価値があると確信しているのだ。



コモディティー化が進行すると、やがては単一の価値基準で仮借なき競争を強いられることになり、それはすなわちその世界の荒廃を意味していると思う。実際、現在の写真をめぐる様々な有様は、荒廃以外の何者でもないように思えてならないのだ。


年明けから生臭い話

2007-01-02 18:02:09 | 業務関連


元日こそだらだら過ごせたものの、早くも今日からばたばた動き回っている。
とりあえず、こういう機会にしか会えない方々とお話をさせていただくこととなったのだが、初対面の方からからトーキョーワンダーサイトがらみの話が出て、危うく前のめりに倒れ掛かる。幸運にも、自分は以前よりアート資本主義ブログに眼を通していたため、どうにかこうにか話にはついていけたものの(特に「トーキョーワンダーサイトで途方に暮れる。 その2」は参考になりました)、要するに市場として未成立のコンテンポラリーアートシーンを、公的援助や寄付金無しで如何にして活性化していくかという、壮大というか夢想的というかなんというか、ともかく途方もないお話を非常に熱く語ってくださり、正直いささかしんどかったというのが本音である。



そもそも、なんでこんな話をこんな自分へ語るのか?
こんなところで正月からぐだぐだせず、素直に「カイカイキキ」へもちこむべきなのでは?



だいたい、自分はビジネスに関して素人同然だし、金儲けについてはコンサバというかなんというか、そういう生臭い話は苦手だしなどと、自分は自分で散々煮え切らない話をした末、互いの意見が一致したのは「この話をブログのネタに使っても問題にしないこと」だけだった。



とはいえ、自分ももぅそろそろいい年だし、生臭い話を嫌ってばかりもいられないだろう。
さらに、紹介していただいた人物との話をきっかけとして、自分も「写真という物理存在に対するフェティシズム」について、思いもよらなかった方向から考え直してみる気持ちになったのだから、まぁなんのかんのいっても収穫はあったというところだろう。


Re:めりくり

2007-01-01 20:15:48 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日も朝からいい天気だったが、昼前からだんだん雲行きが怪しくなってくる。
出かけようかどうしようか、最近は元日から人が出歩くようになったと言っても、他の休日よりははるかに少ないし、なにより工事が全休なのはありがたいとか、とりとめも無いことをつらつら考えていると、遠方の知人より携帯へ着信。聞くところによると、かの地では既に雲が広がっており、やがてこちらも曇るだろうとのこと。
そんなこんなで、今日は天皇杯もあるし、昼の撮影はキャンセルして、多少は正月らしく家でごろごろすることとした。



というわけで、久しぶりにWizardry #5 - Heart of the Maelstrom(PS版)でもやろうかと、携帯をいじくりまわしながら古ぼけたPSを探していると、知らん間に未毒メールがたまっているじゃぁないですか。まぁ、ほとんどは毒にも薬にもならない年始の挨拶だったが、中にはこういうタイトルのものがある。



Re:めりくり



差出人は知人なのでスパムではないのだが、なんて不精するのだろうと思いつつメールを開くと、定型文をそのまま送信したようなあけおめーるだった。こりゃぁ勝負を挑まれてると直感した自分は、あれこれ思い悩んだ末、タイトルはそのまま、以下のように返信した。



やっぱ、はぴほりは定着しなかったね。



案の定というかなんと言うか、知人からの返信は更なるネタメールだったのだが、それはまた別の物語だろう。
そして、夜にはデジカメ担いで出かけるのだが、元旦だというのに風俗街は全力で営業していたばかりか、行きつけのインドカレー屋もふつ~にカレー臭を撒き散らしており、驚きかつあきれ果てたのであった。その後、風俗の世界には元旦スペシャルだのお年玉サービスだのもあり、正月から営業している店は珍しくともなんとも無いことを知るのだが、これもまた別の物語だろう。



そして、いざWizardry #5 - Heart of the Maelstrom(PS版)をはじめようとしたところ、転送された上級職ばかりの低レベルパーティーの分しかセーブデータがないことを発見し、最初からやり直そうかどうしようか悩むことになるのだが、コレもまた別の物語であることは言うまでもないだろう。