今日もまた好転に恵まれたのだが、やはり少しもやっとした感じが気になったので、シートフィルム2枚消費しただけで切り上げた。
本音を言うともう2~4カットぐらいは消費してもよかったのだが、途中で三脚を立ててる最中から警備員が近づいてきて、この建物を撮影するには許可が必要とか何とかわけのわからないことを言い始め、激しく気持ちが萎えたこともあって早々に切り上げたというわけ。
ちなみに、いわゆる建物肖像権には法的根拠が無く、原則として撮影は自由である。
ただ、建物敷地内での撮影行為は地権者の同意が必要な場合があるし、地権者によっては公開空き地での撮影行為も制限している(地権者が公開空き地での撮影も制限できるかどうかに関しては、いささか微妙なのではないかと思うがね)。
法的には根拠が無いにもかかわらず、所有者などが建物を撮影する際の許可を求める、あるいは求めうると判断している根拠はどこにあるのかというと、あくまでも門外漢の勝手な想像ではあるものの、やはりパブリシティ権の拡大解釈から来ているのではなかろうか?
というのも、建物は人格を持たないため、本来であれば肖像権はおろかパブリシティ権も主張できないはずなのだが、最近は物にもパブリシティ権を与えようという動きがあり、法律の世界でも「物のパブリシティ権」として論議を呼んでいる。確かに、他人が所有する印象的なデザインの建築物を利用し、勝手にイメージ広告などを制作したら問題であろうし、建築デザインを活かしたパブリシティも現実に行われているのだから、撮影されることに対して警戒心を抱くこと自体は、まぁぎりぎり理解の範疇にあるといえなくも無いかもしれない。
しかし、だからといって撮影に対して許可を求める、それも公有地からの撮影に対してまで許可を求めるというのは、どう考えても行き過ぎとしか言いようが無い。
とはいえ、個人がその行き過ぎを行き過ぎとして反論するのはいささか(いや、激しく)困難であり、肖像権の拡大解釈が広がった挙句に、単なるストリートスナップまで盗撮呼ばわりする連中が出現したような、撮影者に対するヒステリックなレッテル貼りに至らないという保障はどこにも無いと思う。例えば、夜景や紅葉、花の名所などにおける撮影マナーの向上にかこつけて、絵葉書程度のありきたり画像しか撮影できない素人は撮影するなといわんばかりのマニアも少なくないのだが、そういう困ったマニアの矛先が都市風景の撮影者へ向かない保障はどこにもないのだ。
まぁ、自らの解釈で「いかなる行為が犯罪であり、またいかなる行為は犯罪とならないのか?」を区分するというのは、あたかも自身が国家となったかのように極めて傲慢かつ尊大で権力的な行為といえるのだが、そうであるがゆえにそこを区分したがる人々が後を絶たないのだろう。実際、国家権力とは「いかなる行為が犯罪であり、またいかなる行為は犯罪とならないのか?」を区分するために存在しているとすらいえなくもないのだ。
ただ、いたずらに自らの解釈で「いかなる行為が犯罪であり、またいかなる行為は犯罪とならないのか?」を区分する、あるいは区分したがる人々に対して、無邪気に「作品の質が向上すれば、多くの人々から作品の重要性が承認され、やがては制作に対する理解も深まる」とか、例えば「ストリートスナップ作品のクオリティを向上させることが作家として作品の重要性を社会に訴え、かつ肖像権の濫用に対抗する方法なのだ」などと主張してはばからない人々もまた、実は傲慢かつ尊大で権力的という点において同類であり、そのような言説には到底耳を傾けることができない。
というのも、そもそも「作品の質」をいったいどのような尺度によって測り、また「クオリティの高低を誰が判別するのか」という部分において、先のような言説を主張する人々がクオリティの高低を判別し、また作品の質を測る尺度も自らの価値観によるのが半ば自明となっていることが間々あり、たとえそこまで悪質ではなかったとしてもなお、その点に対する真摯な検討を欠いた言説に対しては、やはり傲慢かつ尊大で権力的と言わざるを得ないのではなかろうか?
権力への抵抗手段として、自らが別の権力装置を持ち出すのは愚の骨頂といえる。
個人的には、あくまでも愚直に表現の自由が持つ価値を訴え、社会に広めて行くことで、短絡的な規制論や無邪気すぎる作品論からの脱却を図るべきではないかと考えている。