Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

とりあえず区切り

2007-02-28 22:40:36 | 業務関連


月末を迎え、依頼されていた原稿のひとつを脱稿し、依頼していた原稿やデータを無事に受け取り、共同で進めていた企画がいちおうスタートして、確定申告も無事に提出するなど、なんともあわただしい日だった。
週末のんきに展示など観に行くから、こうしてしわ寄せが来るのだという話もあるがねぇ…
なにはともあれ、なんとかいくつかの案件に区切りをつけることができ、心底ほっとしている。



ただ、明日は明日で打ち合わせもあるし、あまり気を抜いてもいられないというのが悲しいところ。
そんな中でもちょっと面白かったのは、オークションで知り合ったとある人物から、お買い物を頼まれたことだ。



もちろん始めは事務的なやり取りだったのだが、問われるまま日本の写真事情についていろいろ説明させていただいている間に、現地では入手できない感材を買ってほしいと頼まれたのだ。まぁ、買うこと自体は簡単なのだが、問題は送金方法である。
結局、すったもんだの末にウエスタンユニオンネットワークを使うこととなったのだが、ちょっとびっくりするような金額を送ってきたので、それはそれで大変だった。



月末のくそ忙しいときに、文字通り見知らぬ他人の買い物を代行しているなんて、それもマージンすら取ってないなんて、ワレながらリアルお人よしにもほどがあるとは思うが、まぁちょっと面白かったからよしとするべぇよ。



ただなぁ、感材だからなぁ、通関時にX線当てられないかどうかが、大真面目に心配だよ(もちろん、品目にはきちんとその旨を記載したけどさ)。


よい刺激と越えられない壁

2007-02-25 20:59:50 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日も今日とて、天気がよいのに気をよくし、朝から機材を担いで撮影に出かける。
昨日とあわせてシートフィルムを10枚消費し、昼過ぎにはいったん帰宅した。



昼飯でも作ろうかと冷蔵庫の中をごそごそし始めたとき、知人から配偶者への誕生日プレゼントを選ぶので、暇なら付き合ってほしいとの連絡があり、食材をしまってとっとと出かける。ほんとは暇でもなんでもなく、むしろ原稿にかからねばならなかったのだが、なにかと世話になっているというかなんというか、まぁパスはありえないお誘いだった。



ところが、出かけた直後にまた連絡があり、夕方に時間をずらすこととなった。
帰宅してもよかったのだが、それもちょっとどうかと思ったので、新宿方面で展示を観ることとした。



ただ、半月ほど前の教訓もあり、今日は途中で情報をチェックし、メーカー系ははずして最初から自主ギャラリーへ足を向けた。
各ギャラリーの展示内容は、ワークショップ受講生の発表あり、非常にオーソドックスな日常写真ありと、ある意味で現在の写真をよくあらわしていたように感じる。



ただ、ロータスルートギャラリーで観た高橋ジュンコ写真展「The Receptionist 」は衝撃的なほどすばらしく、特に1960年代から70年代の企業パンフを思わせる色彩と、画面全体の胡散臭さに激しくひきつけられた。
高橋ジュンコ氏はテーマをはっきりと作品で表現するタイプの作家であるように感じられたが、去年観たローナ・シンプソン展のような押し付けがましさを感じることは無く、むしろ観る者の内側へ浸透するかのような鋭さがあったように思う。だが、これはローナ・シンプソン展を観たからこそ受ける印象かも知れず、自分の中で宿題として残った。
ただし、展示作品から越えられない壁というか、あるいは到達不能な高みというか、そういう種類の何かを感じたことだけは確かだ。



ロータスルートギャラリーでは展示換えとなり、来週からビデオインスタレーション展が始まるとのことだが、必ず足を運ぼうと思う。


ぐぐるが全てを支配する

2007-02-22 23:06:04 | 業務関連


仕事の関係もあって、日常的に様々なWEBサイトを検索し、スコアの変動をチェックしている。
また、興味を持ったサイトについては、ソースを引っ張ってターゲットキーワードを埋め込んでいないかどうか、あるいはなにか楽しい仕掛けを埋め込んでないかチェックしてもいる。



今日は久しぶりにエロゲライターである武藤礼恵氏の「楓のはらわた」をチェックしていたのだが、検索結果に以下のような文字列が表示された。



ゥ ャ れ の : イ っ ト ス ャ ┐ ね ┐ が ぉ だ の | な ぉ い そ ジ チ ゥ 食 に だ そ | の あ っ オ よ あ き ぁ っ っ た ぉ | く ゥ っ う メ ン べ ぃ っ う | ぉ ひ ゥ リ `あ ` ゥ ! : `っ あ て ぱ し ら ポ さ : て 叫 食 っ っ バ よ ...



オヒオヒこんなところでVIP語カヨ



というわけで、早速本人へ通報だ!
wktkしながら待っていると、本人より「縦書きの文章なので、横表記のみのサイトでは正常に表示されないものと思われます。また、私見ですがVIP語ではなく
ギャル文字っぽいと思われ」との返答があった(カッコ内原文ママ)。



漏れ完敗…



まぁこういう日もあるさとはいいつつも、表記違いに引っ掛けて写真表示の差異について語ろうかとかなんとか、そんなことをつらつら考えていたことも全て吹っ飛ばしてしまい、とりあえず今日は不貞寝と決め込んだ…
ところが、夕方に知人から連絡があり、子供へのプレゼントを選ぶから付き合って欲しいとのこと。



すっかり機嫌を直して、晩御飯をうまうまご馳走になりましたとさ~


写真の外、芸術の内

2007-02-19 22:27:07 | 業務関連


今日は朝から好い天気ではあったが、企画会議だったので空をふり仰ぎつつ出社する。
とはいえ、会議ではもっぱら聞き役に回り、最後のほうだけちょこちょこデータ確認という塩梅だったので、なんとなく損をしたように気になってしまった。



それにしても、自分の仕事というのは、つくづくメタな商売だと思う。



ひとつのアイディアが、あるときは小説、あるときはドラマCD、あるときはゲーム、またあるときはアニメとなり、運がよければ(悪ければ?)その全部にさえもなる。そして、自分はアイディアを外側から検討し、その中から適当な要素を適当なメディアに当てはめてゆくという、なんともまぁメタなポジションに位置しているのだ。



例えば、あるひとつの物語をゲームとして完成させれば、当然ながらその物語はゲームとして評価を受けるし、また同じ物語を小説として完成させれば、やはり当然ながらその物語は小説として評価されるのだ。そして、いささか大上段に構えるなら、あるアイディアが商品として消費されるか、あるいは作品として評価を受けるかは、そのアイディアそのものが持つ力に加えて、アイディアを取り巻く社会的制度の力も大きく左右するといえるだろう。



現在、自分はギャラリーでの個展という形式で作品を公開しているが、これは自らの作品を貸しギャラリーという制度に乗せ、あらかじめ内部の作品を芸術と保障する空間に展示することで、自らの作品を保護しているともいえるだろう。つまり、作品を写真という商業的制度の外に置き、芸術という不可侵領域へ後退することで、批判から逃れようとしていると、そのように受け止められてしまう危険性を内包しているのだ。



そういえば、かつて自分は大学の後輩に個展を開くよう熱心に勧めていたが、今にして思うとひどく無礼なことをしていたように思う。というのも、後輩は既存の美意識や、あるいは旧来の価値観に対して、激しい敵意をあらわにしつつ、時には露悪的に過ぎる作品を制作していた。
当時の自分にはわからなかったが、あくまでも貸しギャラリーという制度を拒否しつつ、アウトサイダー系の自主ギャラリーで活動し、同時に写真という価値観へこだわり続けることで、後輩は反芸術的な姿勢を世に問うていたのだろう。現在は音信不通となってしまったし、またギャラリーで個展を開くことも無いだろうから、これから接触する機会もないとは思うが(また接触することがよいとは思えない要素も無くはないし)、かつて不用意な交流を持ったことには心から反省し、かつ激しく後悔していると表明しておく。



そして、自分は次回の展示でもメタな視点を強調しつつ、おうおうにして自明となっている既存の美意識や、あるいは旧来の価値観に対して、ささやかながら異議申し立てをしていくつもりだ。


墨、攻め!

2007-02-16 22:52:48 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は穏やかな好天に恵まれたこともあり、工房で機材を受け取るついでに撮影した。
シートフィルムを3枚消費しただけだったが、非常に気持ちよくシャッターを切ることができた。



午後からはいつものように打ち合わせだったが、自分が主導する企画ではないのでもっぱら聞き役に回っていた。
もちろん、最後のほうは例のごとく雑談となったのだが、不覚にも「墨、攻め!」というネタが自分のツボにジャストミートしてしまい、勝手に割り込んで爆笑しまくるという石原良純的迷惑キャラと成り果てていた。



そういう状態だったから、まぁいぢられるのも当然の成り行きというわけで、しまいにゃお約束の「なんで写真撮ってるの話」となってしまう…
もちろん、席には既にこの話を聞いたことがある人もいて、割と露骨に「あぁ~ぁ、またこの話出たよ…」ってな空気が横溢しており、いささか話しづらいこともあったので「単に好きだから、趣味の一環として撮ってる」とかなんとか、かなり露骨に適当な答えを返したのだが、どうもコレがよくなかったらしい。結局、そういうレベルの問題じゃないでしょということで、仕方なく「写真は機械的表現手段であること」と「写真は複製を前提とした表現手段であること」にしぼって、それでもかなりはしょった説明をしたのだが、今度は「なんでコンテストに入選してるような写真は撮らないの?」ときた…



もしかして「墨に攻められてるのはこの俺か?」といいたいところをぐっとこらえて、とりあえず以下のような説明をさせていただく。



花鳥風月といった自然をテーマにしたり、あるいは祭事や神仏といった宗教的なものをテーマにしないのは、自分の芸術や人間に対する思想が理由となっている。つまり、人間もまた自然の一要素に過ぎないので、ことさらに自然の美をありがたがるつもりはないし、ましてや「自然と人間を対比的にとらえ、自然の方を礼賛する」などというのは、ある意味で人間は自然から独立した、特別な存在であるという傲慢さにもつながりかねないとさえ思う。また、神仏は人間が考え出した空想上の存在であり、宗教において重要なのは根幹を成す理念や哲学だと考えているので、祭事や神仏には興味が無い。
さらに、敢えて付け加えるなら、自然や神仏への礼賛という趣旨で制作するのであれば、写真のような機械的かつ複製を前提とした手段ではなく、やはり人間の手による技巧や技法で表現すべきではないかと思う。もちろん、これらのテーマを撮影する人々が、それこそ宗教的な情熱を持って困難な撮影に挑んでいるのは重々承知だが、やはり撮影における苦労と人の手を使った制作における文字通りの手間隙とは、同列に論じ得ないのではないかと思う。



次に、西洋近代美術的な「神への従属から解き放たれた人間性の発露」として、人間そのものを礼賛するという方法論については、そもそもそのような方法論自体が陳腐化しているとの見方をさておくとしても(ただ、この「神への従属から解き放たれた人間性の発露」として作品を制作するという動機そのものは、現在でもなおひとつの正しさを備えている)、やはり人間の持つ根源的な暗黒面を嫌というほど知ってしまった現代人にとって、あまりにも無邪気に過ぎるといわざるを得ない。かといって、例えばサド哲学からスピンアウトしたような露悪趣味や反ヒューマニズムは文字通りの意味で時代遅れだし、また人間には「暗黒面と同じくらい輝かしい光明も備わっている」のは間違いないのだ。
これも蛇足だが、自分が皮肉を垂れた(そして先輩からたしなめられた)カメラマン氏のように、ことあるごとに撮影者の悪行を取り上げ、作品の質と絡めるような調子で文句を言う人物というのは、ほぼ間違いなく「作品を作家の人間性が表出したもの」と捉えており、またそう捉えているからこそ「写真を撮影する人間の不品行が我慢なら無い」のだろう。だが、人間には品行方正な人もいれば不品行な人もいるのは当然だし、また品行方正な人であっても不品行を働いてしまう、あるいはその反対だってありえるのも当然だ。まして、作品の質と作家の人間性を無条件かつ無批判に同一視するのは、控えめに言ってもあまり頭のよいこととは思えない。



とまぁ、こんなことをだらだらと話していたのだが、最終的には「確かに分娩台でセルフヌード撮ったり、人形とハメ撮りよりはずっとマシ」だけど、そっちの方が「わかりやすく反芸術的だと思う」というトコロへ落ちていったのは、まぁ控えめに言っても微妙だねぇ~



でも、少なくとも自分はギャラリーという「芸術を保証された空間で反芸術を気取る」ほど厚顔無恥ではないので、ただただ自分の根底をなす制作動機をまともに説明できないもどかしさと、そして「根底をなす制作動機など、実は最初から存在していなかったし、これからも存在し得ない」というやるせない現実を前に、ただ呆然と立ち尽くすのみなのだ。


穢れの忌み

2007-02-13 22:23:46 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は機材の改造を依頼するついでもあり、打ち合わせの前にシートフィルムを7枚消費した。
本当は8カット目を撮影してホルダをあけたかったのだが、流石に仕事をあけるわけにも行かず、いささかもにょるオチがついたのはご愛嬌か。



夜には、ものすごくひさぁ~し振りに、かつてお世話になった先輩写真家氏とお会いして、いろいろと興味深いお話を聞かせていただいた。
先輩写真家氏はスナップ調の人物写真やポートレートがお得意で、物腰の柔らかさが作風にも現れているような、そんな人物である。
ありがたいことに、写真家氏は個展にも足を運んでいただいたのだが、残念ながらどちらでもお会いできないまま、今日まで月日が流れていた。すっかり不義理をしていた手前、会う前はいささか緊張もしていたのだが、お話を伺っている間に、気がつけばちょっとハメをはずしすぎていたらしい…



まぁ、あまり認めたくもないのだが、やはり作品をほめてもらって、少し有頂天になっていたのだろう。
よせばいいのに、かねてより言動を面白くなく思っていた某大判カメラマン氏を引き合いに出し、ひとしきり愚痴をたれた挙句に「同じポートレートを撮る作家でも、度量の広い先輩とは大違いですよ」などと、軽口を叩いてしまった。



先輩はいつものように物腰柔らかく、しかしきっぱりと「そんなことはないですよ、私だって傍若無人な撮り方をする人は嫌いですから」と返された。



その後、先輩は穢れ忌むことの大切さを、懇切丁寧に教えてくれた。



件のカメラマン氏は、他人を押しのけてでも撮りたいという欲に負けた人々を怒るあまり、実は自らも怒りに穢れてしまっている。その穢れた心根の発露に触れた自分もまた、やはり愚痴をたれることで穢れてしまうのだと。
穢れた人々に対しては、まずそれを憚って避け、畏れ、そして敬う心を持たねばならない。この、穢れを憚って避け、畏れ、そして敬うことが「忌み」である。
凡人は穢れに力で対抗することはできず、ただ忌み嫌うのみなのだと…



しかし、自らの穢れを見透かされたような、そんな情けないひと時をすごしながら、自分は先輩と正反対のことを考えていた。現代作家として活動するのであれば、穢れをただ忌み嫌うのではなく、むしろ穢れと正面から向き合い、そして穢れも含んだ人間主体を描くことが重要なのではないかと…



無論、穢れと正面から向き合うといっても、サド的露悪趣味やラッダイト的破壊衝動におぼれることなく、もっと冷静かつ知的に構えるつもりではあるのだけどね。
そして、少し考えた後でそのように切り返すと、先輩は少し意外そうな顔をした後でこういった。



まぁ、分娩台でセルフヌード撮ったり、人形とハメ撮りしなければ、それでいいんじゃない?



自分も、まったくその通りだと思うょ。


いぢられてぶちぎれ

2007-02-10 22:19:22 | 業務関連


結論の見えない企画会議が延々と続き、席についていた誰もが堂々巡りにうんざりし始めたころ、あるライター氏がいささか興味深いことを指摘した。



いわく「オタクはオタクの悪いところを見せられると萎えてしまうので、オタクの悪い部分を描写してはイカンのです」とのこと。



もちろん、オタクの困った習性と言うか行動様式を描写しつつ、ある程度以上の成功を収めた作品も無くはない。しかし、例えば「げんしけん」のような作品がかつての「オバタリアン」や「だめんず・うぉ~か~」と同じようにオタクを揶揄しているかどうかとなると、それはいささか微妙なところだろう。
そういえば「NHKにようこそ!」では引きこもりやメンヘルとオタクは違うといった格好で、いわばある種の逃げ道を用意していたように思える。また、作品世界の中でオタクの困った習性と言うか行動様式を描写すると、それが作品世界の中でもよくないこととして描写されたとしても(あるいはよくないこととして描写されているからこそ?)、オタクから「本当のオタクはあのような行動をしない」とかなんとか、トニカクそういう意味のクレームも寄せられる。



最近では無邪気にオタク趣味や同好の士との交流を楽しむサイトやブログも増え、相対的に存在感が希薄になりつつあるが、かつてはオタクの困った習性と言うか行動様式をことさらに取り上げ、こんな「キモイオタクがいて困る」とかなんとか、トニカクそういう意味のサイトや掲示板のスレッドをオタクが熱心に作っていた。ただ、同好の士に対してことさらに厳しいのは、いわゆる狭い意味のオタクに限ったものではなく、例えば写真方面でもマナーの悪い写真愛好者をバッシングするサイトやブログのエントリー、掲示板発言などは多く、最近ではむしろ狭い意味でのオタクより過激な発言が見受けられるほどだ。
まぁ、流石に「D51撮影、線路侵入男まで…緊急停車相次ぐ」というニュースとなると、みんなからぼろくそに言われても仕方ないとは思うがね。



いずれにしても、オタクの抱えているいぢられることに対する恐怖は、オタクが抱えた疎外感の裏返しというかなんというか、やはりいぢられることは内的全能感の否定に直結するがゆえの恐怖感なのだろう。また、現代芸術、現代美術(アート)について考える場であるART CONTEMPORARY IN JAPAN内のテキスト「-現代芸術(アート)と時代をかんがえるキーワード「疎外」-」における言説から展開するなら、オタクの行動は日本社会からの「疎外」を打ち消そうとする営為であり、そして日本社会の圧倒的な同一化要求に個の感覚で対抗するという、絶望的なまでに分の悪い戦いだったといえるだろう。
こうして考えると、オタクによるオタクバッシングとは「社会という外敵からわが身を護らんがための過剰反応」であり、集団が弱小であればあるほど「団結して外敵に当たるより内部抗争が激化して自壊しやすくなる」の法則が顕在化したものだったといえるだろう。



まぁ、最近はそのオタクでさえもそこはかとなく社会的承認を得たせいか、全体としてはオタク外の世界に対するアピールが目立つようになり、冒頭のライター氏が主張するファナティックな反応は影を潜めているかのように思うが、本当のところはどうなのだろうかねぇ~



となると、相変わらず一部の不品行な同好の士をあげつらって愚痴をたれたりぼやいたりしてばかりいる人々、例えば夜景や紅葉、花の名所などにおける撮影マナーについてことあるごとにWEBや雑誌で文句を言うくせ、当事者に直接文句を言ったり、管理者に善処を求めたこともないらしい一群の写真愛好者などは、まだまだ社会的な承認が不足しているということになるのでしょうかね。



もちろん、こうして「厨を厨と決め付ける厨」である自分自身もまた、社会的承認が不足しているのは言うまでもないことですよ。


芸術でも犯罪は犯罪…

2007-02-07 22:48:10 | 業務関連


なじみの編集者氏より依頼があり、守備範囲からいささか外れる分野の原稿を執筆することとなった。
ネタ的にも進行的にもひどくシビアなのだが、まぁ急なリリーフやセットアップはいつものことだし、スケジュールを調整しつつ、粛々と資料の掘り起こしを進める。また、進行が非常に切迫しているので、事前の打ち合わせを入念に行い、お互いに齟齬が発生しないよう努めた。



打ち合わせの後はお決まりの近況報告を兼ねた雑談となるのだが、編集者氏がこのブログを閲覧していたのにはいささか驚かされた。
もちろん、こうしてWEB上に公開しているのだから、どこで誰が閲覧していようと問題ないのだが、流石に面と向かって感想を述べて下さると、なんと言うかとにかく面映い。ただ、感想そのものはいささか(かなり)辛口で、面映いどころか恐縮至極といった流れだった。



特に編集者氏はアダルトの仕事が長かったので現代芸術作家やその周辺の人々のナイーブさ、具体的には「作品の質が向上すれば、多くの人々から作品の重要性が承認され、やがては制作に対する理解も深まる」とかいった類の言説に見られるお気楽さ加減に、少なからずカチンと来るところがあったようだ。
ご存知のように、アダルトの世界は日本国刑法175条(いわゆるわいせつ物頒布罪)との、切っても切れない不愉快な関係があり、例えばわいせつ性と芸術性との関連についても「芸術性はわいせつ性を解消させるので両者は両立しない。高度の芸術作品がわいせつ物として処罰の対象となることはありえない」という非両立説も存在はしているものの、いわゆる「悪徳の栄え」事件では最高裁大法廷において「芸術的・思想的価値のある文書でもわいせつの文書として取り扱うことは免れない」という趣旨の判決が確定している。



さらには赤瀬川源平氏が通貨及証券模造取締法で裁かれた、いわゆる「模型千円札事件」においても「芸術評価は犯罪既逐後の情状にすぎない」との検察側主張が認められており、少なくとも日本の法曹界は「芸術でも犯罪は犯罪」という認識で固まっていると観たほうがよいだろう。ついでに言うなら、法廷において作品の芸術性を判定するのは、あくまでも「判事のみ」であり、作家や評論家は「参考意見を述べる」のみである。



もちろん、日常的にこのような状況と接している編集者氏にとって、自分が先日のエントリーで紹介したような現代芸術作家や周辺人物の見解は、恐らく我慢なら無いほどにナイーブなものと映ったのであろう。



表現の自由が持つ価値を高く評価している自分だが、実は日本の法曹界と同様に「芸術でも犯罪は犯罪」という考えを持っている。



少なくとも、この年になってまで「芸術性はわいせつ性を解消させるので両者は両立しない」などという世迷言を、公開の場で述べるほど中二病が悪化してるつもりは全くないのだよ。


鈍い休日

2007-02-04 23:51:01 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日も気持ちよい好天に恵まれたため、朝から機材を担いで撮影に出た。調子よくシートフィルム8枚を消費したところで場所を移動したのだが、移動先はビルの陰が邪魔になってどうにもよろしくない。
立春も過ぎ、わずかの間に日も高くなってきたものだと、妙なところで春を感じてみたりもしたものの、とりあえずこのままでは撮影しても仕方ない。ちょうどお昼時に差し掛かっていたし、少し時間をつぶして様子を見てもよかったが、段々もやっとしてきたこともあり、あえて深追いせずに切り上げた。



すっかりいい気分で帰宅し、その調子で昼飯ついでにラボへ行き、せっかくだから展示を見に行こうと駅へ向かったのだが、今にして思えばこれが失敗だった。



なにも考えずに新宿で降り、中古屋のウィンドを眺めた後、いつものようにメーカ系ギャラリーをチェックしたのだが…
やっぱり、ギャラリーはスケジュールをきちんとチェックしてから行かないとだめだね~



気を取り直して、今度は自主ギャラリーへ向かったのはよいが…
やっぱり、ギャラリーはスケジュールをきちんとチェックしてから行かないとだめだね~



ただ、そんな調子でふらりと立ち寄ったロータスルートギャラリーでは、告知されていなかった「元田敬三内覧会」の最終日を迎えていた。正直、まぁ趣味の違いはあるものの、それでも何かちょっと得した気分。
少し気を取り直したところで次のギャラリーへ向かうが、今度は同じ最終日でも既に撤収が終わっていた。



やっぱり、ギャラリーはスケジュールをきちんとチェックしてから行かないとだめだね~


建物肖像権

2007-02-01 23:02:17 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日もまた好転に恵まれたのだが、やはり少しもやっとした感じが気になったので、シートフィルム2枚消費しただけで切り上げた。
本音を言うともう2~4カットぐらいは消費してもよかったのだが、途中で三脚を立ててる最中から警備員が近づいてきて、この建物を撮影するには許可が必要とか何とかわけのわからないことを言い始め、激しく気持ちが萎えたこともあって早々に切り上げたというわけ。



ちなみに、いわゆる建物肖像権には法的根拠が無く、原則として撮影は自由である。
ただ、建物敷地内での撮影行為は地権者の同意が必要な場合があるし、地権者によっては公開空き地での撮影行為も制限している(地権者が公開空き地での撮影も制限できるかどうかに関しては、いささか微妙なのではないかと思うがね)。



法的には根拠が無いにもかかわらず、所有者などが建物を撮影する際の許可を求める、あるいは求めうると判断している根拠はどこにあるのかというと、あくまでも門外漢の勝手な想像ではあるものの、やはりパブリシティ権の拡大解釈から来ているのではなかろうか?
というのも、建物は人格を持たないため、本来であれば肖像権はおろかパブリシティ権も主張できないはずなのだが、最近は物にもパブリシティ権を与えようという動きがあり、法律の世界でも「物のパブリシティ権」として論議を呼んでいる。確かに、他人が所有する印象的なデザインの建築物を利用し、勝手にイメージ広告などを制作したら問題であろうし、建築デザインを活かしたパブリシティも現実に行われているのだから、撮影されることに対して警戒心を抱くこと自体は、まぁぎりぎり理解の範疇にあるといえなくも無いかもしれない。



しかし、だからといって撮影に対して許可を求める、それも公有地からの撮影に対してまで許可を求めるというのは、どう考えても行き過ぎとしか言いようが無い。



とはいえ、個人がその行き過ぎを行き過ぎとして反論するのはいささか(いや、激しく)困難であり、肖像権の拡大解釈が広がった挙句に、単なるストリートスナップまで盗撮呼ばわりする連中が出現したような、撮影者に対するヒステリックなレッテル貼りに至らないという保障はどこにも無いと思う。例えば、夜景や紅葉、花の名所などにおける撮影マナーの向上にかこつけて、絵葉書程度のありきたり画像しか撮影できない素人は撮影するなといわんばかりのマニアも少なくないのだが、そういう困ったマニアの矛先が都市風景の撮影者へ向かない保障はどこにもないのだ。



まぁ、自らの解釈で「いかなる行為が犯罪であり、またいかなる行為は犯罪とならないのか?」を区分するというのは、あたかも自身が国家となったかのように極めて傲慢かつ尊大で権力的な行為といえるのだが、そうであるがゆえにそこを区分したがる人々が後を絶たないのだろう。実際、国家権力とは「いかなる行為が犯罪であり、またいかなる行為は犯罪とならないのか?」を区分するために存在しているとすらいえなくもないのだ。



ただ、いたずらに自らの解釈で「いかなる行為が犯罪であり、またいかなる行為は犯罪とならないのか?」を区分する、あるいは区分したがる人々に対して、無邪気に「作品の質が向上すれば、多くの人々から作品の重要性が承認され、やがては制作に対する理解も深まる」とか、例えば「ストリートスナップ作品のクオリティを向上させることが作家として作品の重要性を社会に訴え、かつ肖像権の濫用に対抗する方法なのだ」などと主張してはばからない人々もまた、実は傲慢かつ尊大で権力的という点において同類であり、そのような言説には到底耳を傾けることができない。



というのも、そもそも「作品の質」をいったいどのような尺度によって測り、また「クオリティの高低を誰が判別するのか」という部分において、先のような言説を主張する人々がクオリティの高低を判別し、また作品の質を測る尺度も自らの価値観によるのが半ば自明となっていることが間々あり、たとえそこまで悪質ではなかったとしてもなお、その点に対する真摯な検討を欠いた言説に対しては、やはり傲慢かつ尊大で権力的と言わざるを得ないのではなかろうか?



権力への抵抗手段として、自らが別の権力装置を持ち出すのは愚の骨頂といえる。
個人的には、あくまでも愚直に表現の自由が持つ価値を訴え、社会に広めて行くことで、短絡的な規制論や無邪気すぎる作品論からの脱却を図るべきではないかと考えている。