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呪物崇拝(フェティシズム)の呪縛

2007-01-05 23:23:22 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は朝から本当に天気がよかったものの、午後からは知人との予定もあったので、早めに家を出ていつもの撮影場所へ向かう。早目とはいっても、出掛けになんだかんだで時間をとられてしまったため、フィルム3本(24カット)を消費した段階で切り上げて合流場所へ向かった。
途中、知人より「予定より早く到着した」とのメールが届き、あわてて待ち合わせ場所へ急いだ。



知人と会うのは半年かそこいら振りだが、元気そうなのが本当になによりだった。
そして、今年から知人は職場を変えることなど、積もる話に花を咲かせていたら、あっという間に日が暮れてしまう。
その後、やや早めの夕食を共にしつつ、ちょっと面白い話を聞かせてもらった。



知人いわく、今でこそ操作する喜びだの、機械任せにしない人間臭さだのいわれているけど、いわゆるクラカメ(クラシックカメラ)って、ほとんどが大衆機の成れの果てなんだよね、と。



つまり、誰でも簡単に、機械任せで失敗せずに写真を撮ることを目指している点においては、いわゆるクラカメと最新カメラとの間に本質的な違いは無いのだ。無論、どちらもコモディティー化を前提としていることに変わりはなく、単にその度合いが異なるだけといっても過言ではない。
そのため、使うカメラが全く異なってはいても、いわゆるクラカメ愛好者も、最新型カメラを使う多くの人々も、撮る写真については大差ないといえる。実際、同じようなテーマで同じような画像を生成して、同じように消費していくという点については全く変わりがない。
とどのつまり、使う機材をいくら変えたところで、背景となる思想(この場合は誰でも簡単に、機械任せで失敗せずに写真を撮ること)が同じ機材であれば、使用した結果(この場合は生成される画像)はほとんど、あるいは全く変わらないのではないかという、ある意味ではカメラマニアの呪物崇拝(フェティシズム)を全否定するような話である。



まぁ、いわゆるクラカメよりもさらに強力な呪力、例えば村正エクスカリバー並みの呪力を持つフラッグシップ機となると、多少は呪物崇拝(フェティシズム)の構造も変わってきたりするのだろうが、いずれにしても機材の背景にある思想や、あるいは機材がもたらす可能性をきちんと把握しない限りは、単なる呪物崇拝(フェティシズム)の域を出ないということなのだろう。



全くの余談だが、IT medhia Newsの「変わりつつあるクラシックカメラの世界」コラムに登場する、量販店における嘆かわしい光景については、販売におけるコモディティー化が先鋭化した形態で表面化したと見るべきではないか?
実際、商業的な発展という意味では売り上げの増大をもたらしたわけで、むしろ歓迎すべき出来事とすらいえるかもしれない。
問題は、売り上げのためにコモディティー化を自明とした、量販店的な販売形態にあるのだが、商売ってぇのは文字通り「売ってナンボ」の世界だから、そこを問題視しても仕方ないのではないかと思う。