Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

行方不明の街

2006-06-29 23:39:36 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

ひょんな偶然から、某私鉄沿線で開発中の住宅地を訪ねた。


言葉通りの意味で、本当になにもない、ただ造成地が広がっているばかりで、遠くにぽつりぽつりと見える住宅が、あたかも島のように感じられる。
WEBから出力した地図には、コンビニなどのランドマークが記されているのだが、街道沿いの焼肉店とガソリンスタンドだけを残して、そのほかはコンビニさえもつぶれているような有様だった。


起伏のあまりない土地だったので、視界をさえぎるものはほとんどない。梅雨時とは思えない、やや霞がかった青空の向こうには、真新しい鉄道の高架線が走っていた。


いつものようにシャッターを切り、フィルム2本(42カット)を消費する。


しばらく歩いて、連絡が取れなくなっている業者を訪ねる。だが、やはり業者はそこに居らず、留守番の老婆と意味不明のやり取りを少しして、空手のまま東京へ戻った。


しかし、今日はそういう流れがふさわしいような、そういう気がした。


追伸
ラウシェンバーグ展について、先日のエントリーはいささか不親切に過ぎたように思えるので、少々補足しておく。
まず、展示内容に関しては、こちらの「ロバート・ラウシェンバーグ展」を参照してほしい。リンク先にもあるが、自分が鑑賞したのはメトロポリタンでの展示を経て、MOCAへ巡回してきた(戻ってきた?)際の展示である。
次に、作家自身については、こちらの「都市の事物と芸術のあいだ」を参照してほしい。また、こちらの「ART CONTEMPORARY IN JAPAN」は現代芸術、特にアメリカ現代芸術に関する要領のよい解説があり、より興味を深めるための入り口として紹介させていただく。また、サイト内の「アメリカ現代芸術作家論」には、アメリカ現代芸術を語る上で最低限抑えておきたい作家たちが紹介されており(もちろん、ロバート・ラウシェンバーグも含まれている)、自分自身も大いに参考とさせていただいた。ただし、写真作品(及び作家)の取り扱いについては、一部に違和感を覚えたことも付記しておきたい。
ちなみに、自分がラウシェンバーグ展を観に行ったのは、ぶっちゃけ「巨匠の作品をこの眼で観ておこう」ぐらいの動機で、特にそれ以上のものはなかったのだけど、それでもやはり「観ておいて損はなかった」と激しく痛感させられました。


宣伝
伊藤剛氏が、熊本市現代美術館の「生人形と江戸の欲望展、反近代の逆襲II」に関連するトークイベント「キャラクター文化と生人形」に招かれたそうです。詳細については、伊藤氏自身のブログを参照していただくとして、なんでわざわざ熊本のトークイベントを紹介したかというと、大学の後輩が展示カタログに解説文を執筆していたんですよ(しかもメイン級の扱い)。
正直、伊藤氏のブログでこのイベントを知らなければ、カタログについて調べたりもしなかったのは間違いないので、偶然というものの不思議さ、面白さに、ただ驚かされるばかりです。
とはいえ、カタログ通販が「現金書留のみ」ってのは、いささか、いやはっきり言って、めちゃめちゃ勘弁してほしいところですなぁ~


意思の勝利

2006-06-27 23:30:31 | 業務関連

ひょんな行きがかりから、MOCAで開催中のROBERT RAUSCHENBERG: COMBINES展と、同時開催のLORNA SIMPSON展を鑑賞する機会に恵まれた。まぁ、ロバート・ラウシェンバーグは既に評価の定まった作家というか、存命中でありながら巨匠扱いの有名人なので、自分のような素人がどうこう言うようなものでもない。
あえて言うならば、生で作品を鑑賞してきたぞ、うらやましいだろう~
ってなぐらいか?


問題は同時開催のローナ・シンプソン展で(問題というようなものでもないのだが)、ぶっちゃけ気鋭の若手作家だろうと、そんなことを考えながらも、作品から放たれる作家の問題意識があまりにもストレートかつ濃厚だったので、いささか否定的な意味で作家の意思を強く感じていた。
基本的には写真や動画を素材的に扱ったインスタレーションといってもよい作品だと思うが、ともかく「女性であること」と「黒人であること」が(そう、アフリカ系アメリカ人ではなく、あくまでも『黒人』なのだ)、あまりにも大きなウェイトを占めていて、作家の意思、あるいは主張に耳を傾けているのか、あるいは作品を鑑賞しているのか、時々わからなくなってきた。


作品を作品として、作家とは距離をもつ存在として受け止め、作品との間合いを保ちつつ、俯瞰的に鑑賞するという態度は、この場合において「まったく認められず」に、あくまでも作家の分身、あるいは作家の意思や主張そのものである作品と、真っ向勝負を余儀なくされるのだ。


とはいえ、困ったことに文化的な背景をまったく共有できない極東の島国にすむ「ローカルマジョリティのヘテロ男性」にとっては、それほどまでに過剰な問題意識を作品から発散されてしまうと、いささか困惑気味に肩をすくめながら「若いっていいね」と受け流すぐらいしか手がなくなってしまう…


しかしだ、作品を観てから資料をチェックしてびくぅり!
彼女は自分よりもいささか年上で、しかも作家としての評価も十分に確立されている。
もちろん、先の評価は鑑賞者の知識、あるいは経験不足による誤解である可能性もたぶんに含まれているのだが、いくつかのレヴューでは作家の政治性や問題意識が作品に表現されていることを高く評価しており、自分の評価も「当たらずとも遠からず」というか、あながち間違ってはいないように思える…


でも、それって本当にアリなのか?


善意の違和感

2006-06-21 23:38:56 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

いろいろ事情があって、某国の銀行に口座を開設することとなった。
それ自体はどうということもないのだが(どうせ振り込む金もなし)、最近は資金洗浄防止などの観点から本人確認がやたらと厳重で、最終的には面接確認が必要ということになる。最近は国内でも厳重に確認して漆、それもまぁ仕方ないといえば仕方ないのだが、なかなかスケジュールが合わない上、つまらない書類不備などあってお互いにうんざりし始めたころ、今週になってようやく日程の調整がついた。
というわけで、今日は本人確認のためだけに先方のオフィスに出向くこととなったのだが…


本人確認といっても、ちょっと身分証を確認するだけのようなことを言っていたので、いつもの格好でぶらっと出かけたところ(その後の予定もあったしさ)、都心の一等地にある高層ビルの受付で、ほぼ最上階まで上るように指示されちゃったじゃあぁりませんか!
仕方なく指示されたフロアへ向かうと、これがハリウッド映画に出てくる悪の本拠というか、ぶっちゃけオムニ社の重役室!?
場違いとかなんとか言う以前の問題で、メッセンジャーにしか見えないような自分なのだが、やることやらないと話にならない。腹をくくって席に着き、確認面談と相成ったわけだが、応対した日本側責任者は自分の服装など全く意に介さず、丁重かつ粛々と確認作業を進める。
とはいえ、先方は十分に経験を積んだ銀行員でもあり、格好を気にしている自分の動揺を察知した上で、物腰穏やかにさりげなく気を配っているのがこちらにも伝わってくるのだが、それがかえっていたたまれない気持ちを誘うという、もはや救いようのない悪循環…


先方の接客態度や気配りは非の打ち所もないのだが、だからこそかえって余計に消耗してしまったような、そんな気がしてしまう自分にしょんぼりしつつ、今度は渋谷に原宿LOHAS倶楽部が構えた「Fuuu神南坂店」のプレオープンイベントに顔を出したのだが…


人の善意って、時には身に沁みて痛かったりもするんですね~


ただ、いったんは引きとめようとしてくれた知人が、すぐに察してフォローに回ったのには、本当に助けられたよ。


その後、会期末が迫っていた東京都写真美術館マイケル・ケンナ展「IN JAPAN」を観に行ったのだが、ここでもまた善意の力に圧倒されてしまう。
マイケル・ケンナの作品は愛好者が多く、オリジナルプリントも高値で取引されているそうだが、まさにアンセル・アダムスを髣髴とさせるプリントのすばらしさに加えて(今回展示された作品のように、白を基調としたハイキーなプリントを、ゾーンシステム的に解決したのかどうかはともかくとして)、極めてシンプルかつ「わかりやすい」構成なのだから、幅広い人気を誇るのは全く当然と思った。
とはいえ、そのわかりやすさや、あるいはそのまっすぐさは、自分と全く相容れないということもまた、全く当然であることがわかった。
そして、写真をひとつの媒体としてではなく、作品そのものとして捉える考え方に対して、自分はどう向き合ったらよいのか、答えを出すことができるのかどうかさえも、今の自分にはわからないのだ。


世界は善意に満ちていると思うし、またその善意とプロフェッショナルな技術が結びついたとき、非常に大きな力を発揮するとも思う。
しかし、自分はそういったことを頭で理解しようとするだけで、決して共感することはないのだ。


さよならぬっぽん

2006-06-19 23:55:34 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

ぶっちゃけ…


ハラシマ テラ ヤバスorz


いやぁ、まぁ、さぁ…
この期に及んでも決勝トーナメント進出を煽るスポーツマスゴミじゃないけど、それでもあえて見苦しぃ~強がり言うならば、通常なら全然問題ない仕事量なんだよ。しかし、それはあくまでも通常のパフォーマンスが発揮できている場合であってさ、現在の自分は「後半6分、ゴール前で加地からパスをもらった柳沢」か、もっと平たく言うと「タモリクラブで酔っ払ってるなぎらけんいち」並にぐだぐだなんだよ…


いつものように、ちゃっちゃと書いて終わらせればいいんだけど、ついついマーブルズなんか引っ張り出しちゃって、かつて某パソ通のフォーラムに「主人公のマニアックな使用機材に関するコラム」を書き始めたのはいいものの、途中で投げ出した苦い記憶なんかが呼び覚まされてしまい、うとぅスパイラルに陥りかかったりしてるんだから、自分で言うのもなんだけど「本当に状態が悪い」ぬぅ~


そういえば、これだけの傑作コミックだというのに、まともなレビューはこれくらいってのは、なんとも寂しいお話ですね。
まぁ、露骨にレビュアーの知識と教養が問われる作品だから、生半可なマニアじゃ歯が立たないってのもあるんだろうけど…


ついでに言うと、個人的にはロス先生の最高傑作だとかたくなに信じてる「Uncle Sam」がどっかいっちゃっててさ(あんまし意味ないけど、中身はこちら)、どこ探しても出てきやしないんだな。ただ、流石にUncle Samは読み始めると大変だし、ハードカバー版は買ってなかったから、買いなおすのもひとつの手なんだけどさ。


などとぐだぐだしてても本当に仕方ないので、打ち合わせやらなんやらのついでにちょっと寄り道して、新宿ニコンサロンで本日まで開催されていた千田貴子展[Anonymous City]を観に行った。


ポストカードから、なんとなく鈴木秀ヲ氏のような作品を想像していたのだが、よい意味で期待を裏切ってくれた。
既に会期を過ぎているので、あまり細かいことをどうこう言っても仕方ないのだが、無造作なようで実は計算されたゆるさが、非常に強く印象に残った展示だった。
作家氏とも少しお話させていただいたのだが、これまでの経験などから展示することの意味を十分に理解しておられる方で、写真に対する考え方もしっかりしておられるように感じた。


作品の方向性そのものは全く異なっているので、直接的に得るものがあるかどうかはいささか微妙だが、それでも展示の組み立てや作品のセレクトに対する考え方については、非常に強い刺激を与えていただいたと思う。
柳沢やなぎらけんいちのぐだぐだは天然だけど、計算された軽やかさというか、ゆるさは観てて気持ち良いですな。


しかし、漏れのぐだぐだは処置なしぬぅ…orz


展示期間決定

2006-06-17 23:23:37 | 展示準備2006年12月

今日は用事のついでに表参道画廊へ立ち寄り、12月の個展について最終的な確認を行った。
ギャラリーのスタッフは本当に気持ちのいい人で、他の出展者とのやり取りなど、何気ない言葉の中にもモダンアートに対する愛情が感じられる。
あまり大仰に構えるつもりはないのだが、自分の展示も「アートそのものに対する愛情」に応えられる内容にしたいと思う。


展示期間およびタイトルは以下の通り。


―秩序の目録2―
旧き神々の銀の黄昏
The Silver twilight of The Elder Gods


表参道画廊内「MUSEE F」にて、2006年12月4日月曜より9日土曜まで開催
12時開廊~19時閉廊(最終日は16時半まで)


MUSEE F
東京都渋谷区神宮前4-17-3
アーク・アトリウム B02
TEL/FAX:03・5775・2469


よろしくお願いします。


展示告知

2006-06-12 23:45:36 | お知らせ

とりあえず、ワールドカップの話はおいといて…


今日は早めに仕事を切り上げて、表参道画廊で初日を迎えた田原喜久江展--- ROCK ON THE CITY ---を観覧した。
田原氏は金村ワークショップの受講生でもあり、オープニングパーティーでは受講生やOB(というのかな?)はもちろん、金村氏やワークショップのスタッフも加わり、みんなで個展の開催をお祝いした。
田原氏の作品は、あえてカテゴライズすれば都市散策写真とでもいうところかもしれないが、散策といった気楽さはまったく感じられないのがすばらしい。
パッと見て、サッと撮る、明らかにそういう作品なのだが、そこにはいわゆるスナップショットにありがちな甘さというか、被写体に依拠する甘えがない。展示方法そのものはきわめてオーソドックスで、こういってはなんだがプリントも可不可無くまとまっており、非常によい意味で匿名性のある展示なのだが、しかしながら作品には作家である田原氏の意図がはっきりと現れている。


これは当たり前のことのようだが、その当たり前を表現している作家が非常に少ないこともまた、事実だと思う。


展示という形式で作品を公開している以上、匿名性もなにもあったものではないという見方もあるし、それは確かに一面の真理でもある。だが、それは被写体の持つ匿名性と、作家の匿名性とを、鑑賞経験の不足によってか、あるいは意図的に混同した議論といえよう。
田原氏の個展は、展示手法や被写体の匿名性によって、作家性をより強調するという、きわめてストレートな構成になっている。
ただ、この匿名性というものは微妙なもので、ひとつ間違うと大惨事になってしまう。


もし、展示手法における匿名性を確保していたとしても、被写体が特徴的な存在であったならば、それは作家性を強調するどころか、逆に肝心の作家性を匿名的なものとしてしまうだろう。例えば、安保闘争や学生運動といったある特定の時代を代表するような社会的事件や現象のように、その場にいれば「誰でもシャッターを切るような被写体」となれば、作家がどれほどがんばったとしても、作品に表現されるのは作家性ではなく、時代性や社会性となってしまうだろう。
そして、もしそのような作品を現代と過去、あるいはモノクロとカラーのように、対比的な手法で展示したならば、例え匿名性を確保するような展示手法であったとしても、それはあくまでも対比であり、展示手法の持っていた匿名性さえも失われてしまう。まして、過去の作品をモノクロで、現在の作品をカラーで展示したならば、もはや読みの多様性すら持たない、きわめて悪い意味で作家性にあふれた展示となってしまうだろう。


もし、あえて特徴的な被写体をテーマにするのであれば、中途半端な匿名性は最初から捨てて、作家性を前面に出すような展示が求められるのではなかろうか?
併設されているMUSEE Fでは、関理穂氏の個展『檻』が開催されていたが、これなどはまさしく特徴的な被写体と作家性を前面に押し出た展示であり、非常に思い切りのよい内容となっていたと思う。


最後に、自分もMUSEE Fでの個展開催が決まりました。
日程や内容については、いずれ当ブログにて告知させていただきます。


しばらくの間ですが、よろしくお付き合いくださいませ。