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東京の夜景動画ブログです。

自然な表情って、本当は美しくないのでは?

2009-01-23 19:40:52 | 撮影とテーマ設定2008~09年3月
Ikebukuro058


ようやく原稿も一段落して少しはのんびり出来るようになったと思ったが、事務所の掃除やらネガの整理やら未現像フィルムの処理やらといった、作業中に先送りしていた雑務が予想以上に滞留していてげんなりする。とりあえず、雑務に手をつける前に表参道画廊へおうかがいして新年のご挨拶をさせていただいたが、開催中のI’m here. vol.3 東京展 [森の発生/森の腐敗]がなかなか興味深く、スタッフの方としばらく話し込んでしまった。明日に迫っているが、24日にはレセプションパーティー&スペシャルトークイベントも開催されるので、興味のある方はぜひとも足を運んで欲しい。
また、冬季休廊明けの3月2日からはMUSEE Fにて薈田純一氏の「Visions of Trees」projected展も開催されるので、今から非常に楽しみにしている。



さておき、ここで本当にのんびりしてしまうと、また後からしんどいことになるのは間違いないので、気を取り直してネガの整理から手をつけ始めた。でまぁ、ここ1年ほど撮り続けたストリートフォトをチェックしながらつくづく思ったのは、いわゆる自然な表情ってキレイじゃないのね。



こんなことを書くと、特に梅佳代あたりの日常写真を当たり前に受け止めた若い世代の人たちから失笑を買うのではないかと思うし、商業メディアの内情についても既にある程度以上まで受け手に知れ渡っていると思うから、ワレながらいまさらなにを思うのかと苦笑もするのだけどね。かつてはフィクションとノンフィクションとに間に「明確で絶対的な区別が存在している」とか、土門拳が言うところの絶対非演出の絶対スナップをテーゼとするリアリズムフォトに「絶対的な真実」があるとか、そういうお題目をホンキで信じたナイーブな人々が存在していたのですよ。



もちろん自分もそのひとりで、少なくともストリートフォトは絶対非演出の絶対スナップが本筋だと思っていたし、最初はキャンディードな方法論でも撮ってみたのですね。ところが、まぁ面白いっちゃぁ面白いんだけど、ぶっちゃけ「面白写真とか変顔写真」へ流れてしまい、どうにもこうにも「しまりがない」んですねぇ~



これはちょっとおかしいぞと思って、手元にあるスティーブン・ショアーとかロバート・フランクゲイリー・ウィノグランドあたりの作品をあれこれチェックしてみたんだけど、どうやら彼らは「だらしのない人々」を意識的に避けている、少なくともプリントを選別する段階で落としているように思えてきた。むしろ、画面にはある種の緊張感が存在していたり、たとえ画面内の人々がリラックスしているように見えても、それは無防備にだらけたり、ましてや虚脱しているのではなく、くつろぎを保つように「制御している」のではなかろうか?
そういうことに気がついて、去年の秋ごろから意識的に方向性を変えたのだけど、画面に緊張感のないカットはほんとに使えネェって、ここでまた再確認させられちゃいました。



これはポートレートを撮影するときにいつも気をつけている(そして編集者からいつも念を押される)ことなのだけど、現実として「筋肉を適度に緊張させていない人間は醜い」ので、現場ではモデルを弛緩させないようにオンとオフの切り替えをきちんとコントロールしなければならない。結局、ストリートフォトグラフィーも同じ事で、画面に適度な緊張感が存在しないと、それは「単にこっけいな写真」にしかならないんだね。
なんだかんだで、自分も土門拳が言うところの絶対非演出の絶対スナップをどっかで気にかけていたところはあるのだけど、やっぱりあれは過去の遺物なんだろうなぁ…



でも、逆に言えば「変顔写真」を狙うなら土門メソッドが最適ということにもなるわけで、現代美術的には文字通り現代に通用する現代の撮影姿勢ということになるんだょねぇ~w