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危険な萌え騙り

2007-01-25 23:30:09 | 業務関連


今日は非常に好い天気だったのだが、なんだか気分が乗らないまま、掃除をして仕事に出た。
もやもやしたなにかを抱えたまま、取引先と新しい仕事の打ち合わせをした後、いつものように雑談をしていたら、ちょっと気になる指摘を受けた。



ミリオタ歴が長いのは言動からすぐにわかるし、最近はミリオタ方面でも萌えが許容されてるけど、作品とかブログで萌えをいじるのは危なくないか?



まぁ、自分は作品やブログで萌えをいじったつもりはないし、今後もいぢるつもりは無いけど、ギリのネタを飛ばしたことはある。最近、実際にはオタク世界を知らずにいるのに、表面的なものだけかじって、知ったかぶって物言う連中が後を絶たないのだから、自分のような立ち位置の人間に対して警戒心を抱くことは、むしろ健全な反応ではないかと思う。
というのも、明らかに自分は現代美術の一環として写真を使った作品を制作しているが、その点が警戒心を抱かせる要素になっているのだ。事実、細野不二彦大塚英志などの作家や評論家をはじめとして、少なくない数のオタクが村上隆を厳しく批判していたが、現代美術からのアプローチを疎んじる傾向は第9回ヴェネチアビエンナーレ建築展日本館展示の後も、ややトーンダウンしてはいるものの基本的には変化していないといえよう。



いささか長くなるものの、以下に椹木野衣の「日本・現代・美術」から引用する。



もしもこれらの遅れてきたポップ・アーティストたちが、美術の外部で自律している諸ジャンルの成果を、それが美術という別の世界で発表されることを免罪符に、オタク的水準からすれば質的に劣るまま発表し、それを評価する基軸がないことをもって「美術」たるべく主張するだけなのであれば、じつのところ彼らは美術の名のもとにサブカルチュアを搾取しているに過ぎない。

日本・現代・美術 P54L2-L6



厄介かつ皮肉なことに、ここに記されているような搾取構造は写真の世界にも存在しており、しかもかつては搾取される側だった写真が、いまや搾取する側にも回っているのだから、自分の行為は二重の意味で警戒されてしかるべきということになろう。
確かに、写真的価値判断や文脈においては質的に劣る作品が、往々にして批評文脈の魔術や撮影者の知名度などに乗じて「芸術性」を主張し、そしてそのことを評価する基軸を持たないがゆえに、結果としてそれが「美術」として評価され、広く流通していく構造は確かにある。だが、他方で写真はより歴史の浅い、あるいは社会的権威付けが不足しているがゆえに、自らのジャンルを評価する基軸があいまいなサブカルチュアを搾取していたのも事実である。



やはり、作家として自らの制作活動が真摯な動機に基づくものと自認するのであれば、やはり様々な機会をとらえて自らの制作姿勢を表明すべきであろうし、また横断、越境、進入、あるいは援用するジャンルに対しては一定の敬意を表明する必要もあろう。



少なくとも、ただマスメディアやコモディティーがジャンル内で流通する用語や概念(例えば萌えやツンデレ)を誤って用いたり、あるいは非常に浅くしか理解できなかったりしたとしても、ジャンルの当事者でもない自分がしゃしゃり出て、えらそうに「あまりその本当の感覚を知らずにネタ的に使われてるだけ」とか言えないし、言うつもりも無いことだけは声を大にして表明しておきたい。
なにか特定のジャンルについて解説する役割というのは、やはりジャンルの専門家がまず第一に担うべきだし、もしあえて外部の人間がその役割を引き受けるというのであれば、それ相応の覚悟というものが必要なのではなかろうか?



自分はなんでもかんでも外から眺めようとするが、それなりの覚悟を完了してから外に出て、中を見ているつもりはあるよ。



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