Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

Tripod Warrior

2007-04-29 20:20:43 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


エントリータイトルですが、火星とは無関係です。



今日は朝から非常に好い天気だったので、さっそく機材を担いで撮影に出かけた。最終的にはシートフィルム4枚とロールフィルム2本を消費しただけだったが、それでも満足度という点は十分に満たされた1日といえる。
ただ、楽に撮影させてもらえないのは相変わらずで、特に今日は人出も多かったので、三脚を立てる際には周囲を十分に警戒しないと、思わぬトラブルを引き起こしかねない。



もちろん、公園などの緑地では三脚を立てること自体がマナー違反となることが多いので、自分は最初からそういう場所には近づかないようにしているのだが、さして狭くも無い公道でとがめられるといささか腹の立つこともある。確かに、道路交通法第五章「道路の使用等」の第一節「道路における禁止行為等(第七十六条―第八十条)」においては、禁止行為として「何人も、交通の妨害となるような方法で物件をみだりに道路に置いてはならない」と定めてあり、また「道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しやがみ、又は立ちどまつていること」をも禁じているばかりか、ご丁寧に「三月以下の懲役又は五万円以下の罰金に処する」との罰則まで定められているのだから、無余地状態にしてはならないのは間違いない。
だが、自分はいちおう側方3.5メートル、路肩側75センチの通行余地は残すようにしているつもりだし、短時間の使用については常識に委ねられているはずだよ。



例えば、木村伊兵衛風に銀座の夜景を撮りたいといって(木村伊兵衛が三脚を立てるかどうかは脇に置いといて)、数寄屋橋交差点前交番脇のちょっと狭くなった歩道に三脚を立てるとか、そういうことをすれば怒られても仕方ないかもしれないけど(数寄屋橋交差点前交番の脇を人が通るかどうかはともかくとして)、同じ数寄屋橋交差点付近でもチャンスセンターの側なら十分な余地があるので、いちうおう原則的には怒られないはずではある。
もちろん、広い公有地であればどこでも三脚を立ててもよいというわけではなく、話によると皇居外苑でも皇居前広場の砂利敷き部分(二重橋前のあそこ)は、三脚の使用が禁じられているようだ。ただ、あそこは国民公園として一般に広く開放されているし、そもそも「観光写真業者が三脚立てて集合写真撮ってる!」のだが、実際に自分も注意されているらしき人を見たことがあり、とりあえず菊には逆らわないということで自分も三脚を立てないようにしているw



ともあれ、様々な社会的制約をあるときは強く意識し、またあるときは適当に濁しつつ、日々撮影し続けているのだが、それにしても今日はやたらと警官の姿が多い。勤務中の公務員に肖像権はないのだが、それでも警官にレンズを向けるとトラブルにつながることもあり(桜にも逆らわないよ俺はw)、ちょっと消化不良気味のまま駅に向かった。



ふと、気がついたら機動隊に取り囲まれている!
いったい何事なんだ!
なにがおきてるんだ!



え?昭和の日
なんだそりゃぁ?


電車男はミンストレル・ショー?

2007-04-26 19:31:15 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は朝から好天に恵まれたこともあり、久々に撮影に出かけた。
ところが、シートフィルムを6枚消費した段階で、雨の臭いをたっぷりはらんだ北からの風を感じたので、あわてて機材をしまいこむと、とりあえず駅へ向かった。
電車の中で少しうつらうつらして、降りたら相変わらず好い天気のままだ。
なんだ、気のせいだったかと下を見ると、地面がすっかりぬれている。携帯をチェックしたら30分も経過していない。
なにかすごいやばい気分がして、スタンドの新聞をチェックしたのだが、当然ながら普通に今日の新聞が並んでいた。



寝てる間に異世界へジャンプなんて、どっかの特撮番組じゃあるまいしと思うのだが、その瞬間にすごく心がときめいたのは、そう悪いことじゃなかったと思う。



その後は事務所で打ち合わせやらなにやらと、いつもの日常業務に手をつけるのだが、合間に「旧世代オタクと新世代オタクはどこが違うのか?」という話が出る。まぁ、仕事の合間に考えるねたとしては重すぎるし、ぶっちゃけ言って答えが出るような問題でもないのだが、自分たちの今後とも密接に絡み合う問題でもあるので、なんとなくみんな乗ってくる。



これはまだ個人的な経験則に過ぎないのだが、それでもやはり実感として強く意識するのは、新世代オタクに「マイノリティー感覚が備わっていないらしい」ことである。
つまり、旧世代オタクが成長過程で社会から異端視され、排除されることで「自らのオタク性を強く自覚した」のに対し、新世代オタクはそういった形でのバッシングをあまり受けたことが無く、どちらかといえば「周囲の先輩オタクから面白い別世界としてオタク世界へ引き込まれる」中で、自らのオタク性をじんわりと自覚して行ったように見受けられるのだ。



旧世代オタクは社会的なバッシングという通過儀礼を経ることで社会との関係性をより客観的に捉え、さらにオタクとしてより高度に進化するきっかけともなったのだが、社会的バッシングという辛い経験は既存の社会通念や秩序を超越した自由な想像力の源となる一方で、以前のエントリーでも触れたような「いぢられることに対する恐怖」や、あるいは外部の人間が「オタクを語ることを拒む風潮」にもつながっている。



もちろん、バッシングなどという辛い経験を経ずとも、オタク世界のぬるま湯でぬくぬくしていられるのであれば、もちろんそれに越したことはないし、そういう「穏便な方法でもオタクが増える」のは、むしろ喜ばしいことでもあるのだが、そうなると旧世代オタクのマイノリティー感覚は、新世代オタクにとって非常に鬱陶しいものとなるような気もする。
例えば「電車男」や「萌えブーム」は、新世代オタクにとって社会から認められたことを意味するようだが、旧世代オタクにはミンストレル・ショーMinstrel show)のように受け止めている人々も少なくない。かねてから何度も触れているが、旧世代オタクが現代芸術をはじめとするファインアート一般を胡散臭く感じているのも、芸術分野におけるオタクの扱いにミンストレル・ショーを想起させるなにかが含まれているためだろう。
もっとひどい事例としては、大判カメラと古典レンズでコスプレ写真を撮影していた某氏などのように、ご自身は善意で「オタクの芸術的に優れた部分を社会に紹介しているつもり」なのだが、その実態はオタクを古典的ファインアート文脈でパッケージしただけの、よりいっそう悪質なミンストレル・ショーだったというものすらある。



ただ、このミンストレル・ショー解説にあるように、それが文化的な融合を意味するのであれば、そこには確かな救済も希望もあるし、また文化的な融合度を高めるにはマイノリティー感覚が邪魔になる局面もあるだろう。とはいえ、個人的にはやっぱりまだまだ警戒すべきことも多いように感じるし、オタクとしてオタク向け商品を提供する側にも、もちろん考えなければいけない点は多々あるだろう。



例えばサックスというメジャーな楽器のサブカテゴリーとして存在するC-Melodyサックスをネタに、オタク的こゆぅぃマニアが機材に関する薀蓄を面白おかしく披露しているし、時にはマニアの域を超えた知見を開陳することもある。
しかし、それはあくまでも「現在では生産されることも無い廃れた楽器」という、非常に限定された立場から見渡す音楽の、あるいは楽器の世界であって、そういった立場からの意見やものの見方が音楽や楽器の世界に対して普遍性を持つかというと、恐らくそんなことはないだろうと思う。



マジョリティーの側が規定したマイノリティーの姿にせよ、また反対にマイノリティーが想起するマジョリティーの容貌にせよ、いずれも限定的な情報から全てを見通したかのような傲慢さが背景にあるのは同じだろう。
その意味では、旧世代オタクのいささかひねた警戒心や、新世代オタクのちょっと脳天気な全能感のいずれとも異なる、面白くは無いが中間的ななにかが、自分たちに求められているのかもしれない。


TORG!TORG!(トーグよ!トーグよ!)

2007-04-23 19:57:36 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


エントリータイトルには無理があると、自分でも思う…



さておき、昨日は比較的好い天気に恵まれたが、別件の撮影があったため自分の撮影は見送り、今日は朝からベタ曇だったため、おとなしく事務所で仕事をしていた。
夕方からは打ち合わせがあったのだが、自分は直接的に関与しない企画ということで、適当に抜け出してドリンクだのなんだのを買ってくる。



だいたいの用件が片付いたであろうころを見計らって、買ってきたあれやこれやを並べて茶飲み話となるのだが、古株のこゆぅいオタクが雁首そろえてだらけ始めると、まぁどうにもこうにもネタは古臭くなるし、もちろん話のオチなんか付くはずもないね。



ただTORGの話は面白くて懐かしかったし、なにより新しい発見があったのはうれしかった。



内輪ねたで恐縮だが、自分の周囲にはTORGにどっぷぅりはまったオタクがたくさんいたためか、以前よりその世界観やシステムは「現実世界へも十分に応用可能」だと思っていて、ポシビリティにリアリティ・ストームといった用語や、その概念は社会学にも通用するとさえ考えている。それに、なによりも自分自身が制作の根本にすえている「自身を取り巻く価値観の外側に立脚し、自らの価値観を超越した超現実を作品化する」という部分などは、ある意味でTORGの世界観そのものといってもよい。
また、話をしながらひとつ発見したのは、自分自身もまたTORGにはまっている周囲のオタクと同様に、ゲーム世界の根幹を成す多元主義を受け入れ、かつ大きな影響を受けていたことだ。例えば、かねてからことあるごと批判的に取り上げている某大判カメラマン氏は、さしずめ自らの価値観を絶対視ししつつ異なる価値観を無条件で「遅れたもの、劣ったもの」とみなし、かつ異なる価値観を全否定することが善き行いだと頭から信じきっているヴィクトリア人といったところだろう。
実際、その大判カメラマン氏は他者の価値観を遅れたもの、劣ったものと規定することで自らの世界を強化しているのだが、もちろんそうやって一方的に「遅れたもの、劣ったもの」と決め付けられたほうはたまったものではなかろう。そして、大判カメラマン氏のような精神的引きこもりに変革をもたらす力を持つのが、ゲームで言うところの偉業ではなかろうかとも思う。



だが、本当にTORGの世界観を持ってきて、現代芸術とは一種の偉業であるかのように規定すると、いささか厄介な問題が生じる。



なにしろ、ゲーム的に自らの言動を表現するならば、自分は「ストーマーとしてのポシビリティ(能力)を無駄遣いしているばかりか、他のストームナイトが達成した偉業を片っ端から否定する、最悪の敵キャラ」ってぇことになっちまうからなぁ~



なんだかなぁ~


そして“つながること”の欺瞞

2007-04-20 19:49:29 | 業務関連


週末で天気も好かったのだが、打ち合わせやらナニやらでばたばたする。
アイも変わらずネタ出しの日々なのだが、擬似家族ネタはまだ戦えるのかどうかといった、どちらかといえば鈍い話に終始したような印象だ。



まぁ、とりあえず擬似家族的な“つながり”ネタがまだ使い物になるのは確かだろうし、またオタク&ゲーム的なポジションにおいても、それがまだ一定の訴求力を備えているのは見て取れる。そういえば、先ごろ亡くなったカート・ヴォネガットもまた、作品において拡大家族計画というネタを使っていたし、そんな大仰な話を持ち出さなくとも、最近は「他者とのつながり」をテーマにした作品があふれかえっている。



とはいえ、ビジネス鉱脈としてはまだ掘り尽されてはいないのかもしれないけど、それはあくまでも青少年向け商売としての金脈があるかないかといった文脈であり、自分たちの顧客である古株のこゆぅいオタク層は擬似家族ネタにもぅすっかりうんざりげんなりしているかもしれないのだ。



少なくとも、ネタ出ししたのはアダルト美少女ゲームの企画なのだから、その点に関して一定以上の配慮が要求されるのは間違いない(まかり間違っても、それを中高生が手に取ることがあってはならないのだよ、チミィ)。



確かに、オタクさんというのは往々にして社会から孤立しがちであり、オタク趣味を通じた「仲間」とのつながりを求めるものなのだが、だからこそ「つながりの質」というかつながっていることの内容には極めて敏感かつうるさいのだ。
まず、オタクにとって最も簡単かつ底の浅いつながりは、同じ趣味のアイテムなり情報なりを共有することだ。ぶっちゃけ、同じジャンルのフィギュアなりゲームなり小説なりアニメDVDなりを所有するか、もっとお気楽な方法としてはアニメ番組を視聴していれば、そのジャンルのオタクとはいちおうの「つながり」が発生する。



ところが、そういった受動的姿勢で作品と接していては単なる消費者として搾取されるのみであり、またそのような消費者的態度では単なる熱狂的なファンとなんら変わらない。そのためか、いわゆる「パロディ同人誌」をはじめとする様々な「二次創作」を実践することで、作品や趣味を同じくする他のオタクとのつながりをより高度に発展させた人々が存在しているし、また自分たちはそういう「こゆぅいオタク」を相手に商売しているのだ。



でまぁ、なんでそういったこゆぅいオタクが相手だと、擬似家族ネタ(正確には他者とのつながりがメインのネタ)が危険なのかというと、そういったこゆぅいオタクさんたちはそういうネタの裏に潜む「搾取的欺瞞」に対して極めて敏感で、たとえこちらにそういうつもりが無かったとしても、彼らが作品から「搾取的欺瞞」を感じ取ってしまったが最後、もぅ大変なバッシングを受けるのは間違いないからなのだよ。
では、なぜこゆぅいオタクさんが「搾取的欺瞞」に対して極めて敏感なのかというと、同人活動などを通じて彼らも搾取する側に立った経験があるか、あるいは身近にそういう仲間がいるため、経験的にそういう「搾取的欺瞞」のからくりを知っているためなのだ。



とはいえ、この辺の構造は岡田斗司夫がオタキングとして君臨していたころの話で、そのオタキング自身が「オタクは死んだ」とのたまうような大変動と大断絶も存在しているのだが、だからこそ古株のこゆぅいオタクと最近の若いオタクを同一視するようなことがあってはならないのだね。



正直言って、作品において受け手とのつながりを前面に打ち出すことで、作品が作者と受け手とのつながり、あるいは作品に触れた受け手たちのつながりをもたらすといった感覚の欺瞞性。つまり「作品を購入するか作品に触れることによってつながりが確保される」という構造の搾取性にはもっと自覚的、かつ敏感であってしかるべきだと思うし、その点に対して古株のこゆぅいオタクが疑いの目線を向けることは、むしろ健全なことなのではないかと思う。
こういった「搾取的欺瞞」は、もちろん現代美術の世界にも存在している。だが、現代美術の世界では作家自身が「搾取的欺瞞」を自覚しているかどうか、控えめに言ってもかなり疑わしい。それどころか、往々にしてごく少数のギャラリーやバイヤー、あるいはキュレーターの手によって作品の価値が決定され、作家自身が作品の流通過程から切り離されがちな美術の世界においては、そういった「搾取的欺瞞」が存在しないかのように振舞い、自らの作品が受け手を搾取する可能性すら認めようとしない作家も、決して少なくないように見受けられる。



自分は決して岡田斗司夫を高くは評価しないし、むしろ岡田自身も自らの搾取性をよりいっそう自覚すべきだったと思うが、それでもなお村上隆への批判は正鵠を射抜いていたと考えるし、また古株のこゆぅいオタクが現代美術に対して極めて批判的な態度を示すことがあることに対しても、積極的に評価すべきことだと受け止めている。



そういえば、カート・ヴォネガットが作品中でネタにした拡大家族計画は、途中からの参加も離脱も自由という点がミソだった。たぶん、ヴォネガット自身は「固定的なつながり」の欺瞞性や搾取性を十分に理解したうえで、それでもなおつながることが人々にとって必要だと考えていたのだろうし、だからこそあぁいったネタ回しになったのだろう。
まぁ、自分なんざぁヴォネガットの爪垢ほどに過ぎない存在なのだが、それでもなお美術における「搾取的欺瞞」に対しては、ある程度の警戒心を持ち続けるだけの敏感さは失いたくないと思うよ。



というわけで、もし自分が擬似家族ネタを担当することとなった場合、ヴォネガット・Jr.なみに冴えたたったひとつのやり方を見出すことができるかどうかとなると…



だいたい、たったひとつの冴えたやり方はティプトリー・Jr.だしなぁ…


写真機は魔法の暗箱なんかじゃないんだ!でも…

2007-04-17 19:17:08 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は事務所で比較的長い打ち合わせがあり、自分は直接関係しないものの、なんとなく気疲れしてしまう。
ただ、とりあえず一段落したところで雑談となった際、そこでちょっと興味深い話がでた。



カメラマニアのスタッフに言わせると、やっぱり写真の質はカメラで決まるのだそうな。



まぁ、こうして端的な言葉だけ切り出してしまうと、非常に過激な物言いにも聞こえるが、しかし一面の真理をつく言葉でもあり、むしろ多くの人々が抱いている感情を率直に表したものですらあろう。



流石に、不便だからこそ他人と違う写真が撮れるといって、無邪気にトイカメラを振り回すガーリーフォトグラファーや、とにかくフォトジェニックであることのみを求めて、ただフラッグシップ機を買い揃える自称写真愛好家たちのように、道具に依存とするというか、文面通りのデウス・エクス・マキナによる救済を自明とするものではない。だが、撮影にカメラというやはり文字通りのブラックボックスが介在するのは間違いなく、その点では機械暗箱神に対するフェティシズムが入り込む余地が常に存在し続けていると言えよう。



事実、自分自身も繰り返し述べているように、写真は機械的かつ光学的手段による表現であるが故に、だからこそ撮影者の意図を超越した画像が生成されうるのだし、そもそもカメラがあれば撮影者が不在でも撮影は可能なのだ。



だからこそ、写真という表現手段を用いる作家は、ただ漫然と機械的手段へ依存するのではなく、明確な意図を持って機材と相対せねばならないのだが、作家として明確な意図を持ち続けることは簡単ではないし、さらに作家が制作意図を作品に表現するのは、よりいっそう困難な作業であるといえよう。



例えば、ちょっとヴィヴィッドで目新しいものが写っているだけの日常風景や、あるいは単にフォトジェニックでしかない女性ポートレートを撮影するのであれば、わざわざ厄介な癖のあるトイカメラやニコラ・ペルシャイトレンズを持ち出す必要は無いはずだ。そして、もしもそういった機材が自分の表現したいイメージを得るために必要不可欠だというのであるなら、やはり作品を通じてそのことを明確に示すべきだろうと思う。



とはいえ、自分自身も自らの表現意図を明確に把握しているかどうか怪しい部分が多々あり、また実際に機材に関して思い悩むことは非常に多い。とりあえず、現在は細かいところをいくつも妥協することで、暫定的ながらなんとか安定させてはいるものの、表現する方向性についての悩みはどうしようもなく大きくて深い。



だから、もしかしてカメラという暗箱機械神が降臨すれば、自らの表現意図も定まるのではないかという、不純な期待を抱いて機材の海を流転する人々の気持ちも、全くわからないというわけではない。
しかし、そういう他力本願なご都合主義は本当によくないし、古くはアリストテレスのころから批判にさらされている。



というわけで、デウス・エクス・マキナにしてもフェティシズムにしても、できれるだけ控えたほうがよさそうですね(おっとこれは超展開!)。


デザインの現場

2007-04-14 21:34:42 | 業務関連


今日はすばらしく好い天気に恵まれたが、午後からデザイナー氏と会う予定が入っていたため、撮影はあきらめて布団を干したり部屋の掃除をして午前中を過ごした。



午後にはデザイナー氏と合流し、昼食を共にしながら軽い話をあれこれする。というのも、今日はとりあえずの顔合わせといったところで、実質的な仕事の話に入るかどうかはまだ決まっていないのだ。
ただ、デザイナー氏もまた相当に激しいオタクであり、基本的に平面の印刷物から入った人なので、もともと相性はそんなに悪くない。



特に画像のレタッチなどに関しては、現場経験を踏まえつつかなぁりこゆぅいお話を聞かせていただき、個人的には今後の参考になるところ極めて大だったのだが、会社としての判断についてはもちろんまた別の話になる。
まぁ、もちろんその辺のところはお互い「大人の判断」ということになるのだが、それはそれとしてそこそこ面白い時間をすごせたのだから、たまにはこういう付き合いも悪くはないかなと思う。



とはいえ、やっぱりこういう日は撮影に出かけたかったものだねぇ~


美に対する信頼

2007-04-11 21:14:21 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日はいつもより早めに出社し、オーナー氏立会いの下でテナントの管理状況をチェックしていただき、それから渋谷で知人と合流した。
知人と会うのは久しぶりなのだが、相変わらず元気そうなのは何よりだ。



とりあえず、知人と近美へ向かって「リアルのためのフィクション」展を観ることとしたのだが、所蔵作品展「近代日本の美術」もかなりまめに展示換えしており、特に写真コーナーが土田ヒロミ「自閉空間」だったのは大当たりだった。
その後、金村ワークショップで一緒に受講していた福居伸宏氏が参加する「記憶の位相-Aspects of Memory展を鑑賞するため、とぼとぼ歩きながらアップフィールドギャラリーへ向かったのだが、途中で激しい雨に見舞われてしまい、タクシー使えばよかったかと後悔する。



結局、その後も徒歩移動だったりしたため、事務所へ戻ったころにはすっかり日が暮れていた。
まぁ、あらかじめ大きな傘を買っておいたから、その点は問題なかったんだけど、もう少し早めに戻ればよかったかもかも。



さておき、両方の展示を観ながら改めて強く感じたのは、やはり「美に対する信頼を自明としてはならない」という点だった。



美は社会から超越した存在ではなく、ましてや絶対的な存在でもない。
美は鑑賞者の精神に何らかの善い影響を与えるかもしれないし、与えないかもしれない。
そもそも、美が鑑賞者の精神に影響を与えるとは限らないし、なんら影響を与えないかもしれない。
美によって社会は変わるかもしれないし、全く変わらないかもしれない。



いや、美によって社会が変わることなんて、たぶんもうないのだろう。



近美の所蔵作品展「近代日本の美術」で「群集の孤独」として特集されていた作品群に顕著だったが、かつては作家も鑑賞者も美に対するある種の信頼を共有し、その信頼こそが美術の存在理由になっていたといっても過言ではないだろう。
つまり「美によって鑑賞者は作家からなにかの善い影響を受け、そしてそのことを通じて社会は変革される」という認識を作家と受け手が共有し、そのことを「美の力」として信頼することが美術の、ひいては芸術全般の存在理由にとなっていた時代が、かつて確かに存在していたということだ。



しかしながら、現代は作家も鑑賞者も美に対するそのような信頼をナイーブなものとして退け、むしろいかにしてそのような美に対する信頼が失われていることをはっきりと確認し、かつ美に対する信頼が存在しなくとも美は存在しえることを証明するかが、現代における美術家のありようのひとつといってもよいだろう。



そして、今日観た「リアルのためのフィクション」展におけるやなぎみわ氏や塩田千春氏、あるいは「記憶の位相-Aspects of Memory展の福居伸宏氏は、いずれも美に対する信頼を共有していないというか、少なくともそのような信頼を決して自明とすることなく、むしろ美に対する信頼が失われていることをはっきりと自覚した上で、そのことを乗り越えようとしているのではないかと感じる。



自分は美に対する信頼を取り戻そうとか、まして美に対する信頼は今でも失われていないとする作家や鑑賞者ではなく、美への信頼が失われたことを出発点とする作家や鑑賞者と共にありたいし、またできれば自分もそのようにありたいと、本当に心から願っている。


展示タイトル発表

2007-04-08 19:58:04 | 展示準備2007年10月


今日は朝からいい天気だったので、とりあえず撮影に出かけてみたのはいいものの、昼過ぎぐらいからだんだんもやっとして雲も多くなってきたので、シートフィルムを6枚消費した段階で帰宅した。



本来、今日は午後か夕方あたりから人と会う予定だったのだが、朝になって急遽キャンセルされたため、なんとなく気持ちの切り替えが付かないまま、帰宅してもなんとなくぐだぐだしていた。ただ、そんなところに知人から夕食の誘いがあり、まぁ「今日はそういう流れなんだろう」ということでとぼとぼ出かける。



とりあえず、展示タイトルを決めた話などして、カフェを出たら雨が降っていた…



さておき、展示期間およびタイトルは以下の通り
ただ、展示期間は仮決定なので、場合によっては変更されます。



―秩序の目録3―
Too hurt…
archived memories



表参道画廊内「MUSEE F」にて、2007年10月29日月曜より11月3日土曜まで開催(予定)
12時開廊~19時閉廊(最終日は16時半まで)



MUSEE F
東京都渋谷区神宮前4-17-3
アーク・アトリウム B02
TEL/FAX:03・5775・2469



よろしくお願いします。


収録

2007-04-05 20:22:25 | 業務関連


今日は朝から好い天気だったが、ゲームのボイス収録に立ち会わねばならないため、撮影はあきらめて事務所へ向かった。
ボイス収録に立ち会うといっても、実は特になにかすることがあるわけでもない。特に今回はスタジオのエンジニア氏が非常に優秀だったうえ、声優さんも十分に経験を積んでいる方だったので、下手に口を出すと却って収録が停滞しかねないほど、手際よくそしてこちらの意図に沿った作業を進めていただいた。



それなら、エンジニア氏と声優さんに丸投げしてもかまわないのではないかという話にもなるのだが、台本のミスや読み方がわからない単語の修正をしたり、細かいニュアンスやシーン全体の方向性といった部分を現場ですり合わせることもあるので、少なくとも企画段階から作業を把握している人間が立ち会う必要がある。もちろん、発注者側の責任として、作業を見届けるという意味合いもあるのだが、いずれにせよ積極的になにかをするわけではない。



なにかするわけではないが、それでいて当事者としての意識を高く持ちつつ、作業の進行を注視しなければならないというのは、正直言って少々疲れるものだ。
とはいえ、これが全くの他人事で当事者意識もへったくれもなく、あくまでも物見遊山的に眺めてるだけでいいのなら、実は非常に面白おかしい作業だったりもするというアタリがややこしい。



なぜなら、ゲームとはプレイヤーという形で「受け手が当事者としてゲームの進行に参加する」遊びであり、ある意味では受け手に楽しくかつ効率よく「当事者意識を持たせること」が、ゲームをデザインする上で非常に重要なポイントともいえよう。実際問題、受け手が「当事者意識を持つ」ということは、作品に「感情移入すること」とほぼ同義といえ、他のエンターテイメントにおいても重要なことだ。



さておき、ではなぜ収録に際しては当事者意識を持たないほうが面白いのかというと、そもそも収録はエンターテイメントでもなんでもなく、あくまでも業務として責任を負っていることという違いがあるし、それに「事態の進行に対して自分はほぼ無力である」という違いが大きいのだ。



演劇や映画においては、物語の進行に対して受け手はほぼ無力に等しいのだが、受け手は物語の結末に対してほぼ無責任でもあるため、その辺のバランスは取れているというわけ。
ゲームでは、例えば『ファイアーエムブレム 暁の女神』のテレビCMにおいて、プレイヤーが「愛着のあるらしいキャラの戦死に動揺する」シーンを流していたが、実際にゲームではプレイヤーの判断ひとつで物語世界が気軽に崩壊することさえ多々ある。しかし、それはやはりプレイヤーの選択がもたらした結果であり、もちろんプレイヤーはゲームの進行に対して絶大な力を有しているから、これはこれでやはりバランスが取れている。



では、事態の進行に対してほぼ無力で当事者意識も無いとなると、エンターテイメントとして成立しないかといえば、実はそういうことも無くって、ノスタルジーなんてのは「受け手から当事者意識を剥ぎ取る」ことで成立するネタだ。ただ、この場合はあらかじめ受け手が「事態の進行に対する無力感」を共有していることが前提となるのだが、そういう弱体化した受け手から当事者意識を剥ぎ取って、代わりにノスタルジーを刷り込むようなエンターテイメントに対しては、どうしても批判的にならざるを得ない。
実際、大傑作として評価の高い『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』なんかは、受け手の中にある「当事者意識から逃れたいという欲求」を皮肉った作品だし、いわゆる昭和ノスタルジーに含まれる強烈な腐臭の正体は、そういうところにあるのでは無いか?



そういえば、自分は大好きな「グッバイ・レーニン」でも、東西ドイツ統一の流れに抗することもできず、無力感にさいなまれた末に当事者意識から逃れたいと願う感情(オスタルギー)に対する皮肉と、そしてそういう負の感情と決別し、乗り越えていく人々を描いていた。個人的には、困難に直面して気弱になっている人々にアヘンをかがせるようなノスタルジーより、あくまでも前向きに現在と向き合うようなエンターテイメントを志向したいとは思う。



でも、オタクさんに前のめりのエンターテイメントを提供すると、ほぼ間違いなく受けが悪いんだよねぇ~


表現に逃げ込んでなんかない!と思うんだけど…

2007-04-02 23:37:02 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


新年度の仕事始めなんだが、朝からどんより曇って気分もぐだぐだ。
事務所に行っても自分ひとりで、絵に描いたような月曜日の憂鬱がそこに広がっていたんだけど、実は昨日の段階でこうなることはわかっていたから、まぁココはじっと我慢するほか無いんだよねぇ~



昨日は知人の買い物に付き合って、ぶらぶらアメ横までお出かけしたのはいいんだけど、ただでさえ日曜の午後は人が多いところに、上野公園から流れた花見客と思しき人々が加わって、年度初めならぬ年始のような大賑わい。自分なんか駅降りた段階でうんざりだったところに、こっちのお目当てだった文具は生産停止だったり、あわてて買ったチノパンはサイズを間違えていたりで、ただ疲れに行ったようなものだった。
結局、また上野に出かけて取り替えてもらうハメになったが、今にして思うとこの程度のへこみは、まだまだ可愛いもんだったのかもね。



昨日は思ったより早く知人と別れたので、いつものように四谷から新宿の自主ギャラリーを廻り、最後は再び豊田康太氏の「祭壇に楔を」展を観たのだが、改めていろいろなことが隔絶していることを思い知らされ、かなぁり激しくへこんでしまった…



同時に開催されていた「和歌山ブルース」の北田祥喜氏もそうなのだが、やはり写真という表現手段を用いるには一定の(あるいは一定「以上」の)技術水準が必要だし、また技術的な側面を無視していくら表現を主張したところで、穏当に言っても作品としての基盤が弱いとの批判は免れ得ない。ただ、北田氏は「和歌山ブルース」で技術的な側面を前面に押し出していたのに対して(作家氏ご自身からも作品の技術的背景について詳しく教えていただいた)、豊田氏の作品は基礎的な部分をしっかりと固めた上で、さりげなく高度な技術を織り込んでいるという違いがあり、個人的には後者の方向性に好感を持っている。



自分はカラーネガを主に使用しているため、あくまでも標準現像の標準プリントが基本となる。だが、もちろんプリントの巧拙は非常に露骨に出てしまうため、それでも作品となるプリントはラボにお願いするしかないのが、自分の技術水準から言って妥当なところといわざるを得ない。



まぁ、プリントに対する最終的な判断は作家が下すものだし、技術的な側面ばかりが表現ではないとも思いはする。とはいえ、そうは言いつつも例えばプリントなり撮影なりといった技術的な側面を、作品の内部で表現する必要が無いわけでもなく、自分にとってはいろいろと耳の痛い話でもある。
特に、表現を重視するがあまりに技術的な側面を軽視しすぎることは、表現に逃げ込んでいると受け止められてしまう危険性すらはらんでいるのだ。実際、写真プロパーによる現代美術家への評価として、そのような点を批判的に指摘することは少なくないように思える。ただ、その反対に写真の技術的な側面におぼれてしまうことも問題だし、表現と技術とのマッチング、あるいはバランスというのは、本当に深い問題だと思う。



いずれにしても、自分自身が解決しなければならない技術的問題を数多く抱えているのは確かで、まだまだ精進が足りないのは間違いない。自分は表現に逃げ込んではいないと思いたいけど、その点に対して自信がなくなってきちゃったよ…