Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

砂とバターと、時々お寺

2006-07-30 23:14:49 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

長かった梅雨もようやく明けて、いかにも夏らしい天気になったことだし、今日もまた撮影に出かけようと思っていたところ、知人からメール着信。
近所で砂曼荼羅をこしらえてるから、いっしょに見物しようとのお誘い。
興味がまったく無いわけではなかったが、そもそもスピリチュリアル系のあれやこれやがかなり苦手なので、イベントそのものよりも「客層が嫌だ」と告げたところ、バター彫刻もあるとかなんとかわけのわからないことを言い始めたので、仕方なく「入場料は知人が負担する」ということで妥協した。
まだ、朝も早い時間だったのだが、知人が「こういうのは朝から行かないとだめだ」と、これまたやたら強硬に言い張るので、取るものもとりあえず家を出た。


会場となった寺院へたどり着いてみたら、既にかなりの人だかりが出来ている。
僧侶の読経が流れる中、焚き染められた香の煙にむせ返りつつ待っていると、砂曼荼羅を描き始めるのは、お経を唱えて曼荼羅の意味を解説した後ということがわかり、とりあえず知人と2人で遅めの朝食を取ることとした。再び寺のお堂へ向かったところ、まだ解説が続いており、仕方ないので隣の売店を物色するなどして時間をつぶす。
ようやく砂曼荼羅を描き始めたかと思ったら、既にほとんど出来上がっていて、残されていたのは外周部の装飾のみだった。
そうは言っても、まぁめったに観られるものでもないし、バター彫刻もなかなか面白かったので(個人的には、こっちのほうが楽しめたかも)、なんだかんだ言いながらも楽しい時間をすごすことが出来た。


そうこうしている間に、昼を過ぎたころからどんどん人が増え始め、砂曼荼羅の周囲は人で埋め尽くされてしまう。さすがに暑くなってきた上、解説も2周目がはじまり、しかも「なぜだか眠くて仕方なくなってしまった」ので、とりあえず木陰のベンチで軽く昼寝した。その後は、知人と中国茶館でだらだらし、適当に用事を済ませて帰宅した。


それにしても、紛うことなき宗教行事であるにもかかわらず、全体の雰囲気がとにかくゆるい。
いっちゃぁなんだが、盆踊りか縁日、せいぜいが初詣なみのゆるさである。まぁ、自分も堅苦しいのは苦手だし、初詣はもちろん、盆踊りも縁日も「宗教行事」であることを考えると、東洋的というか仏教的な「ゆるさ」なのかもしれない。
また、この砂曼荼羅パフォーマンスはかなりの人気があるらしく、ここ数年は「毎年のようにどこかでやっている」というのも興味深い。


小難しく言うなら、最も究極的かつ激しい形で「礼拝的価値から展示的価値への転換」が行われたということになるのだが、ベニヤミンあたりがこの光景を見たらなんといっただろうか…


ここ数年の間に日本で制作された砂曼荼羅や、その製作過程を記録した「画像」を観ながら、生で観た砂曼荼羅にも「アウラは無かった」し、1回きりであるはずなのに「既視感にあふれていた」のはどういうことなのだろうかと、ぼんやりした頭で考えてしまった(とりあえず、過去世において自分がその場に立ち会っていたとか、そういうスピリチュリアルすぎるのはなしだよ)。


そうそう、焚き染められていたお香には「薬草粉」が練りこんであったそうで、観ていると眠くて仕方なくなって困った。
もしかして、アウラを感じられず、既視感にとらわれていたのは、そのせいかもしれないなぁ~


Lost Barber

2006-07-29 23:24:46 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

本当に久しぶりにのんびりした週末で(本当はやらなければならないこともあるのだが…)、しかもいい天気だったから、撮影をかねてギャラリーめぐりに出かけた。
途中、人気の無いオフィス街で「本日サービス価格」という床屋の看板を見つけ、なんとなく面白そうなので入ってみた。ところが、入った先はすぐ階段になっていて、しかも常夜灯ぐらいしかついてない。
おぃおぃ、これじゃ「立喰そばや」じゃないか…
なんてぼやきながら地下へ降ると、小さめの三色灯がやけに景気よく回っている。今日は休みらしいが、隣にはなぜかパブがあって、ミートパイを出すらしい。
おぃおぃ、もしかして「スウィーニートッド」じゃあるまいな…
まぁ、もちろんそんなことは無くって、普通の「土日は異常なほど暇な」床屋だったのですが、それでも顔そりはやめときました。


とまぁ、どうでもいい与太話はさておくとして…


まずはgallery Archipelagoで開催中の、藤田昌彦展「トウキョウノート」を鑑賞し、そのままぶらぶら撮影しながらツァイトフォトサロンまで歩く。
尾仲浩二作品展「Grasshopper」が最終日だったので、少し足を伸ばしたというわけ。この作品展は同タイトルの写真集が出版されたことにあわせて行われたもので、自分は印刷媒体で先に作品を観ていたのだが、やっぱりオリジナルプリントはよいものだねぇ~
まぁ、この手の話はこれまでにも散々したので、これ以上はどうこう言わないけど、尾仲氏の作品は本当に印刷屋泣かせだとは思うよ。


尾仲氏の作品を十分に堪能した後は、せっかくだから近所のプンクトゥム・フォトグラフィックス・トウキョウへも足を伸ばした。
会期はあと1日しか残っていないが、現在は森栄喜氏の「A PERFECT MORNING」展を開催している。当日はトークイベントが予定されていたのだが、なにしろその場の思いつきで訪れたものだから、残念ながら時間が無かったので見送らせていただいた。
肝心の作品だが、全て男性ポートレートで、ある種の奇妙ななまめかしさを備えていた。まぁ、展示解説にもあるように作家氏はセクシャルマイノリティなので、その意味では至極当然とも言えるのだが、いわゆる「ゲイ・アート」とはまったく趣の異なる作品だったのは、非常に興味深かった。
なんというか、女性作家の撮影する女性ポートレートというか、これも慣用句的表現で申し訳ないが、植物的な性を感じさせる穏やかさが感じられた。
作家氏は非常に気さくな人物で、もう少し時間に余裕があればいろいろと話をしてみたかったが、時間が限られていたことが本当に悔やまれる。


ともあれ、自分も今日はフィルム2本分(42カット)撮影したし、夏はより精力的に撮影しましょうかね。


Terminator-明暗境界線-

2006-07-26 23:44:47 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

難航に難航を重ねた業務企画も一段落して、納品した成果物のチェックも無事に終了し、ようやく多少は自分の時間も持てるようになった。
正直言って、難航した業務は成果物の品質に問題のあることも多いのだが、今回はその点も無事にクリアしたので、本当によかったよかった。
というわけで、今日は久々に晴れたこともあり、撮影がてらメーカー系ギャラリーをチェックしにいった。


今回のお目当ては、ニコンサロンで開催されている小林静輝展「都市回廊」なのだが、同時にプレイスMでも平行して「都市回廊II」が開催されていたため、まずはプレイスMの方を訪れてみた。
プレイスMでの展示を観た印象は、個人的に好きな作品ではあるものの、なにか腑に落ちないというか、行間に感じられる抑制されたなにか、であった。それは、作家自身が「あえて無難にまとることを選択した」かのような抑制であり、もうひとつの展示におけるガチンコ勝負を十分に予感させるものであった。


果たせるかな、ニコンサロンにおける展示は、まさしくガチンコ勝負そのものだった。
意表をついた展開と仕掛けで(特にプレイスMでの展示を観た後では)、自分なんぞは一撃でノックアウトである。まだ展示期間が残っているので、具体的な内容には言及しないが、プレイスMとニコンサロンでの展示が相互に極めてよく補完しあっているのは間違いない。ただ、あえて言えばニコンサロンの展示は写真という世界を超越した位置にあるが、プレイスMの展示はあくまでも写真という世界の内側にあり、写真愛好者へ向けている点が、最も根本的な相違点ではないかと思う。
もちろん、ニコンサロンでの展示だけでも十分に高い水準に到達しているのだが、可能であればプレイスMへも足を運んでほしい。


ニコンサロンを出た後は、コニカミノルタプラザへ足を向ける。こちらのお目当ては2005年度のフォト・プレミオ年度賞受賞発表展だが、いずれの展示も既に観ていたので、半ばお祝いを意を表しに行ったようなものでもある。
ただ、こちらにも意外な要素が皆無だったわけではなく、例えば特別賞に選出されたある展示など、白状してしまうと「作品を観て、初めて展示を観ていたことを思い出した」ような有様だった。とはいえ、自分の写真に対する感性などはたかが知れているので、まぁ意外というのはおこがましい限りなのかもしれない。
そして、おこがましいついでに言わせていただくなら、やはり山方伸写真展「bee fly」の年度大賞受賞は、非常にうれしい意外性に富んでいたといえるだろう。
山方氏の「bee fly」は、写真の世界における昨今の流れといささか距離のある展示だと思っていたので、そもそもメーカー系ギャラリーでの展示が決まったこと自体、非常にうれしい驚きを禁じえなかったし、まして大賞を受けるとは、まったく予想していなかった。もちろん、自分自身も山方氏の「bee fly」は高く評価していたが、同時に写真という世界を超越した位置にある展示だとも思っていたため、写真という世界の内側の人々がどのように受け止めるのか、率直に言って疑問を持っていたのだ。


自分は「写真という世界」と、あたかも確固たる職能集団でも存在しているかのように書くが、当然ながらそのようなものは実在しない。
ただ、写真をこよなく愛好する人々が漫然かつ漠然と意識する、曖昧模糊としていながらも明らかに特定の方向へと収斂される価値観というか、概念上の空間が存在していることは、多くの人々が肯定するところであろう。
そして、この「写真という世界」の内側に属する人々は、まずなによりも写真を愛好し、写真の価値を高め、さらには写真のすばらしさを広めようと、自らが「写真をどれほどまでに愛好し、かつ価値を高めるために努力しているか」を、積極的に発信し続けている。また、同時に「写真は高い価値を備えた、すばらしい存在である」ことを自明としているが、その論拠は往々にしてあいまいで、論拠があいまいであることには極めて無自覚だったりもする。
おそらく、写真という世界の明暗境界線は、写真の有する価値に対して、根源的な疑義を呈することが可能か否か、もっと端的に言ってしまうなら、写真が大好きで写真はすばらしいものだと「無邪気かつナイーブに公言できる」か否か、その点にあるのではないかと思う。


自分は写真を映像メディアのひとつだと捉えているし、その価値判断については、まったく何の関心も持っていない。
そして、写真作品についても「写真は高い価値を備えた、すばらしい存在である」ことを自明としているものより、作家自身が写真という存在の価値に対して、心ひそかに疑問を抱いているかのような作品のほうを愛好し、かつ肯定的に評価している。


写真という表現手段を選択しながら、作家自身が「写真は高い価値を備えた、すばらしい存在である」ことを自明としないのは、ある意味で自己否定にさえつながりかねない危うさを秘めているし、少なくとも「写真は高い価値を備えた、すばらしい存在である」ことを自明としている人々から疎外されるリスクを背負うこととなる。
そのような危険を冒してもなお、既に形成されている世界の価値観を超え、新たな世界を拓こうとする人々に対して、自分は心から敬意を表したいと願うし、また自分もそうありたいと心がけているのだ。


2回目の展示

2006-07-18 23:11:46 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

事務所のマシン配置が悪いためか、自分のデスク周辺だけ妙に暑い。
先日、2機目のサーキュレーターファンを配置して、ようやくまともに仕事が出来るようになったが、それまではバトルメックのコクピットかと思うほどに蒸し暑く、しかも電源容量の関係からクーラーユニットをこまめに調節しなければならないという、文字通りのメックウォーリアー状態だったのだ。
しかし、そうは言ってもメックウォーリアーよろしく「パンツいっちょにボディアーマー」で仕事をするわけにもいかず、これからどうなるのか本当に恐ろしい。


さておき、今日はちょっと早めに仕事を切り上げ、いつものように金村ワークショップへ向かう。


梅雨時であまり撮影できていなかったこともあり、今回はこれまでに撮影したカットの再検討ということとなったのだが、半年後に2回目の展示を控えているため、当然ながら話題の中心は来る展示の内容となった。


だが、またしても点数を絞った展示にすることもあり、これまた意外なほどすんなりまとまってしまう。
もちろん、まだまだ不確定要素も多々あるし、今後の撮影によっても変動する可能性はあるのだが、そうは言ってもひとつの形が出来たのは本当によかったと思う。


さて、今度は実寸でのテストプリントと行きましょうかね。


追伸
前回のエントリーでニコラ・ペルシャイトについて揶揄的に触れたが、知人より最近の実勢価格は急落していることを教えられた。
まぁ、自分にとってのニコラ・ペルシャイトは基本的に『楽園通信社綺談』のあいつで、伝説のポートレートレンズではないのだけど、キャラのモトねたはもちろんレンズだ。
作品の端々にも現れているが、作者の佐藤明機氏は写真にも非常に詳しく、またご自身のWEBサイトにもナイス画像を時々アップされているので、興味のある方はぜひともチェックしてほしい。


二伸
前回のエントリーでニコラ・ペルシャイトについて揶揄的に触れたが、現ユーザー諸氏を「ニコラユーザーであることのみを理由として」否定的に捉えたり、ましてや批判するような意図はまったくないと明言しておく。
ちなみに、含むところの無いことを示すという意味も兼ねて、WEB上でニコラ・ペルシャイトに関する情報を積極的に発信しておられる「Atelier Musee Ohtake」の、該当するエントリーにトラックバックを送信しようかと思ったが、なぜかトラックバックURLやコメント欄が見当たらなかったため(非表示にしているものと思われる)、この場を借りて意見表明するにとどめる。


私性からの跳躍

2006-07-16 23:51:15 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

やらねばならないことは山積みなのだが、合間を縫って福居伸宏氏と宮内克彦氏の二人展「と ま れ 、み よ」を鑑賞する。
会場となったgallery Archipelagoは新川の表通りからちょっと入ったところにあり、日曜の夕暮れ時には人影もほとんど見当たらなかった。


昨日が初日でオープニングパーティーだったのだが、残念ながら仕事の関係で参加できなかった。とりあえず、本当にささやかさ差し入れを持参し、両氏にご挨拶をさせていただく。
両氏とも金村ワークショップの受講生であり、旧知とは行かないまでも既に見知った間柄だったため、何とはなしに互いの制作状況や展示の準備などに関する話をしつつ小1時間ほどだらだらすごし、会場を後にしたのは閉廊時刻が迫った19時少し前だった。


両氏の作品について、自分が賢しらにあれこれ言うのもいささかおこがましい話ではあるのだが、あえて言うならば「私性を完全に超越した視線」に、否応無しに引き寄せられ、絡み捕られてしまったというか、それほどまでに深いレベルでの共感を得た。


私性といっても、自分は作家性と別次元の概念だと捉えている。


ただ、私性と作家性を同一視して、作品によって私性を主張することが作家の務めであるかのように活動している人々も数多く存在しており、またそのような考え方が一定の支持を得ているのは事実だ。かつて流行したガーリーフォトなどはその極端な事例だと思うが、自分はいわゆるクラシックカメラブームやロモブームでもまた、私性と作家性の同一視が前提となっていると思う。


既にスーザン・ソンタグの論考にも軽く触れられているのだが、作家や写真愛好者には特定の機材(それも、大半の場合は使い勝手の悪い旧式機か、性能の劣る大衆機)や感材を使うことにプライドを持つというか、機材によって他者との差別化を図る人々が少なくない。いや、少なくないどころか、そのような考え方は、写真の世界全体に蔓延しているといっても過言ではなかろう(HIROMIXとBigMiniのエピソードを持ち出すまでもなく、いわゆるガーリーフォトを代表する作家たちの中にも、機材や感材に対するフェティッシュなこだわりを隠そうともしない人々は少なくない)。
もちろん、そのような考え方は私性と作家性の同一視と極めて容易に結びつくし、そこから作品、あるいは「機材」を利用して私性を主張することまでは、ほんのわずかな距離しかないのだ。


自分自身をも含め、特定の機材や感材に拘泥する人間は、ほぼ例外なく「自己の作家性を表現するためには、その機材や感材が必要なのだ」と主張するが、ほぼ例外なく「特定機材や感材を使いたいがために、作家性なるものをでっち上げている」に過ぎない。
ただ、それでも私性と作家性とを峻別しているのであれば、破滅的な事態は避けられるのではないかと思う。


もし、私性と作家性を混同したまま機材や感材に拘泥し始めたならば、機材や感材によって私性を主張することが作品のテーマとなり、作品製作の目的になってしまうのはほぼ間違いないし、つまるところ本人の承認欲求を満たすためだけの作品が世の中に垂れ流されることになるのだろう。


まぁ、たとえ1台9千円のホルガだろうが、あるいはかつて1本100万円したこともあるニコラ・ペルシャイトだろうが、作品観るほうには機材関係ないやんって、正直そうおもうんやけどねぇ…


うごかないとり

2006-07-09 23:19:06 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

諸般の事情から、微妙に取材もかねて上野動物園に行く。
来園時間が遅かったこともあり、お目当ての象は既に運動場から舎内へ引っ込んでいた。ただ、おかげで給餌時間に引っかかったらしく、退屈そうに草をほおばる象の姿を観ることができたのは、さて幸運というべきか不運というべきか?
とりあえず、なんとか最低限の情報は入手できたし、適当にハシビロコウでも観て時間をつぶそうかと思っていたら、かなり場所が離れていたため、たどり着いたことには閉園放送が流れていた。
時間をつぶすまでもなく、あわただしく動物園を後にすると、そのままPLACE Mへ向かい、瀬戸正人写真展「numa」を鑑賞する。
展示最終日の閉廊時間ぎりぎりという、なかなかあわただしい時間だったが、それでも非常に収穫が多く、行ったかいがあったと思う。


瀬戸氏は昨年はじめにもPLACE Mで個展「picnic」を開催し、展示作品は昨年末に写真集「picnic」として出版されたほか(同時に出版記念写真展も開催されている)、同年秋には個展「あの頃、1980」も開催しているが、今回の展示はそれらのいずれとも全く異なる、非常にシリアスでストレートな風景写真といえるだろう。
まぁ、こんな通り一遍の形式論はさておくとして、個人的に強く印象付けられたのは、作家の高度な自制心というか抑制された態度と、二重の意味で卓越した技巧だった。特に対照的なのは、個展や写真集「picnic」で示された「被写体に寄せる粘っこい目線」や、ある種の愚直さとでも言うべき「不器用な制作姿勢」が、今回の「numa」展ではほぼ完全に抑制されていたことだ。
まぁ、大いに抑制されてはいるものの、それでも作品には被写体に対する「どことなくフェティッシュな感覚」がにじみ出ているといえなくもないし、その部分は瀬戸正人という作家の基礎をなす部分でもあろうと思う。だが、逆にそれだからこそ抑制的に表現されていることは意外だったし、さらにリー・フリードランダー的な計算づくの技巧を感じさせられたことは、個人的にそういう技巧と距離を置く作家だと思い込んでいただけに、軽い衝撃を受けさえした。


撮影と暗室作業の両面について、瀬戸氏の技術が非常に優れていることは多くの人々に知られているが、作家として「様々なテーマを器用にこなす」技巧も備えていることを、本当によく理解させられた。もちろん、瀬戸氏は様々なテーマをそつなくこなす、多芸多才な作家でもあるのだが、そこにはある種の変体性というか、作家の欲望が常に存在していたと思う。
だが、今回の展示は「欲望をあからさまにしない技巧」が表現されており、作家的計算高さという瀬戸氏の側面を観ることができたという点で、無理やり時間を作っただけのことはあると、思いかけず知人に遭遇できた点も含め、動いてるハシビロコウをみたような、そういう非常に得した気持ちにさせられた。


欲望の焦点

2006-07-03 23:42:30 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

久しぶりに、金村ワークショップに参加した。
諸事情により「イマーゴ」へ移転してから、今回が最初のワークショップとなったのだが、基本的な雰囲気はまったく変わっていなかった(まぁ当然といえば当然か)。


昨日、プレイスMで焼いたプリントを持参したのだが、露骨に色彩表現の差があったため、ちょっと珍しいことに機材話が盛り上がった。
とはいえ、基本は作家志向の強い集まりなので、カメラ関係のオフ会などとは比べるべくも無いのだが、カメラが無くては写真も撮れないわけで、やはりそれなり以上に機材への関心は深い。


でまぁ、ひとしきり機材関連の話が続いた後で、テストプリントの検討に入ったのだが、色彩の話はまぁさておくとして、金村氏から「作家の欲望が見えない」と指摘されたのは興味深かった。ちょっと説明しづらいのだが、画面の中から「この要素をみせてやろう」的なポイントが浮かび上がってこないということで、それでいながら「単に乱雑な画面」というわけでもなく、きちんと画面を構成していながら「作家の欲望を抑えている」として、そのことを肯定的に評価されたというわけだ。
ただ、特に最近の自分は作品に対して「写真という形式的要素を可能な限り薄め」つつ、さらに作品から史実性や芸術性、ひいては審美的価値さえも取り去り、純粋に「現実を表現する」ことに傾斜しているため(もっと平たく言えば、ベンヤミンにかぶれているため)、この評価は純粋にうれしかった。


もしもアウラを捏造したければ、それは「美しい写真」や「創造的な写真」に任せておけばよい。
また、最新の機材を適切に用いるなら、誰でも簡単に「美しく、創造的な写真」を撮影できるし、もし撮影に失敗してもプリンターが何とかしてくれる(だからこそ、多くの写真家は「通常の価値観では美しくないとされるものを、あえて美しく撮影する」のだ)。


自分は、カメラという機材を通じて、あらゆる事物の外側に立ち、一切の情緒も思惑も突き放したところから、冷たく被写体と向き合う。
なぜなら、そうすることによって、感情もエゴも捨てて冷たく被写体を抱きしめることによって、はじめてソンタグの指摘した「撮影という行為の攻撃性」から、被写体を解放することが出来るのではないかと、そう信じ始めているのだ。


イカス奴

2006-07-02 23:21:44 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

セレソンの帰国は残念だったけど、自分はジダン好きだから、まぁ満足しているよ。
それよか、ツール・ド・フランス大変なことがおきてるんだけど(しかも、この問題はさらに広がる気配)、日本じゃほとんど報じられてないね。


さておき、今日は久しぶりにプレイスMで暗室作業を行ったのだが、どうも調子が出なかったため、コンタクトと最低限のテストプリントのみで、早めに切り上げて駅へ向かった。
いつもと違ってメーカー系のギャラリーがクローズする前だったので、せっかくだからちょこっと観ていくこととしたが、特に好みの展示があったわけでもなく、基本的にはスルーという有様だった。


ただ、ニコンサロンで元田敬三展[路上のこと]を鑑賞していたとき、ふらっと「どう見ても写学生風じゃないイカス人」が入ってきて、熱心に作品を観ていた。
ぶっちゃけ、ニコンサロンでイカス人を見るなんて、ほとんどありえないと思っていただけに、激しい衝撃を受けた。


ニコンサロンでの展示でありながら、ふらっとイカス人が入ってきて、作品を鑑賞していく。
このことが元田敬三という作家の作家性を、最も端的に表現していると思う。