Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

神話を解体するという神話

2007-07-31 19:26:40 | 業務関連


今日は晴れるかと思っていたが、午前中はずっと曇っていたため、撮影は断念して事務所へ向かった。
事務所では、取引先の編集者氏と新規創刊された雑誌についてあれこれ話したり、現在の市場動向についてお互いの考えを確認しあったりしたが、その中でキーワードとして浮かび上がってきたのが「神話」であった。



ただ、神話といっても、古くから伝わる神話、いわゆるMythosでは無く、以下のような定義に基づく、いわば社会学的な文脈における「神話」である。



特定の文化的背景を共有する社会集団において広く流通し、好んで信じられている不合理かつ人為的な概念あるいは価値観を指す言葉としての「神話」



例えば、かつて存在していた「日本人は勤勉だ」とか「日本は階級差別の無い、中流社会だ」とか、あるいは「日本は単一民族国家だ」とかいった類の事実関係に基づかない、いわば勝手な思い込みを指すと思っていただいてもほとんど間違いはない。用法としては「土地神話」とか「不敗神話」がそのものずばりだが、研究書や資料では「神話的」という形容動詞用法が多いかもしれない。
また、最近流行の都市伝説やまじない、占いなどもその範疇に含まれるが、特定個人や小集団を対象とするものではなく、基本的に国家や地域、世代といった規模の大きな集団を対象とする、あるいは大きな集団内で流通する点が異なる。先の例で言うと、口割け女人面犬といった個々の都市伝説を取り上げるのではなく、例えば「都市伝説という神話」と言う包括的な扱いになる。



人間の行動や思考は必ずしも合理的といえないどころか、むしろ不合理な行動や思考の中に「時折合理的な行動や思考が混ざる」といったほうがよいほどで、よほど気をつけて自らを律し続けていない限り、合理的な行動や思考を継続することは難しいといってもよい。それは、ほぼ間違いなく行動や思考の基準が合理性の有無ではなく、当人にとっての「快・不快」が基準となっているためだ。
また、だからこそ人間集団には個人の不合理な行動や思考に外部から歯止めをかける仕組み、代表的なところでは各種の法令といった社会的装置が必要なのだといえよう。



恐らく、最も流布しているもののひとつが「民族という神話」だと思うが(その次が「ジェンダー」という「神話」か)、民族については「人類の大多数が好んで信じている」点と、民族を自認する「特定民族集団内の個人」にとっては、民族という価値観に一定の合理性が見受けられなくも無い点から、必ずしも神話とは呼べないという批判もある。ただし、これは民族という日本語にネーション(nation)とエトノス(ethnos)という、異なる概念が混在されていることに起因するものといえる。とはいえ、この点について突っ込んだ考察をすることは自分の手に余ることなので、文献資料の引用でお茶を濁しておくよ。



人間を分類する自然で神与の仕方としての民族(nation)、ずっと遅れてやってきたが生得の政治的運命としての民族(nation)、それは神話である。ナショナリズムは、時に先在している古い文化を取り上げて、それらを民族(nation)に変えて行くこともあるし、時にそれらを作り上げることもあるし、しばしば先在文化を完全に破壊することもある。よかれあしかれ、それが現実なのであり、一般的に不可避の現実なのである。
『民族とナショナリズム』ゲルナー 加藤節 監訳 p82-83 岩波書店2000原著1983(内は引用者による付記)
ただし、日本ではベネディクト・アンダーソン白石隆・白石さや 訳『想像の共同体』1987リブロポート・1997NTT出版(Benedict Anderson : Imagined Communities 1983)がずっと先に紹介されていたこともあって、ゲルナーの言う神話性よりは「想像の政治的共同体」(imagined political communities)という言葉や概念の方が流通しているように思える。原著刊行年は同じなんだけどさ。

ずいぶん派手に脱線してしまったが、ここで問題となったのは民族がどうこうというものではなく、最初に説明した「神話」をいかにして商売に結びつけるか、また「その具体的な方法はいかなるものか」だった。



もちろん、この場で具体的な話は出来ないのだが、つくづくうんざりさせられたのは、人々が極めて強く「神話」を求めていることであり、また「自らを心地よくさせてくれる神話」に対しては、時としてかなりの対価を支払うこともあるという事実を改めて確認したことである。



ぶっちゃけ「神話」は「アウラ」とほぼニアイコールの概念なので、まぁおおかたそんなこったろぅとは思っていたものの、そうは言っても個人的に面白くないということに変わりはない。それこそ「快・不快」の問題だ。



そのため、商売抜きで「自分のため」になにかやるときは、もちろんこの忌々しい「神話」なり「アウラ」なりを、いかにして解体、あるいは破壊するかがテーマとなるし、そのための手段として現代美術であり写真を選択している。だが、その現代美術が既に「神話」と化しつつあり、また写真も「アウラ捏造の道具」から離れることは無かったというのが、残念ながら偽らざる現状でもある。



そもそも、神話を解体するという思考そのものに「神話の存在を自明としている」側面があり、また神話という不合理な存在を解体するという行為そのものも不合理なため、いうなれば「神話を解体する神話」というある種の「メタ神話」に過ぎないという批判もある。



ごせつごもっとも



とはいえ、その「神話を解体するという神話」ってぇのが「自らを心地よくさせてくれる神話」は間違いなく、文字通りの意味で「快・不快」の問題なんだよなぁ~って…



あっででぇ~?
おかしいぬぅ~

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

将門は首塚でナニを監視するのか?

2007-07-28 19:07:07 | 展示準備2007年10月


前日の予報に反して好天に恵まれたため、早起きして撮影に出かける。残念ながら、現地へ着いた段階では既にヘイズがかかっており、期待したほどヌケは好くなかったが、それでもシートフィルムを10枚消費した。



時おり薄い雲が太陽を隠すような天気だというのに、なぜだかやたらめったら暑かったので、近所の将門塚で少し涼むことにした。ご存知の方も多いかと思うが、将門塚には古くから様々な伝承があって、神田明神氏子をはじめとする多くの人々から厚い信仰を集めている。そのためか、この一角だけは真夏でもやけに涼しくて、一息入れるにはちょうどよい場所なのだが、今日は数人のおじさんが何事か祈ったり、周囲を掃除したりしていて、とてものんきに涼むどころではなかった。
自分は将門信仰に価値を見出していないのだが、信徒が線香をたいて掃除しているのを邪魔するほど野蛮でもないので、仕方なく退散しようとすると、縁起を記した看板のそばに、以下のような注意書きを見つけた。



監視カメラ作動中



将門公よ、そこまでせんでもえぇやん。



よく観ると、奉納されているがまにも、どうも見慣れないやつらがいる。増えたのか、あるいは入れ替わったのか、将門には蝦蟇がつき物なので、どなたかがまた奉納されたのだろうが、この調子では将門塚が蝦蟇の置物に占領されてしまうような気もする。いずれにせよ、どいつもこいつも愛嬌あふれるというか、ありていに言って可愛い置物なので、できればもっと増やしていただきたいところだ。



そういえば、将門塚は東京都指定文化財から外されるという話もあったのだが、いつの間にか立ち消えとなったらしく、今でも都指定文化財として登録されている。まぁ、そもそも実証主義に偏りすぎて、伝承の類に歴史的価値を認めようとしない姿勢については、かなりの批判を浴びていたようだし、もちろん将門信仰に帰依している方々が猛反対したのは想像に難くないところから、立ち消えになっても当然といえば当然ではある。
むしろ、将門塚の指定解除を答申した検討委員会のメンバーに、怪異な災いが降りかかったりしたとかしないとか、そういう都市伝説のひとつくらい出来ていないのが不思議だ。



さておき、いったん帰宅して展示用の資料をまとめ、表参道画廊へ向かう。
画廊のスタッフと資料の確認をし、告知についてもお話をうかがう。
さて、告知資料が各方面へ配布されてしまい、本当に引っ込みがつかなくなった。写真作品の場合、完成しないということはマズ無いのだが、作品の質が極めて低くなってしまうことはたまにある。下手に撮影が終わっていると、むしろ侮ってぎりぎりの日程を組みがちなので、その点は本当に気をつけないといけないな。



来月からはポストカードのデザインにも取り掛かるし、いよいよ本格的な準備作業が始まるよっと。

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

一見さんお断り?

2007-07-25 21:45:02 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日も昨日と同様に朝からよく晴れて、梅雨明けを思わせる天気だったが、この好天は安定しないらしい。
それでも天気がよいのは気持ちがよく、今日は機材をメンテに出すついでに、例のごとくギャラリーへ行ってみた。



まず、表参道画廊浅見北斗個展吉田愛展を鑑賞させていただいたが、どちらも現代美術の現在(っちゅうと変な表現だな)というか、美術のモードを伝えてくれる、非常に興味深い展示だった。浅見氏の展示は大きく異なるふたつの要素を、あえて「整合性を提示しないまま」ぶつけたという印象を持ったが、空間の構成は非常に気持ちよく、なかなかに楽しむことが出来た。



吉田氏の作品は非常に高い技術に裏打ちされた、偶然性と作家的な意図との程よい組み合わせが心地よく、中心となる作品に全ての作品が収斂していく構成が、よい意味で鑑賞者に親切な展示だったと思う。作家氏ともいろいろお話をさせていただいたのだが、履歴に裏打ちされた確固たる姿勢で製作しておられ、今回が初めての個展とはとても信じられなかった。



表参道画廊を後にして、とりあえずメーカーのサポートセンターへ向かったのだが、平日のせいか比較的すいていた。ところが、ひとりしか待っていないはずなのに、なぜかちっとも順番が廻ってこない。ふとカウンターを見たら、老人が担当者を捕まえて延々話しこんでいる。
こうなると話の内容まで気になるのだが、案の定というかなんと言うか、やはりどうでもいい話しを繰り返すばかりだ。老人の暇つぶしに付き合わされる担当者も気の毒だが、待ってるこっちもたまったものじゃない。



メーカーのサポート担当に失敗写真の文句をつけても、写真はちっとも上達しませんよ。
カウンターにひじを付いてよろよろしてるようじゃ、いくら手振れ補正つきカメラでも写真はぶれますよ。



などと、つい心の中で突っ込みを入れるものの、いくらなんでも口に出すわけにもいかず、ただフラストレーションがたまる。やがて別の担当者が現れ、検査を依頼してしばらく待っていたが、中に調整が必要なものも見つかった。この場で調整は可能だが、半日近く必要との事。
仕方ないので四谷付近まで出かけ、自主写真ギャラリーをはしごすることとした。



四谷から新宿にかけては数多くの自主ギャラリーが存在していて、こゆい写真マニアの中では非常に良く知られているのだが(そのために上京する写真作家志望の人すらいる)、一般の人々には全くといってもよいほど知られてないし、いわゆるフツーの写真好きですらせいぜい雑誌かなにかで名前を知っているぐらいだろう。



こうなってしまった理由はいくつか思いつくが、まずなにより存在そのものがまだまだ知られていないし、さらに「知っているけど、敷居が高くて行く気になれない」というものもある。
この、敷居が高いとか高そうという感覚はなかなか厄介で、しかもある意味では「事実」でもあるだけに、解消できるかどうか、そもそも解消しなければならない問題なのかどうかさえ、自分にはなんとも言いがたいところがある。



自分は日本画とか焼き物、浮世絵などに代表される、日本の伝統的な美術を扱うギャラリーをあまり知らないのだが、販売がメインのギャラリーとなると、やはり相当に敷居が高いし、ギャラリーの側でも意図的に敷居を高くしている部分がある。これが骨董を扱うギャラリーとなるともはやお店といった感覚で、なぜギャラリーと名乗るのかさえ分からないが、いずれにしてもこの種のギャラリーは、作品に対する姿勢が自主ギャラリーや貸画廊とは全く異なるので、とても同列に語ることは出来ない。



自主ギャラリーや貸画廊の敷居が高い理由はいくつかあるが、まずギャラリーの外見というか入り口が問題というか、場所が分かりにくいなんてのはまだ可愛いほうで、現代美術や写真系のギャラリーではほとんど反社会組織のアジトのようなところすら少なくない。その上、展示の告知にもいささか問題があって、ろくすっぽ告知しないところもなくはないのだけど、それよりも告知のメインターゲットが美術メディアと他のギャラリーというところだろうね。
もちろん、これでは既に現代美術へ興味を持っている人にしか届かないのだけど、実はその方が関係者全員にとって都合がよいという部分もあり、これまたなんとも言いがたいところではある。なにしろ、ギャラリーといってもビルの一室がほとんどで、こぎれいなPCパーツショップの方がまだマシといったところすら少なくない。ある程度はギャラリーの実態を知っている人間でさえ、時には「おいおい」と突っ込みいれたくなるギャラリーもあるぐらいだから、下手に多くの人を集めてしまうと、ギャラリーのオーナーさんが困ったりしかねない。



そして、もしかしたら少々ギャラリーの敷居が高いぐらいの方が、作家自身も安心できるかも知れないところも含めると、敷居がどんどん高くなる一方になってしまう。もちろん、本当に鑑賞者を排除してしまったら意味無いので、もう一方ではより開かれたギャラリーを目指す試みも様々に行われているのだが、あんまりうまく行ってるようには思えないしなぁ~



個人的には、現代美術ってオタクの世界と同じように、同じ趣味を共有する(できる)人々だけで形成される、ある意味ではひどく閉じた世界だと思うから、開かれた世界を目指すというよりも「世界の隙間」をいかに確保するかが大事なのではないかと思う。もちろん、オタク的な閉じた世界内での息苦しさはあるし、それがまた別の問題を引き起こすことも承知はしてるんだけど、開かれた世界の胡散臭さの方がより問題だと思うんだよねぇ~



とはいえ、流石にギャラリーの敷居は、もう少し低くしたほうがいいと思うよ。



最後に、注目すべきと思った展示を、駆け足で紹介していこう。
ます、ロータスルート・ギャラリーの下平竜矢展「愚かさの証明」だが、地域の祭事をテーマにしていながら、作品に「ハレ」の感覚が全く感じられず、かといって祭事に対して冷ややかな目線を注ぐわけでもなく、ただあるがままを撮るという非常に難しい作品に挑戦し、そしてかなりの成功を収めている。個人的にこの種のポートレートは苦手なのだが、好き嫌いを超えて評価すべき展示だと思う。



次に、photographers' gallery大友真志写真展「mid field」だが、沼地広がる名も無き植物の群落を、画面を覆うテクスチャとして提示したところに、なんとも写真的な面白さを感じた。出身地である北海道の原野を撮影しているのだが、ある意味で二重においしい被写体にもかかわらず、それをただのテクスチャとして消費してしまうあたりに作家の鋭さや、写真という表現手段に対する理解の深さを感じた。ただ、このギャラリーは照明にいささか問題があり、特に大友氏のような作品を鑑賞するには、正直言って不向きだと思う。



最後に、ガレリアQで開催中の齋藤大輔写真展「sight seeing #1 #2」を紹介するが、こちらは正統派のランドスケープで、観ていて本当にすがすがしいというか、思い切りのよさが作品に表われている。個人的に好きな系統の作品なので、いささか甘い目線を注いでいるかもしれないが、まぁ好きなものは好きなんだから仕方ない。
出来れば、作品の持つディティールの濃度や、濃密な中に軽やかさのある、手持ち撮影ならではの感覚を味わって欲しいと思う。



さてと、サッカー観に帰るか!



浅見北斗 展
会場: 表参道画廊
スケジュール: 2007年07月23日 ~ 2007年07月28日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469 ファックス: 03-5775-2469



吉田愛 展
会場: ミュゼF
スケジュール: 2007年07月23日 ~ 2007年07月28日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469



下平竜矢 「愚かさの証明」
会場: ロータスルート・ギャラリー
スケジュール: 2007年07月24日 ~ 2007年07月29日
開廊時間: 12:00-19:00
住所: 〒163-0004 東京都新宿区四谷四丁目22 第二富士川ビル1F
電話: 03-3341-9341



大友真志 「the middle」
会場: フォトグラファーズギャラリー
スケジュール: 2007年07月21日 ~ 2007年08月09日
住所: 〒160-0022東京都新宿区新宿2-16-11-401
電話: 03-5368-2631 ファックス: 03-5368-2361



齋藤大輔 「sight seeing #1 #2」
会場: ガレリアQ
スケジュール: 2007年07月21日 ~ 2007年07月30日
住所: 〒160-0022 東京都新宿区新宿3-8-9 新宿Qビル4F
電話: 03-5269-5230 ファックス: 03-5269-5230


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

ようやく一段落

2007-07-22 21:18:57 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


本当にやっとこさっとこ原稿を仕上げ、ヨウヤク休日らしい週末を迎えた。うれしいことに、朝方まで降っていた雨も上がり、雲間からちらちらと日もさしている。天気が少しでも回復したら良いなと思って、昨夜の間に撮影準備をしていたのだが、どうやら無駄にはならなかったようだ。
とはいえ、天気予報では小雨に注意とか言ってるし、とりあえずさっさと出かけて撮るもの撮ってしまうこととする。



週の初めに撮影した現場で再挑戦したのだが、今度はもう少しマシになったのではないかと思う。ここでもまた、警備員がしゃしゃり出てわけのわからないことを抜かしていたが、今日は公有地から撮影していたので恐れる必要は何も無い。とりあえずシートフィルムを10枚消費し、ちょっといい気持ちで帰り支度を始めたら、そういうときに限って雲がきれて太陽が顔を出しやがる。



まぁ、世の中そういうもんだとあきらめて帰宅するものの、なんとなく不完全燃焼だったのでまた出かけることとした。



流石に、今度は小型1眼レフ2台で押さえたが、それでもあてなくうろつくにはちょっと重い。
たまっているDMをめくってみたら、中野のenji galleryで藤巻いづみ写真展「アンバランス vol.2」が最終日を迎えているということで、またぼちぼちと出かけてみた。



実は、5月にも藤巻氏の個展を鑑賞させていただいているので、今回はどうしても前回との比較というか、ナニが変化して、ナニが変化しなかったのかに興味が向いてしまうのだが、そうなると今度は「これからどうなっていくのか」にも興味が及んでしまい、目の前にある作品を素直に観ることができにくくなる。結局、作家氏本人ともそれに類することを話して、今日のところはギャラリーを後にしたのだが、こういう「現在進行形の作品」を評することは本当に難しいと思う。



また、いくつかのブログやWEBサイトで言及されているように、ギャラリーは非常に「イイ」雰囲気なので、そういう部分も含めてかつての写真同人とか、自主ギャラリー的なあれこれがお好きな人には、強力にお勧めしたい場所でもある。ただ、個人的にはいささか雰囲気がありすぎて、作品が空間負けしそうな気配もあるのだけど、まぁそこは好みの範囲でしょうね。



結局、ギャラリーへの行き帰りでロールフィルムを2本消費したが、やっぱり藤巻氏のようには撮れないんだよねぇ~


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

あらたなものさし

2007-07-19 17:09:10 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


連休明けからエロゲの収録に立ち会っているのだが、やはり「ただそこにいるだけ」なのは今回も同じだ。ただ、今回はキリのいいところで現場責任者へバトンタッチというシフトなので、邪魔にならないよう気を配りつつおとなしくしている。



本当は収録前に原稿をあげておかねばならなかったのだが、いろいろあって全然間に合っていないため、収録後は事務所へ戻って原稿作業という、なかなかにハードなスケジュールだ。



とはいえ、収録に立ち会うと「なにもしないのになぜか消耗してしまう」ため、事務所へ向かう道すがらニコンサロンへ立ち寄り、展示を鑑賞しながらクールダウンを図ってみた。とはいえ、展示を観るというのはいささか危険で、往々にしてクールダウンどころか「さらに激しく消耗してしまう」こともあり、冷静に考えればかなり危険なことをしていたね。



幸運にも、新宿ニコンサロンで開催していたJui氏の[カフカラス]は控えめな穏やかさの漂う展示で、正しくクールダウンにはうってつけの内容だった。展示されていた作品は、端的に言ってしまうと日常写真の流れに連なるものだが、コンパクトデジカメのモノクロモードで撮影された画像をモノクロ出力したもので、日常の光景でありながら非常に「不自然」ななにかを発していた。



もちろん、デジカメの撮影画像と肉眼視した記憶の光景は、絶対に同一視できないものではあるが、その点は銀塩写真でも同じはずだ。しかし、展示作品には「写真としての自然さ」すら希薄で、どこか「作り事めいたいかがわしさ」さえ感じられた。
恐らく、というかほぼ間違いなく、それはこれまでに蓄積した「銀塩写真の記憶」から生まれる「写真という存在」に対し、これらの作品が決定的に異なるなにかを持っている、あるいはなにかを欠いていることを意味している。だが、その「なにか」については、作家自身もおぼろげにすら把握していないようだ。いや、作家は今回の展示をきっかけとすることで、はじめて銀塩とデジタルとの相違に対して真正面から向き合っているのかもしれない。



本当によく言われることだが、デジタルと銀塩とは全くの別物であり、当然ながら作品の評価基準も全く異なるはずだ。
にもかかわらず、デジタル独自の評価基準は成立途上にあり、デジタルを銀塩の基準でしか評価しない、あるいは出来ない人々が、賢しらにデジタル写真を語っているのが現状であろう。
作家氏とお話をさせていただいた際にも、他の来場者から画質うんぬんといった指摘をかなりされていたようで、その点に関して必要以上に神経質になっているようにも見受けられた。



確かに、作家独自の価値観を重視するがあまり、作品が独善的になってしまうのは問題だが、それでも作品として制作するのであれば、作家としての自律性に重きを置くのがスジだろう。実際問題、多くの人々が単純に美しいと感じる画像、より端的に言うなら「一般受けする画像」にはある一定のパターンがあり、それを丁寧に踏まえてさえいれば商業的には成功しやすい。



例えば、WEBには「もっとも美しい画像(The Prettiest Images)」なるサイトがあり、閲覧者が「ランダムに出てくる画像2枚の好きな方を選ぶ」と、トップページのランキングに反映されるシステムを採用している。ところが、登録画像の数やバリエーションはそこそこあるのに、なぜかトップの変動は少なく、しかも画像の傾向は非常に似通っている。まぁ、投票の公正さを保障しない、単なるWEBランキングといえばそれまでだが、トップにはいかにも受けそうな画像が並んでいるし、やはりある程度の信憑性はあるだろう。



正直、エロゲヲタもこのくらい分かりやすいと話が簡単でいいと思わなくも無いし、ゲームを製作する際には売れ筋を踏まえつつ創造性を確保することに心を砕く。だが、商業性と距離を置いて制作する作家であれば、やはり作家独自の価値観を貪欲に追求して欲しいし、もちろん自分も追及したいところだ。



Jui 「カフカラス」
会場: 新宿ニコンサロン
スケジュール: 2007年07月17日 ~ 2007年07月30日
住所: 〒163-1528 東京都新宿区西新宿1-6-1 新宿エルタワー28階 ニコンプラザ新宿内
電話: 03-3344-0565 ファックス: 03-3344-0566


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

ダーガーと同人作家とゑ炉

2007-07-16 17:48:06 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


前日までの雨がウソのような青空が広がって、文字通りの台風一過となったこともあり、朝から大喜びで撮影に出かけるも、現場到着時にはすっかり曇っていた。半ばやけになってシートフィルムを10枚消費したが、ロケハンにしかなってない。今日はツキに見放されたようだし、さて帰ろうかという段になって知人から携帯へ着信。ひまなら飯でもという話だったので、五反田の韓国料理屋へ向かった。



おりしも原美術館で「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語―夢の楽園」展が最終日を迎えていたため、自分はついでに「見物」してくるつもりだったが、よせば良いのに知人も喰い付いてしまい、むさいオタクが2人で休日の原美術館という、なかなかに激しく場違いな有様となってしまった。



案の定というかなんと言うか、知人の反応はドン引きに近いものだったため、自分はさっさと分離して足早に会場を廻った。来るたびに思うことだが、原美術館の鑑賞者はほんとにおしゃれな人が多く、それも美男美女がそろっているので、別の意味で非常に敷居が高い。まぁ、おしゃれといっても全てに肯定的な意味を持つものでもないが、少なくとも現代美術関係者や作家が往々にして放つ「やさぐれ感」や「攻撃性」とは無縁そうな、いかにもアモアム読者や「根岸崇一」のような人々をたくさん見かけた(そして代官山ならぬ御殿山おしゃれファックをキメルのだろう)。



その後、一通りの作品見物と人間観察を終え、再び合流したら知人はすっかりお冠だった。けっこう足早に廻ったつもりだったが、それでも意外に時間をかけてしまったのかとも思ったが、どうやら全然違っていたらしい。



結論から言ってしまうと、知人は単純素朴に「ダーガーがげーじゅつなら、ゑ炉同人はなぜアートじゃないのか?」という疑問を抱き、そして美術館に集う「おされな鑑賞者たちが口々に賞賛の言葉を述べている」ことに対して、だんだん腹が立ってきたということらしい。



大丈夫!自分もその点には腹立ってるから!



なまじダーガーの絵柄が萌えっぽく、また設定から濃厚なミリヲタ臭が漂うところや、小説と称される文章がTRPGの設定ヲタが書き散らしたような代物に過ぎない点もまた、オタクの嫌なつぼを激しく刺激するのは間違いない。ただ、そのボリュームは「正しく狂気の産物」に達してるのだが、それなら奈須きのこだって芸術的大作家になってもおかしくは無かろうと思う。



種明かしをしてしまうと、ダーガーはネイサン・ラーナーという紹介者を得たことが、現在における芸術的評価につながっているわけで、また今回の展示はラーナーの存在にも光を当てているところが「肝」なのだが、まぁその辺のあれこれについては専門家による解説がなされているので、自分などがこの場でどうこう言うようなものでもないだろう。



知人にはどうにも辛い思いをさせてしまったが、おかげで村上一派がげーじゅつ扱いされる理由や、また「ゑ炉」がげーじゅつとして生き残りを図っている状況について、それこそ「皮膚感覚で理解」してもらったのはありがたかった。



これから「炉」をやりたいなら、がんばって「げーじゅつ」として売り込むしかなかろうよ。
まぁ、自分は「熟」が好きなので、そっち方面はパスだけどな。



「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語―夢の楽園」展
会場: 原美術館
スケジュール: 2007年04月14日 ~ 2007年07月16日
住所: 〒140-0001 東京都品川区北品川4-7-25
電話: 03-3445-0651


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

芸術の証明

2007-07-13 17:28:21 | 業務関連


昨日の午後に成果物を引き渡し、ヨウヤク一息ついた。とはいえ、企画そのものはまだ完了していないので、自分の立場では達成感がどうのという感覚も無い。むしろ、作業者の方々にはずいぶん無理をさせてしまったし、もうちょっとなんとかならなかったのかという、後悔というか作業の進め方に対する反省の念を強く持った。



まぁ、それでもある程度の目処が立ったのは確かなことだし、担当者とのやり取りにも軽口が混ざる。
中でも面白かったのは、今回の事態を引き起こした張本人とのやり取りを確認した際、その人物が「アーティストであること」にこだわっていたことが、自分と担当者の記憶や記録から改めて明らかになったことで、正直言って2人とも失笑を禁じえなかった。



美術方面の方々には「アーティストであること」にこだわるといってもピンとこないかもしれないが、言い換えるなら「芸術家であること」にこだわっているのだ。いや、まだピンとこないかもしれない。
なぜなら、美術分野では作家として作品を制作すること自体が「芸術家であること」の証明であり、作品を公開してもなお「芸術家であること」の証明を求めるというのは、非常に考えにくい事態とさえいえるであろうからだ。



むしろ、美術分野では「芸術家ではない」と表明することの方が目に付くし、特に現代美術の世界では作品を公開しつつも「旧来の芸術なりアートといった価値観、概念との距離感」を作家自らがどのように捉え、かつ対外的に表明するのかが、作家にとってはひとつの大きな課題となっているともいえよう。だから、作家がわざわざ「アーティスト」とか「芸術家」といった表明をすることや、ましてそういう肩書きにこだわるというのは、それ相応の作家的戦略性に基づいた行為とみなしてしかるべきなのだ。



もちろん、作品や作家を紹介する際におけるひとつの惹句や方便として、あえて「アーティスト」とか「芸術家」といった単語を用いることはよくある。だが、そういった場合においても「何気なく見過ごしている日常の風景を、作家独自の視点で切り取り、芸術作品とした」なんて紹介をされた日には、作家自身が凍え死んでしまいかねない。少なくとも、自分がそういう紹介をされたら、恥ずかしくて展示会場には足を踏み入れられないだろう(もちろん、それが「ネタ」だったら話も変わってくるがね)。



ともあれ、作品を世に問ういているにもかかわらず、それでもあえて「アーティスト」とか「芸術家」と自認することは、やはりいささかトリッキーな行為だと思うし、作者自ら作品を「アート」とか「芸術」と称して恥じないというのは、ほとんど喜劇的なまでに恥ずかしい行為だと思うんだよな。



えっ?
村上隆の名刺には「アーティスト」と記されていて、電話をかけるときにも「アーティストの村上です」と名乗るって?



それこそ、戦略的にネタを振っているのだよ!
でも、かなぁり恥ずかしいし、やっぱり寒いと思うけどね。


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

ブランド力=アウラ?

2007-07-10 20:51:07 | 業務関連


今日は企画の区切りとなる日だったのだが、目標はまだまだ達成できていない。幸か不幸か、先週末の段階で作業の進捗に大きな問題が発生していることが判明していたので、多少なりとも対策を講じることが出来たのだが、それでも締め切りには間に合わなかったというわけ。



もはや事ここに及んでしまうと作業監督を督励するしか無いのだが、作業監督にしたって作業者を督励しつつ「自らも作業している」わけで、事態はかなぁり凄惨な様相を呈している。ただ、幸いにして企画の流通受けはよく、上げさえすれば後はなんとかなる展開なので、トニカクもうしばらく踏ん張っていただくほかは無い。



とかなんとかてんぱっているときに限って、くだらない割りに厄介な事態が持ち上がるというのは、マーフィーの法則で何番目だったっけ?



自分は直接の当事者でもないので、あまり端的に説明することは出来ないのだが、ぶっちゃけ「製品をパクッテ放流する輩が怪しからんから、なんとかする方法を考えてくれ」というもので、違法複製を阻む冴えたやり方が思いつくくらいなら、他人に教えないでさっさと起業しておるわいというネタだった。



でまぁ、結論から言ってしまうと、ブランド力を強化すれば「違法複製は減る」というのが、自分なりの回答だった。
というのも、自分たちがこしらえているのは娯楽商品であり、製品への評価は機能や利便性よりも「漠然とした神話的顧客満足感」に依拠している。幸いにして、ここで問題となっているのは「個人による小規模複製」であり、海賊版業者による大規模な複製ではない。



そのため、個々のユーザが「偽物を持っててもつまらないから、正規品をちゃんと購入しよう」という気持ちを持てば、その段階で問題は解決したも同然となる。そして、ブランド力の高い商品であればあるほど、個々のユーザは正規品を「本物」として欲しがり、複製品を文字通り「偽物」として忌避し始める。
こういう現象はアップル製品によく観られるのだが、残念ながらエロゲの商品価値はゲームデータという情報にあり、物理的存在では無いため、そのまま当てはめることは出来ない。



しかし、ゲームデータは物理的存在ではないことを利用すれば、個々のユーザに合わせたカスタマイズが可能であり、それによって個々のユーザへ「唯一性、一回性」を備えたゲームを提供すれば、個々のゲームは大量生産品でありながら唯一無二の作品として「礼拝的価値」を帯びるであろう。そうなればしめたもので、ユーザにとって「他のユーザが複製したゲームはアウラを喪失している」から、複製は全く意味を持たなくなるのだ。



しかし、それにしても、だ…



結局、人々はアウラを求め続けるのかと思うと、自分はほんとにやるせなくなってしまう…


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

展示、鑑賞、撮影

2007-07-07 21:35:52 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は雨も降らず、湿気はあったものの比較的涼しかったので、昼過ぎから思い切って撮影に出かけた。
現地に到着したのは2時過ぎだったが、雲間から時折光もさすといったコンディションで、シートフィルムを4枚消費している。



その後、ギャラリー巷房へ向かい、加藤修展と狩野志歩氏のビデオインスタレーション「Candle」を鑑賞する。
加藤氏の作品はメッセージ色の強いもので、ある意味では鑑賞者に深い思考を要求してもいるのだが、声高に作品が訴えかけるというものではなく、作家と鑑賞者が作品を通じて対話することによって、自らの思考を深めてゆくという構成になっていたように感じた。ただ、個人的には階段下に展示されていた作品の方が、純粋に形状と質感の面白さを楽しむことが出来たので、その両面を見ることができたという点でも興味深かった。



また、狩野志歩氏の「Candle」はけれんみの全く無い作品で、ビデオインスタレーションがちょっと苦手な自分も、割とのんびり鑑賞させていただくことができた。鑑賞後、作家氏とお話させていただいたのだが、思えばずいぶんと大きな口を叩いてしまった。技術的な基礎があまりにもしっかりしていたので、多少は予防線を張りながらお話させていただいたので、本当にひどいことは言ってないと信じたいが、外見にすっかり騙されてしまうところだった。
人は見かけが9割なんて、誰が言ったんだ
あぶないあぶないぬぅ~



ギャラリー巷房を出た後、近所のギャラリーQをはしごする。
こちらでは池田路世氏の彩色木彫面を展示していたが、ある種の生々しさを含んだ興味深い作品だった。
というのも、伝統的な面は怒りや悲しみ、笑いといった「感情」や、あるいは役者が演じる「役割」をあらわしており、同じ表情なり役割の面同士であれば、相互に互換可能な存在であったといえよう。また、伝統的な面は基本的に記号化、様式化されており、面によって「人にあらず、役割である」様を表しているといえよう(これは、現代のヒーローものにまで連なる視覚表現ではなかろうか?)
しかし、池田氏の作品は非常に具象的かつ生々しく、役割や表情ではなく、個々の面が人格のようななにかを備えているように思えた。なんと言うか、面というより立体ポートレートといった趣を感じたのだが、果たしてどのように評価されたのであろうか?
もちろん、個人的には評価されるべき作品だと思うのだが、新GalleryQのオープン記念企画である「The Party」展にも出品が決定したとのことなので、ぜひともその目で確かめていただきたい。



でまぁ、調子に乗って四谷のギャラリーRooneeへ向かい、荒多恵子写真展伊良波愛理写真展を鑑賞した。
荒多恵子氏は既に作家としての実績もあり、今回もご自身の表現したいテーマをはっきりと把握されていることが伝わってきた。だが、対照的に伊良波氏の作品にはなんともいえないもどかしさとか、作家自身がどうにも出来ないとまどいというかなんというか、そういうごちゃっとしてはっきりとしない感覚があり、ぶっちゃけ初々しさが濃厚に漂う展示だった。ただ、もう少し展示空間に対する配慮が欲しかったというか、まぁ次回以降はもうちょっと広くて静かな空間を押さえたほうがよいかなとは思ってしまいました。



ここまで来るとほとんど毒皿状態で、そのままPlaceMまで足を伸ばし、斎院真理子氏の斎院真理子 「yokohama hanon」を鑑賞する。作家氏ご本人ともお話させていただいたのだが、非常にそつなくまとまった展示で、技術的にも一定の水準に到達しており、突っ込みどころはほとんど皆無に等しい。会期は明日までだが、オーソドックスなストレートフォトを堪能したいのであれば、時間を作ってでも足を運ぶべきだろう。



最後は表参道画廊へ向かい、大竹敦人氏、下園城二氏、奥村昭彦氏が参加した「Optic Topography・光学的地理A」展と、竹原伸彦氏のビデオインスタレーションを鑑賞した。竹原氏のビデオインスタレーションは、本当にけれんみのかけらも無い作品で、鑑賞しているほうが不安になるくらいソリッドな、こういう表現が許されるのであれば「素体」といっても過言ではないほど、ぎりぎりまでそぎ落とされたミニマルさがそこにあった。というか、本当にそれしかなかった!
繰り返しになるが、自分はビデオインスタレーションがちょっと苦手なので、正直しんどいところも無くはなかったのだが、個々まで潔い作品となると、応援せざるを得ないような気にもなってくるから不思議だ。



また「Optic Topography・光学的地理A」は「Trait d'union 21企画展」の一環であり、今年は写真がテーマになったというわけ。3人展であるにもかかわらず、展示としての一体感というかハーモニーのようなものがあり、それぞれの作家が相互補完的に作品の意味性を高めているところは見事だろう。いずれにしても、非常に鑑賞する価値の高い展示だと思うので、ぜひとも足を運んで欲しい。



この「Optic Topography・光学的地理A」については、自分も機会を作ってまた鑑賞するつもりだし、出来ればもう少し突っ込んで感想を書きたいとも思っている。



それにしても、機材を担いでうろうろしたから、ちょっと疲れちゃったなぁ~
軽い三脚が欲しいね。



加藤修 展
会場: 巷房階段下
スケジュール: 2007年07月02日 ~ 2007年07月07日
住所: 〒104-0061 東京都 中央区 銀座1-9-8 奥野ビルB1
電話: 03-3567-8727 ファックス: 03-3567-8727



加藤修 展
会場: 巷房
スケジュール: 2007年07月02日 ~ 2007年07月07日
住所: 〒104-0061 東京都 中央区 銀座1-9-8 奥野ビル3F
電話: 03-3567-8727 ファックス: 03-3567-8727



狩野志歩 「Candle」
会場: Space Kobo & Tomo
スケジュール: 2007年07月02日 ~ 2007年07月07日
住所: 〒104-0061 東京都 中央区 銀座1-9-8 奥野ビルB1
電話: 03-3567-8727 ファックス: 03-3567-8727



池田路世 展
会場: ギャラリーQ
スケジュール: 2007年07月02日 ~ 2007年07月07日
住所: 〒104-0061 東京都中央区銀座1-15-7 マック銀座ビル2階
電話: 03-3535-2524 ファックス: 03-3535-2524



伊良波愛理 展
会場: ルーニィ 247 photography
スケジュール: 2007年06月26日 ~ 2007年07月08日 16:00
住所: 〒160-0004 東京都新宿区四谷4-11みすずビル1F
電話: 03-3341-8118 ファックス: 03-3341-8118



斎院真理子 「yokohama hanon」
会場: Place M
スケジュール: 2007年07月02日 ~ 2007年07月08日
住所: 〒160-0022 東京都新宿区新宿1-2-11 近代ビル3F
電話: 03-3358-3974 ファックス: 03-3358-3974



「Trait d'union21」展
会場: 表参道画廊
スケジュール: 2007年07月02日 ~ 2007年07月14日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469 ファックス: 03-5775-2469



竹原伸彦 展
会場: ミュゼF
スケジュール: 2007年07月02日 ~ 2007年07月07日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

行進間射撃

2007-07-04 19:07:49 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は朝から雨模様だったこともあり、事務所でおとなしく仕事を進めつつも、合間を見てネガの整理などをチョコチョコこなした。



ネガをチェックしながら思ったのだが、小型1眼レフのストリートフォトなら人物が入ってないと、どうにもさっぱり面白くない。もちろん、小型カメラで優れたランドスケープをものにしている作家もいるし、街角の小さな物体や壁の模様などをミニマルに捉える人々も少なくない。むしろ、人物に引き寄せられすぎて、最近流行の梅佳代テイストに陥ってしまう危険性もあり、人物の面白さに着目しすぎるのは問題ですらあるのだろう。
まぁ、自分は中判から大判で都市風景かスタティックなポートレートばかり撮影していたから、個人的な新鮮味が判断を鈍らせている可能性が高いんだけどさ。



自分は小さな機材との相性が極端に悪く、うっかりコンパクトカメラなんかつかった日にゃ、本当の意味で失敗写真を量産しかねないので、小型1眼レフといってもいわゆるフラッグシップ機を使う。ごついカメラでお散歩写真というのも微妙だし、そんな有様では木村伊兵衛的な「さっと撮る写真」なんか到底不可能なのだけど、それはそれとしてふと立ち止まってしばし考え、もたもたしながらシャッターを切るという一連の動作が、おもったより外連味のないカットにつながっているように思えているので、もぅしばらくはこのスタイルで行こうかと思う。



まぁ、そもそも自分は不器用なので、主砲スタビライザーならぬステディカムでもつけないと、歩きながら撮影出来ないんだけどな。



それに、なんのかんのいっても外連味たっぷりの絵柄が受けるのは昔からで、いかにして外連味をなくしつつ作品の質を上げるかというのは、本当に難しいことでもあるのだけどさ。それでも、だんだんとストリートフォトが面白くなってきてるし、作品に対しても以前よりは興味がわいてきた。



それでも、梅雨が明けたらまた大判に戻ると思うけど、今年こそは夏にがんがん撮影したいな。


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ

クラシックのよさは、マンガで伝わってしまった

2007-07-01 19:50:19 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


作業は佳境を迎えつつあるが、とりあえず今日はお休み。
ひさぁしぶりに上野へ繰り出し、ロールフィルムを2本消費する。ただ、ストリートフォトとまじめに取り組むなら、最低でも2倍のフィルムを消費しなければならないだろうし、撮影者の調子や条件がよければ5~6本かそれ以上は軽く使ってしまう。
その意味では、非常にお遊び的な撮影だったが、またしてもロケハンとしては成果があったので、それはそれでよかろうかとも思う。



作業は来週から追い込みにかかるのだが、進捗状況は本当にぎりぎりのところだから、ぶっちゃけかなり不安はある。
とはいえ、もはや作業者を信頼するしかないところへ来ているから、あとは腹をくくって待ち続けるほか無かろうなぁ~



前回のエントリーで触れたデスメタル大好き君は、仕事もネタも相変わらず快調に飛ばしているが、中でも出色だったのがこれ。



「クラシックの連中は音楽のよさをマンガに伝えてもらったくせに、そのことが恥ずかしくないらしい」



言葉だけでも、自分はものすごいつぼにはまったんだけど、ほとんどの人にとってはナニが恥ずかしいのか全く分からなかったというのにもまた、激しくツボを刺激されてしまいました。



まぁもともとマンガというのは非常に総合的な表現媒体であるし、マンガ愛好者や作家たちも媒体を横断することに鷹揚なので、たとえマンガのよさが実写映像や文章で伝わったとしても、それに対して特別な感情は抱かないだろう。例えば、藤子不二雄Aの「まんが道」が実写ドラマ化された際、ある意味では当然のように藤子不二雄自身はもとより、トキワ荘に出入りした作家のマンガが再評価されたそうだ。
いわば、埋もれかかったりごく一面的な評価しかされていなかった作家や作品に対して、実写ドラマが光を当てたという格好になっているが、そのことに対してマンガ愛好者や作家が忸怩たる思いを抱いた形跡は微塵も無い。恐らく、これがSFやミステリ、アニメ、ゲームなどの媒体であったとしても、やはり愛好者や作家が忸怩たる思いを抱くことは無いだろう。



では、どうしてクラシック音楽ではファンや関係者が忸怩たる思いを抱かないとならないかのように思われたのかというと、それはクラシック音楽の世界に「本物の演奏」というひとつの神話があって、多くの演奏家や愛好者が録音音源はもちろん、生の演奏であってもアンプやスピーカによる電気的増幅手段を用いたものは「偽物」として退ける傾向が根強く残っているためである。例えば、武生国際音楽祭2004のコンセプトには「本物の感動は生のステージからの協同体験としてしか得られないことを実感していただけるものと自信を持ち、これまで一地方都市にあっても常に本物の演奏を提供してきた~」なる文言があり、またサントリーホールの「サントリーホールで音楽しよう」という教育プログラムにも「本物の演奏と響きを体感していただき、コンサートを楽しむ心を育てます」なる文言がある。



ぶっちゃけ、クラシックホールの解説なり宣伝には「本物の演奏」なる文言がこれでもかというほど使われており、いっちゃなんだが「本物の大安売り」となっている。つまり、クラシックの「本物のよさ」を知るためには、レコードだのCDだのをいくら聴いていてもだめなのはもちろん、アンプとスピーカを経由したフェスティバル演奏などですら失格となり、音響の優れたホールで生演奏を聴きこまねばならないということなのだ。
こういった傾向はジャズ愛好者にも見受けられるが、電気的の増幅された音を「偽物」として、アンプやスピーカの使用さえも忌避するというのは、クラシック愛好者に特有といってもよいのではなかろうか?



となると、のだめカンタービレは音すら出ないたかがマンガに過ぎないので(演奏の一部を電波に乗せて送信するだけのドラマ版も大同小異だね)、クラシックの「本物のよさ」はかけらも伝わらない全くの偽音楽であり、まがい物にすらなりえない存在となってしかるべきなのだが、よく知られているようにクラシック関係者にものだめファンは大勢いて、むしろ「クラシック音楽のすばらしさを伝えてくれた」と評価しているぐらいだから、現実ってほんとに面白いよな。



まぁ、関係者の中にはマンガをきっかけにクラシックへ興味を持った新しいファンを「のだめ軍団」と呼んで警戒したり、古参のファンにははっきりと不快感や嫌悪感をあらわにする人すら少なくないと伝えられる。だが、それまで「クラシック音楽に触れようとすらしなかった人々」に対して、マンガが極めて強い訴求力を持ったことそのものについては、特になにか感じている様子は見受けられない。



結局、きっかけが偽物でもマンガでも、クラシックに興味を示してくれればそれでいいというわけだし、事実としてそういった流れになっている。自分は、それじゃぁこれまでの態度は何だったのよといいたくなるデスメタル大好き君の気持ちはよく分かるし、またクラシック愛好者が「ポピュラー音楽を軽音楽として、文字通り軽く見てきた歴史」から考えても、いささかご都合主義に過ぎる態度ではなかろうかとも思う。



まぁ、根っこにあるのはデスメタル大好き君のルサンチマンに他ならないのだけど、デスメタルはルサンチマンに曲と詩が付いたようなもんだからって…



え、全然違う?!
今から「本物の音楽」を聞かせてやるって!?



いやぁ、マジ勘弁してくださいよぉ~


にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へにほんブログ村 その他日記ブログ オタク日記へ