![Marunouchi019](http://farm2.static.flickr.com/1051/1026836744_50e6b95dc2.jpg)
ようやく原稿を仕上げ、オタク向けの文章企画を少し進め、私事の荷物移動も済ませて、やっとこさっとこ一段落はさせたけど、まだまだ先行きは不透明な事だらけで、不安がいっぱいの毎日でもある。
とりあえず、多少は自分の時間がもてなくもなくなったことをいいことに、いわゆるひとつの「こころのりはびり」等と称して気になっていた展示を観にへ出かけた。最初はZEIT-FOTO SALONの金村修作品展「 チャイナ・ホワイト 」だったけど、実は少し前にギャラリーへ一度足を運んでいる。その時はスタッフルームからの話し声がうるさく、全然といってもよいほど作品に集中できなかった。たまたま運が悪かっただけだろうと思っていたが、知人の話によると「いつもうるさい」そうなので、これは何とかしたほうがよいように思う。
さておき、肝心の作品についてだが、これもいわゆるひとつの「金村節」全開で、北京だろうが東京だろうが変わらないところには、ある種の安心感が漂う。だがしかし、ヘルシンキや上海でも同じように「金村節全開」だったかというと、微妙に変調していたところに、ごく微かな、本当にごく微かな不安を感じなくもない。
北京と上海、あるいは東京都ヘルシンキとの間にどの程度の差があったかというと、それはジューダス・プリースト (Judas Priest)の曲をロブ・ハルフォードが歌うか、ティム・オーウェンズが歌うかぐらいの差はあるように思えるので、観る人によっては全然違うと思うかもしれないが、観る人によっては全然変わらないと思うぐらいの差だと思う。ただ、少なくとも、ハンマーフォール(HammerFall)のカヴァーバージョンよりは差がないので、微妙といえば微妙な差なのだろうか?
どうでもいいことをぐだぐだと書き連ねてしまったが、自分が感じたのは「もしかしたら、この作品は金村修という作家のセルフカヴァーなのでは?」という不安だ。まぁ、自分は単なる鑑賞者に過ぎないし、金村氏自身が「初めての土地はやりにくい」ような意味のことをもらしていたようにも思うので、たまたま複数回にわたって撮影した土地が北京で、たまたま複数回撮影している間に「本来の金村節」が持つ味わいが前面に出たのであろうとも思うのだけど、それでもなくなどこかに微かな不安が漂うような、そういう作品だった。
次に観たのはMUSEE Fの奥村昭彦展だったが、こちらの展示にもやはり微かな、本当にごく微かな不安感が漂うっていたように思う。ただ、その不安感は、不安でありながら同時により健全で、しかしながらよりヤバイ感じがした。展示そのものは奥村氏の十八番ともいえるピンホール写真で、また反語的だが今回もいつものようになにか新しいことを盛り込むあたりも含め、非常に高い水準へ到達しているのは間違いない。
でも、自分には作品そのものよりも奥村氏の「制作という行為や制作という行為に対する姿勢」の方がより興味深く、またより美しいのではないかと思えてならなかった。もちろん、現代美術は「制作という行為も含めての作品」なのだから、それはそれでむしろ素晴らしいことだし、評価すべき点でもあるのだが、なにかどこかに危うげなものを感じてもしまう。
そして、これらの展示を振り返りながら、自分が思っていることは、変化したりしなかったり、あるいは危うげだったり安定しているのは、実は観ている自分に他ならなくって、作品や作家は変わらずにそこに存在し続けているだけなのではないかと、そんなことも考えてしまう。まぁ、観ている人間をそういう気分にさせたり、そういうことを考えるきっかけとなることも含めての現代美術なのだけどね。
いずれにせよ、これらは鑑賞者が作品に自己を投影しているのか、作品が鑑賞者に何かを示しているのか、その点が曖昧な作品であり展示でもあり、そして自分がそういう作品や展示を非常に好ましく感じていることだけは、いちおう間違いないことといえるのではなかろうか?
奥村昭彦 展
会場: ミュゼF
スケジュール: 2009年05月25日 ~ 2009年05月30日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469
金村修 「チャイナ・ホワイト」
会場: ツァイト・フォト・サロン
スケジュール: 2009年05月08日 ~ 2009年06月03日
住所: 〒104-0031 東京都中央区京橋1-10-5 松本ビル 4F
電話: 03-3535-7188 ファックス: 03-3535-7112