Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

無関心は憎悪より悪質

2009-08-05 16:12:38 | 業務関連
Shin-Kamagaya004


今日は健康診断というので、朝からすきっ腹を抱えて病院へ向かう。受診日に備えて減量とトレーニングに励んでいたものだから、気分はほとんどボクサーってところ。まぁ、おかげさんで体重も腹囲も理想的な値だったけど、尿と血液の検査結果はどんなものなんだろうねぇ?



さておき、仕事のほうは行きつ戻りつといったところで、今年の梅雨みたいにどうにもはっきりしない。とりあえず、いったんは仕切りなおすことにしたものの、こっちのほうも結果はどうなることやらわからないネェ。



自分がオタク関連の仕事に関わるようになってから、かれこれ20年近くになるんだけど、いまだにアニメ調の美少女がいろんなあれやこれやと戦う、いわゆる「戦闘美少女もの」はツボがわからなくて苦労する。ところが、厄介なことに自分はかのマッチョ・ウィメン・ウイズ・ガンズ!Macho Women with Guns)が大好きで、ここだけの話「同人翻訳の手助けした」ぐらいなもんだから、周囲の人間は「なぜガールファイトものがわからないのかがわからない」わけ。
とはいえ、そのことは自分でも「ごく最近になってようやく気がついた」ぐらいだから、周囲の人間がわからないのはむしろ当然なんだけど、オタク関連ではマッチョ・ウィメン戦闘美少女の違いはあまりにも決定的かつ自明なので、その違いに無頓着ではいられないというのが、話を厄介にしている。ついでに言うと、オタク方面ではその違いがあまりにも決定的で自明なので、それをわざわざ言語化する人もほとんどいないが、かといって自分が言語化するのも面倒という、ほんとになんと言ったらよいものかわからないような有様だったりもする。



だた、本当に問題なのは「違いがわからない」ことではなく、その「違いに対して無関心」だったり、あるいは「違うことに対して無頓着」だったりすることなんだよね。まぁ、あえて音楽に例えるならシン・リジィ (Thin Lizzy)と"The Dubliners"の"Whiskey in the Jar"は全く違うことを十分に理解しながらも、ややもすれば「どっちでもいいじゃん、同じ曲だし」なんていってしまうような感じかなぁ…
これがシン・リジィ (Thin Lizzy)ジョン・サイクス(John James Sykes)プリティ・メイズ(Pretty Maids)の"Don't Hurt Me This Way"が同じに聞こえて、全然区別がつかないとか、あるいはそもそもロックやポップスが嫌いと言うのであれば、むしろまだ幸せだったかもしれない。だって、そんなんだったら仕事にならないし、しようとも思わないだろうからねw



どうでもいいけど、自分はゲイリー・ムーア(Robert William Gary Moore)とエリック・ベルがライブでやった"Whiskey in the Jar"が好きかな。でも、ビデオはメタリカ (Metallica)のバージョンが楽しいし、ライブもノリノリでよいから、もしかしたらどちらもシン・リジィ (Thin Lizzy)のバージョンより好きかも知れない。実際、フィル・ライノット(Philip Paris Lynott)のヴォーカルは大好きなんだけど、やっぱギターは2本以上ないと物足りないなぁって思うんだな。



さておき、受け手にとって極めて重要な違いがそこに存在して、また自分がその違いを認識していながら、その違いに対して無関心だったり無頓着だったりするのは、職業人として極めてまずいと思うし、事実として深刻な問題だから、なにか手を打たねばならないワケデスヨ。でまぁ、つまるところ、戦闘美少女がらみのねたについては信頼の置ける作業者なり管理者なりに任せて、自分はほかの事をするのが最良の解決策だと思うし、今回もそうするつもり。



そうそう、斎藤環の「戦闘美少女の精神分析」は全然あたっていないと思うし、少なくとも実作業の現場にいる人間にすれば「娯楽じゃないなら読者に媚びるのもほどほどにね」としか言いようがないなぁw



さて、作業者への指示をまとめるかいのぅ~


ストリートフォトは本当に他人の心を傷つける?!

2009-05-11 14:21:38 | 業務関連
Zoushigaya090329048


諸般の事情から、最近になってまたしてもオタク向けの文章仕事に関わるようになった。以前はオタクの病んだところが嫌で嫌で仕方なく、同じ病人を相手にするなら写真や現代美術関連の方がまだマシとか思っていたのだが、少し距離を置いて眺めるとさほど鼻にもつかず、むしろ写真や現代美術関連のビョーキっプリが文字通り嫌らしく思えてしまうのだから、結局は隣の芝生なのか、あるいは自分が過剰に過去を美化しているのか、いずれにせよこんな調子ではジャンルごとの振り子運動を繰り返しつつ歳を取るという、ある意味では最悪の人生を歩んでしまいそうな予感がして怖くもある。



心の闇と言うか病みと言うか、ぶっちゃけビョーキといえば、しばらく以前にチェックした展示から、そういう話にハッテンしたことを思い出す。



その展示は街を歩く人々の顔をテーマにしており、恐らくは望遠レンズで撮影したであろうアップの画像がポストカードに使われていた。自分は街角で望遠レンズを使っている人々をしばしば目撃していたが、彼らが生成する画像をちゃんと観たことはなかったので、白状すると「完全に興味本位」で会場へ足を運んだものの、予想以上に質が低くて早々に退散したというものだった。
なにしろ、どう考えてもポートレート的な撮り方にもかかわらず、はっきりと「顔からピントがずれている」ばかりか、そのピンボケ画像を「大伸ばし」しているのだから、少なくとも自分にとっては作品と呼ぶべきではない代物にしか思えなかった。また、被写体となった人々の表情にしても「否定的な意味でカメラの存在を意識している」ように思えてしまい、望遠レンズを使っている意味を感じられなかった。
いちおう、同行した知人は「人間の内面をえぐるような印象」を受けたらしいが、自分は「カメラの存在を意識した瞬間に顔を背け、心を閉ざした人々の顔」にしか思えなかったし、むしろテーマと画質の両面で二重にピントのずれた展示としか思えなかったのだ。



でまぁ、その話を別の知人としたところ、その知人はあっさりと「撮るほうも撮られるほうも、それを観たがる連中も含めて、みんなビョーキなんだから仕方ないよ」と笑った。
知人はストリートビューをめぐる騒動を引き合いに出しながら、アレに噛み付いてる連中みればすぐわかるだろうとかなんとか、面白おかしく話を膨らませていたし、自分も某ストリートビュー反対派の主婦を観て、ちょっと病的なのではないかと「ドン引き」したことがあるから、まぁ言わんとすることはよくわかる。



もちろん、知人は半ば冗談でネタをフッタのだが、ちょっと冗談では済まされない部分も無くはなかった。というのも、鬱や統合失調の傾向がある人にとって、見知らぬ他人に「写真を撮られる」というのは、かなりしんどいというか、ぶっちゃけ「心を傷つけられる」行為なのだそうだ。問題はその鬱や統合失調の傾向がある人がどの程度まで存在しているかということなのだが、統計によると東京ではうつ病の通院患者だけでも「1000人中8~9人」の割合で存在しているそうで、軽度の鬱や統合失調症の患者を含めると、その10倍は存在していると考えてよいらしい。
つまり、雑踏で1フレームに十数人ほど収めてストリートフォトを撮影した場合、程度の差はあれどもほぼ全てのカットに「鬱や統合失調の傾向がある人」が入ってくるという、なんとも気が滅入る計算も成り立つ。もちろん、病状の深刻な人々は基本的に人気の多い盛り場などを避けるので、そこまで極端なことにはならないだろうけど、そういうリスクが存在していることは認識しておくに越したことはないだろう。



ただ、本当に問題なのは見知らぬ他人に写真を撮られる「かもしれない」と考えるだけで病状が悪化してしまうほどに病状が深刻な人々が少なからず存在していることで、しかもそういう人々をうっかり本当に撮影してしまい、さらに「敵として認識されてしまう」リスクが存在している事だろう。



とりあえず、町田で専業主婦は撮らないよう、自分も気をつけたほうがよさそうだね。


Nezavisimaya新聞に写真が使われるの巻き

2009-03-19 21:20:09 | 業務関連
Ginza080825070


ようやっとこさっとこ原稿を仕上げ、ほっと一息と称してだらだらとデスメタルに浸っている今日この頃です。最近、オードリー・ヘプバーン泥棒バイバイじゃなく、メタルでも心が和むようになりました。



さておき、自分の写真がNezavisimaya新聞に使われて、ちょっとばっかし有頂天です。
記事はこちら(ロシア語)



写真がメディアに使われたからって、何も喜んでブログに書くことなんかないんだけど、でもなんとなく「ロシアの新聞」というのがうれしい。記事内容と写真は何の関係もないし、記事そのものもちょっとなんだかなぁな感じがしなくはないんだけど、ロシア人が日本のエコブームを見たらこういう感じなのかなぁとか、そんなことを考えちゃいました。


私は早くここを去りたい

2009-02-25 12:17:12 | 業務関連
Otemachi027


去年から地味に進めていた企画があったんだけど、今月に入ってから急ににっちもさっちも行かなくなって、結局は完全に手を引くこととなってしまいました。原因はある意味簡単で、相手方の担当者が「自覚のないペド」だったからというもの(獏...ORZ



あんまりやさぐれちゃったもんだから、最近はザック・ワイルド(Zakk Wylde)プライド・アンド・グローリーイン・フレイムス(IN FLAMES)A Sense of Purposeを交互に聴きまくって、南北アンドデスアライブメタルシャワーで精神を攪拌しないとやってられないぐらいだよ。



まぁ、オタクの世界には「自覚のないペド」がうようよしてるのだから、そういう相手と遭遇すること自体は常に考慮しておかねばならないし、今回も事前に相手方の「ペド傾向」をかなぁり入念にチェックしたつもりだったんだけど、まんまと騙されたというかなんと言うか、企画が本格始動するかどうかの段階になってから「いきなり本性を表し」ちゃって、こっちが提出した企画書になんとも香ばしいチェックを入れ始めたのにはほとほと参っちゃったね。



もぅこうなったら、これから仕事する相手全員にペドファイルチェック(GRU法)を義務付けようかとか、そんなどうでもいい考えが頭をよぎったりもする。



それにしても、自覚のないペドはなにが我慢ならないかって言うと、やっぱり自他の区別がついてないことと、自分自身の個人的な嗜好や志向、あるいは思考を、あたかも社会通念であるかのように押し付けてくる点だね。それだけでもうんざりなんだけど、、これが仕事という局面になると「徹底的な責任回避と自己欺瞞」という形で現れてくるものだから、少なくとも自分は「絶対に仕事の相手にしたくない」ということになる。



今回もいろいろな観点からチェックしたんだけど、厄介なことに「自覚のないペド」は同じ単語を使っていても意味が全く異なったりしているし、何しろ自覚がないから性的なネタにならない限り「話をあわせたり」もするんで、なかなか本性が見えてこない。この辺は本当に言語化しづらいのだけど、なんていうか、文字通り見えているものが違うんだろうね。



見えているものに引っ掛けてあえて言語化するならば、自覚のない色覚異常者色校させられたような感じとでも言っておこうか。



自分は軽度の色覚異常で、しかもそのことを「自覚している」から、色に関してはよほどのことでもない限り「自分の感覚」で物を言うことはない。基本的には専門家にお任せするのだが、指示を出す場合も可能な限りアドビなり何なりの数値データとか、カラーチャートを踏まえて「客観的に適切な色」を伝えるように心がけている。ところが、作業者が自身の色覚異常に無自覚なまま参加した場合、事態はどうしようもなく厄介なものとなってしまう。



こちらやこちらの信頼する正しい色覚の作業者がいくら「客観的に正しい色指定」を伝えたとしても、受け手の側で「勝手に色を変換しちゃった」り、あるいは「こちらの指示を理解できなかった」りするので、最悪の場合は作業そのものが成立しないのだ。まぁ、この段階でこっちはすっかりうんざりなのだけど、そういう作業者に限って「色彩に対する妙なこだわり」を持っていたり、ひどい場合には自身の色覚異常を棚に上げて「自身の感覚を正当化し始める」ので、最終的にはその作業者を企画から排除せざるを得なくなってしまう。



例えばこんな調子…
作業者:指定した色です(違っています)
作業者:この程度の違いは許容範囲内でしょう(許容範囲を超えているからリテイクするのです)
作業者:これからはこういう色がはやりますよ(事前の打ち合わせと異なる色を持ってこないでください)
作業者:これが自分のよいと思う色です(そういう独自性は校正前の段階で発揮してください)



軽度の色覚異常を持つ人は割と多く、また加齢によっても色覚異常は発生するので、色に関するこだわりを持つ人はエックスライト社color IQテストを受けたほうがよいでしょう。というか、写真についてどうこういう連中は、無条件で全員受けやがれって感じだね。
以前、知り合いの作業者が「色について文句を言う奴に限ってカラーチャートが把握できてない」とぼやいていたし、ラボでも「年寄りや目の悪い人が依頼したときは色トラブルに注意」とか言われているそうだから、他人に文句を言う前に文字通り「自分の目を疑ったほうがよい」と思う次第だね。



それにしても、今回は企画が本格的に始動する以前の段階で相手方が「無自覚なペド」であることが判明したからよいものの、それにしても自己の感覚でしか物事を判断できないばかりか、それを言外に正当化するような言辞ばかりが目に付いたテキストを読んだときは、本当に目の前が真っ暗になったよ。



マツことなくココを去りたい
トリ残される前に


銀塩写真の終焉?

2008-09-18 19:33:44 | 業務関連
Niagara_5D005


前回のエントリに貼った偽本城写真ですが、知人より「偽という割に偽っぽくない」との指摘が合ったので、もう少し偽度の高い画像を張ります。こっちはかなり偽本城だと思うのですが、さてどうでしょうかネェ?



帰国した後、銀塩で撮影した35ミリフィルムを現像同時プリントに出そうとしたのだけど、もぅ先月いっぱいで街中の格安現像は消滅してたんだね!
いくつか当たったんだけど、先月末で銀塩はサービス終了だそうで、今月からデジタルプリントのみ受け付けとなっているそうだ。残る選択肢は量販店かプロラボ、あるいは自前で現像機を持っている写真館となるのだけど、プロラボや写真館は費用面でしんどいため、結局は量販店へ依頼したんだけど、こちらも現像費が高騰しててびっくり。そういえば、トロントやナイアガラでもデジカメばかりで、銀塩使ってるのは自分だけだったなぁ~
また、懇意にさせていただいている機材屋でこの話をしたら、店長氏も「イタリアの観光地でもデジカメばかりだったよ」とのことで、そもそも海外では「フィルムを売ってる所が見つからない」ということで、こりゃぁ減塩の終焉は思いのほか近づいているなぁと、危機感を募らせてしまった。



まぁ、同時プリントにしたのは家族の写真も含まれているためで、いつもなら自家現像しているのだから、まだそれほど神経質になるようなものでもないのかも知れないのだが、そうはいってもいろいろと考えさせられる出来事ではございましたね。


アウラの呪縛

2008-08-28 19:19:45 | 業務関連
Kawasaki005


事情があって、最近はグレン・グールド(Glenn Herbert Gould)についていろいろ調べていて、知人の「The Complete Original Jacket Collection / Glenn Gould」をほとんど毎日のように聴いているのだが、まじめに聴き込もうとすれば何年かかるかわからないほど、文字通り圧倒的なボリュームを誇るセットなので、とりあえず一通り流すだけでも時間が足りない。やむなくバッハ平均律クラヴィーア曲集ゴルトベルク変奏曲(デジタルリマスターも含め)のみに押さえ、そのほかはシェーンベルクを中心に押さえていこうとしているものの、それでもなんとなく面白がるのが精一杯という有様だ。



そもそも、これまでクラシックの楽曲をまじめに聴いたことがほとんどないような人間が、いきなりグールドに挑もうとすること自体に無理があるのだが、グールドは音楽と録音技術やメディア技術に関する論考、著述などを多数残しており、そこを取っ掛かりにしてなんとかできないかとも思っている。実際、グールドの論考にはヴァルター・ベンヤミンのアウラに通ずる概念が多々含まれているように思えるし、またそのような方向からアプローチすることにも何がしかの意味はあろうと思うのだ。



アウラとは、ヴァルター・ベンヤミンという1930年代に活躍したドイツの評論家が提唱した概念で、 自著「複製芸術時代の芸術作品」を中心とするいくつかの論考において、芸術作品のもつ一回性に対して用いた概念である。ベンヤミンの言葉を要約するなら、写真や映画といった複製可能なメディアではなく、肉筆絵画や木像や石像彫刻のようないわゆる「一点もの芸術作品」の持つ唯一無二の特性こそが、その真正さの徴として芸術作品のアウラをなすといったところになるだろうが、問題なのはアウラが個々の芸術作品に備わるものではなく、あくまでも「鑑賞者が感じ、受け取る感覚であり、作品から想起する思念」ということだ。



あえて平たく言ってしまうと、アウラとは鑑賞者が作品を「かけがえのない存在であるかのように思う心情」であり、それは鑑賞者が受け取る情報によっては激しく変化するものでもある。



ベンヤミンは芸術作品は複製されることによって「アウラを失う」し、また映画や写真といった複製芸術は「そもそも最初からアウラを持たない」と定義した。言い換えるならば、鑑賞者は「複製芸術からアウラを感じられない」となる。確かに、著名な芸術家の作品であっても、贋作と判明した瞬間に人々の評価は一変し、芸術的な価値も決定的に損なわれるかのように思われている。つまり、どれほど高度な複製であっても複製はやはり複製であり、真正の作品が持っていたアウラは失われるというのがベンヤミンの概念である。



しかし、その作品が「贋作と判明する以前」に鑑賞した者は、その作品(実は贋作だが)からアウラを感じなかったのかというと、そんなことはないだろうと思う。もし、オリジナルの作品がなんらかの事情によって失われ、ただ「贋作のみが現存する」と作品であったならば、鑑賞者は贋作からも「オリジナルと同様にアウラを感じる」のではなかろうか?



自分が考えるに、アウラとは「鑑賞者が抱く芸術への神秘性であり、芸術概念そのもの」だから、当然ながら時代と共に変化するのだ。もっと積極的に言ってしまうと、現代の鑑賞者は大量複製品からでも十分にアウラを感じるし、芸術作品ではないものからも「アウラ以上にその真正さの徴」を読み取り、芸術作品以上の価値を認めるのではなかろうか?



例えば、地上波放送のテレビドラマとして全国の各家庭へ「複製された」ドラマ「北の国から」において、主人公が田中邦衛から渡された(厳密には古尾谷雅人が渡すのだが)泥つき一万円札が印象的な小道具として登場するが、大量に複製され文字通りの意味で「市場流通している存在」であるにもかかわらず、主人公がその「泥つき一万円札」に対して抱く感情はまさしくベンヤミンが言うところのアウラそのものといえよう。このエピソードの秀逸なところは、放送を視聴した多くの人々が主人公に心から共感したばかりか、ドラマの小道具となった泥つき一万円札 の関連グッズ(便箋セット)まで登場し、多くの人々が「ほとんど芸術作品と同様のありがたみを持って」グッズを手にするということにある。



まぁ、こんな回りくどい事例を引き合いに出さずとも、単純に「CDやDVDで楽しむ音楽やステージはあくまでも偽物で、いわば本物である生演奏より劣るのか?」ということを考えてみれば、自ずと答えは出てくるもんだと思う。ただ、世の中には一回性というか非複製性にこだわる人も根強く存在していて、その辺は一部で話題になったハンス・アビングの「金と芸術・なぜアーティストは貧乏なのか」でもネタとして揶揄的に扱われているのだが、こともあろうにその「金と芸術」をテーマにしたシンポジウム(レポートは村松恒平氏のここを推奨します)において「本物の演奏に触れる機会がない、CDなどの偽物でしか音楽に触れていない最近の若者にとって、芸術作品の価値がどうしたこうした」とか質問した人もいたのだから、いまだにベンヤミンの論考にも一定の価値があるのだろう(ちなみに、その質問への答えは「本を読んでください」だったが、本も読まずに質問した人の不見識を責めなかったパネリストは大人だったと思う)。



でまぁ、こうして長々と書き連ねた末、ようやくグレン・グールドへ戻るわけだが、グールドが演奏会を完全に否定し(コンサートドロップアウト)、かつ録音メディアへ全てを託したのは、グールドなりの「アウラへの抗議」であり、またアウラの呪縛から逃れんとする試みではなかったのだろうかと思うのだ。また、宮澤淳一氏はNHKで放送された『グレン・グールド:鍵盤のエクスタシー』の最後において、グールドは録音メディアという形で聴衆との間にある種の隔たりを必要としたかのようにまとめていたが、それは自分にとって非常に説得力のあるまとめ方だった。
もしかしたら、自分自身が個展においてフィル・シェリダンの「外側に立て…でないと物事の姿を見誤るぞ」という言葉を引用したからかもしれないのだが、ともかくそういう立脚点からグールドに迫ってみたい。というか、自分にはそこしか切り口が見つけられなかったといったほうが、より実態に近いのだろうけどね。


泣かせの三要素と花鳥婦女子

2008-08-06 21:52:19 | 業務関連
Chiyoda005


今日は朝から本当によい天気で、昨日の雷雨がウソのようだったが、夕方にはにわかに曇り始め、やがて雨がぱらつき始めた。朝には洗濯を済ませていたものの、たまたま資料を取りに帰った際、ついでに取り込んでいたため事なきを得た。



今日は撮影スケジュールをいじったり、打ち合わせをしたりしてぼちぼちすごしたが、業務内容をつめる際にうっかり口を滑らせてしまい、なんとも後味の悪い展開となってしまった。



やり取りの全てを記憶しているはずもないし、また記録していたものでもなく、例えそうであっても差しさわりのある部分もあるので結末から端的に書いてしまうが、いわゆる「泣かせの三要素」として「花鳥婦女子」的なものを揶揄的に持ち出したところ、話の腰をへし折ってしまったという感じだろうかね。



この「泣かせの三要素」に類するネタは演劇や映画、漫画などでもよく語られているが、自分がよく持ち出すのは「女・子供・老人」で、上司か取引先のイラストレータから元ネタは押井守と聞かされたが、真偽のほどはよくわからない。ただ、以前のエントリ(ストリートスナップ(ストリートフォト)のゴールデンルール)でも形を変えて触れていたように、観る人の心を惹きつける効果が期待できる要素であることは間違いない。問題はその先にあって、そういうキャッチーな要素を取り入れたからといっても「それだけで作品の質や評価に影響する(させる)のは間違い」なのだが、自分はあたかも「泣かせの三要素」を取り入れた作品は評価するに値せず、またそういう作品を愛好する観客は質が低いかのように口走ってしまい、打ち合わせを復旧するのにえらい苦労したところにある。



自分自身、日ごろからこういう種類の「お作家様的態度」を戒めてきたはずなのだが、御自らがやらかしてしまったのではどうしようもない。ただただ汗顔の至りというほかないのだが、意識の底に流れる感情というのは、表面的に押さえつけていてもこういう機会に表われてしまうわけで、根本から意識を変えていかねばならないだろうネェ~



ただ、自分自身が撮影するときには、素で「女性や子供、老人」に注意を払っていないわけで、その意味からも先は遠く果てしないような気がしてならない。



しんどいぬぅ~



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Verbal is bubble

2008-07-28 19:33:30 | 業務関連
Otemachi019


今日は朝からよい天気のように思われたが、昼前にはにわか雨が降るなど不安定だったため、洗濯はあきらめて事務所へ向かった。



ただ、自分の原稿も企画も一段落した直後なので、特に仕事らしい仕事があるのでもなく、比較的まったりと雑務をこなした。問題は次の企画へ向けた準備のほうで、曖昧模糊としたやり取りの中から一定の筋道を見出さねばならないことがわかり、手をつける前からうんざりしてしまう。



幸い、撮影のほうは比較的うまく行っているし、自分自身の作品も徐々に方向性が固まりつつあるので、そちらのほうは問題ないのだが、これから他人様といろいろやり取りしながら全体の意思統一を図らねばならないかと思うと、正直言って非常にしんどい。自分、文章を書いて暮らしの糧を得ているにもかかわらず、他人と言葉でやり取りするのがどうにもこうにもしんどく、しかも歳をとるごとにますますその傾向が強まっている。



なんていうか、話し言葉は口から出たあぶくのようにはかなく、むなしく、そして心もとない存在のように思えてならないのだが、かといってなにもかも文字に記せばよいというものでもなく、どうにもこうにも悩ましい…



本音を言うと、打ち合わせやら何やらで他人様と話し合うより、フルプロットの空母戦ゲームやアドテクノスの某経済ゲームでもやっていたほうが、同じように曖昧模糊としていてもナンボか気楽なように思えてならないんだよね。



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ストリートスナップ(ストリートフォト)のゴールデンルール

2008-07-22 19:07:38 | 業務関連
Shiodome016
エントリ内容と画像は無関係です。


今日は午前中から昼にかけては曇っていたものの、昼前から急速に回復して、午後にはすっかりいい天気だった。とりあえず洗濯を済ませてから事務所へ向かい、機材のメンテや買い物のついでにターミナル駅付近で撮影した。



最近は、意識してデジタルでも撮影するように心がけてはいるものの、どういうわけか撮影を重ねるほど醒めていくというか、少なくともはじめて手にしたときの高揚感は急速に薄れ、ただ利便性のみが際立ってくるように思えてならない。ただ、これは今まだ使ったデジカメの全てに発生した現象なので、もしかしたら自分とデジタル画像との相性に起因するものかもしれないが、そうだったら自分のほうを変えていくしかないのかもしれない。
対する銀塩は撮影を重ねるにしたがって「機材として使い込みたくなる感情」が沸いてきたのだから、なんだかんだ言いつつも自分は機材に対するフェティッシュな感情が強く、また「機材のアウラ」に背中を押されていたのは否定できまい。



アウラといえば、ネットコンテンツのハウツーをテーマにした企画が流れてしまい、納品したサンプルテキストも日の目を見ぬまま戻ってきた。せっかくなので、担当者の許可を得てテキストの一部をエントリに掲載するが、テーマは「アクセスアップにつながる写真術」だったのがなんとも世の中の面白いところではなかろうか?
ちなみに、自分は「
ストリートスナップ」というタイトルには最後まで納得できなかったし、担当者の評価は「内容は正しいが、もう少しマイルドにしてください」だった。まさか、デジタルに対して抱く屈折した心情が文章に悪影響を及ぼしたわけではなかろうが、もう少し「アウラを喚起させる文章」にしたほうがよかったのではなかろうかとは思わなくもない。



以下、サンプルテキスト。



タイトル:ストリートスナップでアクセスアップ



アクセスアップの方法はいくつもありますが、ネットに関する専門知識やコピーライタのような文章力、コンテンツそのものの情報価値とは別に、意外と侮れないのはエントリやブログのトップに掲載する画像の人目を惹く力です。例え小さな画像であっても、うまく使えばスポーツ新聞の見出しに匹敵する力を発揮することすらありますから、まずは人目を惹く画像を使うように注意しましょう。



人目を惹く画像といっても、ただ文字にされただけではイメージ出来ないと思います。もちろん、閲覧する人々の趣味嗜好やコンテンツのテーマによってその内容は千差万別なのですが、ある程度まで普遍性を持つ法則のようなものがないわけではありません。それはまず「コンテンツのテーマと深く結びついた画像」であり、もうひとつは「物語性のあるストリートスナップ」なのです。



コンテンツのテーマと深く結びついた画像は当然として(別に商品写真等の撮影ノウハウを紹介する予定と聞かされていた)、物語性のあるストリートスナップがなぜ人目を惹くのかというと、物語性のある写真は人間の持つ好奇心に訴えかけやすく、なおかつ「スナップ写真は作為性を感じさせにくい」ためです。あらかじめコンテンツに深い関心を寄せている閲覧者は、もちろんそのテーマと深く結びついた画像のほうにより大きな関心を寄せますが、漫然とネットサーフィンを楽しんでいるような閲覧者には、むしろ明確すぎるテーマ性が重過ぎることも少なくありません。
その点、ストリートスナップは大半のテーマとなじみやすいために使い勝手がよく、しかもスナップの持つ「無作為性」は閲覧者の警戒心を解きほぐす効果があるため、気軽なアクセスにつながりやすいのです。しかし、人目を惹くスナップ写真といっても、どのように撮影すればよいのかわからないと思います。



そのため、ここで皆さんに「誰でも簡単に取れる感動的なストリートスナップのゴールデンルール」をお教えしましょう。



それは「構図を一点透視図法で組み立て、消失点男性以外の人物を収める」だけです!



例えば、長い廊下の向こうに人影が立っているような画像を想像していただければ、多少はわかりやすいかと思います(当然、図解する予定だった)。まず、透視図法の消失点を強調するために縦画面で撮影し、さらに縦の線が多い路地裏や柱の多い回廊を背景にするか、場合によっては窓枠や出入り口越しに撮影するのがよいでしょう。そして、人間にはどうしても「人影に注目してしまう」傾向があるため、画面には必ず人影を配置します。



撮影に際しては、透視図法の消失点を出来る限り画面中央に設定しますが、消失点を人物と重ねるような構図を組み立て、あくまでも人影を強調するために透視図法を使うと考えてください。ただし、この際に注意しなければならないのは絶対に男性を配置しないことです。なぜなら、男女を問わず、人間は男性よりも女性や子供、老人に注目する傾向があり、あえて言えば男性は消極的に視野から排除される傾向にすらあります。そのため、まかり間違っても男性だけは絶対に配置しないようにして、どうしようもない場合は逆光でごまかすか何か工夫してください。はっきり言って、男性よりは「人形や彫像」の方が人目を惹きます。
また、
その他、可能であればモノクロ画像にしたほうがより叙情的で、物語性を高める効果を持つのですが、その辺は他のコンテンツとの兼ね合いもありますので、全体のバランスを見てお決めください。



最後に、この方法はかなりの効果を発揮するのですが、決定的な弱点があります。それは「同じ手法の画像が2枚以上並ぶと逆効果になりやすい」というもので、実際にその種の画像を並べてみれば簡単に理解できると思います。はっきり言ってしまえば、手法が単純なだけに判明すると閲覧者がしらけてしまうので、サイトやエントリのトップに「1枚だけ使う」ようにしてください。特に注意しなければならないのはエントリのカテゴリわけで、カテゴリ表示にしたとたんに露見するといった失敗は避けてください。
蛇足ですが、これはあくまでも人目を惹くストリートスナップのノウハウでして、画像の美的な良し悪しとは全く無関係なので、くれぐれもその点はご了承ください。



それでは、アクセストップを目指して、がんばりましょ~



以上、サンプルテキスト終わり。



って、やっぱこれじゃぁだめかいのぅ~
てへへ...ORZ



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朝からNEGATIVE

2008-07-10 20:29:40 | 業務関連
Nihonbashi003


今日も朝から梅雨時らしい空模様で、傘を持っていくべきかどうか悩む。ただ、天気予報は降雨なしと出ていたため、思い切ってたまった洗濯物を片付け、念のため昼食をとってから家を出た。



難航していた企画も、昨日の深夜には自分の手を離れ、後は機械的な処理工程をただ見守るのみとなったのだが、あまりにも進行が押してしまったため、既に次の仕事に食い込んでいるという始末である。とはいえ、まだまだ資料の読み込みも足らないし、事務所の日常的な雑務も山積みとなっているので、とりあえず気分転換をかねて事務所を掃除した。



掃除の後、たまたま事務所へ遊びに来ていた(そして掃除を手伝わされた)知人と、コーヒーなどを飲みながらだらだら話す。知人は最近「NEGATIVE」に激しくはまっており、目覚めの1曲として蛇ローテーション中という。朝からネガティブで気合を入れるとは、どうにもなんだか字面が悪いなぁと思いつつ、曲を聞かせてもらったらなかなかいける。ついでにWEBで検索したら、メンバーがマジ池面ぞろいでびくぅり!



特にヴォーカルにしてフロントマンであるJonne Aaron(ヨンネ・アーロン)の美形ぶりはもはや反則の域に達しており、こりゃぁ腐ならずともはまるだろうと激しく納得した。ただ、自分は彼らの楽曲を聴いているうちに、なぜだかとってもガンズを聴きたくなってしまい、その足でわざわざアペタイト・フォー・ディスクトラクション(Appetite For Destruction)を買ってきては、いまさらのようにスウィート・チャイルド・オブ・マイン(Sweet Child O' Mine)に胸きゅんさせられてしまうという、大人としてなんだかとっても恥ずかしい1日だった。



でもまぁ、自分はシェリル・クロウバージョンも大好きだし、スウィート・チャイルド・オブ・マインで胸きゅんさせられたオトナは他にも何人かいるだろうと、どうにもこうにもかっこ悪い強がりをひとりつぶやきつつ、現像を終えたネガをスキャンしてWEBにアップしていたら日が暮れた。
方向性を大幅に変えてからは、やはり他人の評価が気になっていたのだが、少なくとも今のところは好意的に受け止められているようなので、とりあえず一安心というところだろうか。ともあれ、また次の一歩を踏み出す前には、目先の原稿を上げてしまわないとならないし、そのほかにも夏場は何かと忙しいのだが、少しずつ気分が高まっているのはよいことだろう。



早く梅雨が明けてしまわないかネェ



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間もなく梅雨明けか?

2008-07-04 23:54:28 | 業務関連
Nihonbashi002


今日は朝から好く晴れて、梅雨明けを思わせる青空が目にまぶしかった。といいたいところだが、東京の空はどこと無く霞がかったような鈍い青白さで、光化学スモッグ警報に追われた「昭和の日々」を思い出した。とりあえず洗濯を済ませて事務所へ向かうが、他の作業者が成果物を上げてくるまでは手持ち無沙汰だったりもする。



事務所で一通りの作業を済ませると、本格的に手が空いてしまったのでひとまず帰宅する。ちょうどよい機会なので、たまっていたフィルムの現像を済ませ、少しはやめの夕食をとって事務所近くの体育施設で運動プログラムをこなした。こうして文字にすると優雅な生活だが、実態は貧乏人が暇をもてあましているに過ぎない。



なにしろ、作業のスケジュールが押しているということは、いつかどこかで遅れを取り戻さなければならないことでもあり、製品化が送れることはすなわち入金の遅れに直結するのだから、手持ち無沙汰になればなるほどストレスもたまるというものだ。とは言いつつも、一方で現像したフィルムに多少なりとも手ごたえを感じている自分がいることも確かで、業務と制作との両立は極めて危ういバランスの上に成り立っていることを、いまさらのように再確認した一日でもあった。



間もなく梅雨も明けようが、自分にとっても梅雨明けとなる日が来るのだろうか、そしてそれはいつなのだろうかと、どうでもいいことをふと考えてしまう。



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場の終焉

2008-06-10 12:24:42 | 業務関連
Ikebukuro046


今日は朝から好い天気だったが、スモッグ状の薄い雲がほぼ全天にかかっていたため、撮影は断念して布団を干し、洗濯して部屋を片付けた。



とりあえず事務所へ向かうが、当然のように日曜に秋葉原で起きた無差別殺人事件が話題に上る。個人的にはひとつの場が終焉を迎えた出来事と捉えており、オタクという仮想的な人間集団もまたその終焉を迎えつつあるのだろうと思う。



その時々に応じてメディアが時代を象徴する「場とそこに集う人々」を勝手に設定し、情け容赦なく消費していくというサイクルによってかつては上野や新宿が消費され、最近では渋谷や六本木といった街も出がらしと成り果ててしまった。だが、最後には必ずといってもよいほど「治安の悪化」というフレーズが多用され、例えば地方出身者や在日韓国、朝鮮人に始まり、サヨク学生やチーマーなどに至るその時々の流行に応じた人間集団が、メディアにより社会的悪として糾弾、排除される。まぁ、祭りの終わりには生贄めいたなにかが必要なのではないかとも思えてしまうが、メディアという存在の無慈悲さを基準に考えると、それが当然であるかのようにすら感じられてうんざりする。
実際、メディアは加害者に「オタク」と言う名のレッテルを貼ることで、いわゆる「まっとうな人々とは無縁の反社会的怪物」であるかのごとく喧伝している。ご存知のようにオタクと言うレッテルそのものが差別的にも使われてきた過去とあいまって、社会的に立場の弱い人々がスケープゴートとなってしまう可能性に、言いようのない危機感を覚える。



それにしても思わされるのは、こういう事態に直面した際に芸術が、あるいは作家が発揮する力のなさ、あるいはいびつな強さだ。



特に写真という表現手法においては顕著なのだが、よほど注意深く表現に磨きをかけない限り、本来は複雑な物事を著しく単純化し、そして視覚的に刺激の強い部分のみを抜き出して、極めて表面的なメッセージを発信してしまう。いうなればプロパガンダであり、フレームアップとみなされても仕方ないだろう。もちろん、全ての芸術、特に写真がそうであるわけでもないし、例えば「DAYS JAPAN」のように高邁な理想を掲げ、孤軍奮闘しているかのように主張している媒体もなくはない。だが、その「DAYS JAPAN」にしても「写真表現のみで」複雑な問題をうまく捌ききっているとは到底いえない部分があり、むしろ文章が少ない分だけ扇情的にすぎる嫌いすらあるのではなかろうか?



例えば秋葉原という「地理上の固定された場」を設定し、そこに集う人々という「物理的な人間存在」に焦点を当て、写真という「視覚のみに訴えかける表現」で問題を解き明かそうとしても、それはほぼ間違いなく徒労に終わるか、あるいはより問題をこじらせるだけだろうと思う。もしかしたら、写真という静止画像がメディアにおいて果たしていた役割の全てすら、この瞬間にも終焉を迎えつつあるではないかと、そのように思えてならない。



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予想外に多忙

2008-06-04 16:16:41 | 業務関連
Ikebukuro045


昨日までの雨と季節はずれの寒さもヨウヤク収まり、午後からは日も差してきた。ただ、先週から続いた天候不順のためか、自分の周囲では心身の不調を訴える人々が続出し、仕事の計画からなにからなにまで狂いっぱなしでおおよわりだ。ただ、幸か不幸か自分は心身ともになんとか踏みとどまっているので、必然的にこぼれた業務を拾うハメに陥ってしまったのだが、これまたえらい忙しくておおよわり...OTZ
とりあえず、なんとかかんとか原稿だけは納品していたので、本当の破滅こそ避けられたものの、少しはのんびり出来るかと思っていたのが、むしろ細かな仕事に忙殺されるという有様だ。



とはいえ、そういうごたごたも少しは収まってきたので、今日は表参道画廊と併設されている「MUSEE F」を訪れ、東京写真月間矢野安隆展「strangers when we meet ~逢う時はいつも他人」と2008MUSEE F選抜荒木一真展を鑑賞してきた。



カラーとモノクロの違いはあれど、どちらも対象との間合いというか距離感というか、どことなく醒めた印象を受ける作品という点では共通しているように思えた。残念ながら、今回は作家氏とお話しする機会を得られなかったのだが、特に荒木氏の作品は対象を解体し、テクスチャとして平面化したかのようで、写真という表現手段の持つ図化作用を強く意識させられた。



ただ、自分自身は相変わらず写真という表現手段そのものとの距離感を強く感じたままであり、なにかそこはかとないうつろさを胸に抱きつつ、会場を後にしてしまった。



もしかしたら、こういう作品やこういう展示が意味を持ち続けられる時間は、自分自身が思っているよりもなお、ひどく限られたものなのかもしれないと、そんな考えがどうしても頭から離れない。



矢野安隆 「strangers when we meet ~逢う時はいつも他人」
会場: 表参道画廊
スケジュール: 2008年06月02日 ~ 2008年06月07日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469 ファックス: 03-5775-2469

荒木一真 展
会場: ミュゼF
スケジュール: 2008年06月02日 ~ 2008年06月07日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469

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LOHASの誘惑

2008-05-14 16:26:03 | 業務関連
Ikebukuro042


今日は朝からひどい雨だったが、昼すぎには上がって日差しも出てきた。ここ1週間ほどの時ならぬ寒さと不順な天候には、ほとほとうんざりしていたところだったので、多少なりとも太陽が顔を出しただけでもいささかうれしい。
天候とは別に、先月末には新橋で行きつけにしていた機材屋が閉店したり、つい先日も現代美術の大御所であるロバート・ラウシェンバーグ氏が亡くなったりで、中国関連を抜きにしてもなんだかWEB界隈のノイジーな空気がうざったく、おちおちサーフもしてられないのがストレスだったりなかったり。



天候のせいにはしていられないのだが、今月に入ってからどうしようもなくテンションが低く、上司からも「こんな天気ぐらいでダメになってるようじゃ、イギリスで暮らしていけないぞ」などと、わかったようなわからないような小言を頂戴する始末。とはいえ、その上司にしたって一緒に行ったノッティンガムでは突然の氷雨にうんざりしていたのだから、言うほどイギリスの気候に対応できるとは思えないのだが、天気で仕事が左右されるような文字通りのお天気屋では困るのも確かだ。



いずれにせよ、このまま放置できない問題でもあるので、なんとか気晴らしでもしてテンションをあげようと知人に相談したところ、何故か「メタルを聴いて気合を入れなおせ!」という話になり、とりあえずチルドレン・オブ・ボドム(Children Of Bodom)の新譜Blooddrunkを聴いたんだけどさ…



あぃゃぁ!マジイカスょこれ!
ほんとに気合入っちゃったよ!オジサンびっくりだ!



というわけで、勧めた知人も驚くほど激しくメタルに食いついちゃったもんだから、それなら生活そのものを見直してLOHASに挑戦したらどうかという話さえ出た(・谷・)
聞くところによればLOHASとはLife Of Heavymetal And Sexの略で、アメリカのSteve AlmondMy Life in Heavy Metalで描いたような生き方のことなんだそうな。小説は未読だが、短編なのでなんとかなりそうだ。それにしても、名前だけで実にすばらしく、かつ魅力的な生き方のように思えるので、早速実践せねばと知人に相談したところ…



もぅいい歳なんだから、その辺は自己責任でどうぞ(・谷・)



寂しい話しだぬぅ~



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鑑賞しそびれている展示

2008-04-23 11:44:29 | 業務関連
Shinjyuku028


今日は朝から好天に恵まれたが、急ぎの案件が割り込んできたので、布団だけ干してから事務所で作業をこなした。
先週末の段階ではほとんど予定が入っていなかったので、今週は撮影ついでに展示を観に行こうかと考えていたのだが、週明けから予定が狂いっぱなしでばたばたしている。今もデータの処理とサーバへのアップダウンという、ひまなのか忙しいのかわからない作業に従事していて、暇つぶし半分にブログを更新しているという有様だ。



特に気がかりなのはART TRACE GALLERYで開催中の石井隆浩展「」を鑑賞しそびれていることで、しかも今週末に最終日を迎えるため、いささかあせり始めている。本来なら月曜の午後か夕方にギャラリーへお伺いするところ、中央線のダイヤが乱れて断念せざるを得なくなったという、なんともかんともないきさつがあるのだけど、あまり無理やり時間を作っても落ち着いて鑑賞できないし、なんとも悩ましいところではある。



ともあれ、明日以降は仕事も落ち着いてくるし、土曜にはゆっくりと鑑賞する時間も取れると思う。
しかし、土曜って最終日なんだよね~



石井隆浩 「庭」
会場: Art Trace Gallery
スケジュール: 2008年04月05日 ~ 2008年04月27日
住所: 〒130-0021 東京都墨田区緑 2-13-19 秋山ビル 1F
電話: 050-8004-6019

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