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写真という物理存在

2007-01-14 22:48:20 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日もlいい天気なので朝から撮影に出かけ、とりあえずシートフィルムを12枚消費して帰宅した。
帰宅後、知人を呼び出して、携帯の機種変に付き合ってもらう。ただでさえ端末登録の待ち時間が長いばかりか、混雑する日曜に手続きしようというのだから、最初から小半日はつぶす覚悟を決めていたのだ。



端末自体は機種も色も希望のものがすぐに見つかったのだが(とはいえ、店頭にある最後の1機だった)、やはり登録に1~2時間ほどかかるということで、知人とお茶でもしながら時間をつぶすこととした。実は、端末探しよりカフェのイス取りゲームがはるかに大変だったのだが、まぁそれはさておくとしよう。



雑踏の中を30分ほど歩いて、ようやく見つけたカフェチェーンの片隅に体を押し込めつつ、端末のデータ移動についてあれこれ教えてもらっていたところ、不意に「写真ってなんだ?」という話になった。
もちろん、これは写真という単語の辞書的な意味などではなく、いわば写真という概念についての問いであり、疑問でもある。



とりあえず、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』写真という項目では、以下のように定義されていた。



写真(しゃしん、photograph、photography)とは、狭義には光学系を通して対象物を結像させ、ある時間露出することにより、物体で反射した光(または物体が発した光)を感光剤に焼き付けたのちに現像処理を経て可視化したもの。 この過程はカメラと呼ばれる機械的、化学的または電子的機器を用いて行われる。



ここにおいて重要なのは「光学系を通して対象物を結像させ」という部分であり、この点はフォトグラム(レイヨグラム)でも変わりはなく、つまるところ写真は被写体が存在しないと成立しないということになる。いずれにせよ、写真の構造的な部分についてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の定義に問題はなく、写真がそれ単体で独立した存在にはなりえないのは間違いない。
この、写真は被写体が存在しないと成立しない点と、撮影者が存在せずとも写真は成立するという点を踏まえ、椹木野衣氏は写真の死を論じている。だが、他方で写真愛好者の大多数はその点を敢えて等閑視することで、いわば写真にかりそめの生を与えることに汲々としている。
これは、写真を撮影者のメッセージ伝達手段と考え、撮影者不在の写真が写真として成立しうることを受け入れられない人々のみならず、写真に対して被写体の美しさや可愛さ、珍しさを求めるのみの人々にも共通することであろう。いうなれば、写真は被写体が存在しないと成立しないということと、撮影者が存在せずとも写真は成立するという点をを無視することが、写真愛好者たる条件になるのではなかろうか?



そして、写真の構造的な部分に対する百科事典的な定義と、その定義を直視したくないという写真愛好者心理との乖離が、写真という概念を複雑にしているのではないかと思う。
ただし、写真の構造的な部分に対する百科事典的な定義と、写真愛好者心理との間に接点が全く存在しないというものではなく、オリジナルプリントという物理存在が両者の結節点として作用しているといえよう。



オリジナルプリントは、写真に収められた画像という抽象的な情報存在と異なり、物理的に存在しているがゆえにフェティッシュな欲求の対象となりえる。そして、オリジナルプリントは物理的な存在であるがゆえに、あたかも被写体が不在であっても写真が写真として存在しえるかのような錯覚をもたらし、写真を写真として愛好する人々(愛好していると信じたい人々)が写真の構造的な部分に対する百科事典的な定義から眼を背ける、格好の道具となっているのと思うのだ。



ただ、デジカメがこれだけ普及しても、まだまだプリントにこだわる人々が非常に多いことを考えると、これは単に写真愛好者のみの問題ではなく、ひろく一般に存在する意識のような気もする。既に、写真と画像という言葉の使い分けも浸透しつつあるが、写真をめぐる人々の意識がどのように変化するにか、あるいはしないのかに対しても、大いに興味をそそられるところではある。