Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

あおって、あおられて

2006-12-31 18:20:49 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


朝からいい天気だったので、今日こそ撮影に出かける。とはいえ、早い時間は薄雲がかかっており、昼前になってようやく取れてきたといった具合で、昨日ほどすっきりとは晴れていない。まぁ、冬らしいといえばらしいのだが、昨日のうちに撮影しなかったことを少し悔やんだ。
とはいえ、過ぎたことをぐだぐだ言っても仕方ないので、おとなしく機材を抱えて現場へ向かう。



現場ではロケハンしたときよりも工事が進んでいて、そのときは立ち入ることができなかった場所も、きれいに整備されている。また、思ったよりも人が少なく、落ち着いて撮影できそうなのはうれしかった。
中野正貴氏の「TOKYO NOBODY」じゃ無いけれど、できれば無人か、あるいはそれに近いほうが風景そのものを見せることができる。それに、正直言って他人の目を気にしながら撮影するのは、やはりあまりうれしいことではない。
まぁ、無人の風景ということにこだわりすぎると、それはそれでまた別の文脈が発生するし、現に「TOKYO NOBODY」は風景と別の文脈で鑑賞されているのだから、その辺はあくまでもほどほどにしなければならないね。



とはいえ、人が少ないのはうれしいものの、風が強いのには閉口させられた。
ピント合わせの最中にも、風で煽られた冠布がまくれ上がり、もぅわけがわからなくなってしまう。ひどい時は、アオリの最中にまくれ上がって、全部最初からやり直しになったりもした。
写真方面でいろいろやっていると、冠布を飛ばされてやむなくジャケットを使ったとか、気の毒なことに撮影不能になったとかそういう話を時々耳にする。高所で撮影することもある建築方面の方々や、山岳写真家の皆さんは、ほんとご苦労様だと思う。



とりあえず、きばりにきばってシートフィルムを14枚も消費し、帰宅したころにはすっかりへとへとだた。
明日の午後からは天気も悪くなるらしいし、適当に仕事して正月明けに備えるとしようかね。


最後の一兵まで?

2006-12-30 23:42:01 | 業務関連


今日も朝から非常によい天気だったが、さすがに撮影ばかりしているわけにもいかず、休みを利用して部屋の掃除やら歳末の買い物やらを済ませた。
歳末の買い物といっても、正月用品とかではない。午前中には差し戻したテキストのリテイクがあがってきたし、別企画のテキストも24時間以内にあがってくる予定なので、週明けには出社してチェックなどしなければならない。ただし、飲食店の多くは休んでしまうため、お弁当用のあれこれやらおやつやらを買い込んだというわけ。



最後の一兵までってわけでもないけど、ほかのスタッフはコミケ動員で根こそぎ持ってかれちゃってるし、終わった後もしばらくは使い物にならないから、まぁしょうがないといえばしょうがねいねぇ~
ものすごくどうでもいい話だけど、タイトルだけやたらに有名な「最後の一兵まで」って映画は、1937年のドイツ映画だとばっかり思っていたけど、それより10年以上前にも同じタイトルの日本映画が存在していたのね~
日本映画のほうは内容不明だけど、若き日のアラカン(当時は「嵐徳太郎」名で出演)していて、こっちはこっちでちょっと興味がある。ドイツ映画のほうは、タイトルとひし形戦車の登場するスチルなどから、勝手にカンブレーかアミアン辺りだとにらんでいたんだけど、意外にもミヒャエル攻勢(カイザー攻勢のほうがわかりやすいか)がテーマだったことを知って二度びっくり!
WEBってありがたいねぇ~



でまぁ、今日も今日とて企画やらなんやらについてごにょごにょやり取りがあったんだけど、自分はずっとドキュメンタリー方面で活動していたから、やっぱりフィクションの組み立て方をきちんと把握していないんだよな。さすがに細かい話は出来ないけど(してもしょうがないし)、ものすごく大雑把に言ってしまうと、ドキュメンタリーは観察データを下に帰納的な組み立てをするのに対して、フィクションは作者の構想を下に演繹的な組み立てをするのが基本なので、自分のやり方は文字通りの意味で正反対だったというわけ。
問題は、このことに気がつくまでリアル10年かかったということなんだけど、まぁ過ぎたことを嘆いても仕方ない。
いちおう、帰納法的なフィクションの組み立て方もあるけど、そうすると作家の意図があいまいになって受け手が混乱しやすくなるし、少なくとも商業的な成功を収める可能性はほとんど皆無になる。また、演繹法的なドキュメンタリーの組み立てもあるんだけど、そっちはほんとにやばい結果を招くことが多い(やらせや捏造を引き起こしやすい)。



写真についても同じことが言えて、自分がストレートフォトグラフィに惹きつけられ、そして基本的な制作態度として取り入れたのも、今にして思うとドキュメンタリーを通じて帰納的思考法になじんでいたためだろう。ただ、最近は表面的にはストレートフォトグラフィの手法を取り入れつつも、演繹的に制作する作家は少なくないし、リンクしたWikiの解説にも言及されている。
もちろん、写真というメディアにおいても演繹的に制作することは可能だし、特に商業メディアにおける写真はほとんど全てが演繹的といっても過言ではない。だが、演繹的に制作するには作者の構想というか妄想というか、そういう要素が強くないと成立しないので、おいそれとまねの出来るものでもない。実際、演繹的に制作しておられる作家の構想力というか妄想力は、強迫神経症の域に達している場合が多いからね。



とはいえ、前回の個展はまさに帰納的制作の問題点をさらけ出したわけで、来年は業務を通じて演繹的な制作法を身につけるか、あるいは帰納的な制作の問題点を解消するか、いずれかを達成しないとまずいと思うわけですよ。


コミケとエッシャーとガチャガチャと

2006-12-29 23:36:16 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日もいい天気だったので、機材を担いで撮影に出かける。
とはいえ、風がほんとに強いし、意外と寒くて体に堪えたので、シートフィルムを6枚消費した段階で切り上げた。



展示の際に会いそびれた知人が、ここにきて急遽上京することとなり、撮影のは自宅でだらだらしながら連絡を待った。なにしろ、コミケの後で合流しようなんて、いかにも携帯まんせのゆるアポだから、こっちもゆるゆるのだらだらだ。



とりあえず渋谷で合流することとなったのは良いとして、大胆にも知人はエッシャー展を観に行こうと言い出した。まぁ、自分もエッシャーは大好きだし、観そびれていた展示だったので、とりあえずBunkamuraへ行ってはみたものの、聞きしに勝る大混雑で正直うんざり。



知人も自分も「もぅ行列は見たくも無いよ」って、お互いそんな顔してたと思う。



仕方ないので、なぜかミュージアムショップにおいてあったガチャガチャでも遊ぼうかと思うと、中にはなんとユージンの「だまし絵フィギュア」が入ってるそうで、ここにも行列ができている。近くには別のガチャガチャもあるが、そっちには「石膏デッサン入門」が入ってて、悲しいかな総スルー状態だった(ほしくなったら自分もネットオークションでセット買いするしな)。



という感じで展示鑑賞はあっさりとあきらめ、後は行きつけの中華屋で積もる話をだらだら続け、気がついたらすっかり遅くなっていた。



知人を最寄駅まで送った後、取引先から連絡があって来年の打ち合わせをすることとなるのだが、それはまぁ別の話しだねぇ~



明日、晴れたらまた撮影に出かけるとするか。


仕事納めが納期の納品

2006-12-28 22:57:54 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は仕事納め。
ちょうどいい塩梅にお天気だし、昼間は事務所の掃除して、夕方からは忘年会~!



なぁんてことは全然なくって!!



だいたい、周りはコミケだのなんだので朝からばたばたしてるところに、昼はビル管理会社の方やオーナーさんと水漏れ対策の相談をしつつ、ほんとぎりぎりになってまとまった注文表を先方へ送って、夕方には直接受け取りに行くというどたばたぶり。
品物を入れる紙袋を抱えて、先方の事務所に着いたときは、もぅ皆さんで飲んでおられました。自分は電車移動だったこともあって、とりあえずありがたく頂戴したのですが、疲れ気味のところにロックで放り込んだから、持ち帰ったときはかなり回ってました(乗り換え駅の階段をダッシュしたのも悪かったと思う)。



とはいえ、事務所へたどり着いたときには、もぅ皆さん帰宅されていたので、それはそれでよかったのかも。後は適当に入力作業だけして、今年の仕事はコレでおしまい。



といいたいところだけど、未回収のテキストやらデータやらもあるし、正月抜きで動かねばならんだろうな。今年はコミケ動員がかからなかっただけでも楽といえば楽だし、明日と明後日は撮影や展示鑑賞に当てるつもりなんだけど、おかげで年末気分も盛り上がらないねぇ~



どちらかといえば、休日扱いで銀行ATMの稼働時間が短くなって、うかうかするとコンビニ端末で手数料を取られるほうが気がかり、だな。


年末休暇を控えて

2006-12-26 23:33:10 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


朝からひどい雨だったけど、そろそろギャラリーも年末休廊することだし、無理やり時間を作って新宿方面の写真ギャラリーを観て来た。まずは、いつものように四谷のロータスルートギャラリーへ向かい、錦戸俊康写真展「CALL AND RESPONSE」を鑑賞する。
錦戸氏の作品は、夜間にストロボ撮影した植物を粒子たっぷりに大伸ばししており、植物のフォルムが荒々しく描写されていた。これは、単純だが非常に効果的な手法であると同時に、ギャラリーの方向性とマッチした作品でもあり、個人的にもいろいろと感心させられた。
明後日28日まで開催しているので、興味のある方は足を運んでほしい。



その後は、プレイスM水谷幹治写真展「EL DORADO」を鑑賞するが、どこと無く口当たりがよくなったような、そういう印象を持ってしまった。こちらは明日が最終日なので、興味のある方は気をつけてほしい。
そして、これまたいつものようにメーカー系ギャラリーへも足を運んだが、こちらもまたいつものような感じだった。



とはいえ、いつもと同じような感じということは、安定していることの裏返しでもあるし、それはそれで肯定的に受け止めてもよいかと思う。
ただ、食べてるときは口当たりのよさで気持ちよくなるけど、ちっともハラにたまらないおやつのような、そんな雨の一日でした。


気がつけば、あれから1年…じゃなくて2年経ってたョ

2006-12-25 23:38:30 | お知らせ


知人への贈り物をあれこれ考えていたら、草間彌生かぼちゃクッションあたりどうかという話が出る。品物自体は悪くなかったのだが、なんとはなしにサイトにある他のグッズをチェックしていると、だんだん微妙な気持ちになってしまい、とりあえず「YAYOI KUSAMA STUDIO」プロデュースの品という条件で、後日仕切りなおすこととした。
ただ、知人と共に鑑賞した「草間彌生━永遠の現在」展のことをあれこれ思い出し、アレから「もぅ1年経った」のか、などとちょっとばっかりメランコリックなノスタルジーに浸っていたところ、よく見たら「2004年10月26日開催」とある…



あひゃ、もぅ2年経ってたのかョ!



なんでこんな勘違いをしたのか、どうにもこうにも気になったので、過去の記録をあれこれあさっていたが、とりあえずこのブログを「ほぼ1年前に開始した」ぐらいで、そのほかは取り立てて記録に残すようなネタはなさそうだった。
微妙にすっきりしないけど、まぁいいや…



ブログ開始1周年と3日ということで、ひとつの区切りとしておきましょう。


??クリスマス撮影会??

2006-12-24 22:58:08 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日も朝からよく晴れていたので、機材を担いで湾岸方面へ向かう。
去年やおととしはさほど気にも留めていなかったのだが、今年は年末になっても正午過ぎから急速に風景が黄色みを帯び始め、フィルター無しでは間違いなくYかぶりになってしまう。春先にある黄砂の影響とは異なるようだし、また秋口のややMがかったYとも異なるようなので、なにかちょっと気味が悪いのだが、自分の力ではどうしようもない。
とりあえず午前中に撮影するのが最も安上がりな解決法なので、眠い眼をこすりつつ朝から撮影準備にいそしむ。ちなみに、まともにフィルターが使えないレンズをメインで使っているため、フィルターセットを持ち出すとなるとやたらにかさばるし、そもそも自分にはフィルターワークをきちんとこなすだけの技量が無いのだ。



というわけで、牛丼屋の朝定をぎりぎり喰い損ねるような時間に到着し、手早く腹ごしらえを済ませた後、とりあえず駅周辺でロケハンしておいた場所へ向かった。休日は人通りの少ない場所なので、のんきに構図なんか決めていると、後ろに人の気配がする。あわてて冠布をはずし振り返ると、カメラを抱えた青年が困惑した表情で立っていた。
聞くと、ココからドクターイエローを撮影するのだというので、場所を譲ろうとしながら通過時刻を尋ねたら、まだたっぷり2時間以上あるので、先に撮影させていただくこととした。時間に余裕があるとはいえ、人を待たせていることに変わりはないし、そもそも景気づけの1カットぐらいのつもりだったから、さっさとシャッターを切って早々に移動する。



ところが、次に向かった場所では、正午近くだというのに高層ビルの影がかなり伸びていて、うまく光が回ってこない。
仕方が無いので三脚を抱えうろうろしていたら、カメラを持った集団にばったり遭遇する。ドローイングの方々は、同好の士と鉢合わせしてもあまり意識しないようだが、なぜか写真方面だとすごく意識する人が多いし、かく言う自分も意識するほうなので、ぶっちゃけどうしようかと思っちゃったね。
とはいえ、本当にどうしようもないので三脚ごと道を譲ったのだが、みなさんすんごい高価な機材をお持ちなので、激しくびくぅりさせられちゃったよ。ところが、彼らは彼らで私のおんぼろ機材に驚いてるらしく、お互いかなぁり居心地が悪い。おまけに、行列の最後尾を歩いていたモデルさんは、ナニを勘違いしたのか「おはようございます~」なんて挨拶してくれるし、このまま消えてしまいたい瞬間とはこのことでしたよ。



というわけで、うろうろして邪魔になってはいけないし、良くも悪くも踏ん切りがついたことだしで、河岸を変えつつ最終的にはシートフィルムを10枚消費して家路に着く。



帰り際、ふと駅から最初の撮影場所を眺めたら、朝の撮り鉄さんたちはまだがんばっていました。
そして、帰宅後に驚くべき誘いが舞い込み、夜には財布が文字通りの空っぽになるのだが、それはまた別のテーマなのであった…


ナルシシズムの迷宮

2006-12-23 23:04:41 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


知人の作家氏から招待を受け、思いがけず牛丼のねぎダクをご馳走していただいた。
来年、作家氏は新しくアトリエを構えるという事で、それはたいそうめでたいお話と思ったが、どうやら喜んでばかりはいられないらしい。というのも、作家氏の実家がある地方自治体で、地域振興事業の一環として遊休施設の一部を「才能あふれるクリエータ」に貸し出すこととなり、いろいろのカラミから知人にも声がかかったという事情があったのだ。
知人にしてみれば、いわゆる「村おこし」に協力するのはやぶさかでないものの、実家からは近いといっても基本的には交通の便が悪く、東京と実家との二重生活を強いられるのは避けられないうえ、自治体の地域活性化事業へ協力する義務が生じることといった不安要素もあり、いろいろ悩んだ末に決断したことらしい。



中でも気がかりだったのが、自治体より「地域活性化と地場産業の育成につながる事業の創造」に協力することが求められている点で、場合によっては作家自身の自立的な創作活動に制約が出てくる可能性もあることだった。まぁ、知人自身は「故郷への恩返し」と割り切って、しばらくは品行方正に活動していくつもりのようだし、まかり間違っても「遠近を抱えて」(富山県立近代美術館事件もしくは大浦コラージュ事件の発端となった作品)のような作品を手がけたりしないだろうから、その点は大きな障害にならないのだろうが、老婆心ながら先行きが少々気がかりでもある。



というのも、先日のエントリー(他者の目線)で触れた「週刊金曜日差別表現事件」のような問題になると、作家自身による予防措置には限界があると言わざるを得ないからだ。 実際、問題となったルポルター ジュ「伝説のオカマ」を執筆した及川健二氏や、また取材を受けた東郷健氏に差別意識が無いことは文章にも現れていると思うが、記事を読んだすこたん企画のメンバーは内容およびタイトルが差別に当たるとして抗議している。
もちろん人々や団体の価値観によって問題意識のありようは大きく異なるし、また事前にあらゆる人々や団体の価値観なり問題意識なりにあわせて、あらかじめ表現を規制するというのは単なる自主検閲なのだから(そもそも、そんなことは不可能だ)、やはりある一定のリスクは生じてしまうだろう。さらに問題なのは、自治体における地域振興事業の一環となっていることで、そのことは問題が発生した際における対処を難しくしているように思えるのだ。



例えば、知人から「週刊金曜日差別表現事件」のあらましを聞いた自分は、いささか短絡的ではあったものの抗議に反対する姿勢を示し、それどころか「言葉狩り許すまじ」のような怪気炎を上げていた(いま思い出しても、本当に恥ずかしい限りなのだが)。だが、もしも当時の自分が現在の友人と同様の立場に立っていたら、週間金曜日編集部と同様に腰の引けた対応をとったのではないかとも思う。



本来、作家とは自らの価値判断に従って制作するものだが、時として受け手の価値基準を意識しつつ制作しなければならない場合もある。とはいえ、受け手の価値基準を過剰に意識しすぎてしまえば、作家自身がナルシシズムの迷宮に迷い込んでしまう危険性があるのだ。現在は様々な人々が多様な局面で「ナルシシズム」という言葉を用いるようになったため、いささか意味が拡散しすぎているようだが、もともとはギリシャ神話の物語から命名された精神分析用語である。
作家がナルシシズムに陥ると、自分自身の存在や価値基準への自信が失われ、なにに価値を見出しているのか、どのように制作したいのかを、自律的に判断することができなくなる。コレだけでも作家としては壊滅的にまずいのだが、しまいには「作品を通じて受け手から肯定的に評価される」ことが制作目的となり、作品への賞賛ばかり求めるようになる。だが、困ったことにナルシシストの作家は極めて多く、また作家がナルシシズムに陥らないようにするためには、相当な努力と精神力が要求されるのだ。



事実、知人が自治体の担当者らと懇談した際にも、作家として活動の方向性を聞かれたある人物が、なぜか「自らの作品が美術コレクターからいかに高く評価されているか」や、また「その道では一流とされる人物の仕事よりも、その人物が制作した成果物の方が高く評価され、最終的には差し替えになった」という話をし始め、周囲の人間を困惑させたそうだ。結局、その人物は最後まで「自らの作品に対する周囲の評価」 のみを語り、作家としての方向性については語らずじまいだったらしい。
また、別の人物は地域の住民とよりよく交流するためのアイディアを求められた際に、なぜか「景勝地に三脚やイーゼルを持ち込むことの見苦しさ」をとうとうと語り始め、しまいには「三脚やイーゼルが林立する本当にゾッとする光景」を野放しにするのは問題だから、自分がボランティアとしてパトロールしてもよいとまでいいはじめ、これまた周囲の人間を困惑させていたという。



これらはナルシシズムに陥った作家の典型的な反応で、前者は「自らの作品に対する評価」が作品の全てとなっているため、創作活動における方向性を喪失してしまったと観るべきだろう。また、後者は周囲の目線を気にするがあまりに、その人物にとって怪しからん他の制作活動を排除することで、自らの正当性を主張しようとしているのであろうが、いずれにしても余計なお世話というほかない。



知人ともいろいろ話し合ったが、自治体の援助を受けることは本当に諸刃の剣であり、素人にはお勧めできないというのがよくわかった。
というわけで、ねぎダクもういっちょ!


スナップ写真≠キャンディッドフォト

2006-12-19 23:44:18 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


スナップ写真に関してあれこれ調べていたら、いまさらながら「ファッション用語としてのストリートスナップ」が存在していて、自分がこれまで親しんできた「写真用語としてのストリートスナップ」とはかなり異なっていることに気がつかされた。まぁ、どちらも路上や街頭、つまりストリートで、気軽に「パチパチ」撮影するスナップ写真、あるいは画像なのだが、写真用語におけるスナップでは、まず被写体の自然なしぐさや態度を重視しており、時として被写体がカメラを意識しない、あるいはさせないことを前提としている場合もある。それに対し、ファッション用語としてのスナップでは即興性というか、まず手軽にすばやく撮影することを重視しているようで、多くはカメラ目線のニコパチ写真だし(ファッション紹介サイトが裁判で負けてからは、ほとんど全てがそうなっている)、たとえそうでなかったとしても屋外で手軽に撮影されたポートレートといった趣だったりする。



もともと、スナップとはパチンとかピシッとかいう感じの擬音で、例えば指を鳴らしたりがま口を閉じたりする時の音を示す言葉や、あるいは鋭くすばやい動作を示す言葉として使われていた。そこから転じて、パチパチ気軽に撮る写真をスナップ写真と呼ぶようになったのだが、同時期にキャンディッドフォトと呼ばれる、やはり素早く撮影するジャンルが成立していたため、いつしか両者が混ざったらしい。



ちなみにキャンディッドとは率直とか無遠慮とか、あるいは公平な様子を示す形容詞で、転じて「ありのままでポーズをとらない人物写真」をキャンディッドフォトと呼ぶようになった。ただ「ありのままでポーズをとらない写真」とは、基本的に「パチパチ気軽に撮る写真」でもあるので、両者が混ざるのも無理はないかと思う。とはいえ、WEBにキャンディッドフォトを「盗撮」であるかのように解説しているサイトこちらもそうだ)もあるが、流石にそこまで混ぜてしまうのはいかがなものかと思う。
実際、キャンディッドには無遠慮とか、あるいは悪い意味での率直さという意味も含まれているし、またキャンディッドフォトを確立したErich Salomon(エーリッヒ・ザロモン)は隠し撮りを得意としていたが、だからといって既に明確な犯罪行為となった「盗撮」という言葉を安易に用いるのは、控えめに言っても穏当さを欠いているように思える。その上、こちらの画像からも見て取れるように、ザロモンの写真は隠し撮りや盗み撮りというより、被写体がカメラを意識していないというべき性質のものだろう。



とまぁ長々と書き連ねてきたが、個人的にはスナップ≒キャンディッドフォト≒盗撮というナイーブな思い込みに対して、やはりどうしてもなにか危ういものを感じてしまう。実際、自分自身もキャンディッドフォトそのものや、あるいはキャンディッドな方法論に対して、必ずしも共感しているわけではなく、むしろ反感すら覚える瞬間は多々ある。



だが、撮影する側に被写体への遠慮やらマナーやらを強調するあまり、モデルをヨイショしながらシャッターを切ったかのような、表面的な気持ちよさしか伝わらない、ファッション的ニコパチスナップしか撮影できなくなるのであれば、そんな遠慮などくそ食らえだと言わざるを得ない。確かに、誰でも観られたくない瞬間というものは存在するが、路上や街頭において「ありのままでポーズをとらない写真」を撮られたからといって、そのことが被写体に対してどれほどの損害を与えるのであろうか?



盗撮とはいったいどのような行為をさすのか、社会的あるいは法的な合意がいまだきちんと形成されているとは言いがたい状況の下、いたずらに被写体の「気分を損ねないように遠慮すること」のみを求めるという風潮に対しては、やはり一定の危機感を持たざるを得ないのだ。


アートのモード

2006-12-18 23:11:57 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


昨日は天気予報に反して雨が降らなかったこともあり、気分転換をかねて御苑から四谷の写真ギャラリーを周った。
ちょっと面白かったというか、まず心に残ったのはRoonee247Photographyにおいて21日まで開催されている舘又将文写真展「Cross Road in New York」だった。舘又氏の作品は奇をてらわないストレートなインスタレーションで、ドキュメンタリータッチのようでありながらジャーナリスティックに流れない、非常にストリートスナップらしいキャンディードフォトグラフィーで、あえて言えば「伝統的な写真展示空間」が成立しており、安心して鑑賞することができた。



それから、またとぼとぼと歩き始め、最後に鑑賞したのがロータスルートギャラリーで開催されていた、松本英明写真展「LANDSCAPE」だった。こちらはタイトルそのままのランドスケープで、田園とも自然ともつかない人工と天然の境界を撮影した、たいへんおだやかな色調の作品だった。



聞くところによると、最近の写真作品は穏やかな色調のカラーランドスケープと、ゲイをテーマにしたポートレートが「きている」そうだが、それとは反対にストリートスナップには強い逆風が吹いている。ただ、それぞれに置かれている状況は異なりながら、どちらの展示からも「アートのモードとは無縁の制作姿勢」を強く感じることができ、楽しませていただくと共に勇気付けられる展示だった。



ストリートスナップについては、ファッション紹介サイトが街頭で女性を撮影し、無断でサイトへ掲載したことを肖像権の侵害とする判決が2005年に下されたことが、非常に大きな影響を及ぼしている。既に、肖像権のカラミから大規模なギャラリーでの展示が困難になりつつあったところに、肖像権を重視する判決が下されたため、さらに状況が悪化したといえよう。
加えて、弁護士の落合洋司氏は「日々是好日」ブログにおいて、専門家の立場から「肖像権侵害という判断にならざるを得ない」と発言しているように、法律論的にもなかなか状況は厳しいようだ。ただ、その判決が下された当時から、現在に至ってもWEB界隈で見受けられるような、法律と道徳、あるいは社会常識を混同したような論調には全く同調できないし、むしろそういったナイーブな思考の方が、よほど問題だと思う。
たとえ建前であったとしても、法律は客観的な必要性に応じて、慎重な議論の末に制定、公布されるのに対して、道徳や社会的常識は個々人の立場や環境によって千変万化するとさえいえるわけで、そういった部分の区別すらつかない人々が、賢しらにものを言い続けることに対しては、ある種の恐怖すら覚えるのだ。



そういえば、以前に建物肖像権なる概念まで登場し、フランスでは著名な建築家が設計した共産党本部への撮影を制限するかどうかという騒ぎになったそうだが、流石に現在は穏便なところへ落ち着いたようだ。とはいえ、なにかと芸術を論じたがる人々であっても、表現することの意味についてはナイーブ極まりない考えの持ち主が少なくない。



社会の中で表現することの意味など、つらつら考えさせられた冬の日でした。


第2回個展のまとめ

2006-12-17 23:01:36 | 2006年12月の展示


第2回個展「秩序の目録2‐旧き神々の銀の黄昏‐The Silver twilight of The Elder God」の会場風景は、概ね以下のようなものだった。また、右にQTVR画像へのリンクもある。



2006_12_MUSEEF01s.jpg2006_12_MUSEEF02s.jpg2006_12_MUSEEF04s.jpg2006_12_MUSEEF05s.jpg2006_12_MUSEEF03s.jpg2006_12_MUSEEF06s.jpg



会場風景からをご覧になっていただければ一目瞭然だが、基本的なインスタレーションは前回と同様である。ただし、今回はピン留めせず、作品の四辺をマスキングテープで貼り付け、さらに壁と同色のペイントを施した。また、一部の作品については、故意にペイントを付着させたほか、作品の表面をたるませるなどして、壁面と作品、そしてイメージとの分離を強調している。
その他、中央の芳名帳台には擬似芳名帳を配置したうえ、芳名帳には「この芳名帳は展示の一環なので、記帳を希望される方はギャラリーの用意した別紙へ記入してください」という趣旨の断り書きを沿えた。



展示そのものに関しては、まぁぼちぼちといったところで、肯定や否定とか言う以前に「わかりにくい」という評価が大勢を占めたように思う。
例えば、展示内展示としてメタあるいはメタフィクション的な要素を盛り込む一方で、作品が示している画像そのものはストレートなランドスケープであり、しかしながら荒く大きくインクジェット出力されているなど、展示全体がナニを指し示しているのか、ほとんどとらえどころが無いように受け止められたようだ。



また、インスタレーションも含めて、技術的に荒いというか稚拙というか、粗雑なところが一部にあり、その点もまた「作家の真意に疑念を抱かせる」要素となったのは間違いないだろう。まぁ、その辺の不親切さというか投げっぱなし加減というか、あえてよく言えば大胆極まりないところが、知人の「実はまったく他人の目線を意識して無い」という発言につながるのだが、事実その通りであるだけに反論の余地は全く無い。
ともあれ、かねてよりやりたかったことの一部を実現したので、個人的には満足度の高い展示となっているのだが、もちろん単なる自己満足とのそしりは免れ得ない。



次回の個展では、よりメタ要素を強調しつつ、技術的な荒さを解消するというのが、自分にとっての課題だと考えている。



最後になったが、鑑賞していただいた全ての皆さんとギャラリーのスタッフ、そして同時期に展示を開催していた奥村氏と鈴木氏に、心から感謝の意を評する。



皆さん、本当にありがとうございました!


他者の目線

2006-12-15 23:37:19 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


昨日は知人と会うこともあり、仕事を少し早く上げて退社した。
夕方から降り始めた雨の中、まず銀座の村松画廊へ向かい、加藤康成個展「 さかしま 」を鑑賞する。加藤氏は金村ワークショップの先輩で、これまではほとんど話らしい話もしたことは無かったのだが、会場ではいろいろと突っ込んだお話も聞かせていただいた。
加藤氏の作品は、作家自身の価値観や方向性を明確に示しつつ、非常に優れたプリント技術によって、美的にもきわめて高い水準に到達しており、率直に言って圧倒されてしまった。また、インスタレーションの完成度も高く、展示空間の美しさもすばらしかった。
おとといの段階では知人も来る予定だったのだが、スケジュールが押してしまい、共に鑑賞できなかったのは、本当に残念なことだった。



ギャラリーの終了時間まで作品を鑑賞させていただき、それから知人と会うために有楽町へ向かった。
知人と会うのは本当に久しぶりで、また第一線で活動している作家氏でもあるだけに、会うまではかなり緊張していたが、昔の思い出をだらだら話している間にだいぶほぐれてきた。
知り合ったきっかけは、自分がスタッフとして参加したセクシャルマイノリティに関するイベントだったが、そのときは特に深い話をすることも無かった。だが、知人が「『週刊金曜日』の差別表現事件」に巻き込まれ(「オカマは差別」か『週刊金曜日』の差別表現事件参照)、その際に自分が知人とあれこれやり取りしたことから、ほかのテーマについてもいろいろと話をするようになったといういきさつがある。



まぁ、自分は以前から言葉狩りの類に強く反対し続けていたし、その当時はむしろ当然の感想を述べただけと思っていたのだが、知人には思いのほか強い印象を与えていたようだ。ただ、 その後はなんとなくそういった話題が上らなくなり、やがて知人もひどく忙しくなって疎遠になったため、知人から話が出るまでは気がついていなかったというのが正直なところだ。



差別的な表現を規制するよう求めたセクシャルマイノリティに対し、当時の自分が「彼らは社会の目線を気にしているばかりで、実は当事者の幸福を考えていないのではないか」とか、はたまた「マイノリティが自らの特定部分を切り捨て、社会に迎合することは二重の意味で差別だ」などと怪気炎をあげていた話をされるたび、こっちは文字通り「顔から火が出るかと思うほど」恥ずかしく、またそのことが「強く印象に残った」などと言われると、本当に消えてしまいたくなった。
その上、そういった若気の至りとしか言いようの無い、ぶっちゃけ中二病全開の言動に対して、こちらが思っているほど知人は否定的な捉え方をしておらず、むしろ肯定的に捉えていただいていると聞かされると、かえってますます恐縮してしまう。ともあれ、知人が自分という存在を面白く感じてくれるきっかけのなったのは間違いないのだから、中二病も捨てたものでもないかと思い始めた瞬間、知人の言葉で止めを刺された。



展示観たけど、実はまったく他人の目線を意識して無いでしょ。
隠してるようでほとんど素っ裸なアタリ、あのころと全然変わってないな!



まぁ、他者の目線をあまり意識してなかったのはその通りなのですけど、そんなに露骨にイワンでもねぇ~
とかなんとかいったところで、出しちゃったものは仕方ないのですけどさ…
とりあえず、知人もミネラルショーはパスするらしいので、自分も土曜の集まりはご遠慮させていただくとして、ありがたくも激しく痛いお言葉を胸に、足取り重く家路についたのでした。



俺の中二病まだ治ってなぃ...orz


コダクローム

2006-12-14 23:50:24 | 業務関連


昨日、ついに「コダクローム64フィルム」の販売終了がアナウンスされたが、自分の周囲でも昔の思い出とともにそのことが話題に上った。
自分は基本的にネガを使っていた上に中判がメインだったので、残念ながらコダクロームを使ったことは無いのだが、かつてベレンコ中尉亡命事件の際に撮影したミグ25のポジをチェックさせていただいたことがあり、撮影から四半世紀以上が経過しているにもかかわらず、退色がほとんど無かったことに驚かされた経験を持っている。



ただ、販売終了といっても日本国内の話で、アメリカではまだ販売が継続されるので、並行輸入という手は残されている。もちろん、現像をどこに出すかという問題は残るものの、先輩によると堀内カラーが現像を始めるまでは、わざわざグアムのラボまで空輸していたそうだから、また昔に戻るだけという話もある。



とりあえず、自分にとっては気軽にスティーブン・ショアーごっこが出来なくなることが問題で、また感材がなくなることによって写真表現の手段がひとつ失われるという残念さはある。
なにしろ、印刷媒体との相性はかなりよかったらしいので、もしかしたら今後は「American Surfaces」のような写真集は出版できないかもしれないという話すらあるそうだ。



とはいえ、カラーポジはデジタル画像と競合する部分が多すぎるし、特に35ミリ程度の小型カメラではデジタルの手軽さ、作業効率の良さに性能だけで打ち勝つのは困難だろうね。


お礼状写真の完成

2006-12-13 23:07:39 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月

どこの業界にも、その業界独特のネーミングってのがあると思うけど、写真業界にもちょっと独特な言い回しというか、ネーミングセンスがあって、その中でもわかりにくい方だと思うのが「○○写真の完成」ってやつ。
例えば「風景写真の完成」とか、あるいは「人物写真の完成」とかいった感じで、知らない人間にはなにがどう完成するのかさっぱりわからないよねぇ。
コレは、番町書房から1942年(昭和17)に出版された「ライカ写真の完成」という本が、すごいベストセラーになったことにあやかったというかなんというか、とにかく「○○写真の完成」という写真ノウハウ本ならばわりかしなんでも売れたという時期があったらしく、いまだにそれを引っ張っているというわけ。


というわけで自分もそれにあやかってみたというか、ちょっとパウル・ヴォルフについて調べる機会があったので、そのまま連想ゲームのエントリータイトルいただきであります。
ちなみに、ヴォルフの作品そのものは見当たらなかったのですが、宮本百合子のエッセイ「ヴォルフの世界」が作品をよく描写しているので、興味のある方はそちらも参照してください。あえて現代日本の写真作家にたとえるならば、大西みつぐ氏なぎら健壱氏といったところだろうか。


とかなんとかうだうだやっていると、昨日の古い知人からまた連絡があり、明日に予定を変更することとなった。
まぁ、多忙な人物なので驚きはしないものの、空いた週末には別の美術関係者とセッティングしていただくなど、かえって気を使わせてしまったようでひどく恐縮してしまう。
ただ、知人や紹介してくださる美術関係者は、なぜか池袋のミネラルマーケットが目当てらしいので(鉱物コレクションが趣味の評論家だかライター氏が中心者らしい)、はねた後に混ぜてもらうと聞いてちょっと気が楽になった。


今からどきどきなのは変わり無いんだけどさ。


お礼状の作成

2006-12-12 23:01:34 | 2006年12月の展示

芳名帳(展示の小道具ではなく、ギャラリーの用意してくれたほう)をチェックしつつ、皆さんへのお礼状に使う画像をあれこれ考えてみる。
展示作品とは方向性の違う画像を使ってみたい誘惑にも駆られるが、冒険はもぅ展示だけで止めにしておいたほうがよいように思いなおし、まだ多少なりとも大人としての分別が残る画像にした。
ただ、今回は思ったよりも数が増えてしまったこともあり、申し訳ないが手書きをやめて宛名シールを使うこととしたので、途中からはデータ入力作業へ切り替えた。


ただ、なにか一言ぐらいは自筆で書き添えたいところだが、これがまたなかなか曲者で、前回のお礼状では思いのほか時間がかかってしまっている。トニカク、どっかでかっこつけたいと思い始めたら最後、ほんの短い文章にもばかばかしいほどの時間を費やした末、最後は集中が切れて書き損じを量産することになるので、できるだけ気楽に持っていこうとは思っている。


とかなんとか、仕事の合間にうだうだしていたら、古い知人から思いがけず連絡があり、週末に会うこととなった。
驚いたことに、展示を観に来てくれていたらしい。
作家として第一線で活躍している人物だけに(少なくとも、石原家の四男という「肩書き」がないと誰のことかもわからない石原延啓氏よりは、かなりメジャーだ)、いまから緊張してしまうのだが、厳しくもありがたいお話を頂戴できるだろう。


とりあえず、知人の話をうかがってから、今回の展示についてまとめようと思う。