奥泉さんの初期の秀作。読みたかったのでとても満足した。ジャズがらみの一編と、もう一編の「滝」は鬼気迫る表現で若者の純粋さを書ききった一編(芥川賞候補作)、ミステリ感もある不思議な空間を体験した。
その言葉を
高校時代同級生だった飛楽俊太郎は、田舎の秀才が集まるという進学校でも飛びぬけた、桁外れの秀才だった。 理論家で行動派、自由研究で作った読書会を牽引する、白皙で痩身の男だった。僕は同じクラスだったし、読書会でも繋がっていた、一度訪れた飛楽の部屋は一面が書棚で重厚な本に圧倒された。
だがいつも噂の種になっていた飛楽家の跡継ぎは、アカかぶれたらしい、右翼らしいという話を裏付けるように、卒業を前に姿を消した。
僕は大学に入って、ボロ下宿に落ち着き、近所のジャズ喫茶「キャノンボール」に通いつめ入り浸っていた。学校ではジャズ研に入りドラムをたたいたりしていた。
三年後「キャノンボール」で飛楽を見かけた。すぐに声を掛けるのはためらわれたが飛楽のほうは気がついていたようだった。
油に汚れたつなぎ姿は近所の工場ででも働いているようだった。僕はおずおずと近づき話しかける間柄になった。飛楽は言葉を忘れたかのように寡黙な男になっていた。
常連から、飛楽が河原でテナーサックスを吹いているという話を聞いて見に行った、彼は下手な音を出して、同じ音階を繰り返し繰り返し吹いていた。
およそテナーサックスに似合わない孤独な姿は印象的だったが、僕のこだわりはその程度だった。
同じ常連の、太めで開放的なビリーさんと言う女性と付き合っているとのことで、時々二人連れで現れた。
ビリーさんに誘われていった飛楽の部屋はビリーさんのせいで殺風景ながら綺麗に片付いていたが。実家の本棚を覚えていた僕は一冊の本もなく押入れに束になったマンガ本の山を見ただけで、寒々とした印象だった。
店で初めて飛楽の大声で怒鳴るのを聞いた次の日、ビリーさんが顔に絆創膏を貼っていた。
僕は渋谷に引越したが、ふと思いついて荒川河川敷に行ってみた。飛楽はやはりそこで吹いていた、はなれてから三年間、痩身に大きすぎるようなテナーサックスを抱えて、同じ音階練習を繰り返し練習していたが、明らかに進歩した音色が聞こえてきた。僕は驚いた。
ジャズ研のコンサートを、閉店するという「キャノンボール」で開いたが飛楽は最後に現れた。軽薄で騒々しく彼を持ち上げて紹介した僕をじっと見ていたが、手にしたグラスを床にたたきつけて去っていった。飛楽が拳銃所持で捕まった、あの時しっかり縄で縛ってあった漫画本の中に隠していたらしい。
それから暫くして駅近くのアーケードで出合った、僕は行き過ぎようとしたが近づいてきた飛楽が手を見せた、左手に三本の指の先がなくなっていた。
「やっちゃったよ」と言い照れくさそうに言って去っていった。
秀才といわれた男が酷い凋落振りで現れる。高校生の折には輝いた将来を思い描き、将来の目標にしていたらしい運動にも身が入らず、河川敷で疲れたように音階練習を繰り返している。何か物悲しい風景が心の中に沈んでくるような不思議な話だった。
最近読んだ「虫樹音楽集」で「イモナベ」と言う男が河川敷でテナーサックスを吹くシーンが出てくる。原点はここにあったのかと思った。
滝
宗教団体の若者組は恒例の行事で、白い装束に地下足袋をはき、奥日光連山に指定された7つの社を周り山岳行を行うのが決まりだった。
それぞれの社に着くとリーダーの勲が榊の枝についた神籤を引く。精進がよければ白い布がでるが、心がけが悪ければ黒い布がついている。その後は、峻険な坂を下り、邪気をはらい神気を充実させるために、滝壷で結跏趺坐を組み、禊祓の滝行を行って心身を正常に戻す、高い崖を上っていって道の続きから次の目標に進む。若者組は事前に行われた剣道試合の成績順に、5人で一つのグループを作り、グループごとに、時間差で出発するが、一番に出発できたのだから、どこよりも早くつきたいと15歳の祐矢は思っていた。冷静でたくましい勲を心から崇拝していた。しかし5の社まで神籤は黒が出続ける。
これは裕矢の兄の属する、青年組みの罠だった。
勲は、開祖の側で発展に寄与し今でも長老の筆頭に地位にいる。その孫で将来が約束されていた。
だが先触れになり仮社をつくり若者組みを迎える準備をする裕矢の兄たちは、勲のひく神籤を全て黒にした。
次に封筒に並んでいる榊の中の、白の位置をしたためる手紙を入れた。社に着いた勲は手紙を無視し、また黒を引く。
少年たちは雨に降られ、野営し、限られた食料で山を歩く上に、滝への上り下りに苦行を強いられていた。疲労も極限状態で、白い神籤がでることを祈り願っていた。
だが5の社で黒が出、滝行に降りたところで、もう一度上るには体力がつき、体を壊すもの風邪を引くものがではじめる。勲は寡黙に、負ぶったり介抱をしながらここまでたどり着いた、だがその時に脱走者が出た。
揃って行を終えなければ意味がない、勲が探しに行っている隙に、裕矢は体力をふりしぼり、走りに走って6の社で神籤を引く、白が出た。知らせようと引き返してしてみると、勲は一人6の社目指して出た後だった。道を探してすれ違ったのか、社に着いて見ると勲の姿がなく、枯れた滝の下に黒い神籤を握った勲の姿が見えた。
荒行の途中、元気に空を見、通り雨の後の虹を見て歓声を上げた若者たちは、行くたびに滝に打たれ、火を囲んで野営する、それが重なるごとに疲弊していく。道の上に覆いかぶさってくる木々たちやさまざまな山の声、自分たちの心の声。勲の俗世間から遊離したような清純な行い。組織の厳しい規則に縛られながら、勤めを果たそうとする少年たちの苦行、それらが限界に近づきやがてそれも越えてしまう。あるべき人の姿は信仰の中にあるのか、人の争いはどこにあっても静まることはないのか。ただ純な世界を持ち続けるものが生き延びるには汚れすぎているのか、様々な問いの中で、美しい自然描写と過酷な修行を対比させた壮絶で美しい物語だった。
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