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「月と蟹」 道尾秀介 文春文庫

2015-02-23 | 読書
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道尾さんの作品を読むのはこれで8作目になる。ミステリを読むことをメインにしてから、作家は見聞きした中で幅広く読んできたが、一人の作家をこんなに読んでいるのに初めて気がついた。好きでつい手が伸び読んでしまっているのは、小説の世界に共感する部分があるからかもしれない。

進一という父親を亡くし、母の行動に不安を感じている少年、彼は漁で片足をなくした祖父(昭三)と同居するために鎌倉の浜辺の町に来た。
春也も同じ頃に転校してきた。
鳴海は祖父が怪我をした事故に巻き込まれて母親をなくしている。

主人公の二人の少年と一人の少女の結びつきが、小学校5年生というには危なく、すこし背伸びした感がある。無邪気な周りの子供たちに馴染まない心の中の隙間を埋めるように、行動をともにしている。
だがその三人にしても、育ってきた環境の違いや、貧しさや、個性の違いで一人ひとりになると、それぞれ違った悲しみや苦しみを抱いている。

山の上にある岩のくぼみで、海辺で捕まえたヤドカリを飼い始める。あぶりだして殺すこともする。貝殻から這い出したヤドカリを殺して、それに願いをこめる。偶然100円が手に入り祈りが叶えられたように思った時から、ヤドカリは供物の姿からヤドガミ様という形で子供たちの日常を越えたものに変形していく。

知り合った頃から長くなるにつれ少しずつ三人の心に齟齬が生まれてくる。それは三人の苦しみの形がわずかに違っているからで、口に出していえないお互いへの思いがずれはじめたことでもある。

短い間に揺らぎ始めた三人の心は、進一の祖父が亡くなり、母と鳴海の父との関係がわかり、春也は隠していた父親からの虐待が見えるようになる。

ヤドカリの儀式は三人揃って続けられないことも多くなっていく。

誰しも、大人になれば陰のようにしか浮かんではこない、当時の世間や友人と自分の関係が、成熟していない分不安不安定な時期。誰もが持っているそんな苦しさも交えた郷愁を誘うような思いが、苦しくも悲しく迫ってくる。


「ひまわりの咲かない夏」の小学生の世界のように、越えられなかったその頃の心のゆれを書いてある。道尾作品の中の少年たちは、この「月と蟹」が一番完成度が高いと思う、将来のことはわからないが。
繊細で美しい風景描写は物語の背景を新鮮に描き出している。

病室の天井を眺めながら今日は月が明るいといったのだ。
――今日の蟹は食うんじゃねえぞ。(略)
――月夜の蟹は、駄目なんだ、食っても、ぜんぜん美味くねえんだ。(略)
――月の光がな、上から射して……海の底に……蟹の影が映ってな。
――その自分の影が、あんまり醜いもんだから……蟹は、おっかなくて身を縮こませちまう……だからな、月夜の蟹はな……。
そこまで言って昭三は眠りに落ちた。
そして、その日の夜に死んだ。


あとがきを伊集院静さんが書いている。道尾作品の描写の的確さ繊細さ、情緒のある文章について。
作品の持つ”危うさ”のようなものについて、人間であることの戸惑いについて、

”危うさ”の果てにあるのは”喪失””死”の他にない。道尾の文章表現が、的確で、繊細であるのは彼が見つめ続けている対象の果てにあるものを予期しているからではないだろうか。

伊集院さんの解説も、(下手な引用をしたが)心に残った。
名作といわれる「白秋」を読もうと思った。




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