第65回日本エッセイスト・クラブ賞受賞
命の不思議についてよく考える。最近読んだ“ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか”
それはヒトの歴史とともに心の歴史が大きな比重を締めた内容だった(なかなか感想文が書けないけれど)
先日偶然この本を見つけて読んでみた。裁判を傍聴したこともないし直接かかわったこともないが、推理小説では最後は法廷シーンで解決することも多い。それなりになんとなく雰囲気がわかるようになってきた。
また以前法務省に勤めている人と親しくなった、ご主人は大学の、システム工学の研究者だった。出張が多くそんな時は泊りがけで当時ブンガクについて語り合ったりしていた、忘年会に誘われたので参加すると若い男性が4人ほどいて彼女が上司だそうで驚いた。聞くとみんな検事で、仕事はと聞くと、離婚したり近隣ともめたりするとよくわかると言われた、ずいぶんざっくりした笑い話のようなもので、これはあまり立ち入ってはいかんと感じてそのままになった。中に私の出身地にやけに詳しい人がいて、その支部に勤めていたことがあるという話だったので雑談がそちらに向いた。
前置きはさておき、とても読みやすく、常に大きな権力を行使する、人を裁く側の裁判官に対して身近に感じる部分も多かった。
20件以上の無罪判決を言い渡し、退官後は教える側でまた新しい経験を語っている。裁判官は世情と人情に疎いと語り、周平と鬼平を読みそれを糧にし、映画も見る。イランの実情を映画で知ることもできると「桜桃の味」を挙げ「黄色いハンカチ」「寅さん」「フライドグリーントマト」「HERO」もでる。裁判官は人間観察も必要であり、深い経験がいる。
こういった親しい書きぶりとは別に、量刑の考え方、民犯罪と国民の目線、えん罪について、無罪判決,死刑について、正面から心情を説いている。
真実を知る被告人のみがわかっている(人を裁く、より)
事実認定の本質的な難しさは真実を神のみでなく、目の前の被告人自身が最もよく知っていることにある。誤った裁判をした裁判官は、犯罪者として処罰されるわけではないが、誤った判断により無実の被告人を刑務所に入れたり、死刑に処したりすることになる。そのことは、真実を知る被告人のみがわかっている。
裁判は人を扱う。正しさとはいったいどういったことなのだろう。この本を読んで、いかに良心をのぞき込み経験を積んだ立派な裁判官であっても、その判断領域は被告人一人ひとり異なった背景があり、証拠は観察の調べの中にしかなく、それが間違っているかいないかの判断はやはり神の領域にしかないように感じた。
近年、科学捜査が進歩したことで、多くの冤罪事件が表に出てきている。こういったことも犯罪の防止になればと思う。
名もない顔もない裁判官 という項目がある。確かにこういう本は役に立った。
書類づくりなど煩雑な仕事をこなす術として手控えを詳細に取っておくというのは、読書の感想でも読みっぱなしですぐに忘れることについてとても参考になった。