空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

市大植物園の花 14.05.30

2014-05-31 | 山野草

もう花も終わりでしたが見つけた花を写してきました。






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「ユリノキの花」を見てきた

2014-05-30 | 山野草

市大理学部付属植物園に初めて連れて行ってもらったのは、高校生の時だった。家から2時間近くかかった。
それから車で40分ほどで行けるところに住んだので、四季折々の花を見にもう何年も何十回も通ってきた。
高速道路ができて側道を走ると20分くらいで着くようになった。三年ぶりだろうか長くいけなかったが、ハイキング気分でお弁当を持って出掛けた。
ユリノキの花に間に合うだろうか。心配したがわずかに咲き残っていた。
もう初夏の花も終わりで、遭いたかったヤブデマリの蝶のような花はみんな飛んで行ってしまっていた。

ナンジャモンジャの花も散ってしまっていたが、足元を見ると、ヒナキキョウソウやトキワツユクサの白い花がかわいらしく咲いていた。




ユリノキの花





何も無い池だったのにいつの間にか睡蓮が沢山咲いていた。

涼しい木陰の道




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「紅梅」   津村節子   文藝春秋

2014-05-29 | 読書


外から帰って、借りてきたこの本をちょっとと思って読み始めたら、止まらなくなった。重い内容だったが読み切って時計を見ると、四時半は過ぎ、夕食の支度に遅れそうになった。

夫の吉村氏が舌癌になり、一旦治ったと言われて、改めて検査中に今度は膵臓癌がみつかる。
舌癌は手術しない治療法を選んだが、ひどい痛みに苦しむ。少し回復し体調も良くなってきたところにみつかった膵臓癌は周りの臓器も一部を取る12時間半の大手術になった。自宅療養に切り替えて看病を続ける。

最後は延命治療を望まず、自ら点滴の管や、ポートを外し家族だけに看取られて亡くなった。

夫婦ともに認められた作家で、夫は、治療中もペンをおかず約束の締め切りを守り、妻であっても看病をおいて出かけなくてはならない公用が待っていた。

私は読んでいて、とてもよくわかるとは言えない。わたしも一時癌を患ったが、舌癌や、膵臓癌に勝る苦痛を味わってはいない。
12時間に及ぶ手術の後も、痛み緩和ケアのおかげで翌日から歩き、家族の見舞も隔日でいいといった。そう出来る病気だったし看護体制も整っていた。
その後2度再発したが一人で入院して帰った。夫や子供が顔を見に来たが病状や経過については医師にくわしく聞いているし、痛みもあれば自分で耐えるものだと思った。退院後の治療は、車で行って帰ってきた。なかなか辛いものがあったが、出来るだけ周りに負担をかけたくなかった。退院後、娘が一ヶ月近くいて家事をこなしてくれて有り難かった。

津村さんは、看護した辛さによく耐えられたと思う。 吉村氏が亡くなった後、後悔に苛まれ仕事も手につかなかったとか。

闘病している本人は、辛過ぎて気持ちが乱れ、周りに当たることもわかる。しかし看護者は神の手を持たない。本人はそれもよくわかっている。奇跡もないとわかってはいるが何とかならないのか、耐えていけるのかと思う。そうしていつか少しずつ覚悟が出来るのだろう。もしかしたら考える力がなくなるくらい病が進んで楽になるのかもしれない。

まだ時間があったかもしれない時、死を覚悟して自分で最後を決めた勇気に驚き感嘆した。わたしにその勇気があるだろうか。

吉村氏は癌とわかった時、家族以外にはしらせるなといった。たぶんわたしにはわからない深い心情があったのだろう。そして「なぜ自分が」と日記に書かれたという。
わたしも、なぜ私が、よりによってと無性はらだたしかった。
そして同じように、わたしも家族と弟にだけ知らせるように、固く口止した。
友人や知り合いに留守を聞かれたら田舎に行った、長期で娘のところに行った、と言ってくれるように頼んだ。
癌と言われたとき、人生に負けた、残念だと思った。もし死に繋がっていたら、楽な治療を受け延命はやめようと覚悟した。
幸い進んだ医学で完治したが、吉村氏は放射線治療で舌癌がなおったあとて、更に膵臓癌がみつかった、その衝撃によく耐えられたとおもう。もし今わたしに別な癌が見つかったら絶望してしまうかもしれない。

わたしは、両親を次々になくした、看取った後の後悔もまだ続いていて重たい。
ただ、友人の、「瀬戸内寂聴さんは、身近なものをなくした時、ああしたらよかった、という後悔のない人はいないと言っていたよ」この一言で、誰も平等に訪れる残されたものの後悔や哀しみに思い当たった。
これが生まれた時平等に持っているという「愛別離苦」かと思った。
よく時が悲しみを薄れさせるなどというがそうではないと思う。

みんなそうなのだという生き物の悲しみが、自分も例外がなく訪れると考えると、表裏一体をなすように喜びもまた準備されているのではないか、と思うことで救われるように思う。喜びはすぐに忘れ哀しみだけに思い煩うことは、半分しか生きていないことにならないだろうか。私は嬉しいことが有るとこれがプラスでアレから引いておこうと思う(笑)

悲しい本を読んだ。
長く避けてきたこういう本に向き合えるようになったことでは、一歩前進した。


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猫を預かった

2014-05-27 | 日日是好日



猫を預かっているうちに、言葉が通じるようになった。
猫はとってもおとなしい。おしゃべりじゃないので、私が一人で話かけているようだが、ちゃんと返事はするし、よく言うことがわかる。

前に犬を飼っていたときは、近所中で一番気立てが良くて可愛い、イケメンだとおもっていたが、猫が来てみると、なんて賢くて可愛いの、と思う。

朝は顔の前でフンフン鼻息がするので目が覚める。たぶん自分は早起きしても6時ころまで起こしにこないなんて。「いい子ねぇ」といいながら目が覚める。

昼も夜も良く寝る「だから寝子という」と息子が言った。
前足がプニュプニュ、ホカホカして触ると気持ちがいい。グーの時は仮眠中。パーの時は熟睡中。

「さぁ散歩に行こう」というと喜んで勝手口にダッシュする。雨だと「こりゃだめだわ」という顔で帰ってくる。一応おしゃれな女の子なので(^^)
肩を落としてしおれた様子になる。
「そろそろ帰ろう」というとさっさと勝手口に戻るには戻るが。名残惜しそうで不満そうで、「また外で遊ぼうね」と言ってご機嫌ををとっている。

家の中で飼っていると、退屈するのかな、家の中だけでいるなんて、とは言っても外は危ない。猫も暮らし辛くなったのだ。
やはり日光に当たって鳥の声やよそのうちの立てる音や車が通り過ぎる音が聞きたいのだろう。猫の散歩なんて考えた事もなかったが、一緒に家の周り(狭い塀の中だけど)を歩くと、猫は気持ちよさそうに土の上をころころ転がっている。
そういえば今年はアマガエルの声が聞こえないし、カナヘビの子も見かけない、引越したのかな。

パソコンの前に座るとキーボードの上に乗る、どうもニャハハという顔をしている。
「ニュースでも見るかな」と言うとテレビの前に座ってしまう。困ったものだ。
「さあテレビ」と言ってパソコンの部屋に入ってドアを閉めるとニャアと大声で鳴いた ワハハ。

「お風呂よ」「ご飯よ」いちいち猫に知らせている。外から帰ると、車の音を聞きつけて玄関で待っている、可愛いなネコって。




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女三代の系譜

2014-05-26 | 日日是好日
母、祖母と私、みんな長女だ。私が子どもの頃、曾祖母も長寿で元気だった、四代の女を見てきたが、曾祖母は離れた家にいたので、顔形をかすかにしか覚えていない。それでも行くと季節のお寿司などを作ってくれ、よく働く人だったそうだ。

思うとみんなそっくり良く似た性格で、その上よく似た性格の夫を持っていた。私も。

父は一人っ子で祖父と夫は子沢山の末のほうで、おっとりした世間知らずだった。片や長女の三人は、なかなか元気で、農家の主婦になった祖母などは向こう見ずながら考え深く、祖父に先立って働いて山を増やした。でも子育ては旧弊だったのか、叔父たち7人を育てたが汗して手に入れた山などは子どもの代でみんな無くしてしまった。生きていたらさぞ無念だったろう。
祖父は気の優しいおとなしい人で、無口なので、馴染みにくかったかったが、鎌の研ぎ方や、藁草履のつくりかたなどを教えてくれた、男の中で私も男扱いだった(^^)。祖父は叔父の家で大切にされ長生きした。

男ばかり6人の中で母は女一人(黒一点?)で上から二番目だった。几帳面で綺麗好きで、私の部屋は本が山になっていたり、靴は靴箱に入れなかったり、何度言ってもあまり気にしないところが気に入らないと言っていた。
「あなたは気性がお父さん似だから苦労しないでしょう」と言っていたが、子どもが生まれてからは「苦労性は私に似てきたね」といった。褒めたのやら貶されたのやら、まぁいいかと聞き流したが、晩年は我が家で長く同居して亡くなった。私が仕事を始めたので、娘に家事一般を伝授してくれた。弟の嫁さんが、世間体もあるし家にい居てとほしいというのを、弟が年寄りは好きなところにいるほうがいいといった。幸い夫はなんとも思わないふうで、母は「北の国から」や「渡る世間は鬼ばかり」の大ファンで、始まるとそそくさと自室に入り、私は見ないので話し相手にもならず、映画の再放送や、パソコンや読書三昧、子どもたちはそれぞれ部屋で受験勉強風の何かをしていて、夫は世界情勢を新聞やテレビで見ては自己流の解説をして冷やかされたりしていた。

今でも、ご飯どき「中国はね」と言い出すと「その新聞読んだよ」「ニュースを見たよ」などと腰を折られている。

最近、猫の額ほどの庭で野菜を作り出した。農家の息子なのに手伝いもしなかったようで、ねぎや青しそを頼んでも虫に食われて満足にいただいたことが無い。ただ昨年は次々に新種の見たことの無いトマトを沢山収穫して大威張りだった。
今年はますます勢いに乗って、私が大切にしている「雪椿」や「ロウバイ」「銀木犀」「ネム」まで下枝を切り払って風通しを良くしたというが、なんか哀れな姿にしてしまった。
私はトマトと引き換えかと思いつつ心のうちで泣いている😂。昨年はスイカを作ると張り切って、こんなところでは無理というのに、ソフトボールくらいになったと喜んでいたが育たなかった。や~い無理だというのに、と思ったら今年は止めたらしい。代わりにニラが育っている、これでギョウザかと思いつつ、ニラは作りやすいわと私の独り言。

祖母や母、私と外見は全く違うのに、何か似たような苦労をしている。みんなで揃って話すことが出来たら「傾向と対策」も万全で気持ちが楽に暮らせるのではないかと思ってみる。
気丈だが人一倍子煩悩で優しかったのに、みんな居なくなって思い出だけになってしまった。さびしい。

  

今年のトマト と カタバミ(花が可愛らしいと茂らせている、いいのだろうか??)



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「ぐるりのこと」  梨木香歩  新潮文庫

2014-05-25 | 読書

梨木さんの本は2冊目だが、話題になっていたのに読んでなかった。
ミステリの世界をちょっと歩いてみようと思ってから、文学作品から少し遠ざかっていた。
仕事を辞めた途端に、後を引かない話がいいと思うようになったのが原因かもしれない。仕事に逃げられなくなると、身軽な日常の方が健康上よろしいのではと思いついた。ストレスの源は仕事だと思っていたが、今になって思うとちょっとした逃げ場だったかもしれない。
あまりに本が溢れているので、退職後の時間の使い道に迷ったついでに、あまり知らないジャンルに踏み込んでみたらこれが面白過ぎた。

そして最近、何か足りない、情緒にいささか偏りがあると思い始めた。それが全部ミステリにどっぷり漬かり過ぎたので、幼い頃から馴染んできたものを手放しからではないかとふと思った。文学書のような区別の難しいミステリも多くてまだまだ卒業できそうになけれど。最近そんな気がしていた。

梨木さんの本を手にして、こういう文章が心を落ち着かせるのか、帰るところはこういう世界なのかもしれないと気がついた。
身の回りの話題から、世界を大く広げるようなエッセイ集だった。「ぐるり」と言う言葉は、「周り」ということに使われる。母の田舎では「田んぼのグルリの草刈りをしよう」「家のグルリをひと回り」などと普通に使う。

「グルリのこと」という題名の「グルリ」とは、「グリとグラ」に近い何かの名前なのかとぼんやり思っていた。わたしは何でも予備知識なしで取り掛かる欠点がある。

境界を行き来する
ドーバー海峡の崖からフランスの方に身を乗り出して見た時気づいた、「自分を開く」と言うことからつぎつぎに連想される事がらについて考える。

隠れていたい場所
 生垣の中と外、内と外からの眺めや中に住んで見たい思いがイスラムの女性の服装について考える。
イスラームの女性の被りものは、覆う部位や大きさ、また国によって様々な呼び名があるが、総称してヘジャーブという(略)イスラームに対する批判の中には、唯々諾々とヘジャーブを「纏わされている」女性たち自身に対するものもある。「隠れている」状態は、それを強制させられていることに対する同情とともに抑圧に対する自覚がなく、自覚があるなら卑怯であり、個として認められなくても当たり前、というような。
それから、そういう印象を受けるイスラームの問題や、われわれの受け取り方や、わかろうとする無理について考える。面白い。

風の巡る場所
観光客が向けるカメラの先にいる現地の人たちに対する思いや、旅人の自分や大地を見つめて、考えたことなど。

大地へ
少年犯罪について、教育者の態度、子を亡くした親の悲痛な心について。逆縁の不孝、冠婚葬祭の風習などについても。

目的に向かう
この分は実に「ぐるりのこと」なので面白い。車で信楽に出掛けたところ、回り道をしてしまって伊賀上野についたり、昔ながらの田舎の庭が、イングリッシュガーデンの始まりに似ていると思ったり、私も野草や花が好きなので、近代的な花もいいが、昔ながらの黄色いダリアや千日紅、ホウセンカなどが咲いている庭を見ると懐かしい。共感を覚えて嬉しくなった。

群れの境界から
映画「ラストサムライ」を見て思ったこと。葉隠れの思想、西郷隆盛の実像などの考察。
群れで生きることの精神的な(だからこそ人が命をかけるほどに重要な)意義は、それが与えてくれる安定感、所属感にあり、そしてそれは、儒教精神のよってさらに強固なものになる(その「強固」もうすでに崩壊に向かっている訳だけれど)この儒教精神も絶妙な遣りかたで(結果的に見れば。その時々で都合のいいように使われてきたことの堆積が宋見えるだけかも知れないけれど)為政者側に役立ってきた。
こういう物語や、現実につながる過去の歴史が思い当たる。

物語を
風切羽が事故でだめになったカラスに出会う、あんたは死ぬ、と言って聞かせた後、帰り道でカラスが民家の庭にいるのを見る。迷子のカラスがペットになった話があったなと思う。カラスと目が合って「そうだとりあえず、それでいこう、それしかない」と思い、そうだ、可能性がある限り生物は生きる努力をする。生き抜く算段をしなければ。
アイヌのおばあさんの処世術について。
ムラサキツユクサの白花を見つけたが、そこが住宅地になってしまって胸が痛んだこと。
本当にしたい仕事について、

物語を語りたい。
そこに人が存在する、その大地の由来を



ますます好きになった梨木さんという作家の物語を楽しみに読みたい。



今年咲いた庭のミニバラ
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「代官山コールドケース」 佐々木譲 文藝春秋

2014-05-25 | 読書


「警官の血」が面白かったので、この本を読むのをとても楽しみにしていた。
予約が多くて長く待ったがやっと昨日順番がまわってきた。

 私の中で「コールドケース」と言う言葉が先行していたが、それは前に見ていたアメリカのドラマが面白かったので、勝手に作品のイメージをつくりあげていた部分もある。
あのドラマでは、未解決事件を再調査するちょっと変人の女性刑事とスタッフが面白かった。毎回同じパターンのシーンが繰り返されるが、今の事件を解決するために過去の迷宮入りの事件を再調査する、時間を遡った当時の事件が起きたシーンと、同じ人物が年を経て現れるシーンでは過去と現在の人物が重なる、若い頃ああだった人が年をとってこうなったのかと、楽しみだった。
勿論意外な犯人が見つかったり、隠された悲劇が露わになることもあって毎回が面白く、さすがにヒットメーカーのブラッカイマー監督だと得心した。

 さて、日本版「代官山コールドケース」はあのドラマと比べても仕方が無い。映像の力というものがあるし、読書は読み手の理解力や想像力にかかる部分もある。

そんなことを思うとなんにも言えなくなるのでちょっと棚にあげて(笑)

17年前、代官山で若い女性が殺された。女性と付き合いがあったカメラマンを取り調べたが容疑は確証がなく一旦帰宅させた後、自殺されてしまった。 
容疑は濃厚と見られていたので、被疑者死亡で不起訴になり事件は一応解決していた。

川崎で一人暮らしの若い女性が殺されて、17年前の事件と重なる遺留品が見つかった。

連続殺人だとすると前の事件は勇み足ではなかったか。間違えば大きな不祥事になる。そこで隠密に特別捜査を受け持つ警視庁特命捜査対策室に、水戸部と朝香が任命される。出来る若手の水戸部と少し年上のこれもできる女性とのコンビが再調査を始める。

川崎の事件を調べる神奈川県警には、17年前の事件で捜査に当たった時田警部補がいた。かれも当時の捜査結果に満足していながった。
だが、お互いに所轄が違い表立って情報交換ができない立場にある。

神奈川署が先に解決してしまえば、17年前の事件は、遺族補償の問題まで発生する。十七年前は、あのオウム真理教の事件、国松長官の狙撃のあとだった。捜査員は大きな渦に巻き込まれていて人手もなかった、と言うのも今では言い訳になるほど時がたっている。

しかし、現代になって優秀な科捜研は、見つかった遺留品を当時より数倍も進んだ技術で解明している。

当時の代官山は、不動産の狙い目で、小さな木造アパートの並ぶ地区は出来るだけ早く整理され、現在の形に向けて早いスピードで大きく変貌していく過渡期だった。今では様変わりしてしまって、当時の様子は地図がたよりだ、しかし当時事件の関係者が溜まり場にしていたカフェバーは残っていた。

旧地図をコツコツ調べ、確実に真相に近づいていく。代官山事件捜査組。
また今の事件を捜査する、神奈川県警の進展の様子、時田の捜査状況が、交互に書かれて緊張感がある。

殺された女性たちと関わった男をDNA鑑定にかけてふるい落として行く、これも骨が折れるが、容疑者も確定し、再訊問で17年前の事件に近づいていく。
前の事件の被害者、夢破れた地方出身者、それにつけこんだ容疑者たち。

駒は揃っているが、容疑者の背景は事件以外は語られない。妻の存在や、仕事場位で背景はあまり必要ではなかったのか。
容疑者達は見るからになにか後ろ暗い。女性に持てる医師達は、軽い遊び用で女を手に入れ、深入りはしない割り切った付き合いだと言い切る。


代官山の犯人と、川崎に残っている手がかりの慰留物とはどうつながるのか。
聞き込みと、時田の記憶、警視庁の威信を任された優秀なコンビがPCを駆使し、関係資料を読みこなし、手がかりに沿って歩いて調べを入れる、さすがに優秀で抜擢されただけはある。

縺れた紐がほどかれる楽しみはあったが、縺れ方も緩く、期待したような盛り上がりもなかった。
時間の経過が17年、極端に深い心理描写などを省いた、ダイジェスト版に近い印象を受けた。


ハードカバーでページ数にしては重い、定価は税抜きで1850円 紙質が厚いためか、上質製本だからか分厚すぎる。少し待ってもやはり図書館で借りる。
珍しく机の前に座って読んだ。
少し期待はずれ。

予約数が多いので早く返すように言われた。出掛けるついでに持っていく。


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「カラスの親指」 道尾秀介 講談社文庫

2014-05-23 | 読書



日本人の名前は覚えやすい、さらさらっと読めた。図書館に予約すると、海外のものはすぐに順番が来るが、日本のミステリーは申し込みが多くて、最近のものはずいぶん待たなくては読めない。
これは積んであった読了本の中から発掘した。紛れ込んで忘れていたらしい。

竹沢(タケさん)・・・営業マンだったが妻をガンで亡くし、しばらくして娘も火事で亡くす。賭博で借金を作った友人の保証人になり、友人が逃亡した後その借金を背負い込んでしまう。ヤクザの追い込みを逃れるためにヤクザと組み自分も取り立て屋になる。貧しい母子家庭から根こそぎ取り立てたあと母親が自殺する。

テツさん・・・・・・ 鍵職人。はじめた商売がうまくいかず、妻は不倫の末家出。舞いもどった時には薬中毒になり、莫大な借金をしょっていた。テツさんは家出。以来かかわりの無い生活をしていた。鍵を使った詐欺師になってその仕事中にタケさんに見つかり、訳を話すうちに話がまとまり同居。英語とアナグラムに凝っている。

まひろ・・・・・・・・スリに失敗したところを助けられて、同居。

やひろ・・・・・・・・まひろの姉、無職で住むところが無く妹とともに同居。

貫太郎・・・・・・・・やひろの彼氏、マジシャンだったが無職になり姉妹とともに同居。

トサカ・・・・・・・・迷い猫。拾われて同居。


5人と一匹が擬似家族のように暮らしだす。

共通の恨みつらみを晴らそうとヤクザにコンゲームを仕掛ける。
携帯や車を使った手口と、お膳立てが本当に面白い。

5百ページを越える長さだが、登場人物の境遇やひととなり、過去の暮らしぶり(タケ+テツの詐欺、あの手この手)など、同居にいたる過程もわかる。
それにクイズやマジックやアナグラムが絡み、最後の智恵を出し合った報復ゲームは成功するのかスリルがある。

意外にも5人には何かの繋がりがある。同居しているうちにいつの間にか家族のようになっていき、過去の傷が癒えていくというところが暖かい。

題名は

玄人=くろ=カラス
親指(お父さん指)はほかの4本の指が全部見える。

ミステリかな、そうだとしたら作者が見せてくれるあちこちにある仕掛けに気づかないうちに、とうとう終盤の大仕掛けになる、ここは読みどころ。
終わり方もいい

「いいですよそんなもん縮んだって。どうせ女房が死んだとき、じぶんだってもう半分死んじまったようなもんなんですから」
「そういうこと言うなって」
「言いますよ。だってほんとうなんですから。あいつらは、女房を殺しただけじゃないんです、自分のことも殺したんですよ。人を殺すってことはそういうことです。たとえ包丁で刺したり拳銃で撃ったりしなくても、同じことですよ。誰かを殺したり自殺に追い込んだりしたら、そのそばにいる別の誰かのことも、必ず殺すことになるんです。人間は一人じゃないんですからね。一人だけを殺すことなんてできませんよ」
「テツさん━━」
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『「わかる」とはなにか』  長尾真  岩波新書

2014-05-20 | 読書


「ゼログラビティ」を見てから、この作品について、宇宙科学者の説明を読んだ。
映画作品と、現実とのずれを好意的に解説したものだった。
 映画を、こういった科学的な見方で楽しむことが出来たなら、いっそう深い感動が味わえたのではないかと思ったが。娯楽作品からのメッセージは科学をまぶした人間的なストーリーを楽しむものかもしれない。それでも、出来ることなら丸ごと楽しめたらもっと愉快ではないだろうか。
私は、科学的な分野を理解するのはあまりにも無知に過ぎる。科学にしても、化学にしてもほんの基礎の基礎をかじったくらいで、登っても登っても次の頂が現れ、研究者も未だ見たことのないような山が未来永劫続いているような、科学を含めた学問の世界を、文字や映像で全て理解しようとするのは無理かもしれない。
しかし、今書かれたり作られたりしているのはまさしく、現代の学問であって、「全ての作品は今を越えるものではない」という文学作品を語る言葉もどこかで読んだことがあるが。
映画を見て、作品は今の科学技術の全てなら、楽しむのは今を基にして想像されるフィクションばかりだろうか。
日進月歩の現代で、想像力が広がること、それはフィクションというとても面白いものであっても、いつか現実化されるものでは無いだろうか。
だが、今に立ち返ってみれば、門外漢でも少しは身の回りでおきている、学問の研究者やその成果を知ることが出来たら、そのほんの一端にでも参加できるのではないか。

探っても探ってもたどり着かない、奇怪で巧緻で更に奥深い創造主(という言葉は便宜上の産物であり、存在したとしても、たとえばそれをXとするといったような)にしてみればその創造物のマクロ的な作業の解明に取り掛かっているに過ぎないとしても、やはり進歩という以外に無い、知識の広がりだと思う。

話は変わるが、病気をして初めて現代医学の進歩を知った。検査技術はもとより、進んだ検査器具、大掛かりな検査装置、放射性同位元素を使った染色検査。手術の際のさまざまな器具や進んだ技術。優秀な医師の分かりやすく難しいことを伝える説明技術。そして新しい実験的な治療法。適切な時期に恵まれ、私は進んでその治療法を受けてこれもまことに幸いなことに完治した。
聞けば何にでも答えてくれる、専門の医師や医療技術者を前に自分が、健康にかまけて病気とはどんなに遠くはなれて暮らしていたかを感じた。

科学も化学もそうだが、身をもって知る、現場に立ち会って初めて分かるというのが人間ではないだろうか。私は想像力が思いやりだなどと分かったようなことを言ってきたが、その想像力は体験した事実があってこその想像であり思いやりかもしれないと思うように変化し、言い切ることが出来なくなった。
 反対の思いやりの無さは想像力が欠けているからかもしれないけれど。それはあながち間違いとは言い切れない。


 前置きが長くなったが、この本は「化学技術」がわかることについて、「言葉」「文章」「科学技術と社会の繋がり」について
わかることのヒントが書かれている。
読めば面白く、頭の整理が出来る。

はじめに

多くの一般読者は、本書の「わかる」とは何か」という表題から、学校の教室において先生の説明を理解する過程がどうなっているかといった、学校教育における生徒の理解問題を取り扱っている本、あるいは社会や自然の事象のしくみはどうすればわかるのかを説明する本を予想されるだろう。しかし、残念ながら本書はそのような場面はあつかっていない。本書は、一般の人たちが社会において科学技術と共存していくためには、科学技術とは何かを理解しなければならず、そのためにどのようなことを考える必要があるかを明らかにすることを目指している。(略)


1.社会と科学技術
2.化学的説明とは
3.推論の不完全性
4.言葉を理解する
5.文章は危うさをもつ
6.科学技術が社会の信頼を得るために


特に6の

・ 社会科学と自然科学
・ 人間感情を重視する
・ 学問への信頼
・ 自然科学を超えて


科学を理解することから、東洋と西欧の思想の違い、歴史的な信教の相違、など哲学的な考察も添えてある。

そういった意味で、21世紀は東洋的思想が広く世界中に認識されるべき時代であり、私たちは自身と誇りを持ってこれを主張し、全世界の人々に理解させる努力をする必要があるものと考えられる。これを言語的転回になぞらえていえば、アジア的転向(Asiatic turn)といってもよい、ものの考え方の転向だろう。
 ここに述べた議論はひじょうに乱暴でまちがった考えであると、哲学思想史の専門家から指摘sだれるかもしれない。しかし、言わんとするところは、絶対的であると思われているかも知れない西欧思想、理性への信仰も、これからの時代にかならずしも妥当なものであるとはいえず、日本人のもつ思想、私が私なりに育ててきた考え方もこれからの時代において大きな存在価値をもつ可能性があるのだということである。21世紀はアジアの世紀であるとすれば、それはこのアジア的転向の意味である、いいたいのである。


そして おわりには
科学的知識は、実験・実証に支えられた壮大な体系をなしていて、これを十分信頼できることはまちがいないが、そのような確実な科学的学問体系といえども、ある種の場面では不覚にもほころびを見せるときがある。したがって、自然科学であってもつねにその正しさを確認し、適用を誤らないように注意することが必要である。まして、最近よくもてはやされている「知」というものは、もっとも不確かで壊れやすいものである。知をもてあそぶ風潮があるとすれば、それは危険なことといわねばなるまい。よく知・情・意というが、20世紀が知の時代であったとすれば、どうやらその時代は終わりかけており、情の時代、心の時代はちょ徐々に転換していきつつあると感じられる。
 私たち一般の人間にとっては「もってまわった理屈を聞かされ、これは科学だからまちがっていないと自分自身にいい聞かせ納得したつもりになっているが、じつは自分にとっての存在感はそこにはない。理屈はつけられないが、自分はことらのほうに与する、こちらのおうが心にぴったりくる、ということのほうが、実は十分に知っての真実であえい、実在なのである」といった側面もある。こういった形の真実をますます大切に思う時代がくるという予感もする。
 それは、科学によって奪われ、失ってしまった人間性をふたたび回復しようちょする動きと見ることもできよう。科学は、こういうことについても十分か理解と認識をすること、つまり、この矛盾するふたつの体系を同時的にあつかっていく力を持つ必要がこれからはあるわけで、それができれなければ、化学の力は21世紀には徐々に衰退していかざるをえないであろう。



考えさせてくれるとても読み応えのある内容だった。時には脳をクリーニング、リフレッシュする必要がある。それも頻繁に(笑)





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「ゴーン・ガール」上下 ギリアン・フリン 小学館文庫

2014-05-19 | 読書
 



この本は「イヤミス」と呼ばれているらしい。「嫌ミス」なのだろうか。そういえばいや~な感じの言葉満載。放送禁止用語、それも飛びっきりの下品な言葉で埋まっているが、なんと慣れるとは恐ろしい、読んでいるうちに気にならなくなってくる、やはり、言いにくい言葉は最初の一言を我慢することだな何事につけても(自戒のひとこと)読書は役に立つ(^^)

上巻の帯「虚栄、裏切り、復讐、憎悪、そして嘘、読んだ後まで、あなたの心は操られ続ける」
下巻の帯「誰もが持っていて、隠しておきたい嫌な感情が、これでもかというほど濃密に描き出される」

誰が考えたのだろう、これを読むと気の弱い人は伸ばした手を引っ込めるかもしれない。

私は、もうこのくらいで驚かない、ホラーでもスリラーでも、気の毒な主人公が崖っぷちに追い詰められようと切り刻まれようと、登場するのが、ハンニバルでもドラキュラでも食人種でも、読ませていただきますと、血も涙もないミステリー好きの読書欲には負けてしまって、何でもあり、面白ければいい('-'*)
というわけで、面白かった。

夫婦が書いたそれぞれの日記には、ウラの顔が書いてある。妻はまさに虚栄と自己欺瞞に満ちているが、浮気までしていた夫は事件後の心境がなんとも生なましい。

夫ニックはニューヨークでライターをしていたが失業、性格診断クイズを作っていた妻も職を失った。
ニックの母親が病気、父は認知症になったので、二人はニックの故郷に帰ってくる。そして結婚5年目の記念日に妻が失踪した。ふっと消えてしまった。
キッチンに大量の血痕があり、部屋は荒らされていた。アリバイが無いニックは警察の取調べを受ける。

エイミーは両親が書いた小説のモデルで、その本は成長記録のように続いて出版され、初版はベストセラーになり、印税で裕福な暮らしをしてきたが、最近は売れ行きもさっぱり、両親は借金がかさんでいる。

二人は会った途端に恋をして結婚したが、今では憎みあうまでになっている。

嫌疑のかかったニックは全く無実が証明出来ない。妻の日記は無邪気で真実味があふれ、いまだに冷めないニックへの溢れるような愛情が綴られていて、容疑が深まるばかり。マスコミは、「あの小説のモデルが失踪!!」と騒ぐ。

下巻には
真の恐ろしい迷宮があるとすれば、それは合わせ鏡のようなものだろう。出口なき世界のなかで、ひとつに解け合う現実と虚構。そこに映し出されているのは、自分なのか、相手なのか。交錯する視線の中に浮かび上がる真実とは。虚栄心、嫉妬、保身、裏切り、敗北感、復讐心、欺瞞、執着、支配欲、憎悪、そしてそこから生まれる嘘、嘘、嘘・・・・。誰もが持っていて、そして出来れば蓋をして隠しておきたいとおもうありとあらゆる嫌な感情がこれでもかというほど濃密に描き出される
これでもかこれでもかというような訳者あとがきより

帯とダブル部分があるが、上巻は多少ほほえましい結婚の経緯や暮らしぶりも書かれていて、平坦な日常が進んでいく。が、下巻で様相が変わり、すばらしい構成に嵌められる。それもストーリーの何気ない進行がやがて不気味さを見せ始め、緊張感がある。ベストセラーになり映画化もされるという、もう少し短く出来るかなと思う部分もあるが、読みやすく、嫌、嫌といわれる事も売り文句のように感じるくらいで、それほど気にもならなかった。面白かった。

この本は予備知識があると全く面白くない。
あとがきにも、本編を読んでから読んでください、というほどで、感想も帯や解説を引用させてもらった。

映画化され、ニックはベン・アフレックとか。女優さんは知らない人だった。


こういうのに、小泉喜美子さんの「弁護側の証人」がある、歴史に残る名作だと思ったが、あらすじも感想も書けない。ただそんなに厚くない文庫でもう一度読み返したいと思うが、結末を覚えている間は無理かなと思っている、忘れるのもそんなに長い時間はかからないと思うけれど(笑)




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「今日もいろいろ、明日もいろいろ」

2014-05-17 | その外のあれこれ

140515 今年のミニ薔薇


子どもが小さい頃「お母さん夕ご飯なに?」とよく聞きに来た。「いろいろよ」三歳くらいまでは「ふ~~んそうか」と言っていた。
少し大きくなると「いろいろって何?」と来た。「いろいろって、いと、ろよ」「いと、ろか」という、それで諦めたのか「今日もいろいろ?」そこで「今日は、は、もあるよ」「はって何?」「ははね、ケーキがある」
それからは「は。だけでもいい」と言い出した。

最近はガレージの臭いで感づくらしい。キッチンの排気がガレージに向いている。


言葉数は少なく済ませたいというのが子どもの頃からの癖で、母が「はさみ知らない?」と聞くと「知らん」という。でも気になって探して持っていくと「どうせ探してくれるんなら、知らんよりほかに言い方があるでしょう、全く!」とこぼす。
私は自分は気が優しくて力持ちの部類だと思っていた。言葉は少なくても、親ならそこのところくらいは分かってくれなくては、長い付き合いだし、色々やっているでしょう。

両親が気に入った男性がよく遊びに来ていた。たまに「どこか行かないか」という「行かない、いろいろ忙しいから」と私は言う、休日はそれなりにいろいろすることがある。
母は後になって「あんたの言い方はニベも無いね」と言っていた。
(ニベも無いか、ニベニベしいよりいいでしょう、何で行きたくないのに行かないといけないか、それもどこかに、ア~ア)と私は思っていた。

子どもを育てるようになって、今で言う面倒なママ友付き合いに巻き込まれた。子ども可愛さで、今時は少しニベニベしい方がいいと、気が付いた。転勤先でもやわらか~く、ニコニコと話しかけると好かれることが分かった、。やっと母の言う意味が分かったけれど。

うちの中では未だ未だ「ニベ」の尻尾がぶら下がっている。




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「緋色の十字章」(警察署長ブルーノ)マーティン・ウォーカー 創元推理文庫

2014-05-15 | 読書


イギリス作家の書いたフランスが舞台のミステリ。初めて読むので馴染むまで時間がかかったが、読後感はよかったので続きを読むことにした。

主人公はフランスの片田舎で優雅な独身生活を送っている39歳の警官。村人のことは知らないことは無い、女たちは独身の彼の噂話に事欠かず、人気もある。
古家を快適に改造し、ガーデニングにもいそしみ、テニスやラグビー仲間、クラブの友達を招いてテラスに自家製のワインを出し、手作りの料理でもてなす。
誠実で明るく、思慮深い出来すぎたような男。
ただ寂しい過去があり、孤児で育ったが村長の計らいでこの村に落ち着いた。これもありとする。
人格者の村長を父親の様に尊敬して慕っている。

まぁありきたりの造形だと思えた。大事件が起こる前は。

そののどかな「サンドニ村」で独り暮らしの老人が虐殺された。彼は戦功十字章を受けた英雄だが、アルジェリア人だった。息子も孫もいて、もうすぐ曾孫も生まれるというのだが、滅多に人前に出ず、すすんで忘れらたような生活をしていた。

毎日、夕方の食事のため送り迎えをしていた優しい孫が発見してブルーノに知らせる。そうして村で独りの警官として事件に片足を突っ込むが、本捜査は任かされない。
悪役の捜査官が登場、物語を引き立てる。身分に拘り、育ちのよさをひけらかす厭な奴だ。

しかし、この事件は過去の第二次世界大戦に端を発していた。

そこでジャーナリストだったこの作家が本領を発揮する。戦前戦後のフランス軍とナチスドイツなどヨーロッパを巻き込んだ戦いの歴史的な薀蓄が長い。
重要な核になるところだが、私のような歴史音痴には、そこまで長く細かく教えられなくても、話は進むのではないかと思ってやきもきする。
しかし一面身につまされる記述もある。知りあった歴史の教師が語るイギリスの産業革命後の話。

上等な農業技術のせいで労働力は需要が減り、資金はますます必要になった。それで小規模農場や農家は土地を失い、一方で新しい工場に労働者が必要になったの。英国は見る見るうちに都会的な産業国になり、大都会の市場には輸送や貯蓄が容易で、手早く用意できる食べ物が求められるようになった。多くの女性が加工や製造の工場で働いていたからよ。その後北米やアルゼンチンで新しい農地がどんどん開拓され自由貿易政策の下で英国の農家は価格競争に敗れ、英国はいつしか安い食品の輸入大国になった。外国からは肉の缶詰や大量生産のパンが入ってきた。それと平行して、何世代も受け継がれてきた伝統的な農家の料理が消えていった。


同じ薀蓄でも「京極さん」のレンガ本なら、妖怪や変化はどちらかというと私も好き、という興味が一致していて長さも気にならないが、フランスの立場や、大戦後の変化。ナチやイギリス軍の動きなど、難しいところもあった。

フランスらしく料理についても細かい。特にワイン、ソース、食材云々も、ブルーノの関心事だしおいしそうで真にうらやましいが、それで、事件はどうなるの、はやくしないと眠くなるよと、思った。

でも、そうではなかった。
残り少なくなったあたりで俄然面白くなる。
眠らないで歴史も少しは頭に入れていてよかったと思うことになる。戦時中のあれこれ、悲惨な部分が事件とつながる。

となると夢中になるが、なかなか予想通りに犯人が浮かんでこない。
それには大きな訳があり、これが村長とブルーノの悩みどころで、どう解決するのか。
ブルーノは想像する気にもなれなかった。ひとたびすべてを知ったらフランスの大衆が北アフリカ人にどんな態度を取るか、そして国民戦線の票がどれほどふくれあがることか。腰掛けたまま前かがみになって両手で頭を抱え、唇を噛みながら、なんとか筋道を立てて考えようとした。計画を立てなければ。村長に話し、J=Jとイザベルに伝え明日の朝一番にボルドーに行く手はずを整えるのだ。クリスティーとも話して、この村をこんな爆弾に対して備えさせるにはどうすればいいのか助言をもらわなければ
読みきらないでは眠れない。そうして読み終わったら今日になっていた。

中に未成年の麻薬がらみの事件があるが、またこれが、ブルーノが子供の頃から手元で見てきた少年で、父親も心を許した関係。頭が痛い、どう処理するか。

村人の関係も絡まって解決は難航するが、読み終わってみれば、ちょっとした歴史と料理の知識が増えていた。

その上、登場する独身女性は非の打ち所の無い飛び切りの知的な美人が三人、何か起こりそうな予感がする。
その結果、同じ事件を捜査する、マニッシュな美女イザベラといい関係になる。観光名所の洞窟を案内し、ろうそくの灯の下で手料理を振舞う、何だかロマンス小説のような設定だったが、それもいいでしょう。
そういうソフトな話題もはさんで、始まりは「ヨーロッパ戦勝記念日」の祭典、終わりも同じ「ヨーロッパ戦勝記念日」なのだが、ブルーノの気持は事件の後先ではまるで違っている。巧い構成だった。
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「地図帳よさようなら」「グーグルアースよこんにちは」

2014-05-14 | 日日是好日


14/05/14 庭のユキノシタ マクロで


昨日のこと、本の返却に行ったら「これ、今着いたばかりです」と予約の本が三冊も来ていた。
今週末から雑用が増えるし読めるかな、と思いながらそれでも一冊を即立ち読みした。
このシリーズはまだ三冊しか出ていないけれど、全部読もうと楽しみにしていた「警察署長ブルーノ」
頭の中はまだアイスランドにいたのだが、今度はフランスに行けると喜んでいた。
解説は吉野仁さんで、さすがきっちり語りきった文章を読んでますます期待が膨らんだ。「そうでしょう、そうでしょう」
私はほとんど分からなかった第二次世界大戦の時の、フランスの複雑な内情もさらりと書いてくれていた。

ところが、舞台がフランスの片田舎サンドニなので、はっきりとは知らない吉野さんは、グーグル・アースで見てみたという。「あ!その手があったか」目からうろこ、この衝撃(*^ワ^*)

そういえば娘が「門のところの枯れた紫蘭の葉は切ったよね」と言って来た。「へ!とっくに切ったよ」と言ったが千里眼か、それにそんな前のこと。
「いつも見てるからね、サボらないで綺麗にしてね」「なんのこと?」
よく聞いてみると、その話はグーグル、ストリートビュー車だった。
「よし、そっちも見てみよう」「それがここは駄目なんよねぇ」
郊外の新興地、静かで広いといえば聞こえはいいが、グーグル車は走らないそうだ。そんなことで、空からでも見ようかと思ったがすっかり忘れていた。

改めて、アイスランドを訪問、サンドニも見てみた。しかし操作に慣れるまで時間がかかるなぁ。行くよりはずっと近いか(行けないけど)(^∇^)




今年も可愛い、ユキノシタが咲いた。早く公園に行かないと季節の花も終わってしまう。






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「緑衣の女」 アーナルデュル・インドリダソン 東京創元社

2014-05-13 | 読書


CWAゴールドダガー賞・ガラスの鍵賞


「湿地」に続く二作目だけれど、アイスランドという国は特に馴染みがないせいか、「湿地」でも最初は読みにくかった。
特に名前や土地に着く「ヴ」という音のつながりが、遠い国を実感させた。
「湿地」を読むのに、改めて地図帳の北欧というところを選んで、拡大されたページを見てみた。北極圏にあるグリーンランドに近い寒いところらしいと思っていたが、日本の1/3くらいの広さを持つ丸い島国で、随分進んだ文化や歴史のある国だと知った。
あまり深入りして調べだすと、夢に見たり、行ってみたくなるので(行けはしないのに)考えるのも程ほどにして、話を楽しんだ。

この「緑衣の女」は訳者のあとがきによると、激しいDV描写があるので、出版についてはその部分が少し気がかりだったそうだ。そういわれるとなかなかハードな部分がある。家庭内の暴力が繰り返されて、心身ともに傷つけられる母親の姿は、三人の子どもの精神まで損なってしまう。

でも、コアなハードボイルドなどを読み出すと、現実として身近には考えない、やはりどこか絵空事で、ストーリーの一部でしかないと思うようになる。現実に身近にあるかもしれないとは思いつつ、最近なニュースなどを見ると平和な世界がほころびてくるようで恐ろしくなるところもあるが。

作り話だと割り切れない世代には訳者のような気配りもいるかもしれない。



アイスランドでは、第二次世界大戦の後の混乱が終わって、時代とともに生活が変化し、街が郊外に広がりだす。その新興住宅地の工事現場の穴から、肋骨が折れ、宙に腕を伸ばした白骨が見つかる。
60年ほど前のものらしい。戦中から戦後のものかもしれないが、当時このあたりはイギリス軍の後アメリカからの兵士が来てバラックを建てていた。現在は全て取り払われて家が建ち始めている。

二作目でちょっと馴染みになったエーレンデュル捜査官と同僚が調べ始める。

現代の犯罪捜査の様子と、戦後、骨が埋められた時代にさかのぼった話になっている。

バラックから離れた古い一軒屋で、繰り返されていたDVの様子や、その家庭の話が同時に進んでいく。

それまで話されなかったエーレンデュルの悩み、荒れた家庭の様子も、明らかになっていく。

骨は誰なのか、聞き込んでいるうちに浮かんでくる影は見えるが、確定するには時間がたちすぎている。

60年(ほど)という長さが丁度いい。当時を知る人々が年老いてしまってはいるが少しは生き残っている。聴き取った話を繋ぎ合わせて現代に結んでいく。

その捜査過程の、紳士的な警察官も、協力する周りの係官の働きもいい。
昔ひとつの家庭があって、それが惨めで恐ろしい形で崩壊していくさま、母親が犠牲になって耐え抜く様子がリアルで、哀しく腹立たしい。


読みにくい土地や人名に慣れると、話に引き込まれる。「湿地」とこの作品で賞をダブルで受賞しているそうだが、物語としては「緑衣の女」がこなれていて、人物の描写も細やかで面白かった。


その前に「冬のフロスト」を読み始めていたが、国民性というか、キャラの違いが面白い。周りが取り散らかって言葉も汚い、それでいて気持ちの優しいフロストに比べて、エーレンデュルと同僚たちの捜査は繊細で思いやりもあり、それぞれ個性的で次第に馴染んできた。

フロストをおいて読んでも後悔しないくらい、読み応えがあった。

一風変わった犯人探しだけでない味わい深いところがとてもいい。

訳者のあとがきもとても参考になった。





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「言いまつがい」 糸井重里 糸井重里事務所

2014-05-12 | 読書



「ロスト・ケア」で気持ちがドン底に沈んだので、出掛けた帰りに予約しておいたこの本を受け取ってきた。
「目には目で」「本には本で」とハムラビ法典にもある? ('-'*)エヘ

「まつがい」の投稿はネットで始まったそうで、今でもネット上で見ることが出来るが、まぁ、まとまってみると、何というか、思い当たるというか、お腹がよじれた。

私は、子どもから「お母さんて面白いね~」といってくっつかれ。周りからは「楽しい」「明るい」「面白い」「天然だ」といわれる。
一応褒め言葉だといい気になっていたが、「何! 天然だと!」とはじめて聞いたときは立腹の体。でも心を沈めて自分の日常、生い立ちを静観するとまさにお言葉どおり。
ご慧眼恐れ入った。

この中学からの悪縁深い同級生だけは今でも自信をもって、人前でも構わずそう言う。


それが自分では、深謀遠慮、無口な上に集団生活は、和を以って尊しとなすをモットーに目立たず騒がず生きて来たツモリだが。

集まりもたけなわになるとタガがゆるむのか、爆笑の中で孤立してしまう。中でヒトリシズカ?、台風の目のごとくポカンと置いてけぼりになる。
それは時には「いいまつがい」が始まりで、周りでは気を使いながらソッと「今云ったそれ、なんとなく間違ったぽいよ」といわれるが。

そんな集大成に思いっきり笑った。
相哀れむどころか、そうだそうだとうなづき、俄然あれこれを思い出して、なんだそういうあなたも天然ではないかと、次にあったときは言い返してやるのだ。
あの人に(^∇^)

それまで覚えていれば・・・・。


いやしかし思い当たれば思い当たるほど面白かった。

たまに奇想天外に会うのもまた一興、上には上があるものだ。

そうそう、中学の卒業式、最後はクラスに帰って流石にワルガキも静かに席について担任を待っていた。その間に教科担任の先生方が次々に送る言葉を持って来てくれる。
ゆとり教育もなんのその、教科も多くその上9クラスもあったのに、先生方も入れ替わり立ち代り、こういうのは毎年の卒業行事になっているのだろう。
思えばその頃から「天然」の兆しのあった私は、明日から宿題もない休みか と楽しいことだけが頭に浮かんでいだが、周りを見ると何か湿っぽい、お!話に聞く卒業式の涙か。

そこで最後に学年主任がおでましになり、先生の気合のこもった暖かい贈る言葉があった。最後に「年の功より亀の功というね、ひとつでも覚えていてくれたら嬉しい、では元気で」といった。「年の功より亀の功」か、誰も気づかず目に涙を溜めている。
もう我慢ができない、ハンカチで眼より顔全体を覆い、ソット席はずして溜まらずに吹き出した。ついに涙が出て咳まででて、忘れられない感動的な卒業式になった。
仰げば尊しわが師の恩、今も亀の甲はお元気だろうか。

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