フランク:弦楽四重奏曲 ニ長調
弦楽四重奏:パレナン四重奏団
LP:東芝EMI EAC-40144
セザール・フランク(1822年―1890年)は、ベルギー出身で、フランスで活躍した作曲家、オルガン奏者である。1837年、パリ音楽院に入学。その後、教会オルガニストとして地道な演奏活動を送る。その間、作曲活動を行い、交響曲ニ短調、ピアノ五重奏、ヴァイオリンソナタ、歌曲「天使のパン」など、現在我々がしばしば耳にする名曲を生み出したのである。このため他の作曲家とは異なり、華やかなイメージとは程遠く、禁欲的な教会音楽家としてのイメージの方が定着している。セザール・フランクは、ネーデルラント連合王国のリエージュに生まれ、1837年にパリ音楽院に入学し、作曲、ピアノ、オルガン等を学ぶ。1858年に就任したサント・クロチルド聖堂のオルガニストの職には、その後生涯にわたってとどまった。最晩年の1885年ごろから、現在よく知られる代表作を次々に作曲。フランクの死の年に作曲された唯一の弦楽四重奏曲 ニ長調は、そんなフランクの資質を体現したような曲である。他のフランクの曲と同じように、聴けば聴くほど深い精神性が滲み出てくる弦楽四重奏曲であり、全体がフランス音楽の特徴に彩られた美しい弦楽四重奏曲に仕上がっている。ここでもフランクの特徴でもある、いくつかの主題的な材料を各楽章で用いる循環形式が使われており、対位法の駆使と相俟って、最晩年の充実した作風が聴いて取れる。このLPレコードで演奏しているのは、嘗てフランスの弦楽四重奏団として名を馳せた、ジャック・パレナンによって1943年に結成されたパレナン四重奏団である。その影響を受けた作曲家達は“フランキスト”と呼ばれ、のちにドビュッシーらの印象主義音楽と対抗することになる。ジャック・パレナンはパリ音楽院で著名なカルヴェに師事。このカルヴェの指導の下、同音楽院で学んだ3人と共に弦楽四重奏団を結成した。1957年と1961年の2回、来日を果たしている。同弦楽四重奏団の特徴について「そのひびきは、ウィーン四重奏団のものともボヘミアの四重奏団とも違う。まさに、フランスの団体そのものであり、どちらかというと明るい音色だが、その明るさを特に強調しているわけではない。それに、つややかであるというよりも、もっと鋭敏な反応を示しそうな張りつめた緊張感をみせもする」とこのLPレコードのライナーノートにおいて門馬直美氏はその演奏の特徴を紹介している。その演奏を聴くと、まるで透明感溢れる水彩画を見ているようでもあり、LPレコードの良さがひしひしと伝わってくるのである。(LPC)
モーツァルトは、1782年から2年の歳月を費やして、6曲からなる弦楽四重奏曲「ハイドンセット」を作曲し、ハイドンに献呈した。これは、ハイドンが1781年に、古典主義的ソナタ形式を完成させることになる弦楽四重奏曲「ロシア四重奏曲」を発表したことに触発されたものと言われている。6曲とは、弦楽四重奏曲第14番~第19番のことであり、このLPレコードでは、このうち、第18番と第19番「不協和音」が収録されている。第18番は1785年1月10日に完成し、演奏時間が30分を超す曲で、ベートーヴェンがフーガの勉強をした曲としても知られている。この曲と続く第19番「不協和音」は、ハイドンを自宅に招いて聴かせるために急いで書かれたもののようだ。しかし急いで書かれたとは到底思えず、第18番は地味ながらも内容は実に堂々とした弦楽四重奏曲となっている。第19番は「不協和音」の名で親しまれ、こちらも充実した内容で知られる弦楽四重奏曲。完成したのは第18番の4日後、すなわち1785年1月14日である。「不協和音」と名付けられたのは、当時としては大胆すぎる第1楽章の和音の扱いのためであり、このため「誤りではないか」と言われたり、後代の人によって訂正されたほど。このLPレコードで演奏しているのは、旧東独時代において最も卓越した室内楽団の一つと言われたベルリン弦楽四重奏団。第1ヴァイオリンが名ヴァイオリニストとして知られるカール・ズスケ(1934年生まれ)。カール・ズスケは、ヴァイマル音楽大学とライプツィヒ音楽大学で学び、1954年首席ヴィオリストとしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に入団。1959年に第一コンサートマスターに就任後、1962年ベルリン国立歌劇場管弦楽団のコンサートマスターに移籍し、1965年にはズスケ四重奏団(後のベルリン弦楽四重奏団)を結成した。 その後、1975年ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の第一コンサートマスターに戻り、2001年までその地位にあった。1991年から2000年まではバイロイト祝祭管弦楽団のコンサートマスターを務め、NHK交響楽団の客演コンサートマスターとしてもしばしば来日。このLPレコードでは、第1ヴァイオリンをカール・ズスケとするベルリン弦楽四重奏団の演奏は、細部に気配りが行き届いた、実に完成度の高い、説得力の富んだ演奏を披露しており、当時の名声を偲ばせる名演奏を聴くことができる。特に4人の息がぴたりと合い、自然の流れに添うような、しなやかな演奏には特筆すべきものがある。(LPC)
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番
弦楽四重奏:バリリ四重奏団
ワルター・バリリ(第1ヴァイオリン)
オットー・シュトラッサー(第2ヴァイオリン)
ルドルフ・シュトレンク(ヴィオラ)
エマヌエル・ブラベッツ(チェロ)
発売:1965年
LP:キングレコード MR 5096
バリリ四重奏団は、1954年に結成された名高い弦楽四重奏団である。このLPレコードが録音された当時のメンバーは、第1ヴァイオリンがウィーン・フィルのコンサートマスターのワルター・バリリ、第2ヴァイオリンがウィーン・フィルの第2ヴァイオリン首席奏者のオットー・シュトラッサー、ヴィオラがウィーン・フィルのヴィオラ首席奏者のルドルフ・シュトレンク、そしてチェロのエマヌエル・ブラベッツであった。バリリ四重奏団の演奏の特徴は、何といってもウィーン風のスタイルにある。一度その優雅な響きを聴くともう忘れられなくなるような魅力に富んだ深みのある音色なのだ。決してリスナーに対して押し付けがましいところがなく、その表現は奥ゆかしさに包まれている。そして単に優雅であるだけでなく、芯の強さが隠されているところが、その演奏に厚みと奥行きを与えている。このLPレコードのライナーノートに、バリリ四重奏団が「現在レコードで聴かれる数多くの弦楽四重奏団の中でも最も愛好家達に親しまれているグループである」と書かれている通り、当時の人気は絶大なものがあった。そのバリリ四重奏団も既にに解散(1969年)してしまったが、彼らが遺した録音は、現在でも一部のリスナー達からは熱烈に愛され続けている。特にベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲の録音は、未だにこれを越えるものは見当たらないと言っていいほどの高みに立った演奏内容となっている。4人の息がピタリと合い、その深みのある演奏内容は、何と言ってもベートーヴェンの弦楽四重奏曲に一番よく似合うのである。このLPレコードに収められたベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番は、全部で7つの楽章からなる、ベートーヴェンが死の前年の1826年に完成した後期の傑作中の傑作の弦楽四重奏曲だ。出版されたのは、ベートーヴェンが亡くなった後で、生前には一度も演奏されることはなかったという。7つの楽章という他に例をみない形態となっているが、実際には第3曲と第6曲がそれぞれ次の楽章の序奏の意味合いをもっていることから、実質的には全部で5つの楽章からなる曲と解釈できる。全曲は、間断をを入れずに連続して演奏される。このためこの弦楽四重奏曲第14番は、単楽章からなる曲のようにも感じられる。いずれにせよ、ベートーヴェンが晩年に到達した深い精神性に基づいて書かれた曲だけに、バリリ四重奏団が持つ深みのある表現力が一層冴えわたる演奏内容となっているのだ。(LPC)
ハイドン:「十字架上のキリストの最後の七つの言葉」op.51(弦楽四重奏曲版)
序奏
ソナタⅠ 「父よ、彼らをお許しください。なぜなら彼らは
何をしているかを自分でも分かっていないからで
す」
(ルカの福音書23章34節)
ソナタⅡ 「アーメン、私はあなたに言う。今日、あなた
は、私とともに天国にいるであろう」
(ルカの福音書23章43節)
ソナタⅢ 「女よ、これがあなたの子です。弟子よ、これが
あなたの母です」
(ヨハネの福音書19章26節-27節)
ソナタⅣ 「わが神よ、わが神よ、何ゆえ私を見捨て給うた
のか」
(マルコの福音書15章34節)
ソナタⅤ 「私は渇いている」
(ヨハネの福音書19章28節)
ソナタⅥ 「これで終わった」
(ヨハネの福音書19章30節)
ソナタⅦ 「父よ、御手に私の霊をゆだねます」
(ルカの福音書23章46節)
地震
弦楽四重奏:ゲヴァントハウス弦楽四重奏団
第1ヴァイオリン:カール・ズスケ
第2ヴァイオリン:ギョルギオ・クレーナー
ヴィオラ:ディートマー・ハルマン
チェロ:ユルンヤーコブ・ティム
録音:1980年1月30日~2月1日、11月14日~16日、ドレスデン・ルカ教会
LP:徳間音楽工業(ドイツシャルプラッテンレコード) ET‐5133
ハイドンの「十字架上のキリストの最後の七つの言葉」の原曲は、1785年に作曲された管弦楽曲版であるが、1787年にハイドン自ら弦楽四重奏曲用に編曲して、これが当時大ヒットしたらしい。管弦楽曲であるとそうしょっちゅう演奏できるものではないが、弦楽四重奏曲なら手軽にどこでも演奏できるからだろう。当時はCDもないしFM放送もインターネットもない時代だったので、弦楽四重奏版は信仰心の厚い人々にとってはこの上ない演奏形式であったに違いない。ちなみに、この管弦楽曲版と弦楽四重奏曲版のほかに、出版社が用意したチェンバロ用あるいは初期のピアノ用の編曲もハイドンが監修したという。このほか合唱用のカンタータ版もあるというから、当時のこの曲に対する人気のほどがうかがえる。そもそもハイドンがこの曲を作曲したきっかけは、教会の祈祷会において、キリストの最後の七つの言葉が説教される際に奏でられる音楽を、教会からの依頼があってのことである。この教会とは、カディスのサント・ロザリオ教区教会のことで、毎年四旬節の間に信者たちが集まり、キリストの受難とその最後の言葉を黙想する音楽付きの祈祷会が行われていた。礼拝式の後、司祭は十字架上におけるキリストの最後の七つの言葉の一つを唱え、それに基づく説教を行う。そして司祭は祭壇の前でぬかずき、信者と共にキリストの受難について黙想する。その時の音楽をハイドンが受け作曲したというわけである。「序奏」と最後の「地震」を挟み、キリストの最後の七つの言葉を一曲一曲ごとに噛み砕いたような形式で進行する。最後の曲の「地震」とは、マグダラのマリアがキリストの墓にやってきたとき大地震が起こり、墓を封印した石がわきにころがり、天使がその上にすわった。つまり、この「地震」とは、キリストは墓から出て復活した故事に基づく描写的な音楽なのである。このようなことから、この曲は通常の弦楽四重奏の曲の構成とは全く異なったものとなる。ここではそんな宗教曲を、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のメンバーがその構成員となっているゲヴァントハウス弦楽四重奏団が、実に丁寧にしっとりと弾いている。このLPレコードが録音された時の第1ヴァイオリンは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターであった、あの有名なカール・ズスケ(1934年生まれ)である。例え、キリスト教信者でなくても、聴き終わった後は、何か清々しい気分に浸ることができる格調高い演奏内容に仕上がっている。(LPC)
バルトーク:弦楽四重奏曲第1番/第2番
弦楽四重奏:バルトーク四重奏団
発売:1975年
LP:RVC(ΣRATO) ERA‐2050(STU‐70396)
これは、バルトーク四重奏団によるバルトーク:弦楽四重奏曲全集(3枚組)の中から、第1集目のLPレコードである。弦楽四重奏曲第1番は、1907年―08年に作曲され、3つの楽章が切れ目なく続けて演奏される。バルトークが教職にあったブダペスト音楽アカデミーで女学生マルタ・ツィーグラーと出会い、結婚した頃の作品。バルトークの作品においては、「オーケストラのための二つの肖像」「ピアノのためのバガテル」「二つのルーマニア舞曲」などと、「四つの悲歌」の間に当たる作品で、歌劇「青ひげ公の城」に3年先んじている。曲全体は、ドイツ・ロマン派の影響を強く受けていた時代の作品であり、美しい旋律が印象的で、バルトークの弦楽四重奏曲の中では、とっつきやすい作品に仕上がっている。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番作品131との類似性を指摘されることもある。ドイツ・ロマン派的な土台に立って、さらに一部分マジャールやルーマニアの民族音楽的要素も導入されており、バルトークとしては、過渡期的な曲と位置づけられている。ここでのバルトーク四重奏団の演奏は、美しさが際立つ名演を聴かせる。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を思わせるような濃密さを込めた演奏内容だ。一方、弦楽四重奏曲第2番は、1915年から17年の間に作曲された。この頃になるとバルトークは、民族音楽をさらに広範囲に追い求め、スロヴァキア、ルーマニア、ウクライナ、アラブにまで及び始めたいたが、第2楽章にはアラブ的な要素が取り入れられていると指摘されている。曲は、モデラート、アレグロ・モルト・カプリッチョーソ、レントの3つの楽章からなっている。このような構成をバルトーク自身は「第1楽章は、通常のソナタ形式であり、第2楽章は、中心部に綿密に構成された部分がある一種のロンド形式である。最終楽章は、一番定義しにくいが、要するに拡張化されたA-B-A形式とも言うべきものだ」と語っている。3つの楽章の構成は、中庸-急-緩となっており、伝統的な構成とは逆になっている。緊張が次第に高まり、悲痛な暗い性格を持ったレントで終わる。つまり、最初は上昇し、次いで下降する曲線を描く。一方の岸から別の岸へと導くようだ。ここでのバルトーク四重奏団の演奏は、精緻を極め、この曲以降に出てくるバルトークらしいデリケートで、ぐいぐいと食い込むような内向的な傾向を、巧みに表現することに成功している。これらの表現は、優れた録音技術が大いに貢献しているようだ。(LPC)。