森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
花・髪切と思考の
浮游空間
カレンダー
2025年9月 | ||||||||
![]() |
||||||||
![]() |
||||||||
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | ||
![]() |
||||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |||
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | ||
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | ||
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | ||
28 | 29 | 30 | ||||||
![]() |
||||||||
![]() |
||||||||
![]() |
||||||||
|
goo ブログ
最新の投稿
8月6日(土)のつぶやき |
8月5日(金)のつぶやき |
6月4日(土)のつぶやき |
4月10日(日)のつぶやき |
2月10日(水)のつぶやき |
11月12日(木)のつぶやき |
10月26日(月)のつぶやき |
10月25日(日)のつぶやき |
10月18日(日)のつぶやき |
10月17日(土)のつぶやき |
カテゴリ
tweet(762) |
太田光(7) |
加藤周一のこと(15) |
社会とメディア(210) |
◆橋下なるもの(77) |
◆消費税/税の使い途(71) |
二大政党と政党再編(31) |
日米関係と平和(169) |
◆世相を拾う(70) |
片言集または花(67) |
本棚(53) |
鳩山・菅時代(110) |
麻生・福田・安倍時代(725) |
福岡五輪幻想(45) |
医療(36) |
スポーツ(10) |
カミキリムシ/浮游空間日記(77) |
最新のコメント
Unknown/自殺つづくイラク帰還自衛隊員 |
これお・ぷてら/7月27日(土)のつぶやき |
亀仙人/亀田戦、抗議電話・メールなど4万件突破 |
inflatables/生活保護引き下げ発言にみる欺瞞 |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/国民の負担率は低いというけれど。 |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/[橋下市政]健康を奪い財政悪化招く敬老パス有料化 |
最新のトラックバック
ブックマーク
■ dr.stoneflyの戯れ言 |
■ machineryの日々 |
■ えちごっぺのヘタレ日記 |
■ すくらむ |
■ 代替案 |
■ 非国民通信 |
■ coleoの日記;浮游空間 |
■ bookmarks@coleo |
■ 浮游空間日記 |
過去の記事
検索
![]() |
URLをメールで送信する |
(for PC & MOBILE) |
![]() |
![]() |
社会保障と「分断」-勤務医の「反乱」再論
最近の医療をとりまく環境の変化と、それを扱うメディアがしだいに多くなってきたのを反映しているのでしょう。
日本の国家財政が現実に多額の借金を抱えるなかで、社会保障の財源をどう確保していくのか、これは重要なテーマの一つだと思います。それとともに重要なのは、社会保障が扱われる際の分断です。臨調行革以降の20年近くは、日本の社会保障費は平たくいえばターゲットにされ、抑制されてきました。その際、抑制するための手法として度々とられてきたのが、国民を分断し制度改悪をおこなうということではなかったでしょうか。
枯れ木に水をやるようなものといっては老人の医療費を削減。社会的入院などと強調しては入院医療費を敵視し、入院しづらくするなど、ありとあらゆる手をとってきたのが政府・厚生省(現厚労省)ではなかったでしょうか。
医療ばかりではもちろんありません。たとえば生活保護の受給を減らすために、常にもちだされるのは一部の不正受給者でした。
社会保障は、いくつもの制度から成り立っています。医療保険を例にとると、社会保険、国民健康保険、健保組合保険、共済組合保険などのように。そして、保険料もそれぞれ異なり、給付内容も異なる。一つの保険制度が変わっても、他に加入する人には関係がない。あるいは生活保護は受給者には直接、制度改変にともない影響が及ぶとしても、受給しない人にはある意味で何の意味ももたないとなりかねない。
だから、社会保障にかかわる問題は本来、すべての階層が同じ立場で手をつながないと改善はのぞめないのでしょうが、そもそも手をつなぎにくい一面をもっていることとあわせて、それを利用して制度的後退などがおこなわれてきたことを理解しておくことが必要だと私は思います。
勤務医たちの「反乱」を今回、とりあげました。同趣旨のはてなエントリーにたいして、「反乱」なのか、「革命」を彼らはめざしているのでは、というコメントを頂戴しました。
なるほど、彼らの行動は「革命的行動」に値するものだといえるでしょう。ただ、どんな経過を今後たどるのか、不透明です。だが、明らかに一石を投じた、といえる。
彼らは、自らの周りをふくめた労働環境の改善だけでなく、日本の医療(制度)の根本的な改善をめざしている。文字どおり、彼らの行動が革命となるには、医療にかかわる人びとだけでなく、国民の支持が不可欠なのではないでしょうか。
いただいたコメントをふりかえってみて、あらためて強くそのことを感じます。以下、このエントリーに関係するコメントの一部を再掲します。
■よろしければ、応援のクリックを ⇒
■ブログ村ランキング、こちらもお願い⇒
■よろしければ、応援のクリックを ⇒

■ブログ村ランキング、こちらもお願い⇒

勤務医の「反乱」をどうみる。
日本医師会は、今日まで日本の医療政策に深くかかわってきました。別の角度からいえば、それだけ自民党のすすめる厚生行政を側面から支えてきたといってもよいでしょう。しかし、構造改革の嵐のなかで、日本の医療費が抑制されてくると、少なくとも患者に必要な医療を提供しようという医師の使命、良心と鋭く対立します。いま、医療という分野で、さまざまな問題が噴出し、ときに医療崩壊という言葉で表現される事態に日本は直面しているといえるでしょう。
病院に勤務する医師たちが新たな組織をつくり、医師の労働環境改善と日本の医療制度をよりよいものにするために運動をすすめることが伝えられています。日本の医療がながらく医師の使命感にのっかって、医師のいわば自己犠牲によって支えられてきたという側面にも眼を向ける必要があるように私は思います。
今回の動きを、自分の使命感と現場の過酷な労働環境、日本の医療体制とのぎりぎりの緊張にさらされる現場の医師たちのメッセージとしてとらえてみることが要るのではないでしょうか。
当ブログでは、一連の医療問題について考えてきましたが、今回、この問題について、
「coleoの日記;浮游空間」に、以下の簡単なメモを残しました。
あわせてご覧いただければ幸いです。
勤務医の「反乱」
■よろしければ、応援のクリックを ⇒
■ブログ村ランキング、こちらもお願い⇒
混合診療解禁と松井道夫氏の言説。
訴訟は、保険給付が認められていない診療と保険給付の診療の双方を受けた場合に、保険給付部分の診療分も含めて全額が患者負担になるのは不当だとして、患者が国に対して給付を受ける権利があることの確認を求めたものである。同地裁の定塚誠裁判長は、「混合診療を禁止する法的な根拠がない」とのべ、原告に保険の受給権があることを認める判決を下した。
判決後、これを待っていたかのように-私にはそうみえる、政府の規制改革会議からも「混合診療の全面解禁」を求める声が強まっている。
混合診療についていま一度ふれると、現行制度は保険診療と自由診療の併存を基本的に認めていないが、混合診療は併存可能になる。医療とは、初診から治癒まで多くの診療行為で成り立っている。混合診療とは、医療をこうした一連の流れとしてとらえた場合、一定の段階の診療(行為)までは保険でカバーし、それ以上は自由診療とするというものだ。だから、保険でカバーされない範囲は自費料金になる。金の有る無しがものをいう世界ともいえる。
このように私はとらえるのだが、混合診療の全面解禁を求める急先鋒の一人であろう松井証券社長・松井道夫氏(*1)が、朝日新聞(12・19)で自論を展開している。そこには、解禁を求める意図が語られているように思う。なぜ厚労省は解禁に反対するのだと考えますかという問いに、こうのべている。
医療サービスはあくまでも配給。しかも『供給者』は医師ではなく国家であり、統制しなければ国民皆保険制度は崩壊するとでも思っているのではないか。消費者・患者側の視点が見事に欠けている。
保険証一枚あれば誰もが必要な医療が受けられることが国民皆保険制度の原則で、しかも現物給付と混合診療禁止が国民皆保険制度を支える重要な柱であったはずだが、こうした立場と松井氏は明確に一線を画している。
消費者・患者側の視点が見事に欠けていると断じるのだけれど、この物言いは、単に医療サービスを受けるという意味での消費者や患者を指しているわけではない。なぜなら混合診療そのものが、すでにサービスを金で買うことを前提にしているからだ。繰り返すと、保険証一枚で必要な医療を受けるサービスを享受できることこそ、皆保険の根幹であったはずである。近年、一部負担金が拡大されることによって、経済的理由で受療する条件が遮られたり、あるいは医療を受けようとする意思が経済的理由で抑制されるわけで、この意味で、必要な医療が受けられるとはいえない状況にもある。しかし、それでも国民は基本的に何らかの保険に加入しており、給付を受ける条件がベースにある。
松井氏の主張は、モノやサービスを金で買うという消費者の権利を強調しているのであって、すべての人がサービスを受ける条件をいかにつくるかという視点はそこにない。消費という形で差異が生じる。
氏は、混合診療禁止で本当に困るのは経済的に余裕のない人たちだ 、とうそぶいている。
ほんとうにそうか。経済的に余裕のない人たちは、すでに一部負担金の拡大によって、受診が抑制されている。医療から遠のいている。生活保護も受けられず、医療機関にもかかれない人たちが存在する。生活保護基準以下で生活する世帯が400万を超えたといわれる今日、仮に混合診療解禁になれば、どんな事態がもたらされるか、火をみるよりあきらかではないだろうか。
必要なことは、混合診療の解禁などではなく、保険給付対象範囲の拡大と安全性が確認された新規治療や薬剤の承認期間を短縮し、保険収載を速やかに行うことである。
誰もが必要な医療が受けられることに私はこだわりたい。国民皆保険制度の原則ははずすべきではないと考える。
松井氏らが、患者の立場を強調しながら、すべての人が医療を受けられる方向になぜ目が向かないのかを強く疑う。
下記エントリーでのべたが、解禁すれば、単に保険診療と保険診療でない部分が区分されるというだけではすまない。保険診療が抑えられるのは必定だといえるし、そこにこそ日米保険業界の眼がむけられているといってよい。消費と選択のための市場を提供しようという魂胆である。
現物給付と混合診療禁止は、国民皆保険制度を支える重要な柱である。そこにこだわってみてもよいのではないか。議論はおそらく財源問題にいきつくのだろうが、それは国のかじとりの方向をどのように選択するのかという問題と同じだ。大いに議論すればよい。
混合診療の拡大・容認には断固反対したい。
■よろしければクリックを ⇒

■ブログ村ランキングもお願い⇒

*1;07年1月から規制改革会議委員。
【関連エントリー】
米国の後を追うのか。「混合診療の解禁」
米国の後を追うのか。「混合診療の解禁」
アメリカの現状は日本の将来図だということを以前にのべました(参照)。医療を例にあげると、日本はアメリカの後を追っているようにみえます。大阪府で全盲の患者を退院後のあてもなく公園に放置するという、呆れる事態も伝えられました。これは、観た人ならばマイケル・ムーアが描いた『SiCko』の世界と瓜二つのものだと思い浮かぶことでしょう。
ただ単に日本の政府のとる方針が後追いというのではなく、その政府の方針を決定づけるものに日米関係があるということ、これが、やがて日本が米国のようになると懸念させる主要な側面のように思えてなりません。
最近、混合診療の全面解禁で「規制改革会議」が一致し今後答申に盛り込む予定です。
混合診療 全面解禁求める 規制改革会議 先進医療受けやすく
背景には、日米の保険業界の強い圧力があるのでしょう。
現行制度は保険診療と自由診療の併存を基本的に認めていませんが、混合診療は併存可能になる。医療とは、初診から治癒まで多くの診療行為で成り立っています。混合診療とは、医療をこうした一連の流れとしてとらえた場合、一定の段階の診療(行為)までは保険でカバーし、それ以上は自由診療とするというものです。だから、保険でカバーされない範囲は自費料金になる。金の有る無しがものをいう世界です。
ここに保険会社の医療保険が入り込む。その業界にとってはおいしい市場となるという寸法です。すでに今ある、たとえばがん保険で分かるように、アリコ(*1)、アフラック(*2)など外資系保険会社が日本市場に参入していますが、いっそうの拡大を日本の保険会社とともにねらっているということでしょう。
すでに米国は、低所得者など一部を除いては公的保険でカバーされず、自分で保険会社の保険に入らないといけないしくみです(*3)。日本もまたこんな世界がくると想像するのはあながちまちがいだとはいえないでしょう。
そして、日米関係の現状を象徴する出来事、これが日米首脳会談でした。
福田首相は米国いいなりの約束をしてしまった。一方で、ブッシュ大統領の態度は、日本を最も重要な友好国という扱いではけっしてなかったように私にはみえました。この2つの国の日米関係にたいする非対称な姿勢、つまり米国の圧力に弱く、いいなりになる日本の態度こそ、米国の現状が日本の将来にみえてしまう最大の要因のように思えてならないのです。
■よろしければクリックを ⇒
■ブログ村ランキングもお願い⇒
*1;アメリカン・ライフ・インシュアランス・カンパニー
*2;アメリカン・ファミリー保険会社
*3;高齢者及び障害者を対象にしたほとんど自己負担のない「メディケア」と低所得者を対象にした「メディケイド」がある。その他は主に民間の営利・非営利保険者の医療保障プランに加入する。勤務先の会社が雇用者の保険の一部を負担する民間被用者保険と、自営業や自由業、雇用先が保険に加入していない雇用者などが個人で加入する民間保険に区分できる。
妊婦たらい回しはなぜ起こる。
こうした事件が繰り返されるのは、それが構造的なものだということを示しているのではないでしょうか。
昨年も、同県で同様の事態に至り死亡につながりました。
今回は、たしかに交通事故に遭遇するという条件があったわけですが、本質的には事件の性格はかわらないと思えます。
いわゆるたらい回しは、容態が重篤、深刻なものとまず想起させます。記事のかぎりでは詳細はわかりませんが。
重篤、深刻なものであればあるほど、一般には人的体制も、医療設備も厚いものが求められるわけで、そうなると、受け入れ可能な医療機関は限られてくる。
受け入れを断った医療機関側にどのような理由があったのか定かではありません。ですが、おそらく以上のような理由があると推測できるのです。
先に、構造的な、といいました。
それは、奈良県が特殊ということを意味しません。そして、当該の受け入れを断った9カ所が特殊だということもおそらく意味しないでしょう。
全国で、たとえば今回と同様の事態に直面する可能性はどこにでもあるだろうということです。日本の現在の医療制度のなかでは、ある意味でこれを避けることはなかなかできそうにないということです。
最近は、医師数の絶対的不足についてメディアもとりあげる機会がふえ、認識は深まってきたように思います。
人的体制を根本的に見直し、地域医療が崩壊する現状をあらためる必要がある。とくに産婦人科の地域からの撤退によって、なかでも地方都市ではお産をすること自体が不安の元になっている。
こんな現状にいたったのは、これまでの低医療費政策に要因がある。この路線でよいのか否か、国民的な議論をおこなう機は熟していると思います。
また、私たちはこんな事件が起きると、えてして責任追及に走りがちです。しかし、それでは事態をあらためることはできません。原因を徹底して解明してこそ再発防止も可能になるというものです。
これまでの医療費削減を柱にした政策でよしとする人たちには、おそらく今の路線をつづけていくならば、こうなるだろうというよい見本があります。それが米国です。
米国は他山の石ではありません。じかにアメリカの医療がどういうものかふれる機会はそうめぐってきませんが、マイケル・ムーア作品『シッコ(Sicko)』がアメリカ医療の現状をするどく告発しています。
今回の事態もまた、犠牲者を生んだわけですが、日本のこうした現状の向こうにはアメリカの現状が陸つづきであるように思えてなりません。
行く方向を切り替えるかどうか、それが今求められているのではないでしょうか。
■よろしければクリックを ⇒

■ブログ村ランキングもお願い⇒

【関連エントリー】
日本の医療のかたち;亡国論から立国論へ
そのほか、カテゴリー;社会保障のなかに医療問題を扱ったエントリーを公開しています。ご笑覧いただければ幸いです。
理不尽なクレーム。医療では…
理不尽なクレームは学校だけにむけられるのではありません。
人と人との関係が成立する場面では、およそどこでも起こるものだと心しなくてはなりません。
けれど、理不尽なクレームが理不尽なクレームとして問題になり、伝えられるのは、公共財という言葉でも表される要求やサービスにたいしてです。公共財ともいわれるサービスや要求とは、たとえば、この記事が伝える医療や教育です。
教育の場面での、モンスターペアレンツはしばしば話題になってきましたし、当ブログでもこれに言及(ここ)しました。
この記事が伝える医療の場面での理不尽なクレームや横暴、暴力については、少なくとも医療機関や医療関係者の間では以前から問題として議論されてきました。
記事が伝えるのは、大学病院における事例の集約にもとづくものでしょうが、何も大学病院だけにかぎらず、民間病院でも、あるいはクリニックでも日々、発生していると考えてよい。
暴力430件暴言990件という数字は、だから、一部にすぎないと思ってよいでしょう。
当ブログで何度もふれてきた地域の医療崩壊(ここ)。その医療崩壊の要因の一端に、医療機関から医師が立ち去っていくことがありました。医師が立ち去っていく、おそらく引き金の一つが患者との関係によるものです。医師は日々、患者のいのちの安全と直面するという、激しいストレスとともに、患者との関係に腐心しているのです。
すでにエントリーでふれたように、患者の側はえてして命はまちがいなく救われるという、一種の思い込みがある。ですから、医療の到達と患者の意識はつねに矛盾をはらんでいるといわざるをえません。
このギャップ、矛盾こそが理不尽なクレーム、横暴を生む原因だといってよいでしょう。
つきつめれば、死から免れることはできないという不安と、医療の不確実性について患者側と医療に従事する側との認識を一致させる努力がどうしても必要になる。そのために、理不尽なクレーム、横暴にあたる専門職をふくめた人的な配置をすすめないといけないでしょう。
それには、今の医療制度のあり方を根本から見直さざるをえない。制度上、ぎりぎりの人的体制を採るように強いる診療報酬制度の改善が要る。
これまで、自民党の集票組織となっていた医師会もいまや、医療従事者は圧倒的に少ない、安全・安心の観点からも従事者数が絶対的に少ないことはあらためるべきだ、と発言するようになった。参院選の武見敬三氏の落選は、医師会会員たる医師たちの意識の変化を反映したものだともいえるでしょう。メディアも医療の崩壊をとりあげるようになった今、税金のつかい道をふくめて医療をどのように成り立たせるのか、国民的な議論をすすめる条件は整っていると考えてよいのではないでしょうか。
理不尽なクレームや横暴の問題を解決するためにも、それが不可欠だと考えるのです。
■よろしければ、応援のクリックを ⇒

■ブログ村ランキング、こちらもお願い⇒

マイケル・ムーア作品「シッコ」公開へ;米医療制度を批判

ムーア監督の最新映画「シッコ」、前倒し公開へ(朝日新聞6・21)
前作「華氏911」が世界的にヒットしたマイケル・ムーア監督の最新作で、米医療制度を批判したドキュメンタリー「シッコ」が22日、ニューヨークで1週間前倒しで公開されることになった。映画製作会社ザ・ワインスタイン・カンパニーが20日、明らかにした。
撮影に当たり、ムーア監督は3月、同時テロ現場での粉じん吸飲が原因とみられる体調不良に苦しみながら、無保険のため治療を受けられない元復旧作業員を連れ、米政府が自由な渡航を認めていないキューバに行き、医療施設を訪問。この渡航許可申請に不備があったなどとして先月捜査に乗り出した米財務省に対し、ムーア監督が全面対決姿勢を示すなど公開前から注目を集めた。
以前にこの作品のことを当ブログではとりあげています。
マイケル・ムーアの告発は対岸の火事か?
あらためて取り上げるのは、前エントリー;市場原理主義の怖さ;アメリカの実情は日本の将来図に大いに関連するだろうという思いからです。前エントリーでは、市場原理主義がもちこまれたアメリカの医療事情にふれ、それが日本の将来図だとのべました。
そうであってはならないと私は思うのですが、このままいけばきわめて危ういのが日本の医療政策です。 話はかわって、ムーア監督はキューバにも乗り込み、この作品で、アメリカの実情をキューバと対比させています。
驚く方もおられるかもしれませんが、アメリカの乳幼児死亡率は貧しいはずのキューバより高いのです。前エントリーで紹介した小松秀樹氏の『医療の限界』にはこのあたりのことが紹介されています。(図は、乳幼児死亡率の国際比較。クリックすると拡大します)。
世界で最も富める国と思われているはずのアメリカが、乳幼児死亡率という指標にてらすとキューバにも劣る。なんとも皮肉なものです。
それだけアメリカは貧富の差が激しく、それに応じて医療の質の確保という点でも相当の差異があるということをこの事実は示しています。
ムーア監督が告発するのはこのアメリカの現実です。
■よろしければ応援のクリックを⇒
■ブログ村ランキング、こちらもお願い⇒
注;乳幼児死亡率(Infant Mortality Rate )は、生まれた子供が5歳までに死亡する確率を指す。
上図は、厚生白書(平成11年度版)から。
市場原理主義の怖さ;アメリカの実情は日本の将来図
市場原理主義の怖さを端的に物語る一例です。
=====
ある日本人がアメリカを訪問中に倒れ、病院に運ばれました。治療の甲斐なく約3カ月後に死亡した。
幸い、海外旅行医療保険とカード会社から合計2800万円のお金がおりました。
しかし、これが生存中に底をつき、日本でお金を工面して約500万円送金しなければならなかった。
これでも足りずに、死亡後、家族は2億数千万円の追加請求を受けたというのです。この金額に、家族は茫然自失になったといいます。
その後、アメリカの病院の依頼で、取り立て屋が通訳を連れて日本まできました。長い交渉の後、追加支払い額は1400万円程度で決着しました。
すべて合算すると最終的な支払い額は4700万円、このうち自己負担が1900万円にもなったということです。
=====アメリカの医療が貧富の差によって内容が異なること、私的保険によって成り立っていることは承知していましたが、医療費請求額のこれほどの大きさに率直にいって驚きます。
以上は、小松秀樹氏『医療の限界』からの引用ですが、アメリカの医療がまさに産業として成り立っていることを氏は指摘しています。
アメリカはアメリカ、日本とはちがう、とはいえない。新自由主義にもとづく日本の今日の医療政策は、いずれアメリカ型に向かうものだと思うのです。その意味でアメリカの医療は、まさに日本の将来図なのです。言い換えれば、今の路線を踏襲すれば、医療(行為)が商品として扱われ、金の有無によって医療内容が差別される日がいずれ訪れると推測するのです。
小松氏はこの話のあと、市場原理に委ねた医療の行き着く先に、破産社会があることを紹介しています。ようするに、お金を持つ者も、いずれはお金に泣くというのです。
貧困者はもとより、この世界の埒外に置かれているのはいうまでもありません。
05年2月2日のロイター通信のマギー・フォックス氏が書いた記事によれば、アメリカの個人破産の50パーセントは、医療費が原因であり、全米で年間に190万人から220万人(破産者とその扶養家族)が医療費破産を経験していると推定されています。カード破産は1パーセントにすぎない。しかも、破産者の75パーセントは保険に加入していました。医療保険を購入できる中産階級でも、いったん病気になれば経済的に立ち行かなくなるのです。
人間の社会を豊かにする上で、教育や医療・福祉を充実させることが不可欠だと私は考えるので、アメリカ型の医療には反対します。万人に必要な医療をゆきわたるようにするには、お金が要る。その財源をどうするのかについて国民的議論が必要なのはいうまでもありません。
今日、崩壊の危機にあるともいわれる日本の医療。そうではなく医療を成り立たせるには、市場原理に委ねることだけはやめなければならないと考えるのです。
PS;引用した「破産社会」に関する記述の元記事が以下に掲載されていることを、ゴンベイさんから教えていただきました。一度ご覧ください。
暗いニュースリンク: アメリカ:個人破産の半数は高額な医療費が原因
ゴンベイさんに深謝いたします。
■よろしければ応援のクリックを⇒
■ブログ村ランキング、こちらもお願い⇒
日本の医療のかたち;亡国論から立国論へ

この考えは、1983年の吉村仁氏(厚生省保険局長・当時)の主張に端を発している。
それ以来、医療費を抑制することを中心に医療行政がすすめられてきた。
-老人の医療は枯れ木に水をやるようなもの
-社会的入院が医療費を押し上げている
こんな言葉を閣僚や官僚がのべ、医療費がふえることはよくないという世論をつくった。
けれど、いまやそのひずみがいたるところに現われ、日本の医療制度は崩壊の危機に瀕している。
1961年にできあがった日本の国民皆保険制度はWHOによって世界で最高の制度だと評価された。誰もが何らかの保険に加入する制度だ。
だが、医療費抑制政策のなかで国民医療費もOECD諸国のなかで順位をさげている。にもかかわらず、医療費抑制策をとりつづけている。抑制策は、病院などの医療機関側に入る収益(診療報酬)を抑えるやり方がとられたり、あるいは患者・国民の負担をふやすことで受診を抑え、医療費の総体を減らすやり方がとられたりする。
40代後半以上のサラリーマンなら実感されているかもしれない。1割負担が2割、3割になってきたことを。
日本の医師数はOECD諸国に比較し3分の2にすぎない。しかも、医師の卒後研修必修化にともない、従来多数が大学に残ったのが、もはやほとんど残らない事態もこんにち生まれた。医学教育そのものを根本から見直す必要に迫られているともいえる。
こんな背景も拍車をかけているが、医師数の絶対的不足が医療現場から、とくに医師によって指摘されてきた。最近はようやくメディアもこれを取り上げはじめている。
医師は今、絶対的不足の中、過重な労働を免れることができず、疲労困憊し、現場を立ち去ってしまうのだ。
医療労働者は劣悪な環境で働いていることも知っておいてほしい。
こんな諸事情が重なり、地域の医療がまさに崩壊に直面している。産科がなくなり、小児医がまったくいないという地域も少なくない。とくに地方では産科が消え、出産にも困る、たいへんな事態に直面している。
私の眼には、かつて医療費亡国論とよばれた冒頭の考えが、悪循環を招き、今日の事態をもたらしたとしか映らない。
- 医療従事者は圧倒的に少ない。安全・安心の観点からも従事者数が絶対的に少ないことはあらためるべきだ。
- 医療費の構造のうち、莫大な利益をあげる製薬大企業に入る医薬品価格(薬価)をあらためる。
- 医療分野は、実は経済波及効果が高い。厚労省も認めている。
大村昭人氏の『医療立国論』が出版された。よって立つところは異なるだろうが、新自由主義がふきあれるなかの、同じような主張に大いに励まされた。
氏の主張の眼目は、そのタイトルにある。亡国論をあらため、医療を充実させてこそ国が成り立ち、国民も幸せになるというものだ。一考に値する。
■よろしければ、応援のクリックを ⇒
■ブログ村ランキングに参加、こちらもお願い⇒
【関連エントリー】
医師不足;「高給」であれば医師をよべるのか
地域の医療が壊れる?
厚労省のずさんな推計 -医療費の将来予測
無資格助産事件判決で問われているもの
市場開放論者の医療観;八代尚宏氏

労働市場改革、規制改革による雇用創出がカギ=諮問会議・八代氏
八代尚宏氏の発言です。自説を曲げずに堂々と発言するのは一向にかまわないのと思うわけです。が、まちがったことを語っていけない。ましてや、アカデミックな世界にいる人物が。とはいえ、しょせん経済財政諮問会議の委員を引き受けている人物だと、私はまず、そのことを疑いたくなる。
八代氏の立場は、新自由主義のものでしょう。氏の発言の意図はすぐに読み取れます。それだけ自分の思いに正直なのかもしれません。
氏のいう「『社会主義的経済』といってもよいくらい政府の規制でがんじがらめになっている」という発言はひとまず譲るにしても、そのあとがいけません。2つ、あげておけば、(下線部は八代氏の発言)
- 政府はいまの国民皆保険をきちんと守る。そのために公的医療を確実に保障する。しかしそれ以上は自由に民間が提供する。“混合診療”を全面的に認めれば、医療サービス産業は飛躍的に発展する余地が大きい 。
- 国民皆保険というのは、公的保険に何らかの形で入っていることをこれまではさしてきました。八代氏にかかれば、私的保険に入っている、あるいはカバーしている部分もふくめて皆保険というらしい。
- 医療機器分野も、日本が得意とする分野のはずだが、かなり大幅な輸入超過になっている。これも規制が原因としか言えない。
- 多くの人が知っているように、これは例の年次改革要望書のなかで常にアメリカが要求していた規制緩和の対象でしょう。輸入超過になっているのは、アメリカの要求にいわれるまま応じているだけのこと。「輸入超過は規制が原因」のレトリックは正しくないのです。
途中の論立てはこのように歪んでいても、結論だけははっきりしています。ICUにもかわった教授がいるものだ。
社会主義的な日本の医療は、生産性が低い。成長性があるのだから、規制をとっぱらえ、市場を民間に開放せよ、と露骨です。何でも社会主義にむすびつけ、その名を借りて批判しようというのは常套手段ともいえそうです。氏の考えは、医療のみならず、教育にもねらいを定め、利潤追求の場にしていこうというものです。
医療も教育も、受けたい人、あるいは受けなければならない人が無条件に受けられる環境を知恵をだしつくりあげていくことこそ、政治の責任だと私などは考えるのですが、こうみてくると、この学者の「学説」の階級的性格はみごとにはっきりしているといえる。氏の立場はいうまでもなく財界・大企業の意向にそったもの、そういわざるをえないのです。

■ブログ村ランキングにも参加、こちらもお願い⇒

医師不足;「高給」であれば医師をよべるのか
朝日新聞がこのところ医師不足にからむ問題をとりあげています。同紙(4・8)は「医師確保 窮余の高給」という記事で自治体病院に勤める医師の給与の格差を伝えました。
なぜ高給で処遇しないといけないのか、しかも地域的な格差を生じるのか。いうまでもなくこれは医師不足にからんでいます。自治体病院を運営する自治体にとって、医師の招聘は病院経営の根幹であることは他言を要しないでしょう。医療は医師の指示によってものごとがはじまる。ことに医師不足の深刻さに悩む自治体では、医師招聘ができるか否かはまさに死活問題ともなりかねないのです。
薄給より高給がよいのでしょうが、高給で処遇すれば医師が集まるとは単純にいえないような気がします。私は医師と一緒に議論する機会も多く、医師の生活に多少は通じているつもりでいますが、医師が高給だから仕事をするというのは大きな誤解だといって差し支えないと思うのです。彼らは、患者という人間を自らの労働の対象にし、常に人の命と向かい合わせで仕事をしています。ですから、彼らは命を守るというある種の正義感が人一倍強いのです。使命感がきわめて強い。いいかえると、人の安全と安心を守ることにこそ、あるいは安全と安心を守ってこそ、自らの働き甲斐を医師の多くが感じ取っているのではないか。
そう考えると、医師としての本来の仕事が可能な環境を整えることが、医師のやりがいに応えることになるのではないでしょうか。それはまず、常に人の命と真正面から向き合うという極度の緊張感、そして孤立感から彼らを解放する条件をつくりあげることとかかわってきます。その緊張感、孤立感から解放するには、やはり医師をふやす、そして医療従事者の人的体制を充実させることが不可欠だと思います。
国には、この点でのイニシャチブの発揮が求められているのに、現状は地方の医師確保という問題を自治体任せにしているといってもよいと私は考えるのです。先進国と比べてもはるかに貧弱な医療の人的体制、そのなかで医師や医療従事者のまさに「聖職者的精神」で日本の医療は支えられているのではないでしょうか。だから過酷な労働条件と対峙せざるをえない彼らは、緊張感、孤立感が高じると、労働の現場から立ち去っていくのです。誤解を恐れずにいえば、医師とは過酷な労働条件ではたらく労働者なのです。非人間的条件といいかえてもよいかもしれません。
医師、医療従事者を本気になってふやす手立てを国がただちにとる。こうしてこそ医師、医療従事者が生き生きと働き、そのことがわれわれ患者の側からみても安心してかかることのできる日本の医療体制をつくる近道になると思うのです。

【関連エントリー】
地域の医療が壊れる?
地域の医療が壊れる?
日本の地域医療が崩壊の危機に瀕している。ようやく、この一大事に関心がもたれはじめているようです。朝日新聞(3・25)は一面トップでつぎのように伝えました。
慢性的な産科医不足の中、この1年間にお産の取り扱いを休止したり、休止する方針を決めたりした病院が全国で105カ所に上ることが、朝日新聞の全国調査でわかった。分娩(ぶんべん)を扱っている病院の約8%にあたり、過酷な勤務状況などから、勤務医の産科離れがさらに進んでいる実態が鮮明になった。深刻な事態を受けて、医学生・研修医の優遇策や離職した女性医師の復帰支援を打ち出す自治体も急増している。
同紙によれば、06年4月以降、お産の取り扱いをやめたのは77病院で、3月末で休止するのは22病院。ほかに6病院が新年度中に分娩をやめる予定だそうです。05年12月時点でお産を扱っていた1273病院(日本産科婦人科学会調べ)の8.2%がさらに減ることになります。 (右図も朝日新聞)
なぜこんな事態になるのか。医師の絶対数の不足が主要因です。朝日新聞は、主な休止理由としては、①人手不足に陥った大学の医局による引き揚げ、②開業や定年で退職した医師の後任が不在、③医師1人で分娩を扱うリスクの回避など-をあげていました。
どのくらい医師不足かというと、「医師の需給に関する検討会」(厚生労働省が設置)の資料によれば少なくとも不足数は6万人だといわれています。これは、診療以外に、自己研修やペーパーワークなどの病院に滞在して行う業務をすべて勤務時間と考えた場合、これらの業務を週48時間労働でまかなうのには、6万1000人の医師が新たに必要であると算定しました(2006年)。つまり医師不足は6万人以上ということです。
裏返しにいえば、医師が足りないから週48時間をはるかに超える勤務から医師は抜け出せないということになるのです。さらに、過酷な勤務実態があるがゆえに医師不足を招いているともいえる。まさに、過酷な仕事を前に医師が立ち去るのです。別のエントリーで少しふれましたが、昨年2月の福島県立大野病院の事件は、おそらく立ち去ろうとする医師の心をさらに後押しすることになったろうと私は思います。
この事件では、帝王切開による出産に関わって、産科医が刑事事件の容疑者として逮捕されるというきわめてショッキングなものでした。異例ともいえる逮捕に日本産か婦人科学会も意見を表明したほどでした。
こんな厳しい労働環境のなかに医師がいることを私たちは直視する必要があると思います。
話を元にもどすと、先の「検討会」の資料で6万人の医師不足が明らかになったのですが、厚労省は全体として必要数を満たしていると強弁しています。人口10万人あたりの医師数を引き合いに出して、病院の外来機能を診療所に移せば、不足数はより少なくなるとのべているのです。
病院の外来機能を診療所に移せばというのは、政府がすすめようとする医療「構造改革」がすすめばと置き換えることができると思いますが、数字上、必要数をほぼ満たすというわけです。そして2025年には需要と供給のバランスがとれるとのべています。
厚労省がいうような法定必要数をもとにした計算上の過不足の問題ではなく、本来の安心・安全の医療をささえるに足る医師の労働環境を整え、それにそって必要な医師数を確保することこそ求められているのではないでしょうか。絶対的に医師が不足している上に、地域的な医師不足、診療科のなかでの偏在がそれに追い討ちをかけていると思うのです。
「医師の需給に関する検討会」が医師の新規参入を10%削減べきという最終意見を出して20年がたちました。これ以降、大学の医学部定員が削減されてきたのです。もっとも、当時、医師会も、そしてマスメディアも医師過剰論に乗っかって、定数削減に賛成したきたのです。最初にあげた朝日新聞も、社説で最終意見に賛成するとのべ、「減らすなら金権医大」と主張しました(1986年6月25日)。
医師問題は、医療に関する国民の要求がどこにあるのかをまず考え、地域の医療供給システムがどうなっているのか、医療従事者の要求と国民の要求はずれていないか、統一できるのか、という視点であらためて考える時期にきているのではないでしょうか。
■blogランキング・応援のクリックが励みになります。⇒
タミフル事象の背後にあるもの
インフルエンザ治療薬・タミフル投与と異常行動との因果関係をめぐる問題で、ようやく厚生省に動きがみられました。
インフルエンザ治療薬「タミフル」の使用後に異常行動を起こした事例が新たに2例あったことが判明し、厚生労働省は20日、10代への使用中止を求める緊急安全性情報を出すよう、輸入・販売元の「中外製薬」(東京都中央区)に指示した。
厚労省ではこれまで、タミフルについて「安全性に問題はない」としていたが、対応が必要と判断した。ただ、10歳未満については中止は求めず、これまで通り保護者に注意を呼びかけるとしている。
厚労省によると、先月7日、昼と夜にタミフルを服用した10代の男児が、翌日午前2時ごろ、素足で外に走り出すなどした後、自宅2階から飛び降り、右ひざを骨折。また、今月19日にも、昼と夜にタミフルを服用した別の10代男児が、深夜に自宅2階のベランダから飛び降り、右足のかかとを骨折する事故が起きていたことが、20日、同省に報告された。
今年2月には、中学生2人がタミフル服用後に自宅マンションから転落して死亡する事故もあったことから、厚労省では、タミフルと異常行動の因果関係については「否定的」との見解を変えないまま、“警告”が必要と判断した 。(読売新聞3・21電子版)
厚労省によると、昨年10月末現在で、16歳未満でタミフル服用後に死亡した事例は16例。また、17歳の事例1件も含め、異常行動後に転落死するなどした事例はこれまでに5件が確認されている。
私がタミフル問題で何となくひっかかっていたのは、厚生省の腰の重さでした。素人には、同様の行動で死に至る事象がこれだけ起きているのに、どこかに因果関係があるだろうという疑問と同時に、なぜ厚労省は動かないのかということでした。
そうこうするうちに以下の報道がありました。
インフルエンザ治療薬「タミフル」投与と、投与後の突然死や異常死の因果関係について調査する厚生労働省研究班班長に資金提供していた輸入販売元の中外製薬(本社・東京、永山治社長)に厚生労働省で医薬品の審査管理などにたずさわった官僚が天下り、常務執行役員に就任していることが19日までに、本紙の調査で分かりました。
天下っていたのは、安倍道治氏。同氏は、静岡県立静岡薬科大学卒業後、一九七三年旧厚生省に入省。薬務局経済課課長補佐、企画課課長補佐、医薬安全局安全対策課長、厚生労働省医薬局審査管理課長などを歴任。2003年8月に厚労省を退職。同年8月に医薬品規格書の充実と普及などを行う日本公定書協会常務理事に就任。その後、中外製薬に天下っています。(しんぶん赤旗3・20)
2000年8月に申請され、同年12月にスピード承認されたタミフル。こんな常識はずれの承認の影にはやはり特別の事情があったのです。
タミフルの副作用にかんする調査・研究をめぐっては、厚労省研究班・横田俊平班長(横浜市立大教授)に中外製薬から約1000万円の寄付金が支払われていたことが判明しています。その上に、今度は、これまで医薬品行政に携わってきた厚労省官僚が当該企業の中外製薬に天下っていたことが分かったわけですから、癒着構造を想定するでしょう。赤旗はこれを「官・業・医の癒着の構造が問われます」と指摘しています。
同記事で、東洋大学・片平洌彦(きよひこ)教授が「薬害エイズ事件の後に、私は国会に呼ばれて、薬害発生の温床になる天下りはやめるべきなどの提言をした。それがいまだに改められていないわけで、この際、癒着の関係について徹底的に真相究明する必要がある」とのべていますが、まったく同感です。 国民の生命と安全を守る立場で迅速な対応が厚労省には求められているのに、その対応は怠慢とさえ感じてきました。
今回、癒着構造という核心ともいうべき部分が報道されたために厚労省が動いたのではないかとさえ勘ぐりたくもなるのです。
公正な判断が本来されないといけない薬事行政を、またもカネの力でゆがめる天下り行政の存在が疑われているわけです。癒着構造はただちにあらためるべきではないでしょうか。
医療費の費用構造をみると、その半分が医療従事者の人件費で、その次にウエイトが高いのが医薬品費なのです(上図の右端、クリックすると拡大します)。平成15年度の国民医療費は31兆5000億円余り(「平成15年度国民医療費の概況」)。医療費全体の19%ほどが医薬品費とされます。およそ6兆円の市場ということになる。だから新薬を独占する大企業・医薬品メーカーは、他産業を上回る利益をあげていることが指摘されてきました。
行政のなかでカネが動けば、カネのもつ物神性に目がくらむのか、そこには官・業・医の癒着がたびたび指摘されてきました。その引き金になることも指摘されつづけてきた天下り行政には厳しい国民の監視の眼が必要ではないでしょうか。

厚労省のずさんな推計 -医療費の将来予測
以前の報道で恐縮だが、実は、推計方法を(厚労省が)検証するにはわけがある。
厚労省が公表する医療費将来推計は、発表ごとに物議をかもしてきたのだ。過大すぎるという批判だ。
たしかに、2025年の医療費推計をみてみると、毎回以下のとおり、下方修正してきている。しかも、その修正ぶりは決して小幅ではないのだ。
- 1995年 141兆円
- 1997年 104兆円
- 2000年 81兆円
- 2005年 65兆円
たとえば、06年1月に発表された将来推計では、過去の医療費の伸び率などをもとに、2015年度の国民医療費を47兆円に、25年度を65兆円と推計した。また、医療制度改革を行った場合は56兆円にとどまるとはじき、抑制効果をアピールした。
これに対し、日本医師会などが25年度の国民医療費を49兆円とする独自試算を公表、国会でも妥当性をめぐる議論が展開された。「厚労省は、医療費抑制のために、過大に見積もっているのでは」との疑念が当然つきまとう。
こんな厚労省の姿勢にたいして読売新聞(1・18)はつぎのように指摘している。(右図も読売)
国内総生産(GDP)比をみると、日本の医療費は8・0%と、米国のほぼ半分で、先進国でも最低水準だ。地域での医師の偏在、多発する医療事故などは、こうした面への医療費の配分の少なさが原因との指摘もある。
医療の安全や質を上げるためにはどれだけの医療費が必要で、平均的なサラリーマンの保険料や税がいくらになるのかといった具体的な数字を出せば、国民的な論議を深めるきっかけになる。「医療費の将来推計で重要なのは、当たりはずれではなく、推計を導き出す前提条件をオープンにすること」と、……指摘する。
政府はこのように、あたかも医療費が今後激増して医療保険が破たんするかのようにいって制度改悪をすすめてきたのだが、そのたびにもちだした医療費の将来予測は、この結果をみるかぎり、ほとんど根拠がなかったというに等しいものといえる。将来予測を下方修正せざるをえないのは、「一人あたり医療費」の伸び率が年々低下しているためで、これまでの連続する医療改悪がいかにすさまじいものだったかを物語っている。
こんな推計ならば、たとえば現場の医者がこの程度の不確かな診断をおこなおうといおうものなら、たちまち非難ごうごう、まさに首につながりかねない代物だといえる程度の重大なものといえる。医療費の将来予測はむずかしいといわれている。だが、いったい厚労省の推計とはそもそも成り立つものかどうか、これだけの修正があいつげば、まことに疑わしいといわざるをえない。ここでも統計の真偽をみきわめる国民のリテラシーがまた問われている。

柳沢氏の認識-産科の実態は少子化の反映か?
産科の実態は少子化の反映か。また、柳沢氏の発言が波紋をよんでいる。
産婦人科医が減っているのは出生数の減少で医療ニーズが低減した反映だと(朝日新聞2・16電子版)。
「女性は子どもを産む機械」発言に批判が集中している気配があるが、その発言だけではなく、私はこの人物の認識そのものが厚生労働大臣にふさわしくないと考えてきた(柳沢発言-もう一つの側面)。また、医師不足問題については、無資格助産事件判決で問われているもので言及しているので一読いただければありがたい。
すでに日本共産党が7日、「深刻な医師不足を打開し、『医療崩壊』から地域をまもる日本共産党の提案」という政策を発表しているが、柳沢氏はこれを読んでみたらどうか。自民党は、自民党政治の打破を訴える政党からこそ本来、学ぶべきだ。自民党政治を倒そうとしている政党が何を考えているのか、敵を知ってこそ自らの進むべき方向もまた決まるだろう。私ならこう考える。もっとも、今の時期に、他の政党が医師不足問題についての政策を出しているとは思えないが。
産科の今日の実態をもたらしている理由はその意味では明瞭だ。上の提言がいうように、そのおおもとには、政府・与党の社会保障切り捨て政治があります。政府は「医療費適正化」の名で医師数を抑制しつづけ、日本を世界でも異常な医師不足の国にしてきました。また、診療報酬の大幅削減、「行革」の名による国公立病院の統廃合など、国の財政負担と大企業の保険料負担を減らすために公的保険・公的医療を切り捨てる「構造改革」が、地域の「医療崩壊」を加速しているのだ。
朝日新聞で「大臣は、分娩(ぶんべん)施設数の減少が出生数の減少率より大きい事実を見落としている」と指摘されるほどの、柳沢氏の不勉強ぶりがこれでまた明らかになったといえる。厚生行政も労働行政も語る資格がそもそもないように思えてならない。
■blogランキング・応援のクリックをお願いします。⇒
【参考エントリー】
無資格助産事件判決で問われているもの
« 前ページ | 次ページ » |