セピア色の映画手帳 改め キネマ歌日乗

映画の短い感想に歌を添えて  令和3年より

「夜の河」

2014-12-02 00:11:08 | 映画感想
 「夜の河」(1956年・日本)
   監督 吉村公三郎
   原作 沢野久雄
   脚本 田中澄江
   撮影 宮川一夫
   音楽 池野成
   出演 山本富士子
       上原謙
       東野英治郎
       小沢栄(太郎)

 昭和30年頃。
 京の堀川沿い、染物職人の娘、舟木きわ。
 彼女はろうけつ染めで才能を発揮、腕は父を凌ぎ、販路も自分で開拓して
いく程の才気と行動力を持っていた。
 家業を娘に頼りながらも、30手前の娘の先行きを心配する父親。
 そんな彼女が、ふとした偶然から女高生の娘を持つ阪大の教授と恋に落ち
る・・・。

 伝統と仕来たりの残る古い世界で、「女の自立」を描いた作品。
 メーデーのシーンは資本家と労働者を、男と女の関係に例えたのでしょう。 
 従属ではなく対等なのだと、実に直截的で野暮なシーンに感じました。
 この映画で赤・朱・オレンジ等、この系統の色はきわの秘めた情熱を示して
いるのですが、メーデーの旗は余りに図式的、説明に過ぎると思います。

 この作品、男の無神経、狡猾、計算をきわの台詞によって糾弾しながら、対
比するように女の一途さ純粋さを凛としたものとして描いています。
 僕は、ここに引っ掛かる。
 妻子有る男に惚れたというのは人間だから仕方ない、その事に対して僕は
どうこう言う積りは微塵もない(それを言ったら映画の何分の一かは作れなく
なる)、でも、そんなに一方的に男をなじる程、きわは立派なのかな。
 そもそも男をそこへ追い込んだ責任の半分は自分にある、と余り考えていな
いように見えるんですよね。
 彼女が感じてる罪は奥さんと娘さんに対してで、男に対しては「綺麗な愛」で
誤魔化してる。
 男の無神経をなじるなら、研究室へ突然押し掛けた自分はどうなのか。
 (今と違って昭和31年だと、研究室や教授室にも電話はなく、連絡手段に乏
しいとしても)
 スタッフが何人も居る中、突然、飛びっきりの美人が訪ねて来たら、噂になら
ない方がおかしいのに、自分の無責任な行動には無関心。
 東京に進出する為、銀座の展覧会の準備中、協力してくれてる卸屋さんを放
っといて男と逢引きなんて、公私混同も極まってます。
 例え卸屋の一人が「色と欲」に目が眩んででは有っても、後の彼女の行動と
同じで「それはそれ、これはこれ」で彼女の為に汗を流してる人が何人もいるの
に逢引きは無いでしょう。
 そんなこんなを「一途で綺麗な愛」で誤魔化されてもねぇ。(笑)
 男には泥を掛けても自分は被らない(当人は被ってる積もりらしい)、二人一
緒に汚れた泥を被ってこそ道ならぬ愛、不倫の本道。
(喫茶店で散々「女の自立」を聞かされた挙句、お茶代男持ちみたい(笑))

 極論すれば、この作品は山本富士子の美貌を観る為に存在してる(演技も上
手い)。
 整い過ぎて僕の好み(汗)とはちょっとズレているのですが、彼女が非常に美
しい事に全然異論は有りません。
 もう一つ言えば、宮川一夫の色彩設計も見所の一つでしょう。
 京女の「いけず」ぶりと凛とした気丈さを観たい方にはお勧め。(汗)

※音楽の使い方に殆どセンスを感じられませんでした。
 非常に鬱陶しい。
※僕の生まれた年、1956年キネマ旬報第2位の作品、やっぱり評論家のキネ
 旬ランキングと僕はとことん相性が悪い。(笑)


 
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