セピア色の映画手帳 改め キネマ歌日乗

映画の短い感想に歌を添えて  令和3年より

怖い映画、あれこれ

2012-08-29 00:52:21 | 映画日記/映画雑記
 どうも9月16、17日の連休までは日曜日が全部潰れそうなので、「お題」
の方はそれ以降になると思います。
 で、それまでの繋ぎに怖い映画のことを、ちょこちょこ・・・。

 「ぼくのエリ 200歳の少女」(2008年・スウェーデン)
 ヴァンパイアものですけど、ちょっと詩的と言うか哀切さの漂う物語。
 でも、この副題が問題なんですよね、宣伝部なのか知らないけど意図的に
嘘をついてる。
 これだと少年と少女の愛情物語になってしまう(それをやったのが「キック・
アス」のクロエ・グレース・モレッツを起用したハリウッド・リメイク「モールス」)、
この映画は男と女の性を超越した物語で、それだからこそ、余計に哀切なも
のを感じるんです。
 200年の間、子供のままで生活力のないエリは誰かに寄生しないと生きて
いけない(正体がバレてしまう)、心を通わせた人間は皆、歳をとり死んでいく、
そんな絶望的な孤独感が、やはりイジメられっ子で友達の居ないオスカーの
孤独感と次第に共鳴して離れがたいものになっていく。
 スウェーデンの雪と氷に閉ざされた静かで小さな町が、そんな物語の雰囲
気を盛り上げています。
 ただ、見方を変えれば200年生きてきたヴァンパイアが、その経験と手管
を巧妙に使って「新しい獲物(寄生主)」を捕獲する物語でもあるんです、この
辺りはクロエ・モレッツの美少女っぷりを利用した「モールス」の方が色濃く出
てると思います、「シベールの日曜日」でシベールがピエールを巧妙に絡め獲
ったように。
 違うのは大人のピエールが無自覚だったのに対し、子供のオスカーは既に
自分の運命を自覚しているんです、そこが切ない。
 とてもピュアなホラー(「キャリー」風味入り)です。
 (「モールス」はアメリカの雪と氷に閉ざされた町が舞台ですが、凍てつく寒
さなのに誰一人、吐く息が白くない。アメリカ人は幾ら寒くても息が白くならな
いのかと一瞬思いました(笑)、そういう所がダメなんですよね)

 「震える舌」(1980年・日本)
 これは確か「エクソシスト」のヒットにあやかろうとした映画だったと思います。
 僕達の世代の「マタンゴ」と同じで、子供に見せるとトラウマになる恐れがあ
ります。
 「破傷風」の恐怖を描いた作品、ゆっくり進む癌とかなら「お涙」系の話にも
出来るんですけど、アッと言う間に進行し激しい症状を見せながら死に至る病
気ですから、その進行の早さと症状を克明に描くことで人間の病気に対する
「恐怖感」を刺激していく底意地の悪い映画、一種の「掟破り」なのかもしれま
せん。(笑)
 普通の夫婦が、ほんの数日で極限に追い詰められ崩壊の瀬戸際に立たさ
れる、今の生活がいかに儚く脆い土台の上に成立してるかを実感させる怖さ
もありました。
 いつも冷静沈着、クールな女医を演じた中野良子は適役なのか、一人浮い
ているのか・・・。(笑)
 (高校時代、「山登り」をしていました、春休みにボッカをしながら山小屋(麓
の方ですが)に居候をしたんですが、初日、小屋へ着いた途端に足を滑らせ
ピッケルで掌をザックリ切ってしまいました、小屋の主人は「破傷風」になるか
ら直ぐ帰れと言ったのですが、そのまま1週間くらい居続けました、もし「震え
る舌」を見ていたら速攻で帰ってました)

 「真夜中の招待状」(1981年・日本)
 心霊写真というのが苦手で怖い、そんな性格なので。(笑)
 小林麻美さんのヌードが見られて嬉しかった記憶が。
 その小林麻美さんがラスト、男から去って行く理由が面白かった。

 「オーメン」(1976年・米)
 「変な写真が苦手」繋がりで。(笑)
 洋画で一番怖かったのはこれかも。
 「エクソシスト」より怖かったし、「キャリー」は最後の一発だけだし。

 「たたり」(1963年・米)
 一世代前の「ヘルハウス」みたいな映画。
 「ヘルハウス」より格段に良いと思うけど怖くはなかった。(笑)
 強迫観念に押しつぶされるのなら「レベッカ」の方が遥かに洗練されてると
思います。
 「エデンの東」のお嬢さんが出て来たのにビックリ。

 「ザ・チャイルド」(1976年・スペイン)
 後味の思いっきり悪い映画。
 グロもありますけど恐怖映画としてはAクラス・・かも。
 こういう傾向でウェットに描いた作品なら「妖精たちの森」(「ねじの回転」の
前段)ですけど、ドライでカラッとしてる分、こちらの方が気味が悪いと言うか、
おぞましい。

 閉所恐怖症でもある僕は、雰囲気や心理で(自分に)迫ってくる映画に一番
恐怖を覚えるようです。
 逆に、死者の復讐とか死んだ人間が蘇るって映画には余り興味が持てませ
ん。
 でも、最近これが多いんだ、他にもタイム・スリップとか非現実的なのが・・・。
 「想像の世界」だからって、こう回転寿司みたいに絶え間なく出てくると「いい
加減にしろよ!」と思ってしまいます。(笑)
 「ゴースト ニューヨークの幻」(1990年・米)なんか大好きですけど、ああい
う作品は10年に一度で充分。
 
コメント (9)
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「シムソンズ」

2012-08-20 00:06:17 | 邦画
 まず最初に「おことわり」しておきます。
 この作品は「クール・ランニング」(1993年・米・ブエナ・ビスタ配給)の
盗作だと思います。
 小学校のプールに卒業記念で大きなミッキー・マウスを描いたというだ
けで、巨額の著作権料を請求したW・ディズニー社が見逃してるのは不
思議なくらいです。
 オリジナリティ最重視の僕としては、この作品に0点を付けざろう得ない、
でも葬り去るには惜しい、そんな映画なんです。

 「シムソンズ」(2005年・日本)
   監督 佐藤祐一
   撮影 川村明弘
   音楽 佐藤直紀 主題歌 JUDY AND MARY  
   出演 加藤ローサ 藤井美菜
       高橋真唯  星井七瀬
       大泉洋    夏八木勲

 何にもない常呂高校3年の伊藤和子(加藤ローサ)は、不純な動機から
カーリングを始める事になる。
 どうにかこうにか集めた尾中、小野、林田の4人で即席チーム「シムソン
ズ」が結成されコーチには訳有りの大宮が付くことに。
 そんな寄せ集めのチームが本当のチームになるまでを描いた作品。

 この映画は女子高生の青春モノで「スウィングガールズ」、「ウォーター
ボーイズ」の系列に連なる作品、題材が「カーリング」に変わっただけとも
言えます、異なる点は、真っ正直に「王道一直線」な所、ここまで直球勝負
というのも珍しく、その開き直りが返って清々しく感じられます。
 (その分、淡白で残るものが少ないかもしれません)
 この映画の良い所を挙げれば、テンポ、カメラ、音楽、主役4人の新鮮さ。
 パターン一直線の作品を飽きさせずに見せるにはテンポ・リズムが軽快
でなくてはなりません、この作品は充分にそれがクリアされています。
 カメラは北海道の広い空間と透明な空気感を美しく捉えていて、女の子4
人のドラマを引き立てています。
 佐藤直樹の音楽は今でも「旅番組」によく使われるくらい馴染みやすい音
楽で、時折はさまれるJUDY AND MARYの歌も画面にピッタリでした。
 加藤ローサ、藤井美菜、高橋真唯、星井七瀬の4人も、この時期特有の
キラキラ感が出ていて好演、加藤の可愛さは特筆モンですが、只一人、カ
ーリング経験者役の藤井は他3人の下手っぴいと違い投石フォームに安定
感があり素晴らしかったです(演技は一番下手だけど)。
 また、北海道の大スター大泉洋もハマッていて良い味を出しています(今
では見慣れてしまったけど、当時はまだ新鮮だった)。
 これら4点が上手く結集されて実に爽やかな作品になったと思います。

 酷い所。
 金と時間がないせいか、北海道選手権まで行ったチームなのに加藤、星
井のフォームが不安定で見るに堪えない。
 決勝戦なのに投石時のフォームがグラつくなんて「映画を舐めて」ます。
 もっと酷いのは「伝説のカーラー」石神を演じた夏八木勲。
 カーリング界伝説の人なのに、ストーンを投げるとグラッ・・・、もう笑うに笑
えない。
 引き受けた仕事はキッチリこなすのがプロの役者でしょ、何年役者で飯喰
ってんだか。
 同じく時間がないせいで、雪と氷が殆んど出てこない。
 冬の長い期間、雪と氷に閉ざされた小さな町の唯一の楽しみカーリングな
のに、雪も氷も出てこないから町の人達とカーリングの結び付き、愛着が全
然伝わってこない、細部の詰めが甘いんです。
 またラストシーンの拍手の大きさがアザトイ、TVなら、あれでもOKでしょう
が映画では臭すぎます。

 そんな良い所、悪い所が混在した作品。
 盗作ではあるけど、見るに堪えない所もあるんだけど、捨てがたい魅力が
ある映画、結構、好きな作品なんです・・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・この映画は実話を装った作り話です。
 映画では高3でカーリングを始め、半年にもならない期間で北海道選手権
 の決勝へ行っています。
 いくら超マイナー競技とはいえ、それは有り得ない話で、実際のシムソンズ
 は1992年に作られた中学1年の選抜チームで、皆、小学生の頃からカー
 リングに親しんでいました。
 結成3年後、ライバル・チームから小仲選手が合流、加藤、林、小野寺でメ
 ンバーが固定されますが日本選手権での優勝は1998年のシーズンが初。
・僕は長野オリンピックで男子アメリカ戦の試合をTV(LIVE)で見てカーリング
 のファンになりました、シムソンズの出場したソルトレークでは惨敗でしたが、
 トリノで注目を浴びるようになり嬉しかったです。
 (長野の時の女子チームはスコットランドの楽隊みたいなスカート姿でした)
・残念ながら、当分の間、オリンピックのアジア枠2は中国と韓国で占められる
 時期が続くと思われます、国家の強化選手以外カーリングをやってる国民が
 一人も居ない所が出場するのは変ですけど現状ではどうにもなりません。
 ただトリノ効果で吃驚するくらい国内のチーム数が増えてるのも確かです、そ
 んな底辺の広がりから、またいつかオリンピックへ復帰できる日が来るのを
 期待しています。
コメント (2)
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「道」

2012-08-13 22:57:22 | 外国映画
 「道」(「La Strada」1954年・伊)
   監督 フェデリコ・フェリーニ
   脚本 トゥリオ・ピネリ
       フェデリコ・フェリーニ
   音楽 ニーノ・ロータ
   出演 アンソニー・クイン
       ジュリエッタ・マシーナ
       リチャード・ベイスハート

 粗暴で不器用な男と純真な心を持ったオツムの弱い女が示す愛の物語。
 そんな物語の中に、さり気なく宗教を忍び込ませた一種の寓話であり神
話に近い、そんな物語だと思います。
 浄土真宗の檀家で宗教に詳しくなく、キリスト教とは無縁の僕がこの映画
を語れるか、自信はないのですが、取敢えず気が付いた事だけでも書いて
みる事にします。
 間違ってたら「ゴメンナサイ」です。

 何故、この物語が「神話」なのか。
 それは、この作品が男と女の世俗的な「愛」の形を描きながら、キリスト
教における「無償の愛」、「見棄てぬ愛」という神学的な「愛」をも描いてい
るからだとと思います。
 ジェルソミーナは言います。
 「私が居ないと、あの人は一人ぼっちなの」
 キリストに一番近い人間を表現したとされるドストエフスキーの「白痴」、
黒澤監督の「白痴」を見てジェルソミーナのヒントを得たとも言われている
フェリー二。
 人間の善良性を突き詰めて、それだけに純化したならば生活力のない
「無能の人」になり、限りない「お馬鹿」、「白痴」にしか世間からは見えな
い、キリストにしても本人自体は「無能の人」でしかない、という見方があ
ります。
 (普通の人は「右の頬を打たれたら、左の頬は」我執に捉われて出しま
せん)
 ジェルソミーナ=白痴という造形は、キリスト=白痴=ジェルソミーナに
置き換えられるんじゃないかと思います。
 ただ、フェリーニの個性からなのか救世主キリストの持つ父性より、女
神信仰、マリア信仰のような母性の方が強い気がします。
(途中、映し出される祝祭においても、人々が捧げ持ち讃えているのはキ
リストを抱いた聖母マリア様です)

 そういう視点から見れば、
 粗暴で直ぐ手が出て(戦争)、色欲、酒食に見境いがないザンパノは神
から見た人間の姿を仮託した人物なんだと思います、ただ、完全に救い
の無い存在ではない。優しさも多少なりとも持ち合わせていて、それを素
直に表現できない不器用で不完全な存在として描かれています。
 ジェルソミーナはキリスト(マリア)を仮託した存在、どんなに酷い目に合
わされても、ザンパノ(人間)を見捨てられない。
 そして、もう一人の重要人物、高所専門の若い芸人。
 この男は「天使」なんだと思います、その証拠は背中に付いてるオモチ
ャの羽根。
 「天使」は神の使いですが、通常、いたずら者とされています。
 「ザンパノ(人間)なんて棄てて、こっちへお出でよ」なんて、そそのかし
たりしますが、
 「どんなもの(ザンパノ、ジェルソミーナ)にも、存在する意味があるんだ」
と神様からの伝言を「神の子」へ、ちゃんと伝えています。
 この映画のラストはザンパノの流す涙で終わります。
 それは、「神を棄てた」或いは「神を忘れた」現代の人間、一人ぼっちの
寄る辺無き人間の姿を表しているのではないでしょうか。
 それは「神の不在」をテーマにしたI・ベルイマンに通ずるものがあるよう
な気がします。
 そんな見方が出来る、だから僕は、これは現代の「神話」ではないかと
思ってしまうのです。
 「神話」を、ただの「神話」として描かずに、映画の物語に仮託して昇華
させているのがフェリーニの非凡な所なのでしょう。

 役者陣は皆優れていますが、やはり、その中でもA・クイン、J・マシー
ナが素晴らしい、特にJ・マシーナは、この人だからこその特筆すべき存
在だったと思います。
 A・クインも、ジェルソミーナを捨てる時に見せる憐憫の表情が、粗暴な
男の中に有る僅かな人間性を見事に表現していて秀逸だったと思います。

※35年前に見た時、ザンパノが人間性の欠片も無い粗暴な男にしか見え
 ませんでした。
 見直して、そんな単純な人物ではなかった事に気付きました、見直すチャ
 ンスを頂いた事に感謝しています。

 (追記)H24.8.14
 「道」というタイトルについて、思ったこと。
 僕はイタリア語が解らないので「La Strada」が「道」を意味するのか解らな
いのですが、「La Strada」=「道」を前提にして書いてみます。
 四国八十八箇所の遍路道を歩く装束、その菅笠には「同行二人」(例え
一人で歩いていても「お大師(弘法大師=空海)さま」と一緒という意味)と
書かれています。
 「道」とは、男と女の歩いていく「道」という意味と、「同行二人」神と一緒に
歩いていくのが人間の「道」なのだ、という意味が込められているのではな
いのでしょうか。
 ふと、そんな事を思いつきました。
コメント (7)
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「ロシュフォールの恋人たち」

2012-08-03 23:41:28 | 外国映画
 「ロシュフォールの恋人たち」(「LES DEMOISELLES DE ROCHEFORT」1966年・仏)
   監督 ジャック・ドミィ
   音楽 ミッシェル・ルグラン
   出演 フランソワーズ・ドルレアック
       カトリーヌ・ドヌーブ
       ジョージ・チャッキりス
       ジーン・ケリー
       ミッシェル・ピッコリ

 「シェルブールの雨傘」のジャック・ドミィ監督が再びカトリーヌ・ドヌーブとミッ
シェル・ルグランを起用したトリオ第2作。
 「シェルブールの雨傘」がハリウッドと違うスタイルで独創性に溢れた作品だ
ったのに対し、この「ロシュフォールの恋人たち」はアメリカン・ミュージカルに
挑戦した作品と言えます。
 伝統あるアメリカに挑戦した勇気は認めます、ミッシェル・ルグランの作った
ナンバーにも優れたものが有りました、が、やはり、これはアメリカン・ミュージ
カルの亜流でしかない、フェイクにすぎないと思います。
 この映画を観て思い浮かぶものが多すぎるんです、「ウェストサイド物語」、
「巴里のアメリカ人」、「雨に唄えば」、ドミィ監督が「あんな映画を作ってみたい」
と思うのは勝手ですが、この作品は真似の範疇を出ていません。
 ジョージ・チャッキリス、ジーン・ケリーを呼んだ時点で勝負は付いてます。
 「あれ」をやってくれ・・・じゃね。
 あそこまで、何で「ウェストサイド物語」に拘るのか、僕には理解できない。
 オープニング・シーンしかり、「クィンテッド~トゥナイト」しかり。
 あの感覚を「ソフトで粋なフランス・スタイルに」と考えたのでしょうが、「ウェス
トサイド物語」は押さえきれない若いエネルギーとスピードを荒々しいダンスと
歌に昇華し、それをダイレクトに観客へ向けて爆発させたもの。
 定められた枠をぶち破るパワーが命だったものを、綺麗な枠の中に納めよう
とすれば、動物園の檻で昼寝してる虎を見せるだけになるのは当たり前なんで
す。
 ジーン・ケリーも「可哀そう」の極致、何ひとつ新しい挑戦はなく今までやった
事をなぞるだけ、彼である必要がまるでない、「退屈だったでしょう」と同情して
しまいます。
 また、ハリウッドなら、まずOKテイクにならないシーンが沢山有り、それが一
つ一つミュージカル映画としての質とテンションを落としているんです。
 やはり「シェルブールの雨傘」と違ってハリウッドと同じ土俵に上がってしまうと、
ハリウッドに「一日の長」が有り、簡単には埋められない差が歴然とありました。

 ナンバーの中では「双子座の姉妹」、「流れ者の二人」が好きです。
 ただ「協奏曲の第3楽章」は、チャイコフスキーとラフマニノフをごちゃ混ぜにし
たようなメロディで、M・ルグランの個性がまるで感じられませんでした。
 デルフィーヌ(C・ドヌーブ)の恋の行方の見せ方。
 この「恋」の落ち着き先は途中から完全に明らかなのですが、その落とし方は
実にフランス映画。
 この作品を評価するとしたら、ここだけかもしれません。(笑)

 長い間、未見のままだった作品で、常に「シェルブールの雨傘」の陰にいた作品。
 今回観た感想は「若い時の直感」に間違いはなかった・・・でした。


※ただでさえ、あの映画この映画を連想させるのに、それをやってる大セットが「ア
 メリカの夜」の撮影が行われたニースの撮影所っぽい。
 「アメリカの夜」のオープニング・シーンの屋外セットと「ロシュフォール~」の広場
 を囲むセットを比較してみて下さい。
 僕の中では「アメリカの夜」のセットの中で繰り広げられる、あの映画、この映画
 という感じででした。
※M・ピッコリが純真なオッサンというのは、意外すぎて可笑しい。
 
 
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