桜井邦朋、SKネトル 『独創が生まれない』

2016-08-12 12:36:26 | 大学論

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この本は、日本の大学における研究内容に少しでも不満をもっている人にはぜひとも読んで、自分の研究の態度を改善してほしいと思う内容を含んでいます。

この著者である桜井那朋氏は、私が大学時代に感銘を受けた学者であり、その人とSKネトル氏との共著で、非常な興味を持って読ませてもらいました。

日本の知的風土が、独創を生まないということを危惧している本です。

まず、問題となるのは、学者が専門の中に閉じこもることを批判しているのです。

「その道から外れたいろいろな道に関心を持ったり、迷い込んだりするのは邪道となり、学問する人間としては恥ずべき行為になる。こんなわけでいろいろな領域に関心を持ったり、研究を進めたりする人間を雑学者としてさげすむようになる。」 ということですね。

人間社会はいろんな領域によって多岐にわたっているものであり、その一部を取り出してそれだけわかっているだけでは、やはり説得力を持たないでしょう。

そうならないためには、いろんな分野において博学であることが重要でしょう。

「哲学」とは雑学と濫読の総体であると私は解釈しています。

なぜ専門を分けたかといえば、本や新聞、雑誌、テレビ、ラジオといった情報の媒体が多くなり、それを手早く処理するために、専門が分化されたのであり、そのことをわきまえずに、専門に閉じこもっているだけで良しとする風土にはやはり非難しなくてはいけないでしょう。

しかし専門を極めないことにはやはり学問の発展もないのは事実です。

ここで思い起こされるのは、いまはなき小室直樹氏の言葉です。

「専門を持たずにいるのは問題です。

自分の専門に精通しているほかに2つくらいの専門に精通していることが望ましいでしょう。」
ということです。

小室氏がまだ助教授であった時代に、もう氏は社会科学におけるちょっとした権威的な存在になっていたから、驚きですね。

このブログでも紹介しました梅棹忠夫氏は、いろんな分野に好奇心の赴くまま勉強されたかたでしたので、いろんな分野の人たちとの対談集でも、対話が進むごとにいろんなストックが次から次に出てくるのが驚異でした!

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梅棹忠夫


そういう人であってこそ、独創的な理論を展開できるのだと思います。

梅棹忠夫氏は、ダニエルベルという世界的に有名な学者が、『脱工業化社会』(1973年)という本の中で展開されている理論よりも先に、脱工業化社会の到来を予測していたのです。

その梅棹氏もそんなにいくつもいくつも独創的な理論を出せていたわけではないので、毎回毎回そういうものを期待するのは酷でしょう!(笑)

またこの本では、日本人の行動様式が極めて情緒的である、ということにも批判されているのです。

衝動的、刹那的な行動が目につき、行動に一貫性が見れない、ということですね。

どこかに書かれていることを真似たり、誰かの言説を取り入れて事故を代弁させたりすることは、自分に責任を持たせずにすむ、ということですが、これはなぜこういうことを批判しているのかといえば、やはり独創性を妨げる、ということでしょうか?

しかし、独創性的な分を書くというのは非常に難しく、そんなに数を出せるものではないことは間違いないのです。

これまで私は1000冊以上の本を読んでいましたが、「独創的だ!」と思った著作家はそうそういるものではないのです。

よしんばいても、その人も他の人と似ている文を書き、たまに独創的なことを書く
、というのが通常です。

そのことについて批判しようとも私は思いません。

でも独創性は、世のため人のために必要なことであり、それを期待されて知識人というものは存在意義があるので、「独創性」ということに焦点を合わせて、そういうものを探求していかなくてはならないでしょう。

独創性のない人は、やはり専門領域が狭い、という古今東西変わらぬ事実があるようです。

私の通った大学でも、専門に閉じこもる教授はかなりいまして、講義内容は毎回毎回同じ言葉の繰り返し、出した本の内容も終始変わらず、しかも引用ばかりで読むのもつまらなかったです。

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そういう教授でも年収2000万円ももらっていたから憤りました(笑)。

私が大学に入って本をたくさん読むようになり、登録した講義を全部受講していて発見したのは、「他の科目、他の専門の本から学んで理論を借りて論文を書くことができる」ということですね。

ですから、試験勉強において複数の科目を並行させて理論を構築できる、ということです。

こういうことは高校までの勉強では体験できなかったことです。

確かに、世界史の近代と日本史の近代を同時進行して勉強していれば参考になる、という例はありますが、それくらいでしょう。

理論付けをするのに他の科目から学ぶことができる、私から言わせればこんなに楽しいことはなかったです。

しかしこの快感をこういった教授たちも学部生時代に経験してきたはずですが、それでもそれ(他の領域を学ぶこと)を教師になってから放棄してしまったのは、やはり大学の学問が嫌いなんじゃないか?と思われて仕方ないですね。

時は、第二次大戦後、日本の誰もが高学歴志向になり、大学が新設されました。

大学の先生は、毎日出勤しなくてもいい、講義の数も毎週5以下…この事実を知って楽をしたいから大学の先生を目指した、という人も少なからずいたことは間違いないでしょう。

自由な時間が多くある。

その自由な時間を使って研究をしまくる教授もいれば、ほとんど寝そべって研究らしい研究もしないでいる教授もいます。

後者の教授は、淘汰されればいいのですが、そういう教授に限って年末試験は簡単ですから、そういう情報をかぎつけて受講する学生のほうが多いのが事実ですから難しい問題です(笑)。

そういう教授は独創も何もないから注意が必要です。

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そして、「流行が変わればそれに合わせて思想から何まで変わってしまう。」という風に批判しているのです。

これも学問の理念から隔たっている、ということですね。

こういう学者、教授といった人たちが多くいたからこういうことを書いたのだろうとは思いますが、今はどうかな?と疑問にもいます。

私の幼少のころは、まさしく同質を強いる社会だったですし、学校のみんなと遊ばないで、家でテレビゲームをしている男子は、それだけで嫌われていましたね。

しかし、今考えると、「みんなと遊ぶ遊ばないはその人の自由なのに、なぜそうしないからといって嫌われないといけないのかな?」と疑問に思います。

それが慣習だから、ではすまないでしょう。

今は、「集団主義とも個人主義とも言えない社会」に変容した日本社会において、こういう付和雷同主義の学者も減ってきているのではないか、と思いますね。

孤独になることを恐れるな!ということを学者たる人にむかって桜井氏は他の本でも書いていました。

そしてこの本を共著者であるSKネトル氏も書いています。

「1人1人の能力や経歴によって同じ対象の研究にあっても、対象の味方から取り扱い方まで人によって全く違うのが当たり前である。

付和雷同して、思考の徹底をしないでいると、思考が極めて現実的な点に向けられ、常識的な判断というか、多数の人々の常識に従って判断や結論にすべてが向くようになる。

ここで力を発揮するのが、前例や慣例であるから、思考の展開は必然的に保守的な傾向を帯びることになる。

するといつまでたっても新しい革新的な発想やアイディアを持ち込むような思考は出てこない。


これは目の覚めるような言論ではないでしょうか?

非常に簡潔であるけれども、非常に頂門になる言で、教授や学者といった人たちだけでなく、市井の人たちも市民として行動していく際に、戒めねばならない言葉です。

名を馳せた俳優や女優といった人たちに共通するのは、みんなと一緒になって楽しむ能力のほかに、「一人でこもってする趣味がある」ということですね。

多くの人と一緒になって楽しむことは重要ですが、それだけではだめで、だれにも負けない個性をはぐくむ趣味がなくては俳優や女優としては失格、ということですね。

孤独になることの重要性について、また興味深いことが書いてあります。

それは、創造的な研究においては、研究の仕方やテーマの取り上げ方などすべての点で、他の人から違った視点に立つ必要がある、ということです。

「このようないわば独立志向とでもいえる研究への態度が必要なのである。 未知だった新事実の発見とか、全然予測されなかった新理論や新解釈の提唱のためには。」

そのためには、私見や偏見がなくてはならない、ということですね。

そうでなくては、いくらたくさんの資料を並べてもデータを並べても何にも帰納されないということです。

これもまた目の覚める理論ですね。

「偏見」というマイナス的なニュアンスを含んだ言葉の理念が必要というのですから。

その他、日本の大学の教授会の在り方や、知識の接し方や言葉の使い方に足るまで、その内容が「独創を妨げる」ということをこと細かに説明しています。

いずれも目の覚める理論であるといわなくてはならないでしょう。



●興味の出た方は以下よりどうぞ!
  ↓
独創が生まれない―日本の知的風土と科学

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独創が生まれない―日本の知的風土と科学

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その他、桜井邦朋氏の書いた本についての紹介ページは以下。

『大学教授』



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