この内田義彦氏は、私が大学時代に読んだ本の著者で今も印象に残っている人です。
今でも、この著者の本をチェックしていますからね。
この「社会認識」という言葉からして私の好奇心をそそるイメージを包含しています。
それは、まさに科学を何故人は学ぶべきなのか、という問いこそが、科学を学ぶ人にとって認識してほしいことだからですね。
この本を読んで、その筆致も、読者に問いかけるスタンスも大塚久雄氏に共通しているなと感じた次第です。
その大塚久雄氏も、私が大学時代に読んで感銘を受けいまだに本をチェックしている人です。
内田義彦氏にとって「参加」とは、未来に起こるであろうことに一人ひとりが責任を負うということと定義してします。
そこからして、やはり現代社会に生きる人間の生活にピンとくるものを感じないでしょうか?
如何にいきるべきか、ということは本などにいろいろと書かれていますが、実際とその理想とはかけ離れています。
社会に生起する事柄は、自然の現象とは違って、人間の意志行為の総体ですから、それを操作すれば運命を変えられるのです。
どういう事をすれば結果的にこうなる、という歴史的事実があるのですから、それを学んで、それが良き結果になったとすればそれを模倣し、悪い結果をもたらしたのならば、その行為をしない、という具体的な作為をしていく必要があるのですね。
ですから、そういう事が学べる大学こそが人間の誰もが学ぶべきであるし、そういう科学的なことを書いた本をどんどん読んでくれたらいいのですね。
そういう人が多く増えてくれることこそが私の望んでいることですね。
人間の意志的行動の基礎は、「普通には情念と呼ばれる行為の内的端緒がある」と内田氏は書いています。
その意志的行動には、巨視的、微視的と両方がありますから、その内奥についても学んでいく必要があるのですね。
マキャベリの書いた本は、統治者のための政治論でした。
しかし、ホッブズは、人間だけが前提になっているという対比があります。
ホッブズは私有財産制度に包摂される以前の人間こそ自然人ということを言っているのです。
その自然状態から論述を始めているのです。
またマルクスは、「私は、世論なるものを相手にしない。一人一人の読者を相手にする。」といったといいます。
こういった今も語られる社会科学者の言論の内容には、変遷があるのですね。
その望ましい科学の対象が変遷しているのです。
その内容について書かれているのが、この著書なのです。
そのうち立てられた体系の理解は、埋まっている断片を掘り起こす作業が必要である、と内田氏は言います。
それをしないと、体系を理解したことにはならない、ということですね。
これはこれから科学を勉強する人、または既に勉強している人両方に必要なことですね。 物事を巨視的にみる必要もありますが、微視的に見る必要もあるのです。
そういった微視的な観察が、思わぬ重要事項になり得たことにつながったことはいくらでもあるのです。
その観察ですが、やはり日々研究を重ねることによってでしか発見できないですね。
研究を日々重ねる、あるいはいろんな人と語り合っていく途上で分かる、ということですね。
ですから大学教授たちを多く集めた研究発表の場というのは、今も存在しているし、これからも、続けていかなくてはならないでしょう。
この本の「歩み」という単語からして、やはり歴史的な意義の包含性があるのですね。
内田氏は、「現代をどういう歴史のパースペクティブにおくか」ということを強調しています。
その際、ルソーを引き合いに出しています。
ルソーは、今も中学の社会科の教科書にも載るくらい偉大な人ですが、この人の研究の発端は、非経済学的な研究内容だったのを知って驚きでした。
人類の歩みにさかのぼり、学問、文化、産業発展が果たして人類に幸福をもたらすかどうかを問うたのが始まりだったのです。
文明人と野蛮人を比較し、私有財産制度とそれに基づくまでの人間は、自己愛、憐憫、共感だけだったといいます。
しかし、文明人は利己心や対立意識を持つようになった、特に上流階級や文化人にということです。
しかし、そういったものは下層階級や庶民にはないということです。
こういうふうに書いたルソーについて、内田氏は、社会を哲学的に考察するためには、われわれの目なるモノが、如何にして歴史のなかで形成されてきたかを反省の中で捉える必要がある、ということですね。
歴史の歩みは、社会についても、個人についても人間が自然を失っていく過程であるとしています。
ルソーは正常な社会関係の樹立を目指してした、ということです。
なるほど、この指摘は覚醒されますね。
今いる場所で、今の事しか観察していなかったら、今の状態をどう評価すればいいのかはわかりません。
しかし、人類の歴史を見ることで、そういった事の評価ができるのですね。
野蛮人と文明人の比較を通して、今の状態を浮き彫りにすることが出きるのですね。
その比較を通して、現在を批判していますが、決して文明人を高評価しているわけではないですね。
そこから、どの状態か、どういうレベルこそが望ましいかは、人によって異なってくるでしょう。
その吟味は、我々一人ひとりがしていかなくてはならないでしょう。 そして内田氏は、スミスを引き合いに出して、現代の吟味を示唆しているのです。
スミスは、道徳哲学体系を有効に成立させた科学者として高評価しているのです。
この本では、「マルクスよりも凝集度は高い」としています。 スミスは利己心と共感を人間社会に必要な2つの柱としているのです。
しかし、無数の人間の行為の結果、意図していた結果とは全く別の結果を生むこともあるのですね。
当時のヨーロッパ諸国においては、国富の増大を至上命題にしながら、大多数の貧民は豊かではなかったのですね。 貿易の国際的な対立が戦争を引き起こしていたのですね。
こういう意図せざる結果になったのだから、何も考えずに行動していくことは避けなくてはならないと考えるのです。
意図する結果を出すこともままあるからですね。
しかし意図せざる結果を招いてしまった場合、どうすればいいかを研究したのがスミスだったのですね。
影響を分析の手法で検出したのですね。
こういうスタンスが、私も支持したい事ですし、こと社会科学的なことでなくても、自分の所属する会社や家族の中や友人関係においても必要な姿勢ではないでしょうか?
そうすることで、やはり打開の視野が見えてくるということですね。
こういった社会認識の変遷を内田氏は、研究途上の中で発見できたのでしょう。
非常に好奇心を掘り起こされて読みました私は。
しかしこれは、研究をさぼって毎回毎回講義で同じこと言っているだけの似非教授にはできない本でしょう。
そういう人は私の学んだ大学でもいました(笑)。
この本を最後のほうで、内田氏は、スミスを研究する場合でも、スミスの研究だけしていてはだめであるということ、他人の研究史、他の思想領域に対する研究史を読んで事件を探し出す必要性を問うています。
これも科学を勉強していく人には必須の精神ですね。
やはり、その研究対象だけを研究していては視野が狭くなり、説得力に欠け、ひいては社会に必要な事項の発見をすることができなくなるのですね。
いろんなことを研究した途上で、この本のような関心が深くなる本を書いてきた内田氏の言葉だけに説得力がありますね。
この内田氏に興味を抱いた人には是非とも読んでもらいたい本です。
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