自転車操業日記

自転車と組版ソフトについての備忘録。

読んでいる途中で

2018-11-12 16:43:29 | 泡沫
講談社学術文庫の『ケガレ』というのを電子で買って,スマホで読んでいる。これの前に読んでいた『古典歳時記』は読みやすかったので,絵とかなくて文字ばっかりの本(まんがは字が細かくなりすぎてきつかった)だったらスマホでも大丈夫だなーと思っていたけど,これはなかなか進まない。つまらないわけじゃないんだけど,全然知識のない分野なので,学説の紹介とかしている部分で引っかかっている。前にかいてあったことをどんどん忘れるから,行きつ戻りつみたいになって進まない。つまんないわけじゃないんだけどね。

扱っているテーマに関して自分のレベルが低いときには,紙の方がいいのかもしれない。文庫だし,読み終わったらどうせ自炊するんだから……と思っていきなり電子で買ってしまったのはだめだったかも。

で,ケガレの発生源で人の死について書かれた部分を読んでいて,ふと気になったこと。
「死」という認識はいつごろ形成されたのだろう。
動物の生活を扱ったドキュメンタリーで,死んだ子どもを生きていたときと同じように世話する母親の姿が涙を誘うことがあるけど,じきに離れていく。そのタイミングって何なのだろう。かれらは「死んでしまった」ことを理解して「あきらめがついて」離れていったのだろうか。だとしたら,動物たちは「死は終焉」という認識を持っていることになるんじゃないのか? 
それは,なんかへんな気がする。

もしかすると匂いじゃないか,と思う。
生物が死ねば,生きている生物のからだでは増殖できない微生物が増え始めるだろう。逆に,生きていたときに共生していた微生物は衰退するだろう。それで匂いが変わる(くさりはじめるとか)タイミングが,離れるタイミングに合うんじゃないか。匂いが変わったら,それはもう自分の知っているものではなくなると言うことではないか。特に哺乳類はにおいが大事らしいし。

これは文化人類学の本なのだけど,人類学と言うからには,やっぱり生物としてのヒトのことを考えざるを得ないのかもな。


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