大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

ほど酔い

2014年10月25日 | 遊び
ほどよく歩くという感じの1日。
護国神社から谷津山への登り道と、清水公園までの下り坂が心地良い疲れを呼んでくれました。
家を出てから帰ってくるまでの歩数は18,696歩でした。
東静岡駅からの一万歩クラブでしたが、地元の私も初めて歩く場所ばかりです。
またいつか一人で行きたい場所も見つけました。
こんな楽しみもあるんですね。

終点では、ほど酔く飲んで心地よく帰りました。
やはりほど良さが大切ですね。

関係性

2014年10月24日 | 日々徒然
人と人との関係性について最近深く考えるようになった。

20代前半は仕事でも趣味の世界でも、もの凄い濃い人間関係の中で生きてきた。
その頃の親との関係性はどうだったのか記憶にもないくらいで、どこかを泊まり歩いていた記憶だけが色濃く残っている。
(親たちは心配していたんだろうな~)
職場でも趣味の世界でも一兵卒の時代だったが、無責任に飛び回っていれた最も楽しい時代でもあった。

20代後半は多少責任が伴う時代、職場では係長クラスとなり趣味の世界は支部長時代、上と下に挟まれて苦しかったが、その分学ぶことも多かった。
結婚をして守らねばならないものも増えて、多少の窮屈を感じ始める。
若気の至りで事件を起こしたりもしたが、この時代まではなんとか許してもらえた。
この時代に間違いを起こしたことは、その後の私に幸いしたのかもしれない。
「人間万事塞翁が馬」である。

30代前半は人生航路を大きく変えた時代。
思いもよらぬ労組専従者になって180度方向転換。
その入口で遭遇した市長選挙で関わりあった人々は、それまでの私の関係性を数倍以上広げてくれた。
職場・趣味の世界・結婚・労組、そして選挙で知り合った人々…そろそろ関係性持続の限界を感じ始めるが若さはそれを凌いでくれた。
しかしその分、子どもには可哀想なことをしたと今では思う。

30代後半からの単組委員長時代はリーダーとしての孤独を学び、連合時代は全体を学び、そして労働運動の最前線をリタイアした。
労福協専従職についてから1年間が経過した。
5年前からリタイア後の準備として始めた自己啓発の仲間たちとの関係性もより深まった。
不思議なことに連合会長の肩書きが取れたことで新たな関係も広がりつつある。
もちろん時間的制約が取れたことも大きい。
新ステージにおける私の志がそろそろリアルに見え始めた。
おそらくこれからも私の関係性はさらに大きく広がっていく予感がする。
そのための学びの期間でもある60代前半。

これらの関係性の広がりが私にとってなによりの財産である。
どんな困難にあってもそれを乗り越える自信と勇気を与えてくれた。
おそらくそれは様々な体験ができたからであろう。
自らの体験でないにしても、関わった人々から受けた間接体験もそうである。
想像もできないような体験を受けることで、私のちっぽけな価値観も大きく広がった。
だから誰とでもすぐにいい関係性を結べるようになってきたのだと思う。
いい体験も悪い体験もすべては貴重な肥やしになる。

私はものすごく幸せ者である。
家族を始め、周りの人達にはずい分心配や迷惑をかけてきたが、自分の好きなようにやらせてもらえた。
だからここまで関係性を広げられたのだと思う。
友達をつくれない若い人が増えたというが、きっとそれにはつくらせないようにさせてしまった何かの力が働いたのではないだろうか?
新しいことにチャレンジできない組織と同様だと私は思う。
もっと人間を自由にさせてもいいと思う。
こんな私でもなんとかなっているのだから…。

二宮尊徳伝(最終回)

2014年10月23日 | 労働者福祉
尊徳67歳の時、幕府から「日光東照宮領の仕法に着手せよ」の命令が出されました。
尊徳が待ち望んでいた事業です。
喜んだ弟子たちが尊徳のもとへお祝いに駆けつけました。
弟子たちに向かって尊徳はこう語りました。
「我が願いは、荒地よりも、人々の心の荒廃を開拓することだ」
人々の“心田の開発”をすることこそ尊徳生涯の願いだったのです。
具体的には「怠・奢・奪の心から、勤・倹・譲の心」への心田開発のことです。
これはいわば尊徳流の道徳教育理論ですが、この道徳教育の難しさは人間の性にあります。
人間の心はどちらかといえば“善とされるもの”よりも“悪とされるもの”のほうに動きやすいからです。
勤・倹・譲よりも怠・奢・奪のほうに傾きやすいということですね。
だから指導者はそのことをわきまえて、自ら戒め、深く自覚・自戒せよということでしょう。

尊徳は幕末の荒廃した農村を復興し、人々の暮らしを立て直すために生涯を捧げ尽くし、70歳の天寿をまっとうしました。
死に臨んで弟子たちに次のように遺言しました。
「私の死ぬのも近いだろう。
私を葬るのに分を越えるでない。
墓石を立てるでない。
碑も立てるでない。
ただ土を盛り上げて、そのそばに松か杉を一本植えておけばそれでよろしい。
決して私の言葉に違ってはならない」


尊徳伝を書きながらいくつものことを学びました。
素晴らしいリーダーには人を惹きつける魅力があります。
それはある種の強力なパワーです。
パワーを持った指導者はいつしか権力を持ちます。
その権力の使い方を誤ると組織や社会は崩れていきますから、その行使にはよほどの注意が必要です。

あなたのパワーの源泉はなんでしょうか?
お金、肩書き、暴力、人事権、報酬、色気、裏切り、ゆすり、サボタージュ、知恵、知識…?
尊徳のパワーの源泉は「徳」でした。
まだまだ私たちの勉強の道程は続きます。

(参考文献)
大貫 章「二宮尊徳の生涯と業績」
松沢成文・鴻谷正博「二宮尊徳の遺訓」
岬 龍一郎「人は徳のある人に従いてくる」
童門 冬二「二宮尊徳の経営学」

二宮尊徳伝(14)

2014年10月22日 | 労働者福祉
上を向いたら キリがない
下を向いたら アトがない
さじをなげるは まだまだ早い
五分の魂…
泣いて 泣いてたまるかヨ
夢がある ♪

私の好きな渥美清の「泣いてたまるか」です。
尊徳を勉強していたらなぜかこの唄がふっと湧き出してきました。


さて二宮尊徳伝の続きです。

人間の社会はまったく平等というわけにはいきません。
同じところからスタートしても、数年たたないうちに貧富が分かれてきます。
人によって強弱や勤惰があるからです。

格差や不平等をどうするかということは大変難しい問題ですが、尊徳は非現実的な理想論ではなく、とても現実的な提言をしています。
「…もしも貧富を等しくしようと思うならば、富者は身を倹めて余財を推し譲り、貧者は身を勤めてその徳に報いるべきである。
これを本当の貧富均平というのだ」

助けられる者が助け、支えられる者が支えるということですね。
そして助けられた者、支えられた者はそのことに感謝して一所懸命努力して恩返しする、ということですね。

「天は余りがあって地は足りない。
余りあるものは必ず足らぬものを補う。
それゆえ天は覆い地は載せ、天の気は下に降り地の気は上にのぼり、創造の気が相和して万物が生ずる。
男と女もまた同様であって、男女相和して子孫が生ずる。
富と貧も同様であって、貧富相和して財貨が生ずる。
もしも天地が背反すれば万物は生ぜず、万物が生じなければ天地もまた滅する。
男女が背反すれば子孫が生ぜず、子孫が生じなければ人類もまた滅する。
貧富が背反すれば財貨が生ぜず、財貨が生じなければ貧富共に滅する」

世の中はすべて陰陽に分かれ対立していますが、その対立は常に変化して止むことはありません。
自然の中にも、一人の人間の中にも“陰陽”は存在しています。
その真理を知ればいたずらに対立だけを繰り返すだけでは、何も生まれてこないことが分かります。

尊徳の名声は高まり老中水野忠邦によって幕府の御家人に取り立てられますが、尊徳の領民たちへの影響力が強くなることを恐れた小田原藩により領民たちと接触することを禁止させられました。
尊徳60歳の時でした。

二宮尊徳伝(13)

2014年10月21日 | 労働者福祉
小渕優子と松島みどりの2人の閣僚がそろって辞任しました。
取り巻きの幹部も含めて、選挙法に関するあまりの無知にびっくりします。
素人ながら私のほうがよほどマシですね。

さて二宮尊徳伝の続きです。
これでも読んで心を清めましょう。

困窮者に対する尊徳の援助のやり方は、無償の供与ではなく年賦償還による貸付でした。
困っている貧乏人ほど借り入れも多く、返済の負担も大きくなります。
尊徳は、その負担を軽くするために村人同士で助け合う方法を考え出しました。
余裕のある者からは援助資金である報徳金への「加入金」を推譲させました。
(推譲とは他人のために推し譲ることです)
極貧の者には“勤倹”によって自立できるよう指導しました。
(勤倹とは報徳仕法を用いた生活指導です)

この相互扶助の考え方を村人たちに理解納得させるために尊徳は根気よく説得を続けました。
「貧困で飢えに迫る者は自らが招いた結果かもしれず、哀れみをかけるには足らないと思うかもしれない。
けれども同じ村に住み、同じ水を飲み、同じ風に吹かれ、病気の時は助け合い、死ねば弔い合い、苦楽を共にしてきたのは一朝一夕の因縁ではない。
たとえ乞食であっても、あるいは財産を失って放浪している者であっても、なお銭一文を施し、米ひとすくいを与えるのが人情の常である。
いわんや同じ村民が死ぬのを黙って見ている道理はあるまい。
あなたたちにはこれを救おうという気持ちがないのか。
同村の者でもその死を救う気持ちがなければ、なんで他国の私たちがこれを救う理由があろうか。
そもそも我らは皆、天の分身ではないか」

尊徳の思想は、何事につけても調和融合をめざすまろやかな思想です。
人間と人間の関係でも、互いに持ちつ持たれつの相互依存関係を維持しようとする考え方です。
しかし特権意識の強かった武士階級にはこの思想はなかなか理解されず、報徳仕法は“上を損して下を益するもの”として毛嫌いされました。
藩政当局の抵抗が大きくて、分度がなかなか確定しないとき、尊徳はこう役人たちに言い放ちました。
「国に分度がないときは、桶に底のないのと同様で、たとえ百万の米やお金があっても、ついに困窮することは必然だ」

武士階級に人気はなくとも農民たちの熱気はいよいよ増してきます。
報徳仕法のやり方と考え方は「仕法雛形」(標準マニュアル)として冊子にまとめられます。

この雛形は手から手へと渡って写し取られ、多くの村々で模範例とされてきました。
仕法の気運はますます広がっていきます。