大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

豊橋カレーうどん

2015年02月28日 | 遊び
「あれ~久しぶり…」
ちょっとしたことで乗り遅れてしまいました。

でもしょうがないですよね。
「どこへ行くんですか?」
『これから友達と豊橋にカレーうどんを食べに行くんですよ』
「へえ~、美味しいんですか?」
『らしいですよ…』

そんなこんなで、集合時間に遅れてしまいました。
それでも皆に追いついて無事に「豊橋カレーうどん」にありつきました。

カレーうどんの下にトロロのかかったご飯があるんですよね。
ボリュームたっぷりで、ビールもお酒もちょっぴりしか飲めませんでしたが、充分堪能しました。
楽しかったです!
ありがとうございます!
明日もいい日でありますように!

賀川豊彦伝(14)

2015年02月27日 | 労働者福祉
賀川豊彦とケインズの考え方にはいくつもの共通点があります。
賀川は「通貨は愛である」といい、ケインズは「貨幣愛」と言っています。

通貨というものは、商品でないはずなのにいつのまにか商品になって、儲けだけを中心に、巨額の通貨が毎日市場を動き回ってしまいます。
そうした為替相場の変動ということで、あらゆる国の経済不安とか、あるいは経済・政治の混乱が起こり、通貨の価値の変動によって大きく国民の生活に影響を及ぼしてきます。
通貨はこれでいいのだろうか?無形の価値とかモラルというものを経済・金融の中に取り戻さなければ、次世代の子供たちや青少年たちが危機の中にさらされてしまいます。
「これは明らかに社会の思想の貧困、金融政策のまずさだ」と二人は同様に考えていました。
ふたりに言わせれば、投機的商品として利潤のみを追求する通貨は通貨と呼べないのです。
まさしく現代に通用する言葉です。


さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

西欧における賀川の名声は新たな高みに達します。
1935年12月、彼は3回目の世界講演旅行を計画します。
引っ張りだこの賀川講演は、5年先まで予約で埋められるほどでした。
しかし一方で反対運動をする者たちも多くいました。
入港したサンフランシスコでは、途方もない賞賛と非難で迎えられますが、賀川は重い眼病にかかっていたため、感染防止を理由に拘留センターに保護されてしまいます。
彼を待ちわびていた支援者たちは政府に働きかけて、とうとうルーズベルト大統領自身までをも動かし、条件付きで賀川の7ヶ月滞在を許可します。
賀川は全米各地で協同組合経済による非暴力革命のメッセージを訴え続けました。
経済が戦争の根本原因であると主張し、世界貿易安定のために単一通貨体制に基づく国際的協同組合銀行構想を論じました。

成功を収めた米国伝道旅行を終えて、彼は1936年7月、ヨーロッパに向けて出航します。
秋には帰国しますが、日本では軍国主義が拡大し、警察国家が統制を厳しくし、どんどんと恐ろしい時代へ突入していきました。
翌1937年7月7日に起こった「盧溝橋事件」は、国家全体を右へと急激に傾かせ、戦争へと拍車をかけていきます。
賀川が設立するのに大苦労してきた労働組合や農民組合、また平和の福音を説教してきたキリスト教会の多くも、軍部の方策に逆らえず同調していきます。
自己防衛のためでもあり、ひたすらな愛国心と、国中の異常な心理状態の結果でもありました。
平和主義者で反抗者でもある賀川ですら体制に順応しようとしていました。
それは体制が彼に自由を認めなくなっていたためでもあります。
それでも賀川は欧米の反日感情を和らげたいと願っていましたから、政府は平和主義者として知られている彼を慈善大使として活用しました。
1938年にはインドで開催された世界宣教大会に講師として招かれ、翌年にはガンジーとの対談も実現します。
しかし、そうした努力もむなしく終わります。
教会は国の宗教管理部門の支配下に置かれ、日本労働同盟も解散し政府が公的に支援する組合に合併させられます。
賀川自身は教会での非暴力の説教を咎められ逮捕されてしまいます。

1941年3月、戦争を避ける最後の試みとして、賀川は日本基督教聯盟の訪米平和使節団としてアメリカに渡ります。
米国を旅行している間、彼は300回以上も講演をして回りましたが、戦雲が近づいてきたため8月帰国の途につきます。

(つづく)

GHQの人びと

2015年02月26日 | 日々徒然
在日米海軍横須賀基地に入りました。
ここは日本であって日本ではありませんから、入るためにはパスポートが必要です。
基地司令部会議室でブリーフィングを受けてから、基地内を見学させてもらいました。
興味深い写真を二枚。

横須賀基地は旧日本海軍の施設をそのまま利用しています。
日本海軍時代も含め歴代基地の責任者全員の写真が飾られていました。
左側が日本海軍、右側が在日米海軍です。
もう一枚は東郷さんの号外新聞です。
終戦直後に日本へ入ってきたGHQの人々を思いながら興味深い一日を過ごしました。

GHQの人びと―経歴と政策
クリエーター情報なし
明石書店


「語り部育成ゼミ」では、毎回新しい情報に出会う喜びがあります。
前回(4回目)は、占領時の歴史事実を掘り起こしている法学博士の竹前栄治氏のことを教えてもらいました。
さっそく竹前先生の本を読んでみました。
特に第三章「憲法制定の真意」を興味深く読みました。
これはGHQで憲法改正に深く関わったケーディス氏と竹前氏のインタビュー記事です(1984年8月28日)。
このなかでケーディス氏は、敗戦直後の日本でGHQが目指した非軍事化・民主化政策とは異なる方向へ進んでいる当時の日本の姿に疑問を呈しています。
「第2次大戦や占領期のことを知っている人も知らない人も過去のことはすっかり忘れ、戦前と現在を直結し、再びアジアの盟主となることに潜在的ノスタルジアを感じてくるようだ」
「…むしろ問題は、憲法の初心をいままでになぜ維持・発展させ得なかったのかを反省し、非核・軍備廃絶・マイノリティの人権拡大・国際平和に向かって日本がどのように世界イニシアティブをとっていくかである」

31年前のインタビューです。
今は亡きケーディス氏が現代を知れば何と言うでしょうか?

賀川豊彦伝(13)

2015年02月25日 | 労働者福祉
自由にして民主的な労働運動とはなんでしょうか。
その理念に「4つの民主主義」があります。
そのひとつが「組合民主主義」です。
一言で言えば、組合員による組合員のための活動です。
その根本を忘れると、役員による役員のための活動になってしまいます。
そんな姿を見たのか賀川豊彦も時折怒りの声をあげています。
今日は神奈川のマホロバ・マインズ三浦に来ました。
そこに集う仲間たちと、そんな青臭い議論を交わしながらワクワクしました。

さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

情熱を持ってすべての個人の尊厳のために活動する賀川にとって、協同組合の民主的構造は心を動かさずにはいられませんでした。
一人一票制は、組合内では個人が同等の権限で意思決定に関わることを、そして貧富や出資金の度合いに関係がないことを意味しています。
最も貧しい者も、最も富んだ者と等しい発言力を持っています。
各組合員の購入額の割合に基づいて、利益を還付するというアイディアもありました。
個人が組合からの利益を貯め込むことはできず、利益は組合を所有し、それを利用する人々の間で分配されます。
このようなビジネスの方法は、個人に力を与え、社会の富を大衆に分配するという賀川の社会改革の夢に対応するものでした。
労働組合は民主的な管理、つまり「労働の人間化」のための手段を提供しました。
同様に協同組合は、労働者の、労働者による、労働者のためのビジネスを提供します。
協同組合が、抑制なき資本主義と、資本主義を倒そうとする暴力革命との狭間にある「中道」なのだと、賀川が繰り返し強調したのはこうした理由からです。
中道としての協同組合を主張することは、賀川にとって極めて重大な仕事でした。

協同組合は理想と行動がぶつかり合うユニークな場でした。
なぜなら相互援助、経済的民主主義、社会的平等がこの事業の中に構造化されているからです。
14世紀にまでさかのぼる協同的営みの初期の形態は「講」として知られる一種の信用組織でした。
より現代的な信用組合形態の「報徳社」は農村改革者の二宮尊徳の手によって1843年に開発されていました。
ロッチデールの先駆者たちが協同組合の小売店を設立したのとほぼ同じ時代です。
ときには賀川は日本の協同組合にも手厳しい評価を下しました。
「日本の協同組合は役立たずである。
なぜなら、その指導者たちが完全に役立たずだからである。
デンマークの人々は多くのことを教えている。
協同組合が成功するのはその中心に精神があるからだ」と。
彼の宗教的、哲学的動機の探求と人々の信念の欠如に対する焦燥感からくる言葉だったのでしょう。
1933年、協同組合経営者のための「日本協同組合学校」を設立します。
十分な管理運営能力の獲得を手助けするためです。
賀川豊彦45歳の時でした。

(つづく)

賀川豊彦伝(12)

2015年02月24日 | 労働者福祉
昨日東京に出かけたら、たちまちのうちに鼻炎に苦しみ始めました。
気にすると悪化するのでキョロキョロしていましたら、レンタル電動サイクルの駐輪場(サイクルポート)を見つけました。
千代田区のコミュニティサイクル実証実験とのこと、ちょっと興味が湧いて利用ガイドを貰ってきました。
区内には28箇所のサイクルポートがあり、どこでも貸出・返却ができます。
「ICカード」や「おサイフ携帯」を鍵として利用でき、月額会員で登録すれば月1000円で30分以内なら何度利用しても無料です。
坂道が少なくて自転車利用率の高い静岡市にも、こんな仕組みがあるといいですね。
このシステムを導入して中心部には自動車乗り入れ禁止にしてみたら素敵でしょうね。



さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

日本に帰国してから賀川の公的な生活も再開しますが、軍国主義者や当局からは不興を買っていました。
平和主義者の彼は、共産主義者を含む、日本の労働階級のあらゆる集団を結集するような新しい政党を考え出す努力を続けました。
しかし1925年に日本労働者連盟が二つの党派に分裂したことから、彼が抱いていた統一戦線の夢を脅かし始めました。
彼と杉山元次郎とは、強力な政党の必要条件は労働組合に加入している都市労働者と農村労働者間の一致、そして労働者諸団体間の一致であることを確信していました。
そのような一致がなければ、苦闘している労働者や農民の政治力は絶望的なまでに霧散してしまうだろうとも考えていました。
大苦労の末、ついに1925年、都市の人々と農村の人々を統一した「農民労働党」を結成します。
しかし内務省はこの新党を、急進的すぎるという理由で禁止します。
賀川と組合指導者たちは、これにひるまず、共産主義グループや被差別民グループを入れないで、名称を逆に変えて「労働農民党」として新党を結成します。
政府は、今回は抑圧的行動をとりませんでした。
しかし賀川と杉山はこの新党を初期の目的通り、共産主義者や被差別民などを入党させるよう企てたので、日本労働者連盟は自らの新党として「社会民衆党」を結成します。
その後日本の労働運動は、政治運動によってバラバラに解散していきます。

賀川は普通選挙権が認められるようになったにもかかわらず、労働運動の分裂によって、日本の諸問題に対する政治的解決策が成せないことに失望し、次第にキリスト教伝道と、協同組合とに心を傾けていきます。

賀川は、多くのプロジェクトにその財力と精力を注ぎますが、その中で、最もインパクトを日本に与えたのは、消費者と農民のための協同組合運動でした。
日本生活協同組合連合会は、賀川らによって1951年に設立されました。
最も成功した灘・神戸協同組合は、最初二つの小さな小売組合として出発しました。
現在は「コープこうべ」となり、世界最大の単位生協となっています。
協同組合の発展は、経済改革の主な要素であるだけでなく、世界平和の鍵になるものだと賀川は信じ、熱心に説きました。
協同組合は組合員を民主的に管理し、「収益」は少数の経営者に集中することなく、組合員に還元されるので、経済改革の手段になります。
賀川は協同組合を、日本における貧困との闘いや、経済の人間化のための手段と考えていたのです。
長期的には、世界経済を協同組合的基盤に立つものに転換することを彼は真剣に望んでいました。

(つづく)