大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

ごちそうさん

2014年02月28日 | グルメ
“ごちそうさん”はNHK連ドラのタイトルです。
美味しいものを食べると誰もが幸せになります。

「このお店開いて何年ですか?」
初めてのお店に入るとだいたいどこでも私が聞くセリフです。
「あそこで12年、ここに来て12年経ちますが…」

これでお店の何かしらが分かります。
その何かしらは出てくる料理で分かります。
お店の名前は⚪️⚪️ですが…今日は勘弁願います。
でも料理の写真は許されました。
いいですね、嬉しい限りです。

ついついうっかりして一品はカメラする前に食べてしまいました。
一聞は一見にしかず、一見は一味にしかずです。

長年付き合ってきた先輩からの“ごちそう”でした。
心から“ごちそうさん”でした。

時間の使い方

2014年02月27日 | 日記
時間だけは借りたり、買ったり、雇ったりして増やすことができない特異な資源です。
本田宗一郎曰く…
「時間だけは神様が平等に与えてくださった。
これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、うまく利用した人がこの世の中の成功者だ」
ドラッカーも同様のことをマネジメント書「経営者の条件」に書いています。(Workers Library参考

現在、県労福協事務局では「私の仕事」を整理し、マニュアル化しています。
まずは各人に与えられた役割を100文字にまとめます。
たとえば私(理事長)の仕事は…
「私は、労働者自主福祉運動に繋がる各組織・集団の「連帯と協同」をコーディネートし推進していくことを第一使命とします。
そのうえで“市場万能主義の暴走”に対抗する「連帯経済の領域拡大」に全力で取り組みます」
というものです。
そして次のステップで自分の仕事を分類していきます

仕事の中身は「作業系」と「思考系」に分かれていきますので、作業系の仕事をマニュアル化し改善していきます。
そこから捻出された時間を思考系に振り向けていくことで、戦略的・将来的・新規的事業の道すじが見えてきます。
捻出された時間の使い方は100文字にまとめられた役割(使命)の範疇であれば各人の意思で自由に使えます。

一見すると簡単そうですがこれがなかなか難しい、けれどもやってみるといかに時間の使い方が下手であったか、いかに無駄な時間を過ごしてきたのかがよく分かります。
しかも100文字の役割は事務局全体で共有していますから、知らん振り、やった振りをしていることもできません。

時間が無くて、忙しくて、という方々にお勧めします。

静岡県の雇用危機

2014年02月26日 | 経済
連合静岡時代に肌身に感じていた雇用危機の現実がこうしてデーター化されました。
今日の静岡新聞一面の記事です。

静岡県の雇用を底支えしてきた産業の新陳代謝が進んでいないことが最大の原因だとこの本(日本経済再生論)を読んであらためて思いました。
この本では日本経済の再生について書かれてありますが、日本を静岡県と置き換えてもまったく違和感は感じません。
“産業の新陳代謝”、日本は(静岡県は)それをやりとげる能力がある筈だ!と著者の三輪晴治氏は力説します。
「デフレを解消するためにインフレにしよう」とするのではない。
新しい産業を興し、職場を創って「国民(県民)の所得を上げる」ことが必要である。
デフレが原因で経済の大不況になったのではない。
経済が衰退し、国民(県民)の所得が下落してデフレになったのである。
ここを間違えてはいけない。
女性や高齢者に働けと言うが、問題はその職場がないということを忘れている。
安い労賃を求め、円高からの逃避で安易に工場を海外に移すのではなく、ここで更なるイノベーションを進めて新しいビジネスモデルを創ることに挑戦しなければならない。
イノベーションを巻き起こす国家(静岡県)・国民(静岡県民)の決意を求める。
大企業を含め、国が(県が)新しいビジネスを開発しようとする起業家の「インキュベーターのベース」を創り、(大企業や銀行が)資金を投入してイノベーションを興す。
日本の(静岡県の)大企業には能力を発揮できないでいる多くの優秀な人材がいる。
日本経済再生論: ディスラプティブ・イノベーションの道
クリエーター情報なし
文真堂


実際に県内大企業の内部研究をこっそり聞くと、すごいイノベーションの種があります。
その種を外出しし、企業・銀行・県行政・県保証機関がタッグを組めば必ず経済は前進するはずです。
日本経済再生ならぬ静岡県経済再生にエールを送ります。

心の闇に光を当てよ

2014年02月25日 | 日記
無差別殺人事件再発防止の最大の取り組みは“心の闇”に光を当てる、すなわち人と人とのコミュニケーション能力を高めることにあると思います。
人とコミュニケーションできるということは、相手に対する関心があるということです。
人とコミュニケーションできないということは、お互いに関心がないということです。
最大の不幸の源は無関心です。
秋葉原でも名古屋暴走事件でも、もう少し人々に関心があれば彼らの苦しみを救い、事件を防止できたかもしれません。

23日午後、秋葉原事件に酷似した名古屋暴走事件が起きてしまいました。
昨夜はまんじりともせずに、この事件に潜む心の闇を見つめていました。

子どものころから親の期待に沿えるように、真面目に、真面目に頑張って生きてきた…でも…頑張っても、頑張っても、物事がうまくいきません。
なにをやっても望ましい結果はでません…そして爆発。
責められて、責められて、育つ子どももいます。
励まされて、励まされて、育つ子どももいます。
自然に子どもを愛する親もいますし、子どもにまったく無関心な親もいます。
いいとか悪いとかではなくそれが現実の姿です。

私の子育て経験も恥ずかしいものでしたが、幸いなことに母親らの愛情と子ども自らの力で無事に育ってくれました。
今考えるとあの頃の私はいろんな意味で余裕がありませんでした。
子どもの声に耳を傾ける心の余裕も時間的余裕も…。
それでも回りの人々に支えられてよく育ってくれたと感謝しています。

どこかで一歩間違えれば、秋葉原や名古屋事件がここでも起こりうるということを、私たちは知らねばなりません。
それは子どもの世界だけではなく、私たち自身のことでもあります。
人の心の中には「危険な世界」が存在しています。
心の中にある“怒り”や“恨み”や“悔しさ”や“妬み”がそれです。
まず私たちは「私の中にある危険な世界」の存在を知ることが必要です。
その存在に気づかなかったり隠していたりすると、とても心が辛く苦しくなります。
苦しむのはその自らの醜い現実を、今の不幸を(自らの心で)受け入れることができないからです。
私の中にもその「危険な世界」は存在しています。
これを受け入れないかぎり幸せには近づけません。
そこからがスタートです。

ありのままの自分を隠して、たとえば「完全な自分」や「理想の自分」を演じようとすると、誰といてもリラックスできない、誰といても疲れる、誰といても居心地が悪くなり孤立していきます。
「完全な自分」でないと人から嫌われてしまう、「理想の自分」でないと人から責められると思うからです。
嫌われていないのに嫌われたと思い、責められてもいないのに責められていると感じ始めます。
そうならないようにするためにはどうすればいいでしょうか?
(いいんだよ、ありのままの自分で…)って誰かに言ってもらえたら心はずい分軽くなります。

それでは“ありのままの自分”ってどんな自分でしょうか?
ジョハリの窓」を思い出してください。
あの4つの窓のうち、自分からも相手からも見える「開かれた窓」を大きくすることで、“ありのままの自分”がよく見えてきます。
窓が大きく開かれてくると、心の通路が広くなります。
自分からも相手からも見えている世界は「癒しの世界」です。
醜いところも恥ずかしい部分もそのままですから、相手もきっと心を開いてくれるようになるでしょう。
心の通路が狭くなると人は助けを求めることもできなくなります。
このような悲劇を二度と繰り返さないためにも心の通路を広げておきましょう。

自戒を込めて…

外の世界を訪ね歩こう

2014年02月24日 | 労働者福祉
「書を捨てよ、町へ出よう」は若かりし頃読んだ寺山修司の本のタイトルです。
本の内容は忘れましたが、その本のことで親戚の伯父さんと口喧嘩になったことを覚えています。
たしか「アカにかぶれちゃだめだぞ!」という類の説教だったと思います。
伯父さんはお役人でしたから、冒険とか危険とか少しでもリスクがあることにはとにかく反対でした。
今になって思えば、そのことも私がこの地に留め置かれた原因のひとつかもしれません。
しかし私個人の好奇心や冒険心は、この地にいても止むことなくいまだに続いています。

伯父さんを引き合いに出しましたが、お役所仕事は実に内向きです。
しかもセクショナリズムの塊ですから、融通が利かないなんてもんじゃありません。
たらい回しのオンパレード、前例がなければ難しい、なんとか実現しても書類作成でヘトヘトになってしまいます。
組織が大きくなるにつれてその関心が内側にのみ向けられていくというドラッカーの指摘はまさに当たっています。
それはリーダーにもいえることですから要注意。
時には日常を離れ、時には外の世界を訪ね歩くことが必要です。

今日、お役所帰りにみた光景です。

イベント広場で馬上体験のプレゼンでした。
こんな発想はお役所仕事からは生まれません。

いつもの道を歩くかわりに、一本西側の道を歩いたおかげで目にしました。
外の世界を訪ね歩こう…という意味は、遠くへ行こうということとは違います。
私たちの身の回りにも“外の世界”はいっぱいありますね。

さあ、外の世界を訪ね歩きましょう。