大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

労働者自主福祉運動のすすめ(10)

2015年07月31日 | 労働者福祉


「労務者用物資対策中央連絡協議会」(中央物対協)は設立した翌年の1950年、「労働組合福祉対策中央協議会」(中央福対協)に組織再編されます。
これは、全国的な労働団体、生活協同組合の福利厚生部門の力を統一結集し、連絡調整・指導するための機関として位置づけられました。
活動目標も生活物資対策はもとより、物価の安定、社会保障の確立、住宅政策の推進、生協活動の推進、労働者金融の設置促進など労働者の生活改善に向けて幅広いものでした。
この時期、大阪などで地方組織もでき始め、福対協の活動による各県での労働金庫設立、大阪、新潟の火災共済開始など労働者共済も次々に開始され、全国的に発展してきました。

結成当初の福対協は、多くの学識経験者をはじめ労働省、厚生省など各省庁の役員、有識者などを賛助会員とするなど、行政の支援も強く受けていました。
特に、労働省による協力は手厚いものがあり、1956年まで中央福対協の事務所は労働省内に間借りしていたほどでした。
しかし、その後、行政当局と福対協との「労働中央金庫設置構想」などに対する見解の相違が表面化し、「労働組合が福祉活動の主体的地位を確保する」として労働者福祉運動の自立化の方向性を鮮明にしていきました。 

1957年には「労働福祉中央協議会」(中央労福協)に名称変更し、さらに1964年には各協同組合の全国展開を踏まえて「福祉に対する労働者の主体性を明確にする」ため、現在の「労働者福祉中央協議会」(中央労福協)と改称、労働組合と協同組合が統一した組織体として今日に至っています。
この時期には、勤住協(1966年)、全住連(1969年)、全国会館協(1970年)、全勤旅(1972年)、全国労信協(1973年)が設立しています。

中央労福協時代に入り、1974年には「労働者福祉運動の基本理念と労福協の在り方」を採択しました。
中央福対協が労働組合を軸として位置づけられていたことに対し、中央労福協は未組織労働者、消費者、地域住民も包括する労働者全般という概念のもとに位置づけられることになりました。
その基本的理念として、「労働者の福祉要求の実現をつうじて、労働者、家族の生活向上と安定をはかり、真に平和で豊かなくらしを保障する社会を創る」ことを掲げ、運動の原則として、
1、労働者福祉運動は労働運動の一環 
2、労働者の自発的・自主的な要求・活動 
3、社会保障拡充、企業内福祉、自主福祉活動の総合的な展開 
4、地域を活動の拠点とし組織・未組織を問わず結集 
5、協同組合の理念・原則に基づく協同事業活動、などの視点を明確にしました。

静岡労済第60回通常総代会

2015年07月30日 | 労働者福祉
静岡労済(全労済)の総代会がありました。
今年も昨年と同様のご挨拶をさせていただきました。

「…全労済の原点とは何か?
保険と共済の違いは何か?
昨年からずっとそのことを考えてきました。
みなさんも一緒に考えて欲しい、「共済の心」とは何ですか?その「心」を具現化している「モノ」は何ですか?

保険会社もなかった明治初期から「助け合い」としての「講」が我が国にはありました。
二宮尊徳の「五常講」はお金を貸し借りする「講」ですから、今の「労金」のルーツです。
同様に生命保険や火災保険に似た「講」も存在していました。
その数や4千を超えたとも言いますから、なかには悪質なものもあった模様です。
例えば、新潟や長野で流行した「死ね死ね講」。
500人または1000人の「講」をつくり、会員が亡くなると10銭か15銭集めます。
3分の2を遺族に渡し、3分の1は「親(講元)」が取る仕組みで、大流行したそうです。
暴利にも驚きますが、会員同士の「信頼」があればこその仕組みですから、信頼が裏切られて多くの被害者が生まれました。

明治33年に「保険業法」が制定されて、このような「講」は違法保険として取り締まられますが、正規の「保険」は保険料が高くて庶民には手が出ませんでした。
そのため結局、安易にできるシンプルな「違法保険」は無くなりませんでした。
戦後、先人たちの運動によって「農業協同組合法」と「消費生活協同組合法」が制定され、現在の「共済制度」が誕生します。
ようやく労働者にも「万一の場合の備え」ができるようになりました。

保険事業の第一目的は「利潤の追求」にあります。
儲からない保険会社はいとも簡単に破綻していきます。
1997年、日産生命が戦後初めて破綻しました。
その後、わずか4年間で7つの生保会社が破綻し、そのすべてが「外資」に飲み込まれました。
経営破綻の原因は過当な低コストでの「地獄への競争」と、それを可とする「資産運用」の失敗です。
日本の生保会社もバブル経済に加担していたのであります。

共済事業の第一目的は「社会的支え合い」にあります。
私たちの戦いは、「助け合い・支え合い」の原点の戦いであり、そこは組合員との「相互信頼」がなければ成り立ちません。
「助け合い・支え合い」そして「相互信頼」こそが、協同組合の原点でもあり、「労働者自主福祉運動」の原点でもあります。
「共済の心」をしっかりと掴んで、自信を持ってこの道を邁進しましょう」

労働者自主福祉運動のすすめ(11)

2015年07月29日 | 労働者福祉

1989年、それまで分立していた労働団体は連合に統一されました。
これにより労働団体間の調整機能は必要性が薄れ、また連合も「総合福祉ビジョン」を打ち出し、労働運動の一環としての自主福祉事業の重視・強化を掲げました。

そのため連合と中央労福協との役割の違い、労働者福祉運動の在り方、そして中央労福協の存在意義が問われました。
このような議論を受け、2000年に設置された「中央労福協・あり方検討委員会」は、「自前・完結型の運動から、加盟団体やNPO等も含めたネットワーク型で運動・事業を組み立てていく」発想への転換と、運動課題の絞り込みを答申しました。
具体的には、中央労福協の役割として、
1、広く労働組合組織間の連携・調整機能を担う
2、未組織労働者、高齢者、市民を対象とする福祉対応としての労福協運動の展開
3、運動領域の違いからくる政策課題について情報、意見交換をし、連携と協力について機能を整備する
というものでした。
この考えに基づき、中央労福協は労働組合や事業団体、様々な市民団体と協力しつつ、労働者福祉のコーディネーターとしての役割の発揮をめざしていくこととしました。

中央労福協の新たな役割を踏まえ、貸金業法改正運動(2005年)、「割賦販売法改正」(2007年)、貧困のない社会をめざした「反貧困運動」(2008年)などの運動を労働組合、事業団体、弁護士など市民団体と幅広いネットワークを通して取り組んできました。

静岡地域塾

2015年07月28日 | 日々徒然
思い返せば「教育」に関しては、この10年間、あれこれと好き放題にトライさせてもらいました。
JAM静岡時代には、掛川に「人づくり会館」などと粋がって、3階建ての労働会館をつくりました。
大きな借金を残したまま、後ろ髪を引かれる思いで連合静岡へ移ったのは、会館建設後まもなくでした。
(みなさんのおかげで今はその借財も消えたとのことですが、ほんとうにご苦労かけました)

連合静岡時代は、「教育機能」を三大機能のひとつに入れて、「連合未来塾」や「Workers Library」や「対話集会」の活動に力を注ぎました。
これまた道半ばで労福協へ移りますが、志は引き継いでくれております。

労福協時代の今は“労働者自主福祉運動”を語り継ぐための「語り部1000人PJ」の活動に取り組んでいます。
このPJはこれまでの教育活動の集大成になるものですが、残念ながらこの10年間に渡る私の思いはまだまだ共有化されているとは思えません。

どうしてなのか、これまでの活動も含めて、自分の心を深耕してみました。
すると、教育は大切だからと、嫌がる人にも押し付けている自分に気づきました。
どうすればいいだろうか?
無知な私は、知り合いの心理学の専門家を頼ったり、教育・看護・福祉職場の対人援助職の指導者などに教えを請いました、2年前のことです。
いろいろと学びましたが残念ながら、人の心を扱う労働界ですが、これらのことを体系的に教えるようなプログラムはありませんでした。

求める姿は「学ぶ人の自発的な心の動き」です。
人間は、誰しもが自分自身の中に、求める答えを持っているといいます。
そうだとしたら“自分の内面を耕す経験”をすることで、人の成長は促されるはずです。

内面を耕すことで、開放された窓(A)を、より大きくすることができるはずです。

この6月から静岡地域労福協の5名の方にお願いをして、「静岡地域塾」を開講しました。
5名のみなさんには忙しい中を割いていただき、就業後毎月2時間1年間をお付き合い願うこととなりました。
昨晩が第2回目でしたが、心理学専門家と一緒になって試行錯誤しています。
5名の方々の献身に感謝しつつ、必ずや何かを生み出したいと思います。

労働者自主福祉運動のすすめ(9)

2015年07月27日 | 労働者福祉

明治時代から保険のようなものはたくさんあったといいます。
たとえば新潟や長野では「死ね死ね講」という物騒な名前の類似保険が流行したそうです。
その方法は500人または1000人をひとつの団体として登録します。
団体員のうち一人死亡するごとに10銭または15銭などの一定の金額を徴収します。
集まった金額の3分の2を死亡者の家族に渡し、残り3分の1を会社の利益としたそうです。
だいぶ荒稼ぎの商売ですね。

戦後はさすがにこのような商売は廃れましたが、一般の労働者は、火災など生活上のリスクを補うための保険は、高額なため利用できませんでした。
一度、火災が発生してしまうと、家の再建は自前でするしかなく、生活困難に直面するしかありませんでした。

このような労働者の「もしもの時の保障」として労働者共済が生まれました。
1951年(昭和26年)、中央福対協第3回総会で互助共済事業を高めるための「共済事業の具体化」が決議され、これに基づき「全国共済連絡会議」が設置されました。
全国的な労働者共済の機運が高まる中で1954年、大阪福対協が全大阪労働者生活協同組合を設立し、労働者の手による火災共済事業が初めてスタートしました。
大阪での事業のスタートは翌年の新潟、さらに富山、長野、北海道など各地の取り組みの先鞭となるものでした。
1955年5月に新潟でも火災共済が始まりましたが、発足5か月後の10月に新潟大火に見舞われました。
発足直後だけに掛金収入の260万円に対して、支払共済金の総額は1400万円という状況でした。
しかし約款で定められた減額や分割支払いの特例を使うことなく、県内の主要労働組合が闘争資金を担保に新潟労働金庫から融資を受け、全額一括支払いを実現したことで、火災共済の信用は一層高まりました。
誰もが「つぶれる」と思った新潟の火災共済事業が不死鳥のごとく立ち上がったのは、労働組合と労働金庫の連携、共助の実績によるものであり、他県が次々に共済事業を開始する契機となりました。

同時に、共済はリスクを分散すればするほど安心できることから、新潟大火を機に危険分散、再共済機能についての議論が高まり、1956年に中央労福協、総評、全労、生協連、労金協会の五者による「共済懇話会」がつくられ、「労済設立準備会」へと発展しました。
その後、1957年に「全国労働者共済生活協同組合連合会」(労済連)、1976年の「全労済」へと組織統合が進み、機構・機能が整備、充実していきました。