大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

福澤諭吉伝(10)

2015年08月31日 | 労働者福祉
およそ人間に不徳の筒条多しといえども、その交際に害あるものは怨望(えんぼう)より大なるはなし
貪吝(たんりん)、奢侈(しゃし)、誹謗(ひぼう)の類はいずれも不徳のいちじるしきものなれども、よくこれを吟味すれば、その働きの素質において不善なるにあらず。

人間にはいろいろな欠点がありますが、最大のものは他人の幸福や成功を妬む「怨望」です。
おそらく成功を修めた諭吉もたくさんの「怨望」に悩まされたのではないでしょうか。
「怨望」の原因をこう書いています。

これによりて考うれば怨望は貧賤によりて生ずるものにあらず
ただ人類天然の働きを塞(ふさぎ)て、禍福の来去みな偶然に係るべき地位においてはなはだしく流行するのみ。

「怨望」は貧乏や地位の低さから生まれたものではありません。
人間本来の自然な働きをせずに、いいことも悪いこともすべて運任せの世の中になると「怨望」が流行するのです。

さて「福澤諭吉伝」も最終回となりました。
「学問のすすめ」は青空文庫でご覧になれます


英国マンチェスター・ガーディアン紙は諭吉を「日本のソクラテス」と讃えましたが、諭吉は「無知の知」を知らせるなどといった迂遠な方法をとらず、「時代が必要な知は何か」を直接的に語ることで彼らを導いていきました。
そして明治という最も「人材」を必要とした時代にその供給を一手に引き受け、文字通り近代日本の基礎を築きました。
「教育」というもののもつ可能性の大きさをそこに見ることができます。

1898年、諭吉は自叙伝「福翁自伝」を書き上げた年の秋、脳出血で倒れ一時は危篤状態になります。
いったんは元気になった諭吉ですが、1901年2月にふたたび倒れ、66年の生涯を終えました。

江戸末期、黒船来襲を機に欧米文化が怒涛のように押し寄せ、数百年続いた封建制度が根底から引っ繰り返る大変革のさなか、毅然とし、ぶれることなく日本の未来を見据え、日本人の精神のあり方を説いたのが福澤諭吉でした。
家族を支え家族を頼らず、国家を支え国家を頼らない「一身独立(独立自尊)」の姿勢。
これこそ、福澤諭吉が未来の日本人に託し、日本の国の礎になるべきものでした。

(終わり)


「参考文献」
福沢諭吉(浜野卓也著)、国を支えて国を頼らず(北 康利)、福翁自伝(斎藤孝)
文明の政治には六つの要訣あり(平山洋)、福澤諭吉が生きていたら(扶桑社)

福澤諭吉伝(9)

2015年08月28日 | 労働者福祉
ゆえに学問の本趣意は読書のみにあらずして、精神の働きにあり
この働きを活用して実地に施すにはさまざまの工夫くふうなかるべからず。
オブセルウェーションとは事物を視察することなり。
リーゾニングとは事物の道理を推究して自分の説を付くることなり。
この二ヵ条にてはもとよりいまだ学問の方便を尽くしたりと言うべからず。
なおこのほかに書を読まざるべからず、書を著わさざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かいて言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽くしてはじめて学問を勉強する人と言うべし
すなわち視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書、演説はもって智見を散ずるの術なり。

学問の本来趣旨はただ読書にあるのではなく、精神の働きにあります。
その働きを活用して実施に移すには工夫が必要です。
物事を観察し、物事の道理を推理して、自分の意見を立てることです。
もちろん本を読み、本を書き、人と議論して、人に向かって自分の考えを説明できなくてはなりません。


さて「福澤諭吉伝」のつづきです。


ようやく日本は、諭吉の願っていた新しい国となってきました。
しかし新政府では、政治の舵取りをどうするかについて、大きな対立が出てきました。
かつての親友であり同志でもあった、大久保利通と西郷隆盛の対立です。
1877年、とうとう「西南戦争」が起こり、薩摩軍は破れ、西郷も自決します。
翌年、大久保も西郷を慕う不平士族に暗殺されてしまいます。
西郷、木戸、大久保という「維新の三傑」とよばれたリーダーを失い、混乱する新政府を見て、板垣退助や後藤象二郎らは、国民の選んだ議員による議会をつくれという意見書を出しました。

諭吉は国会を開くことに大賛成ですが、その諭吉に政府が発行する新聞の編集を頼みに、伊藤博文、井上馨、大隈重信の3人がやってきました。
諭吉は政府の目的が国会を開くための用意であると聞かされて一旦は受けますが、その後自由民権派である大隈派が政府から追い出されたことを知り(政府を追われた大隈は、学問の自由を掲げて東京専門学校のちの早稲田大学を建てます)、政府の新聞ではなく、自由な意見を書くことができる「時事新報」を、1882年発行します。諭吉47歳の時です。

この年、自由民権運動を広めるため、岐阜で演説をしていた板垣退助が反対派に刺されます。
その時、「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んで人々を感動させましたが、まだまだ日本の世情は不安定でした。

諭吉の下で多くの門下生が育ちました。
この多くの門下生たちは、やがて日本を背負っていくことになります。

(つづく)


福澤諭吉伝(8)

2015年08月27日 | 労働者福祉
学問に入らば大いに学問すべし。
農たらば大農となれ、商たらば大商となれ

学者小安に安んずるなかれ。
粗衣粗食、寒暑を憚(はばか)らず、米も搗(つ)くべし、薪も割るべし。
学問は米を搗きながらもできるものなり。
人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を食らい味噌汁を啜(すす)り、もって文明の事を学ぶべきなり。

学業であろうが、農業であろうが、商業であろうがとにかく徹底して事に臨みなさい。
できない理由や言い訳は無用だ!と喝を入れられた思いです。

さて「福澤諭吉伝」のつづきです。

1873年、森有礼、西周ら知識人たちが、明六社という団体をつくり、教養雑誌「明六雑誌」を刊行しますが、諭吉もその一人として、意見や研究を発表しました。
この年、フランスから中江兆民が帰国して、フランスで叫ばれている「自由・平等」の思想を、この国にも広げようとしました。
また、諭吉と同じく幕府に仕えた洋学者の加藤弘之は雑誌で、「人は生まれながらにして自由平等で幸福を求める権利がある」という意見を発表しました。
これを「天賦人権説」といいます。
当時の日本社会は、役人と見れば卑屈になって腰をかがめてものを言い、相手が貧しい商人と見れば威張った口の利き方になるような風潮でした。
人は皆平等なのに、どうして相手によって態度を変えるのか、諭吉はつくづく教育の必要性を感じずにはいられませんでした。
明六社はこの自由と平等の思想を推し進めるためにも大きな役割を果たしました。
弟子の一人が、「明六雑誌で自由平等を唱えるのは結構だが、雑誌を読まない人も大勢います。
これからは民衆を集めて話をすることも大切ではないでしょうか」と言って、1冊の原書を諭吉に渡しました。その原書は、「スピーチ」について書いてある本でした。
早速その本を翻訳し、「スピーチ」に「演説」という言葉を当てはめ、その他に「討論」「可決」「否決」などという新語をつくります。
翻訳を終わると、諭吉は塾生を集めて演説の練習をはじめ、翌年の1874年には、「三田演説会」をつくって、学者や塾生たちと、自由、平等、そのほか社会問題などについての討論会を開きました。
この三田演説会は、やがて、国会の開設や、選挙による議会政治の方針を進める役割を果たすことになりました。

諭吉は尊皇攘夷派から、西洋かぶれと、その命を狙われましたが、諭吉の「学問のすすめ」も、その本当の精神は、個人の独立にあり、国家の独立にありました。
諭吉は「独立自尊」という言葉も、しばしば口にしていました。
封建主義は、個人の独立を許しません。
独立心のない人々の集まりである日本が、どうして独立国として、世界の中で胸を張って生きていけるのか、と、諭吉は考えていました。
諭吉が洋学を学んだのは、決して西洋かぶれからではなく、西洋の文明を取り入れて、早く日本も外国に劣らない独立国とならなければならないと思ったからです。

(つづく)

福澤諭吉伝(7)

2015年08月26日 | 労働者福祉
そもそも人の勇力はただ読書のみによりて得べきものにあらず。
読書は学問の術なり、学問は事をなすの術なり
実地に接して事に慣るるにあらざればけっして勇力を生ずべからず。

勇気はただ読書しても得られるものではありません。
読書は学問の技術であって、学問は物事を成すための技術です。
だから実際に事に当たって経験を積まなければ、勇気は生まれません。

さて「福澤諭吉伝」のつづきです。

1870年、35歳になった諭吉は、塾生も増え、手狭になった校舎をなんとかしなくてはと思いました。
暇があると市内の空き地を探し回り、芝の三田にある島原藩の中屋敷のあとに目を付けます。
そこで東京府から依頼されていたヨーロッパの警察制度の調査を引き受ける代わりに、その見返りとして島原藩の跡地を借りることとしました。
そこに建てられた立派な校舎が今の慶應義塾大学です。諭吉36歳の時でした。

翌1872年、諭吉は暇を見つけては書き記してきた「学問のすすめ」を出版しました。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、この本をはじめて手に取った者はみな、新しい時代の到来を高らかに謳い上げる冒頭の一節に、大きな衝撃を受けました。
身分社会が長く続いた我が国にあって、どこにこのような平等思想を声高に叫ぶ人間がいたでしょうか。
この本は、新しい日本はどうあればよいのかと考える人々の間でむさぼるように読まれ、1876年までに17篇が書き綴られました。
「学問のすすめ」は、小学校の教科書としても使われるようになります。
「学問のすすめ」をきっかけとして庶民の学習熱も高まり、西洋文化の受け入れが進んでいったことで、国民全体の急速な文明開化が実現していきます。
それと同時に、権利意識に対する目覚めは政治への関心を呼び起こし、やがてそれは後の自由民権運動へとつながっていきます。

(つづく)

福澤諭吉伝(6)

2015年08月25日 | 労働者福祉
今、日本の有様を見るに、文明の形は進むに似たれども、文明の精神たる人民の気力は日に退歩に赴(おもむ)けり
請う、試みにこれを論ぜん。
在昔、足利・徳川の政府においては民を御するにただ力を用い、人民の政府に服するは力足らざればなり。
力足らざる者は心服するにあらず、ただこれを恐れて服従の容(かたち)をなすのみ。

物質文明はどこまでも貪欲な人々を生み出し、その代償として精神の荒廃をもたらしました。
そんな風潮のなかでリーダーの気力も年々失せているようなことはありませんか?
現代においても謙虚になって議論していかなければならないと思います。
あなたはどうすればいいと考えますか?

さて「福澤諭吉伝」のつづきです。

諭吉らが帰国した1862年は、攘夷派の勢いがもっとも盛んな時でした。
年が明けると諭吉は忙しくなりました。
次々に幕府の外交文書の翻訳をしなければならなくなったのです。
諭吉が受け持った一番大きな仕事は、「生麦事件」に関するイギリスの賠償要求の文書を翻訳することでした。
生麦事件は諭吉が西洋視察中に起きた事件で、薩摩藩の行列を横切ろうとしたイギリス人を無礼打ちにした事件です。
幕府の老中たちは苦慮した挙句、多額の賠償金をイギリスに支払いました。
このあと、イギリスは7隻の軍艦を率いて、鹿児島湾に入り、薩摩藩に謝罪と犯人引渡しと、遺族への慰謝料を要求しました。
しかし、薩摩藩はこれを拒絶したので、薩摩藩とイギリス軍の戦争になります。
激しい戦いに双方に被害が出て、結局、薩摩は賠償金を払い、イギリスは薩摩のために軍艦買い入れの世話をするということで和解します。
同じように攘夷の考えを持っていた長州も外国船と戦いますが、散々に打ち破られて降伏します。
外国の軍事力をまざまざと見せつけられた薩摩と長州は、それからは、攘夷という考えを捨てて、倒幕という目的に向かうことになります。

尊皇倒幕の密約を結んだ「薩長同盟」により、1867年、15代将軍「徳川慶喜」は政権を朝廷に返上しました。
大政奉還です。
これにより徳川幕府は幕を閉じます。
諭吉はいち早く新しい時代の始まりを予知し、戦争の恐怖におののく江戸の町(芝)に大きな建物を建て始めます。
これが今の慶應義塾大学の始まりです。

(つづく)