大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

天才

2016年02月17日 | 読書
まとまった時間がとれる出張時は読書の時間に最適。
一冊はハードカバーの本、もう一冊は電子書籍にしたが、やはり紙ベースの方が読みやすい。


出張先の長野までの約3時間、一気に読み終えた石原慎太郎の「天才」。
なぜ田中角栄嫌いであるはずの石原がこの本を書いたのか?
その答えが最後の「長い後書き」にあった。

「…私はまぎれもなく田中角栄の金権主義を最初に批判し真っ向から弓を引いた人間だった。
だから世間は今更こんなものを書いて世に出すことを政治的な背信と唱えるかもしれぬが、政治を離れた今でこそ、政治に関わった者としての責任でこれを記した。
それはヘーゲルがいったように人間にとって何よりもの現実である歴史に対する私の責任の履行に他ならない。
私たちは今、現代という現実の中にその身を置いている。
その現代という私たちにとって身近な歴史的現実が、アメリカという外国の策略で田中角栄という未曾有の天才を否定し葬ることで改竄されることは絶対に許されるものでありはしない」
ロッキード疑獄事件の真相にもう少し深く突っ込んで欲しかったが、面白い本だった。

帰りの電車ではちょっと難解な重力波の話に挑戦したが、すぐに眠りについてしまった。
善光寺さんにもお参りし、昨夜はソバ焼酎と馬刺しを堪能したので、その疲れも出たのかな?

火花

2015年07月22日 | 読書
火花
クリエーター情報なし
文藝春秋

「僕は面白い芸人になりたかった。
僕が思う面白い芸人とは、どんな状況でも、どんな瞬間でも面白い芸人のことだ。」

熱海の花火大会で前座に呼ばれていた二組の売れない漫才コンビ。
主人公の徳永は熱海の居酒屋で年上の漫才師徳永にぞっこん惚れ込み、弟分として可愛がってもらうようになります。
しかし二人ともなかなか芽は出てきませんでした。

「必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう?
一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないのに挑戦するのは怖いだろう。
無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。
臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。
それがわかっただけでもよかった。」
相方が結婚することになりコンビを解消した時に、ネットで中傷する人たちに徳永は心の中でこう呟きました。


芥川賞受賞作「火花」です。
お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹氏の作品ですが、異色の作家ということで早くもミリオンセラーの仲間入りです。
主人公徳永と又吉をダブらせながら面白く読ませていただきました。

十二月八日と八月十五日

2015年07月13日 | 読書
十二月八日と八月十五日 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋


「十二月八日」とは、昭和16年12月8日の対米英戦争の火蓋を切った日です。
「八月十五日」とは、その戦争が惨憺たる敗北のうちに終わった昭和20年8月15日のことです。
著者の半藤一利氏は、近代史の歴史作家として著名な人ですがなぜ戦後70年のこの年に、あらためてこのような本を書いたのでしょうか?
その興味に惹かれて購入しました。

半藤氏はこう語っています。
「流行りの都合に合わせた“歴史修正”はすべきことではありません。
厳然たる“事実”がそこにあるからです」
そしてこの二日間のみの“事実”についてを、多くの人びとの日記やら回想やらで克明に描き出していきます。

名前を聞けば誰でも知っているような立派な文化人までもが諸手を挙げて戦争に賛成したのはなぜでしょうか。
「…たしかに戦争はある日突然、天から降ってくるものではありません。
長い間にはさまざまな事件や小規模の紛争があり、政治・軍事の指導者たちのそれらにたいする“ごまかし”や“なしくずし”があって、危機が徐々に拡大していき、時代の空気はもういつどこで何があってもおかしくない状況下にあった」
開戦の日の出来事や人々の心の動きを、午前6時から午後10時まで時系列に追っていきます。
12月8日のその日、日本人のだれもが一種の爽快感といった、頭の上の重しがとれたような喜びを感じたといいます。
敗戦という結果を知るいま、その恐ろしさが蘇ってきます。

終戦の日の出来事も午前6時から午後9時までを時系列で追っています。
初めての敗戦に日本中は不安の渦に巻き込まれますが、他方では戦争が終わったことに国民は喜びと開放感で全身をよぎらせていました。
「…夕闇が迫って点々と、灯りがともりはじめる。
電灯や窓を覆っていた黒い布はすべて取り払われた。
ローソクの火であってもよかった。
もうその明かりが爆撃の目標にならないのである。
長く苦闘に満ちた暗い時代のなかで、日本人がひとしく待ちのぞんでいたのは、つまりその赤い暖かい光であった」
国民のだれもが気息奄々でした。
日本本土の主要な各都市は焦土となり、もはや民草の住むところが戦場となっていました。
原子爆弾とはいわず当時は新型爆弾といわれていましたが、その爆弾によって広島・長崎の二つの都市が吹っ飛んだらしい、とうこともおぼろげながら知っていました。
しかもそこに中立条約を結んでいたソ連が宣戦布告をしてきたのです。

半藤氏は語ります。
「…歴史は決して断絶するものではなく、また歴史をつくる人間の行動はつねに意味を持って連鎖していくものです」
そして最後にこうまとめてありました。
「わたしも日本と日本人を愛している。
この美しい国土を愛している。
であるから、いっそう強く思う、この敗戦直後の声に、日本人はもういっぺん耳を傾けなければならないのではないか。
日本人よ、いつまでも平和で、穏やかで、謙虚な民族であれ」

貨幣の思想史

2015年06月11日 | 読書
貨幣の思想史―お金について考えた人びと (新潮選書)
クリエーター情報なし
新潮社

「今の日本はまさに汚辱列島と化している。
横領、背任、詐欺、収賄、強盗、殺人、売春等々、大臣、社長、官僚から中学生にいたるまで、カネのために名誉も人格も尊厳も、ときには人命までを投げ捨てて、あらゆる悪徳にうつつをぬかしている。
それほどの魔力をもつカネとは一体何なのか。
昔のカネはともかく金であった。
指輪にも鎖にも金歯にも使える美しい金属であった。
今は鼻紙にも使えない紙きれにすぎない。
それどころか、時には銀行の通帳上の数字の増減にすぎない。
なぜそんな無価値のものがこれほど大きな力を振るうのか」

この本は「語り部講師」の高橋均さんから勧められた1冊ですが、これは本の裏表紙に書かれてあった文章です。
貨幣がますます力をつけていく市場経済の時代のなかで、古典経済思想からケインズに至るまで経済思想の原点を振り返っています。

「…生活次元の経済で人々が必要としているものは使用価値に他ならない。
ところが国家にとって必要なものは使用価値ではなく、金・銀・宝石・貨幣などの普遍的な富だけであった。
そのとき問題となるのは、国家の経済力と人間の生活次元の経済力とのくい違いである。
国家が求める貨幣社会は人間と社会の頽廃を招いた」

「…少なくとも貨幣経済の展開はすべての人々を均等に豊かにすることはなかった。
思想家たちは繰り返し繰り返し富とは何か、それはどこから生まれるのかという問いを発し続けた」

「…アダムスミスは考えた。
価値ということばにはふたつの異なる意味がある。
それは「使用価値」と「交換価値」だ。
「使用価値」とはそのものがもっている有用性のことであるが、有用性の高さに比例して「交換価値」も高くなるかといったら、その価値に比例しない。
水ほど有用なものはないが、それでどのようなものを得ることができるだろうか。
これに反し、ダイヤモンドは使用価値はほとんどないが、それと交換してきわめて多量の財貨を得ることができる」

富とは何かを考えさせてもらいました。

現代の経営(経営管理者のマネジメント)

2015年04月14日 | 読書
この書物はリーダーのための一冊でもあります。
私自身が悩んでいたこともこの言葉で目が開かれました。
リーダーシップとは姿勢である

新訳 現代の経営〈上〉 (ドラッカー選書)
クリエーター情報なし
ダイヤモンド社

企業において、その秩序、構造、動機づけ、リーダーシップに関わる基本的な問題の多くは、経営管理者をマネジメントすることによって解決される。
経営管理者は最も高価な資源である。
最も早く陳腐化する資源であって、最も補充を必要とする資源である。
彼らのチームを築くには数年を要する。
しかし、それはわずかの間の失敗によって破壊される。

経営管理者をいかにマネジメントするかによって、事業の目標が達成されるか否かが決まる。
人と仕事をマネジメントできるか否かも決まる。
なぜならば、働く人の姿勢は、何にもまして経営管理者の行動を反映するからである。
彼らの姿勢は経営管理者の能力と構造を映す。
働く人が成果をあげるか否かは、主として彼らの上司たる経営管理者が、いかにしてマネジメントされるかにかかっている。

経営管理者のマネジメントにおいて第一に必要とされるものは、目標と自己管理によるマネジメントである。
経営管理者一人ひとりが必要な努力をし、求められる成果を生む。
そのためには、彼らの仕事が最大の成果をあげるよう組織されなければならない。

したがって、第二に必要とされることは、経営管理者の仕事を適切に組織することである。
組織された集団は、組織としての文化を持つことになる。
組織に特有の文化は、組織の全員に共有されるものとなる。
組織の卑しい文化は卑しい経営管理者をつくり、偉大な文化は偉大な経営管理者をつくる。

そこで第三に必要とされることは、組織に正しい文化を生み出すことである。

企業は統治のための機関を必要とするから、第四に必要とされるものは、CEO(最高経営責任者)であり、取締役会である。
この機関は、リーダーシップと意思決定のための機関とともに、他方において点検と評価のための機関でもある。

第五に必要とされるものは、明日の経営管理者の育成である。
明日の経営管理者は、仕事ができればできるほど真摯さを求められる。

第六に必要とされるものは、経営管理者の健全なる組織構造である。

あらゆる企業において、経営管理者は正しい目標か誤った方向かのどちらかに方向づけされる。
避けることはできないのである。
前述の六つの領域において、マネジメントに与えられた選択肢は、それらの仕事を正しく行うか間違って行うかのいずれかである。
そして、それらの仕事を正しく行うか間違って行うかが、企業の存続と繁栄、あるいは衰退と崩壊を決める。