くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

五輪番組にウンザリ

2008年08月13日 | Weblog
朝から晩まで五輪関係報道ばかり・・・。

世の中、他に出来事ないんかい?

まあ、この時期、例年なら辛気臭い終戦関連番組が多いのだが、それは少ないかな?という気がする。それだけは有難い。負け戦の傷痕を一体いつまでなめ続ければいいんだろうか、この負け犬国家は? 「負けてくやしい!」と公然と言える健全な国になりたいものです。
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松岡修造というキャラ

2008年08月13日 | Weblog
テニスを引退してタレント業に転職した際には、「大丈夫か?」と危惧したが、なんとまあ、今では・・・。

あれが並みのルックスだったら、今ごとは悲惨なことになっていたどころか、とっくにTVから姿を消していたのだろうけど・・。

それはさておき、育ちの良さは今更言うに及ばなのだが、彼には一向に「知性」というものを感じない。あれは「作り」なのか、それとも子供のころからテニスしかしてこなかった所産で、「地」なのか? 松岡修造という人物をTVで見るにつけ、いつもそのことを疑問に思っている。

10年後の松岡の居場所って、どうなっているのだろいうかとも・・。まあ、食うには絶対に困らない人ってことだけは間違いないのだが。

それにしても、五輪番組の彼はウザイね。彼だけとは言わないけど。
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ほら吹き福田: 「安心実現内閣」、毒入り餃子情報隠ぺい

2008年08月09日 | Weblog
中国からの情報を国民に隠蔽したまま「安心実現内閣」と言ってのける男を何時まで総理の座につけておくのだ、我々国民は。

それにしても、ここまで、恥知らずで国民をバカにした男とは思わなかった、福田康夫。

国賊級の外道だね。
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袈裟の下からどころか・・・・: 北京五輪開会式は雄弁に物語る

2008年08月09日 | Weblog
「袈裟の下から鎧・・」と言う言葉があるが、北京五輪の開会式は、袈裟どころか一糸まとわぬ姿で今の中国の「腹のうち」を思う存分に見せつけてくれた。

まずは、前半の「歴史絵巻」。あれが「中国」の歴史だというのなら、中共のいうところの「中国」とはやはり「漢民族の国家」ということに他ならぬということだ。国旗掲揚に「中華民族」をなす諸民族が民族衣裳に身を包み出演したが、後は、漢民族が「5千年」にわたったおりなしてきた歴史絵巻のオンパレード、そこには、モンゴルも、チベットも、ウイグルも満州もなかった。

「民衆」不在の「歴史絵巻」でもあった。「歴史絵巻」は今回に限ったことではないが、民衆不在の演出というのは、過去二〇年を振り返っても今回が初めてではないのか。宮廷服をもしたような男女が多く現れたが、そこに民衆の姿はなかった。「官」はあっても「民」がなかった。もともと、豊穣な文化的蓄積を持ちながら、民衆文化、大衆文化に乏しい国ではある。「祭り」というものを例に我が国と比較したとき、その乏しさは実に顕著である。あの国に、祇園祭や、ねぶたや、博多どんたくや、江戸時代の(今のではない)神田祭のごとき壮大な民衆の手による祭りはない。なぜなのかは、いわずもながな。そして今、「人民の為の服務」をうたう党のもとにある人民共和国体制による五輪にあっても、民衆は不在であった。何と言う歴史の連綿性・・・・。

今の中国が世界に誇るべきは所詮彼らが自画自賛する「過去」にしかないということだ。鄭和の南海遠征が出てきた時には、正直あきれ返った。「過去の栄光」になぞらえて海洋展開したい、国威を発揚したい、それ以外に読み取るべきメッセージなど何もない。我が国TVの解説では、南海遠征をきっかけに東南アジア諸国が中国に「『来るようになった』ということです」、とのことだったが、中国の歴史的意味合いとしては、「来る」すなわち「朝貢」である。もし、中国側はマスメディアに「来るようになった」そういう説明をしていたとしたら、そうした歴史認識を五輪に持ち込んだということはどういうことなのか?中華帝国の夢よもう一度、すなおに解釈すればそういうことになる。

ところで、その「過去」を自画自賛したところで、それが「ひとつの世界、ひとつの夢」とどう結びつくのかというメッセージ性がない。中国が「過去の栄光」にこだわることは、「過去の偉大なる中華の復興」を希求していることを示しているのだが、更に言うならば、中華の復興が世界に、全人類にいかなる益をもたらすのか
というメッセージ性もない。つまり、13億の消費者を抱える魅力ある市場以外には何もないということだ。

「歴史絵巻」に続く、環境、夢をテーマにした演出の中身のなさ、薄っぺらさ。所詮、今の中国にとってそれらはどうでもよいことなのだ。環境よりも、国家の発展、富強、中華の復興なのだ。人類共有の夢などどうでもよく、結局は自分たちの夢のみに関心があるということではないのか。せめてもの救いは、「夢」が世界革命の実現と全地球共産化ではなかったことだ。

意図的な大胆さなのか、それとも意図せずして「ホンネ」を露呈してしまったのものなのか・・・。いずれにせよ、中国と一緒にいる夢などない、ということだけは再確認できた。

中共の支配せるシナは滅ばねばならない、これこそ「一つの夢」に違いない。今はそうでなくとも、いずれ、世界の夢、願いとなるに違いない。

追記: チャン・イーモウ、今の中国を代表する映画監督には相違あるまい。その才能も疑う余地はあるまい。が、少なくとも、今回の開会式を見る限り、人の才能にも「限界」があるのだと感じざるをえない。彼の最近の作品を見ていれば、今回の開会式の演出は、何ら驚くべきところはなかった。壮大だが大味でとりとめもない。そして、中国系の映画、TV演出の定番のワイヤーアクションの多用はマンネリズムの謗りを免れまい。才能の限界あるいは枯渇なのか、それとも権威主義体制の下での表現の自由の限界なのか。後者であったとしたら、チャン氏にとっては、実に不本意な「作品」であったに違いない。

追記2: 我が国マスコミの「北京ヨイショ」には改めて、うんざり。中には、とんでもない見当違いや事実誤認の解説もあったなあ・・・。勉強不足だよ、マスコミ(ギミ?)関係者諸君。
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メディアの中国ヨイショがまじまった!

2008年08月06日 | Weblog
五輪開会式を間際にして、マスコミの中国ヨイショ」が目立ち始めた。
そうでもしないと、取材活動ができないのか?
それとも・・・?

自称ジャーナリストの大谷某なんかも、その片棒を担いでるし・・・。そういう輩はジャーナリストなんて看板を外したがよかろう。さもなくば、恥知らずと呼ばせてもらおう。

まあ、不倫も、ハメ撮りも、何でもあるのメディアの連中に恥知らず!と言ったところで・・ということかもしれないけれど。
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「平和宣言」の名を借りた「政治宣言」: 秋葉市長の外道

2008年08月06日 | Weblog
今年もやはり、米国をターゲットにしたものでした、秋葉広島市長の「平和宣言」。

私は親米でも反米でもないので(当然愛憎相半ばした感情はありますが)、そうした「親」とか「反」とはいう特定の立場から秋葉氏をとやかくいうのではないのですが、それにしても、市長の「平和宣言」は毎年、米国批判。

今年も、一言も、ロシア、中国とは言わない。

反米ならそれでそれは個人の自由だが、原爆忌という場を利用した、広島市長という立場を利用した政治活動は、やり方として汚い。

「平和宣言」への冒瀆でもあり、原爆忌への冒瀆、しいては、原爆犠牲者やその遺族への冒瀆でもある。

死人や人の悲しみ、苦しみを、己の政治思想信条のために利用する行為は、人が人を喰らう行為に等しい。

人食い秋葉、こんなゲスな人間をいつまで市長の座につけておくと言うのか、広島市民は? まさか、同じ穴の狢でもあるまいに。
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今の日本に民主主義が必要なのか?: たかがあれだけの内閣改造ごときで・・・

2008年08月03日 | Weblog
たかがあんなくだらない内閣改造で、支持率がかろうじてながら30%台に乗せた福田政権。

これが日本の民意の現実なのだ。

程度が低い、愚民ばかりなのだ。

民主主義は、その基礎をなす国民がバカでは、機能しない。むしろ、民衆自らの首を絞める。つまり、今の我が国では民主主義はうまく機能しないのだ。かえって主権者たる国民を不幸にしてしまう。

さりながら、強権をもって民衆を善導できる指導者もいない。福田? 冗談にもならない。

このままでは、この国は終わりだ。

今の我が国を変えるには、民意ではなく、民主主義的手法ではなく、暴力と血が必要なのかもね・・。 それも政治の一手法なのだから。
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学校の責任?: 桐生第一野球部員強制わいせつ事件

2008年08月02日 | Weblog
学校としては本心そう思っていなくても、「学校側の責任」というものを認めざるをえないのはわかるか。

そして、その背景には、そう言わなければ、それを糾弾する社会的雰囲気というものがあるからではなのであろう。

だが、考えてみたい。果たして今回の事件に関して、学校側に責任はあるのかと。
逮捕された生徒いわく、性欲のはけ口として事件に及んだというではないか。学校に個々の生徒の性欲の管理までしろというのか。性欲はきわめて個人の問題であるはずだ。こればかりは親といえどもいかんともしがたい。やりたいざかりの10代で、しかも性というものに必ずしも十分な分別があるとも限らない年ごろだ。だが、性欲というものは目に見えるわけでもなければ、理性に訴えたり、もっともらしい理屈を並べ立ててどうにかなるものでもない。また、性欲の強弱には個人差というものもある。性的欲求を満たす方法にも個人差がああるはずだ。そこまで、学校に立ち入って生徒の面倒を見ろと言うのは、酷な話ではないだろうか。

あえて本人以外の責任を問うというのであれば、むしろ保護者の責任ということになるのではないのか。生徒に限らず、人が性的行為に及ぶもっとも一般的な場所と言えば、私生活の場であるはずだ。私生活の内側まで学校は入り込めない。その場で子供を管理、教育するのは親であるはずだ。だが、いかに親といえども、性という極めて私的な部分に関しては限界がある。

加えて責任というものを問うならば、社会の責任、社会一般の大人の責任というものも問わずばなるまい。すなわち、我々自身の責任というものを追及せずばなるまい。これだけ性に関する情報がさまざまな形で氾濫する今日である。それが性的にもっとも敏感な年ごろを刺激しないはずはないし、本来はメディア等を使って公然と流布されるべきではないような性情報がどこにでも手に入る状況において、大人ほどには自己抑制がでいない子供の性欲というものを暴走させた可能性もある。青少年保護、育成をいうのであれば、性的情報の氾濫に関しては、何らかの措置が必要であるはずだ。

ただ、話は元に戻るが、性の問題は一義的にはきわめて個人の問題だ。性欲には個人差があり、今回の生徒の場合は、やはり自己抑制という点において何らかの欠陥があったのだろう。正直言えば、そこにこの少年の将来的な危うさ、救いの無さを感じてしまう。学校関係者に謝罪の言葉を言わせる社会的雰囲気や、そうしたものの醸成に大きな役割を果たしているのであろうマスコミは、この儀式化されたような糾弾、責任追及の「作法」というものを、少なくとも個人の性犯罪に関しては、よした方がよいのではないのだろうか。
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福田改造内閣 その2: 麻生幹事長は、禅譲への布石?

2008年08月01日 | Weblog
麻生氏の幹事長起用、受諾は、同氏の福田総理からの「禅譲」を前提としたものでは?との某政治評論家の見立て。

だが、かりにそうだとしたら、やはり麻生氏は政治センスがない、と言わざるを得ない。禅譲があるとすれば、来年の衆議院の任期満了前ということなのだろうが、戦わずして政権を手に入れた麻生氏を旗頭の選挙に打って出て、果たしてうまくいくものか? 相手は不細工な不手際にかけては名うての民主党である。どういう敵失が転がり込んでくるかは知れないが、不人気な前任者からタダで政権をもらった者を国民が大して支持するとも思えない。

政権獲得だけを考えれば、福田にすり寄り「禅譲」を受けるのが一番の安全策には違いないかもしれぬが、あまりにも目先に過ぎるし、案外、麻生と言う人、伝法な口調の表の顔とはうらはらに、内側は意外にチキンな人なのかもしれない。

それとも、政権の魅力には勝てず、目がくらんだか?だが、渇すれど盗泉。盗むわけではないが、労せずして得た政権に明日があると思わぬ方が良い。

かりに禅譲となっても、麻生政権に明るい未来はない。これまた間違いなし。
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福田改造内閣: 麻生幹事長?

2008年08月01日 | Weblog
少し気が早いが組閣について。

麻生幹事長だとか?

麻生さんも、判断を誤りました。選挙の顔って、古賀選対委員長がいながら、選挙の顔ってことは、麻生は単なる人寄せパンダってこと? さもなくば、古賀がおさまりがつくまい。選挙に向けて挙党態勢どころか・・。

麻生にしてみやら、政権を見すえての選択だんたのかもしれないが、政権は遠のいたのでは。この際、選挙だけではなく、その後も見据えて、福田とは距離を置き続けるという選択を取るべきだったのでは。一時的には党内的に辛いだろうけど、自民党という既存の枠組みにこだわらなければ、先に光明も見えてきそうなものだったろうに・・。

自民党にとっても、来る総選挙はどうせ負ける選挙。この前の参院選と同じで、いかに上手に負けるかがカギになる選挙で、麻生は、党にとって吉と出るかねえ・・・。もともと、大した政治センスのある人ではないよ、麻生太郎という人は。「選挙の顔」にするつもりが、かえって足かせ、なんてことにはならんかね。特にあのひっとこみたいな口から何が出てくるか知れたものではない。

麻生さんにとっては、これが終わりの始まりということにならなければ良いのだが・・。もっとも、総理になったとして、大した仕事のできる人ではないと思うけどね、この人は。言わば、福田ほどではないかもしれないが、所詮その器ではない、ということです。国家、国民に益はもたらしません。







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