くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

学校の責任?: 桐生第一野球部員強制わいせつ事件

2008年08月02日 | Weblog
学校としては本心そう思っていなくても、「学校側の責任」というものを認めざるをえないのはわかるか。

そして、その背景には、そう言わなければ、それを糾弾する社会的雰囲気というものがあるからではなのであろう。

だが、考えてみたい。果たして今回の事件に関して、学校側に責任はあるのかと。
逮捕された生徒いわく、性欲のはけ口として事件に及んだというではないか。学校に個々の生徒の性欲の管理までしろというのか。性欲はきわめて個人の問題であるはずだ。こればかりは親といえどもいかんともしがたい。やりたいざかりの10代で、しかも性というものに必ずしも十分な分別があるとも限らない年ごろだ。だが、性欲というものは目に見えるわけでもなければ、理性に訴えたり、もっともらしい理屈を並べ立ててどうにかなるものでもない。また、性欲の強弱には個人差というものもある。性的欲求を満たす方法にも個人差がああるはずだ。そこまで、学校に立ち入って生徒の面倒を見ろと言うのは、酷な話ではないだろうか。

あえて本人以外の責任を問うというのであれば、むしろ保護者の責任ということになるのではないのか。生徒に限らず、人が性的行為に及ぶもっとも一般的な場所と言えば、私生活の場であるはずだ。私生活の内側まで学校は入り込めない。その場で子供を管理、教育するのは親であるはずだ。だが、いかに親といえども、性という極めて私的な部分に関しては限界がある。

加えて責任というものを問うならば、社会の責任、社会一般の大人の責任というものも問わずばなるまい。すなわち、我々自身の責任というものを追及せずばなるまい。これだけ性に関する情報がさまざまな形で氾濫する今日である。それが性的にもっとも敏感な年ごろを刺激しないはずはないし、本来はメディア等を使って公然と流布されるべきではないような性情報がどこにでも手に入る状況において、大人ほどには自己抑制がでいない子供の性欲というものを暴走させた可能性もある。青少年保護、育成をいうのであれば、性的情報の氾濫に関しては、何らかの措置が必要であるはずだ。

ただ、話は元に戻るが、性の問題は一義的にはきわめて個人の問題だ。性欲には個人差があり、今回の生徒の場合は、やはり自己抑制という点において何らかの欠陥があったのだろう。正直言えば、そこにこの少年の将来的な危うさ、救いの無さを感じてしまう。学校関係者に謝罪の言葉を言わせる社会的雰囲気や、そうしたものの醸成に大きな役割を果たしているのであろうマスコミは、この儀式化されたような糾弾、責任追及の「作法」というものを、少なくとも個人の性犯罪に関しては、よした方がよいのではないのだろうか。
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