くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

福田康夫は総理総裁の器にあらず

2007年09月14日 | Weblog
福田康夫元官房長官が総裁選出馬の意思を固めたとのことだが、この人態度表明が曖昧にして遅すぎる。昨年の総裁選の時もそうだった。

この一事をもってしても、福田という人物、総理総裁の器にあらずということではないのか。

何も自民党総裁に限ったことではない。米国大統領選挙でもそうで、出馬表明のタイミングというのは大事だ。それいかんによって、支持の獲得や政敵とに戦い方に大きな影響が出てくる可能性がある。

しかしながら、現在ただ今の自民党が置かれている難局に鑑みた時、配慮すべきは一重に自民党内部の情勢のみにあらず。大方の見方のように、今回選ばれる総裁は、おそらく来るべき総選挙の陣頭指揮をとることになるのだ。いわば、選挙における党の看板として戦うことになるのだ。

であるのならば、自民党員だけではなく国民をも視野にいれて出馬表明をしなければならない。

どうも、福田と言う人はそのあたりの認識というものが欠けているのではないのか。一有権者として見た場合、この人物に、政権への意欲というものがあるのかないのか、去年もそうだったが、明確なメッセージとして見えてこないのだ。総理総裁というものはなりたくてなれるものではない、とも言われる。確かにそうなのかもしれない。ただ、かつての総理総裁候補は早くから自他ともに政権を目指すのだという姿勢を公にして憚らなかった。三角大福中しかり、そのあとの所謂安竹宮しかり。

こうした福田の姿勢をみていると、官房庁長官時代の姿やその時分にマスコミで喧伝された人となりをみるに、私は、何やら「竹の園生」の公家政治家か御殿女中に共通したような印象を受けるのだ。もっと端的にいえば、「陽」ではなく「陰」の印象を。そして、「陰」で国民の支持を集めらるのか、総選挙を戦えるのかと?

確かに昨年、福田への国民の支持は常に安倍の次に着けていた。そこには国民の何かしら勘違いのようなものがあるのではないかという気がしてならない。福田の官房長官としての仕事ぶりは評判が良かった。しかしながら、「女房」と「亭主」は求められる能力は別物のはずだ。「女房」役としての手腕が「亭主」としての手腕や資質を保証するものではあるまい。

自民党もいまだにわかっていない。福田ならば、敵のいる麻生よりも挙党態勢がとの見方もあるようだが、挙党態勢=国民の支持ではない。いかに党内で納得ずくであったとして、国民が福田自民党を支持するとは限らないし、かりに福田政権たんじょうとなり政権発足時にはそれなりの支持率を得ることができたとして、そのようなものはきっと長くは続くまい。

なぜなら、遠からず、国民は福田という政治家が総理総裁としての資質のない政治家、その地位にあるものとしてのカリスマ性を含めた魅力に乏しいことを理屈ではないかたちで気付くはずだ。

加えて、福田になったからと言って、困難至極の国会運営、政局であることにはかわりはない。

小沢民主とガチンコできる政治家にも思えない。現今の状況で総選挙に勝つ、あるいは少なくとも負けないためには、勢いに乗る民主をねじ伏せる「剛腕」の気が必要だが、総裁選の一事においても、出るのだか出ないのだかウジウジ態度表明しない人物ではそれもできまい。

では麻生なら勝てるのか。これもまたこれで難しい。だれが出ても乗り切るのが難しい難局だ。権現様の再来と言われて結局は幕引き役をさせられた御仁もいたが(私は司馬遼太郎氏のこの人物への解釈は支持しない)、福田であろうが麻生であろうが、自民党政権の、もっと悪くすると今の形での自民党自体の幕引き役をすることになるかもしれないが、福田総裁では、麻生総裁以上に、後につながらない幕引きになるので・・と危惧する。

福田氏も己の器を見極め、総理総裁なぞ望むのはよしたがいいと思うのだが、この人も所詮政治家、政権への色気がないわけもないということか・・・。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 姓名判断 7: 嫌いだけど民... | トップ | 姓名判断 8:  面白いなあ・・ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事