まだ魔女狩りが続いていると知って驚いた。
3回目の説明会。
また生き残ってしまった校長は晒し者。これじゃあ、文化大革命をとやかくは言えない。
何とも執拗というか粘着質と言うか・・・。
子供を悲劇的なかたちで失った親や家族は悲しみと怒りのやり場を学校や教育委員会に求めているのだろう。
私も個人的に石巻市や教育委員会の責任を「無し」とはしない。
教育委員会というところは、残念ながらお役所的というか、現場知らずなところがあって、現場教員のなかにも批判、不満が無くはない。なかには元々は現場教員だったのに「優」な先生だったのか、若くして教育委員会に引き抜かれ、そこで10年以上なんて教師にも会ったことがある。確かに頭の切れる人、事務屋としては仕事の実によくできる人だったが、言うことが理屈っぽく、現場の実情にそぐわない空理空論が多かった。そうした人がやがて教頭、校長として
現場に舞い降りてきた日には、教員たちにはしんどいことになる。
避難場所が特定されていなかったのは、想定が甘かったとの判断は免れまい。
裏山への避難経路も確保、整備されていなかったという。これも生徒を無事保護できた他の地区の学校に比べて、やはり批判されても仕方ないのかもしれない。
しかし、大川小学校のある地域は少なくとも明治以降は冠水を経験していない地域であったのではないのか?
防災、災害避難は大かた過去の経験値というものが下敷きになる。「権威筋」の未来災害予想などクソの役にもたたないことは、今回に限らず過去にも繰り返し証明されてきたわけである以上、やはり過去に頼るしかない。震災後評価されている「てんでんこ」も経験値から出た知恵である。
その過去の経験値から大川小学校関係者や地域住民が甘くかつ結果論的にいえば致命的な判断を下したとして、一体どこまで教育委員会、学校を責めるべきであろうか。
特に一学校の校長に怒りの、批判の矛先を向けるのはいかがなものか。
本来なら「無事で良かったですね」と声をかけら得るべき一個人のはずだ。家族は本心「無事でよかった。運が良かった」と思っているはずだ。でも、そんなことはとても口にできる状況ではないはずだ。「針のむしろ」という言葉があるが、校長とその家族の今の心境は「針の・・」どころか「生き地獄」ではないだろうか。
残酷な話である。
数年おきに勤務校を変わる教員に、校長に、一体どこまでの避難対策ができるというのか。既定の避難マニュアルに従うだけというのが通常ではないのか。学校長の個人的判断で避難方法や経路、場所の変更や避難路の設置などできるものではない。そんなことは言わずもがなのはずだ。
ましてや上述の通り、過去の経験値によれば、今回のような事態は想定できなかったはずだ。その想定の是非を元利色とは言え一現場職員でしかない校長に問うのはいささか度が過ぎるというものだ。
最新の報道によれば、校長不在の震災発生時、教頭は裏山への批判を主張したというではないか。それを反対したのは、地域のことを教員などよりもより知っているはずの地区行政区長だったという。
地域住民である「長」のつく人間に反対されて「それでも」と言うだけの度胸ではなく、自らの判断が正しいと確信するだけの論拠を教頭が見出せたとはとても思えぬ。もし私が教頭の立場であれば、地元民の反対に対して、「地元の人がそういうのであれば」と自論をひっこめたと思う。
繰り返しになるが、当時校長は不在だった。正当な理由での不在だった。そこで悲劇が起きた。そして、避難対策の「落ち度」を今責められている。「人災」だと言って。教育委員会自身「人災」を認めている。だが、それを言われた校長はまさに「地獄に生きる」思いだろう。
生き残った休職中の教員のことも心配だ。かつては「逃げた」とのいわれなき批判に晒されたこともあるという。実際はそうではなかったそうだ。とっさに複数の児童を助けたそうだ。で、それ以上なにができたというのだ。末端の一教員にまで判断ミスを問うのか。そんな権限はないはずだ。組織を経験した者ならそんなことは容易に理解できるはずだ。学校は、教頭はそう判断したが、自分と自分の学級だけは別行動をとるなどという判断をできる教員などドラマの中でもなければ文字通り皆無であろう。生き残って、可能な限り児童を助けて、今「学校」の一部として批判に晒される。これこそ「死ぬ」こと以上の過酷ではないのだろうか。
サンドバッグを求めている。亡くなった児童の家族たちは。悲しみ、怒りを思いっきりぶつけるサンドバッグが欲しいのだ。
親として理解はできるが、そんなあさましい行為は辞めるべきだ。少なくとも、校長や生き残った教員という一個人に怒りの矛先を向けるべきではない。
同時に、大川小の学区に暮らしていた児童の保護者たち、あなたたちは勤務校を数年おきに異動する教員たちよりも地元のことをより知っていたのでないのか。ならば、あなたたちの日頃の防災意識、防災対策はどうなっていたのでか?
今回のような事態を想定していましたか? 具体的対策は? 子供に、我が子にどのような防災教育を行ってきましたか?
あなたたちにだって、想定外だったのでしょう、今回の事態は? あなたたちの暮らす地域の行政区長が裏山への避難に反対したくらいですから。山への避難こそ危険という判断は、経験値による地元から出た判断だったのですが、そうした認識が地元にある程度あるいは共通認識として共有され得る素地があったのではないですか?
ならば、今回の悲劇はあなたたちの認識の甘さにも原因があるということではないのですか?
行政や教育委員会を避難するのもいいでしょう。でも、彼らの認識をあなた方も共有していたのでは?
他人を責める前に、まずは我が子を守り切れなかった我が身の不明を責めてはいかがですか、校長を糾弾し続けるくらいなら?
そして、校長にも家族や子供がいるという点にも思いをはせてみませんか。お子さん方、自分の父親が晒し者にされて、どんな思いでしょうか?
やり場のばい悲しみ、怒りはわかりますが、それを立場的に事実上無力であった一個人に向けるというのは、もうやめにしませんか?
それとも、校長に「お前も死ね」とでも言いますか? あえて責めて責めて追い込もうとでもいうのですか。
他人を傷つければ、いずれあなた方自身をも傷つけることになるのです。もうそんなことは本当によしにしましょう。
亡くなられたお子さんがた、親のそんな姿をみて、喜びますかねえ?
3回目の説明会。
また生き残ってしまった校長は晒し者。これじゃあ、文化大革命をとやかくは言えない。
何とも執拗というか粘着質と言うか・・・。
子供を悲劇的なかたちで失った親や家族は悲しみと怒りのやり場を学校や教育委員会に求めているのだろう。
私も個人的に石巻市や教育委員会の責任を「無し」とはしない。
教育委員会というところは、残念ながらお役所的というか、現場知らずなところがあって、現場教員のなかにも批判、不満が無くはない。なかには元々は現場教員だったのに「優」な先生だったのか、若くして教育委員会に引き抜かれ、そこで10年以上なんて教師にも会ったことがある。確かに頭の切れる人、事務屋としては仕事の実によくできる人だったが、言うことが理屈っぽく、現場の実情にそぐわない空理空論が多かった。そうした人がやがて教頭、校長として
現場に舞い降りてきた日には、教員たちにはしんどいことになる。
避難場所が特定されていなかったのは、想定が甘かったとの判断は免れまい。
裏山への避難経路も確保、整備されていなかったという。これも生徒を無事保護できた他の地区の学校に比べて、やはり批判されても仕方ないのかもしれない。
しかし、大川小学校のある地域は少なくとも明治以降は冠水を経験していない地域であったのではないのか?
防災、災害避難は大かた過去の経験値というものが下敷きになる。「権威筋」の未来災害予想などクソの役にもたたないことは、今回に限らず過去にも繰り返し証明されてきたわけである以上、やはり過去に頼るしかない。震災後評価されている「てんでんこ」も経験値から出た知恵である。
その過去の経験値から大川小学校関係者や地域住民が甘くかつ結果論的にいえば致命的な判断を下したとして、一体どこまで教育委員会、学校を責めるべきであろうか。
特に一学校の校長に怒りの、批判の矛先を向けるのはいかがなものか。
本来なら「無事で良かったですね」と声をかけら得るべき一個人のはずだ。家族は本心「無事でよかった。運が良かった」と思っているはずだ。でも、そんなことはとても口にできる状況ではないはずだ。「針のむしろ」という言葉があるが、校長とその家族の今の心境は「針の・・」どころか「生き地獄」ではないだろうか。
残酷な話である。
数年おきに勤務校を変わる教員に、校長に、一体どこまでの避難対策ができるというのか。既定の避難マニュアルに従うだけというのが通常ではないのか。学校長の個人的判断で避難方法や経路、場所の変更や避難路の設置などできるものではない。そんなことは言わずもがなのはずだ。
ましてや上述の通り、過去の経験値によれば、今回のような事態は想定できなかったはずだ。その想定の是非を元利色とは言え一現場職員でしかない校長に問うのはいささか度が過ぎるというものだ。
最新の報道によれば、校長不在の震災発生時、教頭は裏山への批判を主張したというではないか。それを反対したのは、地域のことを教員などよりもより知っているはずの地区行政区長だったという。
地域住民である「長」のつく人間に反対されて「それでも」と言うだけの度胸ではなく、自らの判断が正しいと確信するだけの論拠を教頭が見出せたとはとても思えぬ。もし私が教頭の立場であれば、地元民の反対に対して、「地元の人がそういうのであれば」と自論をひっこめたと思う。
繰り返しになるが、当時校長は不在だった。正当な理由での不在だった。そこで悲劇が起きた。そして、避難対策の「落ち度」を今責められている。「人災」だと言って。教育委員会自身「人災」を認めている。だが、それを言われた校長はまさに「地獄に生きる」思いだろう。
生き残った休職中の教員のことも心配だ。かつては「逃げた」とのいわれなき批判に晒されたこともあるという。実際はそうではなかったそうだ。とっさに複数の児童を助けたそうだ。で、それ以上なにができたというのだ。末端の一教員にまで判断ミスを問うのか。そんな権限はないはずだ。組織を経験した者ならそんなことは容易に理解できるはずだ。学校は、教頭はそう判断したが、自分と自分の学級だけは別行動をとるなどという判断をできる教員などドラマの中でもなければ文字通り皆無であろう。生き残って、可能な限り児童を助けて、今「学校」の一部として批判に晒される。これこそ「死ぬ」こと以上の過酷ではないのだろうか。
サンドバッグを求めている。亡くなった児童の家族たちは。悲しみ、怒りを思いっきりぶつけるサンドバッグが欲しいのだ。
親として理解はできるが、そんなあさましい行為は辞めるべきだ。少なくとも、校長や生き残った教員という一個人に怒りの矛先を向けるべきではない。
同時に、大川小の学区に暮らしていた児童の保護者たち、あなたたちは勤務校を数年おきに異動する教員たちよりも地元のことをより知っていたのでないのか。ならば、あなたたちの日頃の防災意識、防災対策はどうなっていたのでか?
今回のような事態を想定していましたか? 具体的対策は? 子供に、我が子にどのような防災教育を行ってきましたか?
あなたたちにだって、想定外だったのでしょう、今回の事態は? あなたたちの暮らす地域の行政区長が裏山への避難に反対したくらいですから。山への避難こそ危険という判断は、経験値による地元から出た判断だったのですが、そうした認識が地元にある程度あるいは共通認識として共有され得る素地があったのではないですか?
ならば、今回の悲劇はあなたたちの認識の甘さにも原因があるということではないのですか?
行政や教育委員会を避難するのもいいでしょう。でも、彼らの認識をあなた方も共有していたのでは?
他人を責める前に、まずは我が子を守り切れなかった我が身の不明を責めてはいかがですか、校長を糾弾し続けるくらいなら?
そして、校長にも家族や子供がいるという点にも思いをはせてみませんか。お子さん方、自分の父親が晒し者にされて、どんな思いでしょうか?
やり場のばい悲しみ、怒りはわかりますが、それを立場的に事実上無力であった一個人に向けるというのは、もうやめにしませんか?
それとも、校長に「お前も死ね」とでも言いますか? あえて責めて責めて追い込もうとでもいうのですか。
他人を傷つければ、いずれあなた方自身をも傷つけることになるのです。もうそんなことは本当によしにしましょう。
亡くなられたお子さんがた、親のそんな姿をみて、喜びますかねえ?
毎度の事だけど傍から見てても腹が立つよ。
なんで公務員ってああなるのかね?世界的な現象なんだろうか?
と思ってるんじゃないかな。赤の他人がどうこう言う問題じゃない。
何も調べず思い込みだけでこんな文章を書いていた人がいた事に憤りを感じた。この記事を書いた人はこんな事を書いた事も考えていた事ももう忘れ去っているんでしょうね。
遺族がなぜ裁判に踏み切ったのか、そうせざるを得なかったのか、2021年現在では全て明らかになっています。遺族は勝訴しました。
なぜ大川小学校の悲劇が起きたのか、これを明らかにしなければ教訓にはできない。震災後作り替えられたマニュアルにもこの事が生かされてはいなかった。だからこそ、真実を明らかにし同じような悲劇を繰り返さないために起こされた裁判。
全て有耶無耶にして終わらせようとしなければこんなことにはならなかった。
当初から遺族も「本来はこんな裁判など起こさなくていいはずなんだ」と言っていましたね。
児童の遺族に対するひどい冒涜としか思えません。
学校は非常時の対応に津波対策を記載していましたが、そこらの空き地に避難するとしか記載していませんでした。マニュアルすらまともでは無い状態です。
当日、津波が来る来ないで議論したことが確認されていますが、津波が来る前に市の防災車が急ぎの津波避難を呼びかけ学校にも聞こえていました。それをもとに川方向に避難を開始しています。
校長は数日後に帰ってきましたが、写真を撮り学校の金庫を探しただけでした。涙ながら我が子を探すために泥を掬う親を手伝うどころか声もかけずにね。
生き残った教諭はずぶ濡れで怪我して何も出来なかったと説明しましたがウソでした。濡れても怪我もなく我先に逃げた(としか思えない)と複数人が証言しています。またその後は雲隠れし、一切の説明を拒否しています。
市教委は誤魔化し隠蔽の説明を続けました。何が良く何が悪いか振り返る態度ではありませんでした。
自分の家族が犠牲になりいい加減な対応されれば、誰だって怒るし真実は何なのか調べたくなるのでは?
教師の死とか、地域の多くの死者とバッティングする話では無いでしょう。
じゃあ津波被害を想定していなかった自治体だけを提訴していても、
こういうことかくやつは同じように遺族を批判していたんじゃないかと思う
お上に楯突くこと自体が気に入らないという偏った思想の持ち主は残念だが一定数いる。
亡くなった子供たちのスナップが取り囲むように
「先生の言う事を聞いていたのに」の文字。
ニュースを見るたびに、ご遺族の方々が作った
物というよりは、バックについてる人権屋が作って
ご遺族に持たせてる感じがして気持ち悪いんですよね。
せずに感情任せに書いてるのが多いな。
想定外な災害だから、って言うのなら、尚更基本に沿って、津波に対しては
高い所に逃げるしか無いのでは。
その結果、倒木とか土砂崩れがあった、とかであればそれは責められない
と思う。
要はその状況に於いて最善を尽くしたか?その一点ではないか。
自己責任なら裏山に逃げたい生徒を解放してやるべきだった。
自分達の都合が悪いから生き残った教員を雲隠れさせてるんだろ。
生き残った生徒の聞き取り調査の資料も破棄してんだろ。
こんなブログを公表して恥を知らんのかね。
むしろ、生き残りの教師こそ「教頭、教諭たちの相談中に集団から離れて大川小学校の裏山へ登った生徒を怒鳴りながら
連れ戻した張本人ではないかと疑っています。生徒や他の住民の証言とも食い違った回答を初回の集まりで述べた後、ダンマリ、欠席を繰り返す有様。
こんなのに引率されて北上川へ特攻させられたんじゃ訴えたくもなりますよね。
これがこの裁判を表す一番の事実でしょう。
一審も、そのほかの津波訴訟とは真逆の判決をしている。
これが認められるなら七十七銀行も責任を認められるべき。
今まで起きた事がない現実に向かい
誰もが平常心でいられたでしょうか?
現実私も仙台市内、海から5kmの所に住まい
何をして良いのか分かりませんでした。
そうです、あの時は皆被害者、被災者でした。
子供さんを亡くなった方達にはお悔やみ申し上げますが、私の周りにも沢山家族を亡くした方はいます。
会社から帰って良いと言われ途中で津波に巻きこまれお嬢さんを失い
会社にいたら助かったのに、
しかしながら誰に文句も言えずおし黙り
そんな、平常では無い 災害でした。
何を言いたいかと言うと
みんな我慢して生きてます。
大川小学校の生き残った先生は自殺したと聞きました。
お金目当てと思われてもしょうがないですね!
みんな日常を奪われ我慢してますよ。
私も、、、
学校の認識も甘かったかも知れないが、それは地域住民も含めて同じことであった。
そして、広報車が高台への避難を呼び掛けたのが7分前。
7分で裏山へ逃げるべきだったという一審判決が出たが、これも実に微妙な判断である。
裁判では一応人災という判断が出たが、責任が問われたのは、学校総体の責任だけである。それも控訴でどうなるか分からない。
まして教員個人に責任などある筈がない。
大川小の子供達だけではなく、その地域の人達の多くが犠牲となりました
家にいた人はほとんどです
それほど津波が来るなんて「想定外」だったからです 近くに川はあるものの海からはかなりの距離で、住んでる人にとっては「津波なんて関係ない」そんな感覚です
遺族の方々の悲しみはお察しします しかし「どうして山に逃げなかった」すべて後付けでしかありません
私は地元から離れて暮らしていたため無事でしたが、母と祖母を失いました
その日母は55歳の誕生日でした
助けてあげたかったと今でも悔やんでいます
しかし誰も責めることなどできません
「想定外だった」それ以上でも以下でもありません
自分を棚に置いて今だに学校側を責めている遺族の方々、もし自分があの場にいたら、本当に適切な行動がとれたでしょうか?子供達を救うことができていたと自信をもって言えますか?「山に登っていれば」今だから言えることですが、自分が実際に同じ場所にいたらどうでしょう?
子供達と一緒に犠牲となった先生方を責めるのも、生き残った校長を責めることもできないと私は思います
辛いのはあなた方だけではありません
津波でかけがえのない人を失った遺族のみなさん全てが、今だに苦しみ傷を抱えて生きています
誰かを責めたくなる気持ちはすごくわかります しかし、同じように家族を亡くした他の遺族にとってあなた方の行動は非常に不愉快です
実際にきちんと訓練をしているところもあるのです。当然ながら。
市の指導が不十分であったこと、学校としての危機管理体制の不十分さ。
それが問題なのでしょう。
今後、このようなことを起こさないためにという思いが遺族の第一の願いだと思いますし、遺族もそのように話されています。
このブログのタイトルじたい、理性を欠いた個人攻撃という意味で魔女狩り、というか、言葉の暴力ではないでしょうか?
ニュースの見出ししか読んでいない、浅薄な思考回路の人間が書いたブログとお見受けします。先コメントを書かれている前野和久さんという方も同様。
この方々は「校長の責任=存在の責任」だとどこかではやとちりしているようだが、これが大人の思考だろうか。遺族が問題にしているのは、言わずもがな学校の管理体制、市の管理体制、県の管理体制のことである。
また、家族を亡くした人間の気持ちを考えることができれば、そんな言葉は出て来ないはず。
まずは、ちゃんと調べてもいないことを偉そうに論評するなということ。ニュースの「印象」だけで判断し、他者を傷つけるような人間こそが罰せられるべき。
他者を赦す優しい人々でした。
その後の市教委の調査に関しても不可解な部分が多くあり、報告書に関しても矛盾が多くありますので、裁判という事になったのですから。
その後の市教委の調査に関しても不可解な部分が多くあり、報告書に関しても矛盾が多くありますので、裁判という事になったのですから。
思うに結局津波は来なくて倒木で生徒が死んで責任を問われるのが嫌だったのでしょう。
大崎市内(車で90分)だから早退しなきゃ駄目だろう!
それが本当なら正当な理由か疑問ですがね
夫婦喧嘩や不妊治療などの痴話話!損害賠償請求されてるようですがなんだかなあ。小生も震災で家族、住まい、仕事を亡くなったが死ぬ気で何とか再建してるところです!そんな人はたくさんいます。その中で過去の話とか、いつまでひきづってるの?こっちまで嫌になります、
気の毒なのは承知してますが。今になって筆者様の気持ちも少しわかったような気がします
あなたが事実の何をどれだけ知っているのでしょうか
単なる一方的な意見ですね
特定の人を糾弾するなら、くわまん雑記さんこそ魔女狩りしてますよね、わかりませんか
しかしながら、最近改めて大川小学校の被害に関する報道、情報、自己検証委員会の内容等を見聞きするにつけ、今回の震災被害の中でも大川小学校が際立った人的被害を出した原因は、管理体制にあるのではと考えております。
自分は震災時会社におり、他の社員と共に津波から非難し命を拾った人間ですが、会社、団体、催事等人を集める人間には何よりも参加者の安全に対する責任があると思います。保護を必要とする子供たちであればその責任はさらに大きなものとなります。少なくとも学校にいる間は、教師が生徒の安全を守るべきです。
また、大川小学校からの非難が遅れた経緯を知るにつけ、常識的な大人であればまずするべきでない間違いが多くあり、非難は免れないと考えます。
校長個人の資質(震災後の対応等)に対しても多くの批判があるようですが、それに関しては置いておくとしても、分る限りの真実を明らかにしてほしいという遺族の方々の訴えは、自分には正当なものに感じられます。
ブログ主さんのご意見もあるでしょうが、インターネット上では意見や情報が拡散していきますので、ある程度資料等をご覧になり責任あるご発言をして頂きたいです。また、題名にもあるような「遺族の皆さん、自己批判するべきでは」というような発言は間違っており、多くの方を傷つけ、不快にするのではないでしょうか。
そもそも避難先っていうのは学校が決めるものではありません
それを決めるのは市であり、県であり、国です
それを決めていなかったのを「学校が悪い」と校長を責める
正気の沙汰とは思えない
中には、成りすましのつもりか下手くそな英語でわざわざご苦労な方もいますが、「何もわからないくせに」っていう、こういう姿勢が結局子供を殺すんでしょうねえ・・。
「教師とあろう者が」ってのもへそで茶が何とやら。
ならば「親ともあろう者」がってことになりませんか?
現場にいたらすべてを把握できるんでしょうか。そんなスタンスで仕事されてるんですか。現場主義と現場至上主義は違いますよ。現場にいても個人の把握できる範囲なんて限られています。
それがわかってない? この高慢さが子供を殺しかねない、おそろしいことですね。
教師とあろう者が裏山の状態も知ら無かったという事は、学校の責任者としても子供の命を預かるものとしても失格と言える。
現場に行ってもいないのに、事態も判らないのに貴方は発言すべきではない。人としての心を持ち合わせていない者は震災を語らないで頂きたい。
仕方のない震災だった・・。そう思います。 最近生き残った子どもにまで証言させて・・。もうやめて欲しい。
誰も悪くありません。そして、私も提訴しない家族の思いは?
こういう災害などの時、訴えるのは「真実を知りたい」と言う声。じゃあ、大金を要求しなくて良いのでは?皆が被災者じゃないですか。
子どもも人に教えるのも好きでしたが、教師にならなくてよかった。
真実を知りたいという遺族の方々の思いは
既にして「マヌケがリーダーだと全滅する」と出てしまっています。
PTAから縛られく、教育だけではなく防災にまで気を使わざるを得ない教師という職業が怖くてなりません。
得るものは訴訟などという愚かな行為をしたという事実だけ。同じ被災者として腹ただしい限りです。
You are not involved parties, why you criticize the bereaved?
Completely it's not your business.
You are still spreading wrong article in 2014.
You need not propagate your opinion, OK?
Your article is shown as the result of the google search in higher position.
Please behave yourself.
究極、我が子を守るのは親。その場にきていて学校に判断をゆだねた親だっていたんですから、その点、親として和が子を守るための判断を自ら誤まったということになるでしょう。
学校におんぶにだっこで何かあったら、叩きまくる。最近の親にありがっじな傾向ですね。
結局、やり場のない感情の行先が欲しいだけなんですよ。でも本心では気付いているんじゃないんですか、他者を非難して、実は自分自身が一番許せないってことを。
それで何が生まれるかって、何もですよ。何も。
第三者の私からしてみたら、何とも救いのない光景でしかありません。
私も、自然災害が原因ではないですが、肉親を失いその原因を作った人を2年どころかそれ以上長く憎んだことがありますが、それを続けたところで心が荒むだけでした。
怨念の先に光が射すことはありません、絶対に。
こういえば、ただ真実が知りたいだけだという反論もありましょうが、果たして求めているのは真実だけなのでしょうか・・。かりに真実にたどり着いたとして・・ということも考えてしまいます。
被害者の方の怒りをどこにぶつけたらいいのかというお気持ちも理解できるのですが、校長の発言が嘘だとか教諭を責めて、何が変わるというのでしょうか。校長は当時いなかったのに。嘘とかどうでもいい。公式に休みを取りいなかった。それが事実ですよね。
子供が好きだけど、役所っぽいのが嫌なので長年非常勤という教諭の友人がいるからか、先生の立場で見てしまうのですが、自分が教諭でどう行動したのかを考えた場合、まず無理だったと思うと、先生を非難する気にはなれないのです。
おそらく、津波がなく、みんな無事で、山の上に無理やり上がって、大怪我をした子供がいたら、それはそれで非難轟々だったでしょう。少なくとも、生存教諭が助けたお子さんのご両親は感謝しているでしょう。
神戸在住ですが、当時の神戸市、かなり非難されてましたが、被害地域の話し合いの決まらない地区を一部を切り捨てつつお金をつぎ込んで復興を急いだ判断は正しかったのだと、今は亡き当時の市長に感謝しています。長い年月がたって、わかることかもしれませんね。(余談。知人に当時の神戸市長と知り合いの人がいるのですが、実際に会うと大変いい人なので非難されるのが嫌だといってました)
瀬戸内寂聴なぞという過去に散々な外道を働いて本来なら面に顔を出す分際ではない淫乱女が何を言おうと雌猫のさかり声にも及びませんので関心はありません。あのくされ尼、「何がためになるのか、そうやってずっと考え続けることが大切なのだ」なんて大層なこと言いましたか。よくもまあぬけぬけと・・。
ところで、世さん(世話さん?)の復興に携わっている」という意味を計りかねます。「携わる」とは具体的に、いかなる行為を指すのでしょうか。広義に解釈すれば、私を含め国民の多くは復興に携わってきたと思いますよ。
それとも、被災地に実際に足を運んで何がしかの身銭を切らないと携わったとは言えないとでも?
かりに「携わっていない」として、だからなんですか?携わっていない人間は黙っていろとでも?自ら参加してこそ批判できるなんて、それはあなたの独善でしかない。そもそも、参加ってなんですか?ってことになりますしね?
ブログで発信しているあなたの了見は、それに返信している方々よりも狭いとしか言いようがないでしょう。
最終で”親族に被災者が”とあるのは、自分だって無関係ではない、現地の様子を知らない訳ではない――そう言いたいのでしょうか。
どなたかが仰っているように、また言うまでもなく、報道とは部分的な断面に過ぎません。ここはあなたでも分かる筈です。
しかし二者択一であるかの如く、善と悪、はたまた白と黒と考える傾向が、あなたには漫然とある。
大災害、人の生死という深刻な問題でなくとも、森羅万象、是であるか非であるか、釈然としないものが世の殆どでしょう。
瀬戸内寂聴さんの言葉を借りれば、「何がためになるのか、そうやってずっと考え続けることが大切なのだ」と。判断など烏滸がましいのです。
遺族会は管理責任を追及しているのですから、「悪いのは誰か」となるのは当然でしょう。しかしそれを間違いだと指摘して、いいや教育委員会だけが悪いのではない、そう言ったところで何になりますか?
他人のアラを指摘をするのであれば匿名の斧を振りかざすのではなく、遺族の中にも様々な意見があるようだとか、先生の遺族だって自責の念に駆られて過ごしているとか、いろんな角度で問題提起する事が大事なのですよ。
そういった意味において、我々はすっかり安直になってしまった。
復興はまだまだ…ではあなたは何か復興に携わっているのですか?国や行政を非難するのは、あなたに責任が伴わないからです。
責任とは義務との背中合わせ、丁寧に言えば、自ら参加してこそ批判できるのです。
権限を持てる幻想にとり憑かれ、責任の放棄と追求というジレンマに堕ち、そうして皆で自滅してゆくのです。
熟慮という面倒な作業から逃げ出さず、悶々とするのが本来の人の道です。
頭が悪い人って哀れですね…
ブログ主さんみたいな人って誰にも愛されない可哀想な人生を送ってることが丸分かりなので、あまりご自分の屑さを表現されない方がいいですよ。
とりあえずニュースをよく見ることをお勧めします。
まあその前に学校には子どもの命を守る責任があるんですけどね。
御遺族の方々に直接そう言えるんですかねえ。ネットでだけ気が大きい人って惨めですね
日本に住んでたらいつ災害に襲われるかもしれないというのにそこに住んでる人を批判するとか…笑
そういう問題じゃなく避難の手順に明らかな問題があったことが取りざたされているってことくらいわかりませんか?
とりあえずあなたみたいな人は自分が死ぬまでわからないんでしょうね。
多分大切な人はいないと思うので、あなたの大事な人が同じ目に合ったら…というのはやめてあげておきます(笑)
あなたみたいな人が生きていて何の罪もない人が亡くなる…世の中理不尽ですが仕方ないですね
あ、あと2ちゃんで晒されてますよ。すごい言われようですがまあ自己責任ですよね
あんな状況で、全体を見渡せた人間なんかいるはずもないでしょう。
真実を知りたいという無いものねだりにしかすぎません。
我が子をなくして、我が子の命を奪った原因を知りたいという気持ちは私も親ですからわからなくはないですが、無理なものは無理。
結局自分たちに満足のいく”真実”が見いだされない限り。、真実探しが続き、その過程で非難、中傷の対象者が生み出されていく。
そんなマイナス思考で救いのない真実探しなんか、もうよしにしないと・・。
結局、生き残った教員や校長本人だけではなく、その家族の人生をも壊してしまうことになりますよ。
人を呪わばなんとやら。
もうやめましょう。
ご遺族への配慮が無さ過ぎかなと思います。
正に正論でしょうけど、正論って結構人を傷つけます。
我が子を失ったご遺族は、いやってほど自己批判するものですよ。一生。
ご遺族の多くが望んでいるのは、真実を知ること。
校長先生は被害者の一人なんでしょうけど、周りの人が真実を自分たちの害にならないように解釈できるよう頑張っちゃってるんで、その人たちの一員として批判の的になるのかもしれません。
本来ならば「無事でよかったねえ」と言われてもおかしくないのに、周りがそういえない状況。生きながらに攻め菜まれる境遇。同じ状況に置かれたら、「死んでいた方が//]tと思う人もいると思いますよ。
それに津波対策を防災の専門家ではない各学校の判断、責任にまかせるというのは、酷だと思いますよ。今回は、地元の人間が学校の判断を狂わせたという側面もありますし。学校、教師に求めるものが多すぎますね、概して、我が国は。
冷静に考えれば、大川小にも津波が来る可能性は十分にあったわけですから、きちんと津波対策を協議しておくべきだったのに、それを怠った学校側の責任は極めて大きいと思います。
ただ、確かに校長は不憫ですが、「生き残ってしまった」という表現は不適切に感じました。当たり前のことですが、最も不憫なのは生き残れなかった児童たちですから。
大川小学校の避難訓練は
地震想定後、校庭に避難と言うことだったのでしょうか。
最近の避難訓練は保護者にも避難訓練参加も呼びかけていると聞いています。
そして、意見や反省を集めていると。
避難訓練は計画立案するのはその学校ですが
公の学校ですので、市や県は監督することになるはずです。
支援学校は消防署から指導もあります。
今後に生かす、学校の誰も子どもの命を守るために尽くす、そう、思い、行動している、
そう思っています。
そうしなければいけません。
亡くなった方みんな、生きるために避難したと思います。
いまだ見つかっていない方がご家族の元へ戻ることを願います。
校長がいなければ教頭が統率・意思決定者であるべきと考えるのは、日本の学校現場、職員室内の実態を知らない者の声というべきでしょう。
かりに校長がいたとしても、はたして校長の判断がそのまま学校の判断になり得たかというと、はなはだ疑問とするところです。
米国等と比べると校長あるいは学校管理職の「重み」があまりに違いすぎます。もっとも、
あちらの校長には、公立でもハーバード教育大学院博士号取得者なんてのもいまして(というかPh.D.持ちの校長なんて当たり前なんですけど)、日本の校長とはいろいろな意味でそもそもの「重み」が違うんですけど。
地震直後、先生方は速やかに在校生を運動場に非難させ次の指示までその場で待機の形をとったと言う。
さらに次の指示を決めるため先生方数名が集まり緊急会議が開催され、いろんな意見・想定が出たもよう…
その意見・想定の中に普通の人間であれば考え付かないもしくは有り得ない「樹木からの被害」の想定を基に「山への避難」を否定する意見が集約され、先生方や生徒等は川の土手へと向かったと言う…
レポーターによると、この有り得ない想定は「山は樹が倒れるから危険だ…」と一人の先生の言ったマヌケとも暴言ともとれる意見に異議を唱える声は出ず、その間違った想定が通ってしまったと言う…
樹木は台風では倒れる事あってもまず地震で倒れる事は無いのが常識。しかも本震で倒れなかったのに余震で?もうわかるよね!
その緊急会議で樹木を重視した事や避難先選定に樹木の無い土手が頭に浮んだ事、またなかなか事が決まらないと言う背景には、迫る津波対策より考慮の必要の無い地震対策を考えた事によって複雑な会議となったと推測できる。
もっと言えば1人先生の意見が過半数以上を牛耳る効力を持っていた
私もマスコミの誤報ないしは情報操作を当事者として経験したことが未成年の時分より一度ならずありますので、マスコミ報道に対しては間違っても全幅の信頼など置いておりません。
私の言葉足らずにより誤解が生じたのであれば、恥いるほかありませんが、お子さんを亡くされた保護者・遺族のすべてが徒党をなして校長叩きしているとは、私も理解しておりません。
但し、そういう遺族が複数存在するのも事実ではないでしょうか。
私の拙文あ読まれた方の間に誤解を招く可能性については、それを否定いたしません。まさにunknownさん自身がその一例かと存じます。
しかしながら、個々人が他者の書いた文章を各々に解釈し、そこに筆者の言わんとしたこととの不整合が生じるということは当たり前にあることです。入試問題に使われた文章の著者が、自分の文章に関する設問に正解できなかった等という笑ってよいものか当惑するようなエピソードもあったそうですが、文章に限らず人と人とのコミュニケーションなんて、そんなものじゃないでしょうか。誤解を生じさせることがいけないとおっしゃるのであれば、誰しも口をつぐみ、筆を折って沈黙する他ありますまい? 私にはいささか現実離れした理不尽なご批判と受け取れますが?
この様なナイーブな問題については、もっとリサーチして意見を述べるべきだと思います。
家で一人広告の裏にでも書くのであれば、問題無いと思いますが、ネット上で誰でも閲覧出来る所に書く文章としては、最悪の部類だと感じました。
『個人のブログで書くのにリサーチも糞もあるか』と、私のコメントを拝見して頂ければ、そう思われたかもしれません。
しかし、誰でも自由に閲覧出来る環境に置いて、余りにもお粗末で間違いや、誤解を生む表現・内容が多すぎます。
これを読んだ他の方々が、この大川小学校の出来事について誤った解釈をするには十分な文章です。
言葉とは怖いものです。
これからもブログでこのような事実が不確かなを問題を取り上げるのであれば、もっと内容に対して、上辺だけで語るのでは無く、中身をもっと知ってから書くことを、お勧めします。
最後に突然お邪魔させて頂き、長文での批判をコメントと言う形でさせて頂いた事をお詫び申し上げます。
「てんでんこ」の知恵の背景にもそれがあるのかもしれませんね。じゃあ、行政や学校が何もしなくても良いというわけではないですが。
100%の安全を保障することは何人たりとも不可能である、という現実を我々すべてがまずは受け入れるべきかもしれませんね。
例えば、銃社会米国では公共施設に銃器で武装した不審者が侵入した場合、施設内全ての人の人命を救えるとは想定していません。
銃というものの「威力」を直視した現実的な発想というべきではないでしょうか。
自然災害についても同じことが言えるかと。どんなに万全を尽くしても所詮人智。及ばざる部分はいくらでも出てくるでしょう。
肝心なのはそれを以下に今後の教訓にしていくかですよね。
どうも今時の日本人は完全完ぺきな安全状態というものが存在し得ると思い込んでいるところがあるのでは? そしてその「安全神話」が現実によっていとも簡単に否定された時に、「犯人」探し、叩きが始まる・・。こうした時間と労力の浪費が多すぎます。
学校や教育委員会への怒りや恨みをぶつけているだけの遺族しかいないような記事の書き方(謝罪じゃすまない等のコメントで締めくくってる辺り)
中には迎えに行かなかった(行けなかった)自分を悔やんでいる遺族の方もいらっしゃるそうです。
また屋上がなく二階までの大川小の校舎、整備されていなかった裏山、予想がなかった北上川の逆流、最悪の要因が重なってしまったとしか言えませんが、全国の学校はじめ公共施設は自然災害の被害を最小面に食い止めるか、この悲劇の例を活かして欲しい、そう思います。
釜石小学校は全児童が無事だったそうですが、それは「自分の身は自分で守る」だったから・・・だと言われています。裏返せば、このような場合に他人に責任を押し付けないことのように、私は思えます。