くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

中途半端な忠義立て: 佐藤勝氏の宮内庁長官批判には一理ある。

2009年12月16日 | Weblog
あえて宮内庁長官の天皇陛下への赤心を疑うことはすまい。今時の宮内官僚に「君臣」のわきまえがあるのかとも問うまい。

慣例破りの会見に抗った長官の姿勢には、賛意を惜しまない。「一か月というのは法律なのか?」などと言ってのけた「賊」がいた。確かにその通りだ。法律ではない。だが、たとえ「一か月」が宮内庁によって作られたものだとして、その慣例化を許してきたのは宮内庁を管轄する立場にある歴代内閣ではないのか。鳩山首相は杓子定規な慣例の適応を批判したが、内閣による杓子定規ではない臨機応変の判断・対応とは、すなわち政治的判断であり、ひいては天皇の政治利用ということに他なるまい。語るに落ちるとはこのことだ。

ただし、宮内庁は内閣の決定に従う立場にあることもまた事実であり、長官の今回の行動が、内閣の監督を受けるべき役人としての「分」をたがえた行動であることもまた否定できない。「辞めろ」と「賊」につけ込まれる余地はいたしかたなくある。

批判を覚悟のうえでの、臣下としての「道」と内閣に従うべき役人としての「道」の狭間で、揺れた末の行動だったとしよう。つまり、長官は臣下としての立場に重きを置いたということにしよう。


しかし、かりにそうだとしても、中途半端な「忠義」立てである。佐藤優氏の指摘のように、職を賭すべきであった。「賊」ごときに「辞めろ」といわれる前に、徹底抗戦し、自らの首を鳩山に討たせるべきであった。

ことが決した後になって、「辞めろ」に対して「辞めない」では、「忠臣ぶってみたところで、所詮はわが身がかわいかったのだ」との誹りを受けても致し方あるまい。

繰り返すが、長官の陛下への思いを疑うことはすまい。ただ、思いが適切な行動にう移されぬ以上、いかに臣下としての忠節を尽くさんがためのものであったとしても、それは忠節足り得ないばかりか、かえって君上に仇をなすことになる。

臣、臣足らんと欲すれども・・・。

長官はかえって男を下げた、と思うのは私だけか?




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