くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

交通マナーと民度の相関関係

2010年01月22日 | Weblog
概して、アジア近隣諸国の交通マナーは、我々日本人から見れば決してよろしくはない。おそらく欧米人からみてもそうだろう。米国人の知り合いの幾人かは、韓国や台湾などへの渡航経験から、彼らの運転はどうかしている、おそろしい、と言っていた。

確かに、「おそろしい」ものがある。近隣諸国に足を運ぶようになって20年近くたつが、改善の余地はほとんどみられない。あらあらしくまさに人間凶器的な運転、自己中としか思えないような運転、露骨な信号を含めた交通法規の無視。そうした運転が日本や他の先進国にないといえばウソになる。例えば、制限速度。日本に限らず一体どれほどのドライバーが守っているというのか。米国では制限速度65マイルと言えば、70マイル以上で走行するのが一般だ。制限速度ちょうどや以下で運転するのは、年寄りか、オバハンくらいで、他のドライバーからは迷惑がられる。制限速度70マイルというところもあるが、そうなると75マイル出さないと、いや75マイルでも次々に追い越されていく。

なかには、そうした交通マナーの状況や違いを、その国の人間の成熟度ないしは民度の問題と結びつける人がいる。私も以前はそういう見方をしていた。つまり「近隣諸国の連中はまだまだ民度が非低い」と。

韓国ではソウルのどなんなかを相変わらずタクシーが「暴走」している。バスだって負けてはいない。

台湾もしかりだ。スクターの群れが横断歩道歩行中に突っ込んでくる。歩行者横断中の交差点に平気で車が突っ込む。スクターが歩道を走るなど当たり前だ、しかも逆走で。

中国もまたしかり。大都市部での猛烈な渋滞(実は北京や上海などでは既に80年代から問題化しているのだが)で身動きとれない場合はさておき、横断歩道を渡ることは大変勇気がいる。

一言でいえば、実にひどい状況であるし、日本ではなかなかお目にかかれない。まあ、「大阪民国(ダイハンミンコク)」こと大阪はいざ知らず。

だが、交通マナーと民度って、そんなに相関関係あるのだろうか?と最近ふと思ってみることがある。例えばニューヨーク市民のみなさん。歩行者のみなさんだが、まず信号無視である。ロンドン市民のみなさんもそうだ。広い道はさておき、狭いところでは信号無視が一般的だ。

ということは、比較的に信号無視の少ない我が日本人は、米国人や英国人よりも民度が高いということになるのか? ある意味そうかもしれない。はだしで平気で公衆というかアカの他人しかも不特定多数と共有トイレに平気で裸足で入る人たち、しかもそのままベッドに上がる人たち、外で何を踏んだかもわからない靴を履いたままベッドに寝そべる人たちは、我々日本人から見たら衛生観念の低い「野蛮人」なのかかもしれない。

一方、背景に宗教的なものがあるせいもあるのか、おおむね欧米人の遵法意識はいまだ日本人よりも高いように感じたことは、米国生活でもシバシバあった。

交通に限らず職場などでも、米国の人権保護意識の高さは、工場や機械などでの安全基準の厳しさからもうかがえる。日本から持ち込んだ工業工作機械が安全保護上の問題でそのまま米国では使えないということはいまだにある。一低年齢化の子供を家のなか、車のなかに一人にしておき、それが重大な事故、悲劇につながらうケースが日本では後を絶たないが、米国でそれをやらかしたら、たとえ事故にいたらなくとも大変なことになる。下手をすれば子供を取り上げられてしまうことすらある。

こうしたケースを見る限り、逆に、日本人の方が民度が低い、ということになる。

しかも日本企業の場合は、ダブルスタンダードを平気でする。米国の職場安全基準の方が労働者保護という観点ではベターであると理解していながら、日本にそれを持ち込もうとはなかなかしない。要は、人権意識が低いのだ。従業員保護よりも効率性、利潤追求だということなのだ。これでは自分のためならそこのけそこのけのアジア人ドライバーを笑えない。

もしかしたアジア近隣の人たちは、彼らなりに、ああした交通事情が理にかなっているのかもしれない。ニューヨーク市民やロンドン市民が信号無視するのは、合法ではないという点で合理できではないが、安全確認のしやすい狭い道の信号でいちいち立ち止まっていては時間のロスになるという考えであるとすれば、信号無視という法という理に反する行為は、別の意味では合理的なのかもしれない。同様に、アジア諸国の「混沌」とした何でもありの交通事情もまた彼らなりに合法ではなくとも合理的なのかもしれない。

合理性が近現代的な意味において「民度」をはかる尺度であるとすれば、アジア人たちの民度は決して低いとは言えないのかもしれない。むしろ、彼らの価値基準からしたら、我々日本人の方が非合理的であり、すなわち民度が低いということになるのかもしれない。

衛生観念というのもそうなのかもしれない。かつて欧米人は、「アジア的不潔さ」を指摘した。幸い、日本をその例外とする欧米人もいなくはなかったが、衛生観念、清潔・不潔というのも、ある程度は有効ではあっても「民度」とは必ずしも関係のない場合があるのかもしれない。アジアは相変わらず相対的に「きたない」、「不潔」だ。韓国なども、ソウルのど真ん中や開発著しい江南地区の表通りはさておき、食堂の厨房や高級ではない住宅街などで回りこめば、あいかわらずの韓国的というか朝鮮的「不潔」が残っている。台湾もまたしかり。日本とそん色ないような、いやそれ以上のビルや商業施設があるかと思えば、市井の食堂や露天の食い物屋のあの「不潔さ」は、昔から一向にかわらない。本当に変わっていない。住宅の汚さもまたしかりだ。あれを見ていると中国大陸と台湾は別物とは言い難い、文化的な強いつながりを感じざるを得ない。台湾の不潔な部分は、中国大陸に共通したところがある。最近中国の都市部がきれいになりつつあるのにともなって、台北の街の汚さがかえって気になるのは私だけだろうか? 「台湾の大陸に対する優位」というものが、どんどん滅しているが、衛生という点でもそれは言えるのかもしれない。ただ、そうした「アジア的不潔」をもって、アジア人の民度は低いとは言えないかもしれない。必ずしも毎日入浴や洗髪をしない欧米人はどうか。もともと人種的なものなのか、食生活のせいなのか、わきがや体臭の強い彼らが入浴、洗髪を滞らせれば、どういうことになるのか。黒人のあの手の込んだ髪型。あそこから発せられる強烈な臭いに「文明」を感じる日本人はそうはいまい。もっとも、日本人のなかにもあのような「不衛生」の原因になりやすいことが明らかな髪型をマネする輩がいるが、湿気の多い日本であのような髪型をしたら、どういうことになるのか、想像しただけでもおそろしい。だが、ひるがえって、人が歩く畳の上に飲食物を置く日本人を、アジア人や欧米人はどう見るだろうか。足をおいたところに食べ物をおく日本人は不衛生、民度が低い、ということに、彼らの価値基準からしたら、そういうことになりはしないだろうか。

とはいいつつも、アジア諸国に行くたびに、あの交通マナーにはイライラさせられ、つい「まったくこいつらは・・」と、上から目線で腹を立ててしまう私である。




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