60年以上前の負け戦を、傷ついた動物が傷をなめるように、いまだに振りかえり追悼を繰り返す日本。
一体この行為を何時まで続ける気なのか。
負け戦を振り返ること自体に「No」とは言うまい、そこから次の勝利への糧を得ようとするのであれば。
ところが、我が国の場合そうではない。回顧と追悼から出てくるものと言えば、戦前への批判と戦争否定ばかり。
人が死ぬ戦争を正面から肯定し、欲する者などそうはいまい。が、やむを得ずの事態に至っては一戦を覚悟し、一命をとしてお国のため、愛する家族や郷土のため、弓箭を手に立ち上がらねばならない可能性もあるのだ。その可能性までをも否定することは、現実世界に否応なく存在する蓋然性から顔をそむけ、逃避するに他ならないのだ。
戦わねばならぬ以上、敵を殺し、敵を降さねばならない。そのためには、日頃の備えを怠らず、過去の負け戦を二度と繰り返さぬようにせねばならないのだ。
今の日本は敗戦の汚辱にあまりにも鈍感ではないのか。
「戦争はイヤだ!」よりも、「戦争に負けて悔しい!」、「今度こそは負けない!」と思えてこそ健全な国民精神というものではないのだろうか。私は、多くの国民がそう思える日本になって欲しいと切に願ってやまない。
一体この行為を何時まで続ける気なのか。
負け戦を振り返ること自体に「No」とは言うまい、そこから次の勝利への糧を得ようとするのであれば。
ところが、我が国の場合そうではない。回顧と追悼から出てくるものと言えば、戦前への批判と戦争否定ばかり。
人が死ぬ戦争を正面から肯定し、欲する者などそうはいまい。が、やむを得ずの事態に至っては一戦を覚悟し、一命をとしてお国のため、愛する家族や郷土のため、弓箭を手に立ち上がらねばならない可能性もあるのだ。その可能性までをも否定することは、現実世界に否応なく存在する蓋然性から顔をそむけ、逃避するに他ならないのだ。
戦わねばならぬ以上、敵を殺し、敵を降さねばならない。そのためには、日頃の備えを怠らず、過去の負け戦を二度と繰り返さぬようにせねばならないのだ。
今の日本は敗戦の汚辱にあまりにも鈍感ではないのか。
「戦争はイヤだ!」よりも、「戦争に負けて悔しい!」、「今度こそは負けない!」と思えてこそ健全な国民精神というものではないのだろうか。私は、多くの国民がそう思える日本になって欲しいと切に願ってやまない。
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