大震災被災者の一人ならずもが口にした言葉、当たり前であることの幸せ。
人は普段それに気付かない。いや、最後まで気付かないのかもしれない、それが失われもう二度も戻ってこなくなるまで。
幸せはまたいずれ訪れる、と信じたい。でも、一旦失われた幸せがそのまま昔のままに戻ってくることはない。失われた時は、求めて求めつくせるものではない。
これは何も予期せぬ大災害で出くわしてしまった人たちばかりの話ではない。
「日常」を捨てた人。ある日「こんなに楽しいことがあったんだ」と気付き、あるいは勘違いして、「日常」を倦み、ついにはそのすべてかなぐり捨ててしまった人。
その結果、果たして幸せは待っていたのだろうか。
いや、待ってはいなかった。大震災被災者にはきっと幸せが待っている、に違いない。でも、その人には待っていなかった。待っていたのは孤独と絶え間なく襲ってくる苦しみ。
それを因果応報というのだろう。
「日常」を捨てるとは、ゴミを捨てるのとは勝手が違った。「捨てる」ことにより、他者の恨みつらみを負ってしまった人。
世間の好奇と蔑みの渦中に我が身を陥れてしまった人。せいぜいできることといえば、自分を「悲劇の主人公」にしたたてて、治作自演の「悲劇」を少しでも耳を傾けてくれる人に語るだけだった。でも、世間はそれほど甘くはない。耳を傾けるからといって
同情してくれるとは限らない。同情したふりをして心の中は、ただ他人のゴシップ、不孝に興味深々なだけで、「悲劇」は人づてに広がり、「悲劇の主人公」は「喜劇の主人公」になり果てる。いや「喜劇」というのは、他人から見てというのであって、本人にしてみれば更なる「悲劇」の始まりでしかない。
そんな人にもやはり幸せは訪れるのかもしれない。理解し受けとめてくれる人がいた。でも、その相手が「日常」を捨てるきっかけ、原因だったとしたら、果たして、本当に幸せは訪れるのだろうか。
「日常」を捨てた人を相手の家族は容易には受け入れてはくれない、世間がそうであったように、相手の家族にとって自分の身内が間違った人生の選択をするのではと心配するのは、当然のことだ。世間もまたざわめきだし、それが相手の家族の耳に入って、結局、手にできると思った幸せは逃げていってしまうかもしれない。いや、もともと訪れない幸せだったのかもしれない。「日常」という幸せを壊した原因が幸せのきっかえになるなってことを期待すること自体そもそも馬鹿げているのかもしれない。
かりにその人が再び幸せを手に入れたとして、その後にまっているのは「日常」なのだ。それも以前と大して変わらない。かつて「あたりまえ」に疲れ自分自身の一部すらも捨てた人が、新たな「あたりまえ」に一体いつまで耐えられるのだろうか。
その人の将来には、「淋しさ」しか待っていないのではないだろうか、と他人ごとながら知人の歩んでしまった「道」のたどりつく先を憂うのは私一人ではない。
今ならまだ「捨てた日常」に戻れるかもしれない。でも、それにその人は気づいているのだろうか。もう時間はあまりないと思うのだが・・・。
人は普段それに気付かない。いや、最後まで気付かないのかもしれない、それが失われもう二度も戻ってこなくなるまで。
幸せはまたいずれ訪れる、と信じたい。でも、一旦失われた幸せがそのまま昔のままに戻ってくることはない。失われた時は、求めて求めつくせるものではない。
これは何も予期せぬ大災害で出くわしてしまった人たちばかりの話ではない。
「日常」を捨てた人。ある日「こんなに楽しいことがあったんだ」と気付き、あるいは勘違いして、「日常」を倦み、ついにはそのすべてかなぐり捨ててしまった人。
その結果、果たして幸せは待っていたのだろうか。
いや、待ってはいなかった。大震災被災者にはきっと幸せが待っている、に違いない。でも、その人には待っていなかった。待っていたのは孤独と絶え間なく襲ってくる苦しみ。
それを因果応報というのだろう。
「日常」を捨てるとは、ゴミを捨てるのとは勝手が違った。「捨てる」ことにより、他者の恨みつらみを負ってしまった人。
世間の好奇と蔑みの渦中に我が身を陥れてしまった人。せいぜいできることといえば、自分を「悲劇の主人公」にしたたてて、治作自演の「悲劇」を少しでも耳を傾けてくれる人に語るだけだった。でも、世間はそれほど甘くはない。耳を傾けるからといって
同情してくれるとは限らない。同情したふりをして心の中は、ただ他人のゴシップ、不孝に興味深々なだけで、「悲劇」は人づてに広がり、「悲劇の主人公」は「喜劇の主人公」になり果てる。いや「喜劇」というのは、他人から見てというのであって、本人にしてみれば更なる「悲劇」の始まりでしかない。
そんな人にもやはり幸せは訪れるのかもしれない。理解し受けとめてくれる人がいた。でも、その相手が「日常」を捨てるきっかけ、原因だったとしたら、果たして、本当に幸せは訪れるのだろうか。
「日常」を捨てた人を相手の家族は容易には受け入れてはくれない、世間がそうであったように、相手の家族にとって自分の身内が間違った人生の選択をするのではと心配するのは、当然のことだ。世間もまたざわめきだし、それが相手の家族の耳に入って、結局、手にできると思った幸せは逃げていってしまうかもしれない。いや、もともと訪れない幸せだったのかもしれない。「日常」という幸せを壊した原因が幸せのきっかえになるなってことを期待すること自体そもそも馬鹿げているのかもしれない。
かりにその人が再び幸せを手に入れたとして、その後にまっているのは「日常」なのだ。それも以前と大して変わらない。かつて「あたりまえ」に疲れ自分自身の一部すらも捨てた人が、新たな「あたりまえ」に一体いつまで耐えられるのだろうか。
その人の将来には、「淋しさ」しか待っていないのではないだろうか、と他人ごとながら知人の歩んでしまった「道」のたどりつく先を憂うのは私一人ではない。
今ならまだ「捨てた日常」に戻れるかもしれない。でも、それにその人は気づいているのだろうか。もう時間はあまりないと思うのだが・・・。