くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

京大入試問題ネット流出事件: 「犯人」は可能な限り厳罰に!

2011年03月03日 | Weblog
TVコメンテーターのなかには、穏便な処分をとの声もある。その理由のひとつが「未成年だから」。

だが、未成年とは言ってももう19だ。一浪しているから今年か来年には20歳だ。それなのに「未成年だから」という理由でおんびんな処分を主張するのは、いささか「甘過ぎる」のではないのか?

私にしてみれば、19歳にもなって、しかも大学受験という大舞台であの所業に及ぶような破廉恥な者は、可能な限りの刑罰を科するべきだと考える。

父を亡くし、一浪して、精神的に追い込まれての「若気の至り」? いや、「若気の至り」は関係ない。片親なく経済的なゆとりのない家庭などごまんとある。彼のところだけではない。それくらいの理由で温情が許されるのであれば、この世の中温情だからけで、秩序も安寧もへったくれもなくなる。

「三つ子の魂」ともいう。所詮、そういう質の人間だったのではないのか。「渇すれど盗泉」という。そうした倫理観を持ち合わせていない人間だったのだ。しかも、もう19歳だ。今更更生しても限界がある。性根のどこかにそういう不正に対する甘さ、認識の薄さがあるのかもしれない。頭がよいのかもしれないが、京大出はオオサンショウウオではない。別にこの男子学生がいなくとも、社会は廻っていく。まあ、何事も「取り返しの使いないこと」というのはあるものだから、彼もそれを受け入れ、社会の片隅でひっそり「余生」を送るしかあるまい。人生そうしたものだ。

そして、彼に対してではなく、世間に対して、「それが嫌なら真っ当に生きよ」という警告にもなる。刑罰とはそもそもそうした役割もあるはずだ。ならば、この19歳には社会の「人柱」として役にたってもらおうではないか。社会の役に立つなら、罪滅ぼしにもなり、本人も本望では?

いい加減な甘さや温情は、かりにそれが個人にとってはよくとも、全体にとっては良くない結果をもたらすということはよくある。木を見て森を見ずという。

この際、可能な限りの厳罰をもって、世の中に教訓を示さんことを!
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京大入試問題ネット流出事件: 京大のどこに非があったのか?

2011年03月03日 | Weblog
犯人逮捕とあいなった。19歳とはいえ、愚か者である。

それはさておき、本事件をめぐる批判の矛先は京大の入試監督体制にも向けられている。

だが、私には理解できない。なぜ京大が批判されねばならないのか。

監督体制が不十分だった。

確かにそうなのだ。不正行為を許してしまったことに関して、監督者並びに京大には「非」があったと言われても仕方がない。
監督を置くと決めた以上は、その任務が滞りなく遂行されねばならず、その任務の一つが不正行為の防止または発見にあるはずであれば、京大はそれをし損じたことになる。

だが、不正行為の防止任務とはすなわち試験監督とはそもそも性善説にたって受験生を扱っていないということだ。受験性のほとんどが8、19歳であろうが、京大のみならず大学側は彼ら「未成年者」をに対して潜在的な不信・疑惑の目を向けて扱っているということに他ならず、これは「性悪説」に基づいた措置であると言える。

試験監督というものはそういうものだ、学生に対して「不信」を前提として望むべしというのであれば、京大の手抜かりは批判されねばなるまい。

だが、我々が果たして受験という場においてどこまで厳格に性悪説的な対応を期待しているのだろうか? 結果論的に言えば、京大は不正行為を防ごうとして防げなかった。しかし、京大にそこまで「不信」を前提として受験生たちを扱う意思はなかったとすれば、よもやそこまでやるまいと思っていたとすれば、むしろ受験生をある程度は信頼していたということであり、人間関係のあるべき姿という点から言えば、京大の対応は批判されるべきではあるまい。

そのかわりに、やはり批判されるべきは、件の受験生ではないのか? 彼さえあのような愚行をしなければ、京大の「緩い?」監督体制は大学側と受験生の暗黙の良識の範囲内での「信頼」関係のうえに成り立ちえたはずである。また過去においては大過なく行われてきた体制だったのだ。しかし、今回の事件はその「関係」を崩してしまい、大学と受験生という人間関係に大きな不信を植えつけてしまったのだ。

いったんこうした事件が起きると、大学としてはより「性悪説」的対応を取らざるを得なくなるのだ。

そもそも、京大が甘かった? 

ということは、試験会場における受験性という人種にはわずかばかりの信頼も与えてはならないということなのか?


「そうだ」という声が世間の多数を占めるのであれば、私はもう何もいうまいが、受験生諸君に尋ねたいものだ。君らはそこまで
信用のならないロクでもない連中なのかと? また、そのように扱われて何とも思わないのかと? 思わない? ならば、京大はやはり「甘い」、世間と感覚がずれていたということなのだろうか?

いやいや、それとも、そもそも京大は「性悪説」にたった監督体制をしいたつもりだったが、監督官の怠慢あるいは能力不足で今回の事態が?

それなら、やはり京大は批判されねばなるまいなあ・・・・。

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新聞の読み方: 読者欄なんてのは「洗脳」の道具

2011年03月03日 | Weblog
読者欄なんてのは所詮、自社の論調に賛同する連中の声しか載せないので、読むだけ無駄。

あんなの呼んでいると世の中そういう考えなんだと勘違いしてしまうことになる。特に一紙しか読んでいないとそうなる。

朝日の読者欄は朝日びいき、産経、読売もまたしかり。2、3比較できればよいが、そうでないなら、一方的な考えや論調を吹き込まれるだけになってしまうから、危ない、危ない。

だって、読者からの投書を選択、編集、掲載しているのは、新聞作っている連中自身なんだから。自分たちの論調に反するものや、自分たちの報道姿勢を批判するものはまず掲載しない。

要は、読者欄ってのは、「これだけうちの社論は支持されているんですよ!」ってみせかけるための宣伝。もっというと「洗脳」の道具にしか過ぎない。

危険だし、時間の無駄だから読まない方が良いと最近改めて思いました。
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