くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

人は人の「映し鏡」: 長門博之、悲しい芸人の性・・・

2009年10月27日 | Weblog
あそこまでするかね?と思っていた人は少なくはないのだろうか。

老いさらばえた女房の姿をTVにまざまざと晒し、しかも、最後を饒舌に語る。

妻を愛していたことは疑わないことにしよう。それにしてもである、愛していたら、妻のあのような姿を万人に晒すものか?晒されて喜ぶ女性は万に一人もいないはずだ。

なのになぜ?

最愛の妻を失って悲しみに打ちひしがれているはずのなのに、なぜあそこまで喋れる?

あえて、ひとの腹のうちを探るようなマネはすまい。が、「なぜ」はつきまとう。

あえて、あれは演技なのだ。今まで浮気や何やらで散々に女房を裏切ってきた男のことだ。あれも女房をダシにした商売の一部なのだ、とは決して言うまい。

かわりに思うのだ。芸人とは悲しいものだと。まさに自らの身を鬻ぐ行為だ。自分のプライバシーを売り、それでメシを食う。どんなもっともらしい理由づけをしたところで、一般人がならみたら、「そこまでするか?」なのである。

おそらく、長門と言う人は、他の芸人のなかにもそういう傾向があるのかもしれないが、仕事つまり芸人であるときと、プライぺートの区別を失くしてしまっている、いや持っていないのではないのか? だから、私生活を晒し、妻の死に際してもマスコミに対して芸能人として「過剰」と思えるほどに饒舌にサービスしてしまうのではないのか?もしかしたら、長年の芸人生活で「演じる」自分と「演じていない」自分の区別が自分でもつかなくなり、本当の自分が自分でわからなくなっているのではないのか?

これはたぶん、長門等芸人だけに言えることではあるまい。我々一般人も、仕事の時の自分と私生活での自分の区別ができているのであろうか。あるいは、どちらが本当の自分といえるであろうか。どちらも本物かもしれないが、逆にどちらも演じているだけなのかもしれない。

某フランスの文豪の言葉ではないが、芸人に限らず、私たちは絶え間なく「人生」という舞台のうえで自分自身を演じているのかもしれない・・・。
コメント
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