せみ、という漢字は、虫へんに、単と書く。単はうちわの意味。昔の人が、羽を震わせて、鳴いていると考え、羽をうちわに、たとえたものだ。実際は、鳴き声は違う方法なのだが。さらにせみの鳴き声は、オスの求愛行動ゆえ、漢字の蝉は、せみのオスのことになってしまう。
そんなことはどうでもいいのだが、夏の盛りとなると、あぶらぜみが短い一生を終えて、木に止まるどころか道端にさかさまになって横たわっている。それを目にするたびに、なんとなく、あっという間の生涯に、せつなさを感じる。夏休みの宿題の昆虫採集に、なぜか、あえてすでに息絶えた虫を採集することはなかったんでないかと記憶している。昔は、注射器に液剤を入れて、腹から刺していたものだ。今でもできなくはないが、やろうという気はおきないだろう。いまでは、このようなキットは販売されていないとのこと。昔は当たり前のように、夏休み前になると、文房具やおもちゃ屋や、デパートにと、どこにでも売っていたものだが。
相田みつをの言葉に、体験してはじめて身につくものなんだなあ、という文言があったが、最近になって、ああそうなんだと納得している。そう考えないことには、あまり両親から具体的に忠告されてこなかった、ということを、自分なりに人生とは一代限りで、人生の途中途中で、経験すること自体が人生で、教えられたからといって、それは人生でもないという自分なりの納得に繋げないと、なんか感情がおさまらない部分があるので、無理やりであっても、そう思うようにしている。
それにしても、今はインターネットが出現したことで、こんなことまでと思える事柄でも、入力するとなんかしらヒットしてくる。こんな時代がくるなんて、親の代だけでなく、自分自身も想像していなかったと気付く。現代の子供たちは、インターネットという手段が当たり前の中で誕生してくる。この先、想像を越えた何が出現してくるのだろう。
しかし、昔でも、末は博士か大臣か? と、親の世代から言っていたが、今になって、その意味がようやくわかってきた気がする。自分の高校のクラスメートで、京大の当時、新設された人間科学部へ入って、大学の教授になっている者がいるが、そいつは、当時から普通に労働することなんてつまらないと言っていたので、大したものだと正直、感心する。