庄助さん

浮いた瓢箪流れのままに‥、日々流転。

鮨 素十 (11)

2008-05-17 23:33:25 | 小説
 そういえば、素十のしていること一つ一つに拘りがあるような気がした。
 道路の水撒き、玄関前の箒の刷毛目、自分の身なり---、どれをとっても素十自身の流儀が見られる。そして、最近になって気がついたことだが、鮨の握り方にも…。
 鮨職人であるから、当然、その職人なりの鮨の握り方を身に付けているのは当たり前のことであるが、素十の握り方は、また独特のものであるように感じた。
 まずシャリ櫃から右手4本の指で掬い上げる鮨飯の量が違う。詳しいことは分からないが、どうやら鮨ネタが何であるかによって鮨飯の量を微妙に調整しているようだ。次に、掬い取った鮨飯の握り方そのものに違いがある。
はじめに、掬い取った鮨飯を右手4本の指と手の平との間で転がすが、その回数にも違いがある。さらにその鮨飯を左手に移し変えた後の右手人差し指と中指で押さえ込む力に微妙な力加減を感じる。
 いずれにしても、素十は、鮨ネタが何であるか、またその状況がどうであるかによって握り方を変えている。
 
 そういえば、素十がこんなことを言っていたのを思い出した。
 「いい鮨は、ネタやシャリだけの問題じゃない。肝心なのは握り方だな…」
 「いい鮨が、ネタやシャリだけで決まってしまうなら、素人にだってできる」
 勿論、鮨ネタや鮨飯の調理加工の技量の問題もあるが、素十にとっては握りこそがプロの鮨職人として最も重要なことだと力説したかったようだ。
 事実、どんな鮨ネタで握ってもらっても、素十の握った鮨は美味い。特に、ネタとシャリがそれぞれの個性を主張しながらも両者が一体となり、鮨の旨さを引き出しているような気がする。当然、それは味がよいというような単純なものではない。ネタ、シャリそれぞれの舌触り、歯応え、味の広がり具合や変化など、食べ物の『旨さ』、『美味しさ』を引き出すための要素すべてを計算に入れ、鮨ネタに応じての握りはどうあるべきか、そんなことを素十はいつも考え、鮨を握っているようだ。
 勿論、そんなことの一つ一つを口に出すような素十ではない。
 しかし、これが素十の拘りでもあり、鮨の握りに至極の技とその美を求める素十の基本的な考え方と姿勢が見てとれる。

鮨 素十 (10)

2008-05-10 22:46:12 | 小説
 暫くすると、先ほどまで上がりのお茶を飲んでいた客が帰っていった。店には閉店近くに来た客だけが残った。時間もだいぶ経過し、周りの店もそろそろ店じまいを始めていた。しかし、親仁はそんなことを一向に気にする様子もなく、平然とした態度で黙々と最後の一人となったその客の相手をしていた。客もまた、時間などお構いなく自分の間合いでのんびりと酒を飲んでいた。店の中は親仁とその客の二人だけとなり、殆んど会話の伴わない傍目には一見無愛想とも思えるような雰囲気が漂っていた。確かにこれといって表現したくなるような光景がそこにあるわけでもなく、ただ、薄暗い照明が無口な二人の男を照らしているだけであった。
 杯に酒を注ぐ客の徳利の傾きが水平になってきた。酒もあと僅かなようだ。親仁は客にそっと声をかけた。
「握るか---」
 客は、頬杖をつきながらその言葉を聞くと、暫く黙っていた。徳利に残っていた酒を最後の一滴まで杯に注ぎ終えると、漸く口を開いた。
「そうさな--、握ってもらおうか」
 客は、もう少し飲みたかったようだが親仁の言葉には異議を唱えない。親仁はその言葉を聞くとカウンターを挟んで客と相対するつけ場に立ち、右手をさっとシャリ櫃に伸ばした。4本の指を少し丸め、指の先で鮨飯を掬うように取り上げると、指をさらに丸め、手のひらとの間で鮨飯を転がしはじめた。何度か転がした後、手のひらを丸めた左手に鮨飯を移し、右手の人差し指と中指で鮨飯を軽く押さえ形を整えた。そして、鮨ネタを上に載せ、指で再び軽く押さえると、仕上げた2貫の鮨を客の前に出した。鮨ネタは白身で、鯛であった。客は、差し出された鮨の一つを親指と3本の指で軽く掴むと、自分で卸した山葵を鮨ネタの上に載せ、鮨の端に少しばかりの醤油をつけ口に運んだ。客はゆっくりと口を動かし、鯛の味を確かめるように目を閉じたまま味わっていた。そのうち幾度となく首を立てに振ったかと思うと、口を動かすこともなく暫し静かなときを楽しんでいた。客が1貫食べ終えると、親仁は茶を出した。客は茶を啜りながら2貫目の鮨に手を付けた。親仁は客の食べ進む様子を見ながらゆっくりと次の握りに取りかかった。
 
 客が2貫目も食べ終え、軽くお茶を飲み終えると同時に赤身の握りを出してきた。客は親仁に何も注文していないが、親仁は、既に客から注文を受けたかのように納得ずくの顔をして鮨を客の前に出した。
 鮨を握り、鮨を出すタイミングが実にいい。客が鮨を食べ終え、お茶を飲み、そして、さあ、次の鮨を、と思って手を動かした先に、今握り終えたばかりの鮨が用意されている。客はこの何とも言えない絶妙の間合いが堪らなく好きだ。勿論鮨は美味い。その美味さをさらに引き立てるのがこの間合いである。そして、当然のことながら親仁の対応と素振り、それを含めた店全体の雰囲気がなお一層鮨の美味さを引き立てているのである。
 鮨「素十」に来る客の殆んどは、鮨の美味さを引き出すこの雰囲気をこよなく愛し、それを楽しみにここへやってくるのである。
 鮨が美味いということは、単に鮨飯や鮨ネタがいいということだけではない。素材も味もよい鮨をさらに美味く引き立てるのは、鮨を握る職人の技能はもとより、客に対応するプロの板前としての感性である。多分、親仁も客も、暗黙のうちにこんなことを心の底に共有していたに違いないと確信させられた一瞬であった。
 赤身の鮨は勿論マグロである。客が赤身を食べ終えると、親仁は鯖の酢締めを握った。これもまた、客の注文も聞かずに、親仁が勝手に握ったものだった。また、客も一言も言わずに親仁が握った鮨を黙々と食べていた。
 親仁は鮨を勝手に握り、客はそれを黙って食べる。ただそれだけのことしかない、それがすべての鮨屋であった。しかし、そこには親仁の研ぎ澄まされた感性とそれを求める客の気持ちとが見事に調和し、語らずとも心の通じ合う、そんな暗黙の世界を見たような気がした。
 「これも親仁が拘ることの一つか---」、庄は、ふと思った。
 それは確かに、ある意味で洗練された心の世界の一つといってもおかしくないものといえるかもしれない。
 そういえば-----、
 
 

鮨 素十 (9)

2008-03-14 22:59:18 | 小説
 親仁は、客のそんな様子を先刻承知していた。鮨を握ったり、お造りを調理したりと忙しい親仁であるが、どんなに忙しくても店に来た客の一人一人についてその時々の状況を確実に把握し、客が今求めているものは何なのか認識しているのである。そして、客の求めに応じた対応を親仁は何気なく、さらっと実行するのである。その意味で、親仁は料理人であるとともにギャルソンの役目も果たしているともいえる。今日もそのような対応で客を迎えていた。 
 親仁はこんな客が来ると、必要最低限の言葉以外余計な話しかけはしない。勿論それは客の気持ちを慮ってのことである。そして、客への対応はさりげなく、それでいて親仁の心遣いが伝わるものであった。
 暫くすると客が右手で徳利をちょっと持ち上げた。親仁はそれを見ると軽く頷き、別の徳利に酒を入れお燗した。
 新しい酒の燗がつくまでの僅かな間、客の口が開いた。
「旨い鯵だな--」
 その一言に親仁の顔がほころんだ。
「そうだな--」
「何処の鯵だ、これは」、客が尋ねると、
「相模湾のものだ。九州産のものと比べるとやや味はおちるけど、新鮮さは抜群だな」
親仁もそう言ってひとこと言葉を返すと、カウンターの上を台拭きで撫で,燗のついた新しい酒を置いた。
「忙しそうだなぁー」、親仁は客の手を見ながらそれとなく声をかけた。
「ああー」、客は自分の手を見て頷きながら応えた。
店には、隅のテーブルで上がりのお茶を飲んでいる客以外、もう誰もいなかった。

鮨 素十 (8)

2008-03-07 18:42:06 | 小説
 あれは何時のことだったか忘れたが、閉店近くになって仕事帰りの中年の客が親仁の店にやって来たことがあった。時々この店に来る馴染みの客の一人である。
 残業を終え、作業着からすでに通勤の身なりに着替えているとはいえ、ついさっきまで工場の中で作業をしていた様子がよく見て取れる。とりわけこの日はひどく疲れた様子であった。客は店に入るなり、親仁に
「いつもの」、と一言いったきりカウンターの前の椅子にゆっくりと身を置いた。
 客は余程疲れていたとみえ、椅子に座るなり暫くはぼやーとしていて放心状態であった。そのうち親仁が差し出した手拭タオルを手に取ると、徐に顔を拭き手を入念に擦った。手拭タオルにははっきりとした汚れがついていた。
 客は顔を拭き終わって正気に戻ったのか、ほっとした表情に戻りお茶を口にした。まもなくすると親仁がお燗した日本酒を持ってきた。客の前に徳利を置くと、そそくさと鯵のお造りの調理に取りかかった。今日は活きのいい鯵が大量に水揚げされ、市場での卸し値も安かったという。こんなとき親仁はいつもより多くの魚を仕入れる。
 確かに魚の活きはよい。親仁は安くて活きのよい魚を客に出すのが仕事の遣り甲斐の一つだった。そんなときは、親仁の顔が何がしか得意そうな顔をしているようにも見えた。
 お造りを出すのに、さほど時間はかからなかった。
「へい、お待ち」、と一言いって鯵のお造りを客の前に出した。
 鯵の背の部分の青色が鮮やかであった。腹の部分の銀色に輝く様は、また見事であった。それに、何よりも、お造りであるにもかかわらず盛りがいい。
 客は、醤油を小皿に注ぐと、生姜おろしをたっぷりと入れ、箸でしっかりと挟んだ鯵を無造作に醤油につけ、一気に口に運んだ。しばらく口の中で味を確かめた後、首を二、三回たてに振り頷くと笑みを浮かべた。新鮮な鯵のお造りに満足したのか、その後お猪口の酒を一気に飲み干した。客は飲み干した杯を左手に持ったままカウンターの上にひじを突くと、静かに目を閉じた。
 酒好きの人間でなくともその光景から感じ取れるものが何か分かるような気がした。

鮨 素十 (7)

2008-03-01 18:18:58 | 小説
    
 頼られるといっても、二人とも特別なことをしてやっているわけではない。
 店に来る者の目的は当然鮨を食べに来ることなのであるが、時にはもう一つの目的をもってこの店に来る者も多かった。
 カウンターで親仁の握る鮨を食べながら、親仁の傍にいたいのである。親仁と特に話しをするわけでもない、酒を酌み交わすわけでもない、何よりも親仁の鮨を握る姿を見ながら鮨を食べ、一杯飲みたいのである。事実どの客も親仁とそう多く話をするわけでもない。客もカウンターの向こうで忙しそうに仕事をしている親仁のことを慮ってあまり話しかけないように気を遣っているようにも見える。しかし、会話の少ない店の雰囲気が親仁と客の持つ雰囲気とよくあっているのである。当然客同士もお互いに多くを語らない。せいぜい2,3人で連れ添ってきた客がぼそぼそと話をする声か、時折り猪口で酒を啜る音と箸で肴を突付く音が聞こえるくらいのところである。こんな単調な光景をいつも目にするが、その後一時ほどすると、客は満足そうな顔をして帰っていくのである。傍目からすると、何とも間延びした活気のない様子としか思えないのだが、客と親仁の関わりを注意深く見ていると、客が親仁の鮨を食べにくる訳が分かるような気がしてくるのだ。
 そこには、親仁と客の間にしか存在しない独特の雰囲気が醸しだされていて、その雰囲気を求めて客がやって来るような気がした。
 
 そういえば、何度かそんな場面を見たことがあった。
 
 

鮨 素十 (6)

2008-02-24 16:53:35 | 小説
 素十の父親、素一も素朴で質素を好む人だった。生まれは東京であるが、先々代は佐賀の出で下級武士の家柄だったそうだ。それが幕末の混乱期に武士を捨て江戸に出て来たという。その後は明治維新を迎え文明開化の波にのり才覚を発揮、幾つか自分の店を持つまでになったそうだ。その後、戦争や地震で店を焼失してしまったが、何とか惨禍をかいくぐり、小さいながらも一つだけになってしまった現在のすし屋を維持しているという。
 そんな数多くの苦労をしてきた素十の父素一、そしてその苦労を子どもの頃から聞かされ育てられた素十。それだけに、いつも物を大切にし、何事にも感謝の気持ちを持って日々の生活を送る二人であった。
 職人の世界は昔から、分野を問わず親方、先輩の技を盗み、自分で自分を一人前に育て上げていった。今日のように、研修だのマニュアルだのというようなものとは一切無縁の世界であった。ただ頼れるのは、まさに自分の才覚だけであった。素一も素十もこんな世界のもとで育ってきた。それだけに逞しさがあった。少々のことではへこたれない。それどころか、厳しい状況に立たされると、こういうようなときこそ千載一遇のチャンスとばかりに、自分が今まで培ってきた技量、精神力の限りを尽くし、困難な状況の打開を図った。そして、さらに自分の技量・精神力を高めていく。そんなことの繰り返しが二人にとっては堪らなくやりがいのあることであり、時にはその行動そのものが大きな楽しみに感じるようにもなっていた。このようなことは自信がなければできることではないが、その自信と実力は特別なことをして身につけたものではない。小さいときから自分に与えられた環境・生活条件の中で、自分にできることをいつも精一杯努力し、その結果を一つ一つこつこつと積み上げてきたものに他ならない。それだけに、ちょっとやそっとのことでは身も心も揺らぐことはなかった。
 こんなようすの二人だから、昔から近所の人たちや店に来るお客になんとなく慕われ、頼られていた。    
  

鮨 素十 (5)

2008-02-20 13:04:55 | 小説
 親仁の名前は素十という。勿論この名前は親が付けたものである。子どもの頃、近所の子供たちは親仁のことを「そっちゃん」と呼んでいた。親仁はこの頃、子供心に何故こんな名前をつけたのかといつも疑問に思っていた。しかし、親仁は必ずしもこの名前が嫌いではなかった。それどころか、むしろこの名前がなんとなく気に入っていたのである。親仁はかって一度だけ自分の名前の意味を父親に聞いたことがあった。
「僕の名前は何で素十って言うの---」
 父親はいつもと違うまじめな面持ちで素十にこう言った。
「素十---、素というのはなぁー、『もと』という意味があるんだ。もとというのはすべてのもとなんだ。すべてのものはこのもとから創られるられるんだ」
 確かそんなような話だった。しかし、正直なところあまり意味がよく分からなかった。そんなことがあった後、しばらくして学校の理科の授業で元素の話を聞いたことがあった。
「物はいろいろな物からできている。そして、それらの物はさらにより小さい物質によって構成されているんだ」
「そしてだなぁー、さらにこれらの小さな物質も、よりもっと小さい物質からできているんだよ。こうやって物質のもとをさらにさらにと突き詰めていくと、最後に到達する物質がある。それが元素というんだ」
「元素とは、これ以上分解できないという究極の物質だ」
 かっての理科の先生がこんな話をしたことをよく覚えている。
「そうか、俺の名前の素はそういう意味があったのか---」、とその時初めて頭での理解とともに気持ちの上でもしっかりと分かったような気がした。

 それにしても親は何でこんな名前をつけたのかという疑問はまだ解けなかった。
 因みに親仁の父親の名前は『素一』という。一般的な推測からして素十の素は、父親の一字をもらっていることは容易に理解できた。一は、父親が長男であったことからこれも直ぐに分かった。しかし、父親は単に自分の名前を子どもに継いでもらいたかったというだけではなく、名前の持つ意味をしっかりと理解した上で、その意味に含まれる精神をも子どもに継がせたかったようだ。





鮨 素十 (4)

2008-02-05 22:32:35 | 小説
  戸外の水撒きや玄関先の掃除、そして店内の準備が一通り終わると親仁は今まで着ていた服を着替えて板前姿に変わる。 使い込んだ板前着であるがこざっぱりと綺麗に仕上げられ清潔感がある。袖は7分袖ぐらいでやや短く、襟元から腹にかけての合わせが一直線に決まり、腰にきりっと巻かれた前掛けの下がりが衝立のように真下に平板に落ちている。中背で細身の親仁にはよく似合っている。
 親仁は真新しい板前着は身につけない。板前着がどんなに古くなっても、それを何度も何度も繕い直して着る。どうしても直せなくなると新しいものを用意するが、それでもそのまま身につけることはしない。真新しいものであるにも拘らず、自分が納得するまで幾度となく洗い直し、肌に馴染むようになってから使うようにしている。 しかし、この使い古した板前着を身につけた親仁の姿が店内の雰囲気とよく合っている。見方をもっと広げれば、古着を着た親仁の板前姿は水打ちされた道路、箒の刷毛目のついた店先の庭、そして、店内の磨きぬかれたカウンター、さらにはぼんやりとした電球にいたるまで…、これらすべての店の内外の環境を構成する一つ一つとが親仁の板前姿とよく似合っているのである。
 実は、このことはずっと後になって気付いたことであったが、美的感覚などという世界とはまったく無縁のようであるように見える親仁の日々の様子の中に、驚くくらい計算し尽くされ、研ぎ澄まされた美意識とその創造性が備わっていたのである。そこまで親仁は美を追求していたのかと驚かされ唖然とさせられたことがあり、美の世界に生きようとする親仁に畏敬の念とともに、強く心に打たれるものを感じたのである。


鮨 素十 (3)

2008-01-31 22:44:19 | 小説
 水を撒き終えるとシュロの箒で猫の額ほどの玄関前の庭を掃く。僅かな土のスペースであるが杉彩模様に箒の刷毛目をつけ、そして、最後に暖簾を下げる。その後玄関前に立ち、暖簾に向かって手を合わせる。何を祈念しているのかは分からないが、祈念する親仁の姿を見ていると誰をも寄せ付けない雰囲気を漂わせている。
 この一連の動きが、開店前に決まって行われる親仁独特のセレモニーであり、型である。
 水撒き前には店内の清掃はすっかり終わっていて、土間にも薄っすらと水打ちがされている。
テーブルと椅子は規則正しく配置され、カウンターは見事なくらいに拭き清められて、長年の使用に耐えてきた貫禄のようなものを感じさせられる。そんなカウンターの表面を電球の光が鈍く優しく射していた。
 



鮨 素十 (2)

2008-01-28 21:36:53 | 小説
 そんな様子だから傍目には一風変わった人間のように見られてしまうのであるが、この親仁に心を寄せる者は多い。その理由は親仁の一つ一つの所作と、その所作を通して醸しだされる雰囲気にあるようだ。これらの所作や雰囲気がどこから出てくるのかは分からないが、確かに人を惹きつけるものがあることだけは事実である。
 その一つに開店前の水打がある。雨の日以外は必ず店の玄関前の道路に水打ちをする。水打ちをする親仁の動きには独特の型があって、近所の人は時々その姿に見入っているときがある。店の脇の水栓の蛇口に取り付けたゴムホースで水をいっぱい入れた大きなポリバケツを玄関先に置く。はじめは、柄杓で水を掬うと、水をこぼさないように向かいと両隣の店の玄関前の道路に水が撥ねないように静かに撒く。近所の店の前の道路に一通り水を撒き終わると、こんどは道路中央の水撒きに移る。水をいっぱい汲んだ柄杓を持った手を左脇下に持っていった後、腕を水平にして右肩方向におもいっきり腕を振る。その様はさながら居合い抜刀の型である。 勢いよく撒かれた水は、空中で一瞬扇状の透明な薄膜の広がりを見せ、そのままの状態で地面に落ちる。舗装された道は扇形の水跡が綺麗に残る。そんな水跡があちこちにできると、親仁は一休みしながら自分の撒いた水跡をしばらく眺めている。遠くから見るとその水跡は浴衣にあしらった千鳥模様のように見え、とりわけ夏などは涼味をそそる思いがする。そんな道路の水跡模様を見ながら親仁は時折り満足そうな笑みを浮かべる。