千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

山小屋のお話

今年は舁山行事は中止ばってんが
飾り山は「千代流」「中洲流」以外は建てられますけん
博多の町あちこちで山小屋が立ち始め山笠気分が
ちょこっと感じられます。

そこで今回は後世に伝えるためにおいしゃんが知る限りのこと
山小屋の表記やら当番について書こうて思います。
※今回の写真はすべて「大黒流総合サイト」から借用です。
 ていうたっちゃぁおいしゃんも管理人の一人ですけん
 自分たちで集めた写真っちゃばってんが・・いちお


みなさんご存じの通り明治時代に電線が普及し
昔のごと見上げる山笠ば舁くげんたい電線ば壊すていうて
禁止令がでましたばってんがそこはちょん切りゃあ良かろうて
始まったとが今の「舁山笠」ですね。


これは明治三年大黒流掛町当番の山笠です。※福岡市博物館蔵
掛町て言うたら流の中でも一・二ば争うほどのちいさな町。
それでもこれだけの迫力です。晴れの当番町に向けて
何年も蓄えたとでしょうね。
昭和41年の町界町名改正までは存在した町です。
それより小さかったとがおいしゃんが生まれた「妙楽寺新町」です。


これは明治29年下新川端町当番の山笠です。
こげん高い山笠やけん当然山小屋はありません。


一方こちらは大正4年麹屋番当番、すでに舁山と飾山が分離した時代。
当時、麹屋番は博多でも一番栄えた繁華街で岩田屋もここにありました。
アーケードはないにしたっちゃ天幕みたいなとで
覆ってあるとがうかがえます。

そして時代は下って昭和13年倉所町

商店街やないですバイ。現在の古ノ二・つノ二にまたがった町。
それでちゃ立派な山小屋と飾り山です。
第一次大戦で勝ってイケイケどんどんの頃で景気も良かったんでしょうね。
そこで山小屋の表題ば見てください。
「〇番山笠倉所町」てなっとりますでしょ?
そうその昔から松囃子では(福神・恵比須・大黒・稚児)ば
山笠では一番から六番まで各流の一つが当番ば受けよったとです。
七番目は能当番で山は出さんかった。
そいけん山笠も「〇番山笠倉所町」てなっとったとです。
これは昭和になっても続きます。

昭和10年上鰮町(上い、現在のすノ一あたり)
舁き山が山小屋に納まっとりますね・・


昭和15年下新川端、大黒流やら書いちゃなかもん「シモシンぞ~」ってね。


昭和18年麹屋番・・
この頃は戦火の足音が聞こえてきた時代で表題も「撃ちてし止まむ」
山小屋の表題も「必勝大東亜戦」決して第二次大戦ではありません。
日本国民一丸となって亜細亜の解放が目的の戦争突入です。

して・・負けたけん・・・・・
昭和20年~22年は山笠できる状態やありません。
昭和23年、落石栄吉(パンダさんの爺様)他有志の手により
当番大黒流として唯一山笠が復興します。
ばってんが食うや食わずの時代が続き
大黒流の山小屋が戦後できたとは昭和27年下い当番から・・
29年には下新川端から分かれた東下新(現川端中央街)が
立派な山小屋に飾り山ば建てたばってんが舁き山はまだベニヤの大黒さんでした。


この頃から一ケ町では当番ば受けるとは経済的にも大変やて言うことで
流全体で松囃子及び山笠の当番ば受けるようになったごたります。
昭和30年からは山小屋の表記も「〇番山笠当番大黒流」に変わります。

これはおいしゃんが生まれた年昭和31年倉所町の当番ばってんが
「四番山笠当番大黒流」となっとるでしょ?

それでも一時は町名ば表記する町もありました。

昭和34年下新・・一番山やけん張り切ったか?町名ですね。
商店街のアピールかもしれませんね。一応大黒流は書いてあります。
それでもまだ一つの町に当番町て言う権限は残っとって
人形飾りやら舁回り順路は当番町が決めておりました。

そして大黒流は「流当番」制となります。
今年の一番山笠は大黒流が受けますという意味です。

12ケ町の町総代で構成される「甲子会」ば頂点として
運営資金は流で賄うごとなり今までの当番町は12ケ町ば
代表して大黒流から資金ば預かり当番の段取りば準備する「世話当番」と
なったとです。そいけん人形飾りや舁回り順路、コースの台上り
すべて現在は流で承認されて決定します。
※ばってんが立て替えせなならんけんやおいかん貯金しとかな・・


平成二年すノ二当番からは山小屋の表記は「五番山笠大黒流」となって
「当番」の文字はなくなっとります。
ちなみに前列三名は今や全滅です。


令和元年の大黒流・・・・山小屋表記は「四番山笠大黒流」ですね(^^♪

タ・メ・ニ・ナ・ル・ネ~

ちなみにおいしゃんが幼少のみぎり・・
昭和33年妙楽寺当番の記念撮影

クリックしたら大きゅうなります。
中央が爺様に抱かれたとがおいしゃんで右下が親父
おいしゃんの左下が古ノ二の元町総代「牧尾のおいしゃん(孫三郎)」
当時は下っ端の赤手拭、その左は建祐さんの親父で流の生き字引やった。
その二つ左は前町総代の森忠重さん、前列子供はその息子で現日本ラグビー協会会長の
森重隆さん、一番左は今も屋台に炭やら大根届けよる奈良屋燃料の
「龍ちゃん」元妙楽寺の取締、そのゲッテンさは今も健在です。

今夜は山の季節のよもやま話でお送りしました。

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