二つのモノが言えない構造
30年の余も高校生と対してくると、明らかに教室でものが言えない階層というものが確実に存在することをいやというほど知らされます。教室には、
ものがいえない構造
ができあがっているのです。その構造が、手をつないで廊下を歩かせるといってもいいのかもしれません。その構造は重層的で、単純ではありません。
私は前のエントリイで、上の構造をしめしました。
いわゆる「ウチ」と「ソト」という二つの集団が、排他的に存在している。「ウチ」でないものは、「ソト」へと排除されることになる、ということを示しました。「ウチ」という集団は同時発生的に「ソト」への排除という機能を発揮するのです。
さて、高等学校のクラスには、基本的には、自分から発表をしないという同調圧力がかかっています。それを感ずる「ウチ」の集団があるのです。その「空気」を読むことがまず高等学校のクラスで暮らしていく要諦なのです。
「自分から発表する下品はよそうね」
という同調圧力に対して、
「そうだよね」
と答える、これが高等学校のクラスの「ウチ」の和を形成するのです。
そこからソトへと自分から出ていこうとはしない、これが学校でうまくやり過ごすコツなのです。これを破ると、生徒同士でクスクス笑いを浮かべ、嘲笑の笑みを浮かべながら、友だち同士目をあわせ、舌打ちをする、という制裁が待っているのです。
ヘゲモニーという「ウチ」
もうひとつ、確実に存在するのが、そのクラスのヘゲモニー、つまり、決定権を奪取している階層の「ウチ」の存在ですね。ヘゲモニーを握った生徒たちが内部を形成し、さらに、そのなかにボス的な押しの強い存在があり、その人物が「ウチ」の主導権を握る。こういう姿があらわれるわけです。
身分階層があり、同級生でありながら、上下関係が存在する。つまり、上と下という「ウチ」が存在するわけです。上を差し置いては発言できないのです。差し置いて発言すれば、
「なまいき」
という制裁がまっているのです。
そのときに、
あなたと私は「ウチ」という
「下」の人間の和が形成され、それに従順にしたがうことが要求され、空気となっていくのです。
このとき、この「和」を形成するなかまに自分が入っているか、どうか、はきわめて重要な問題です。なぜなら、そのウチのなかに確実に入っていなければ、いつ「ソト」という烙印を押され、攻撃の対象になるか分からないからです。 教室で一人 はしたがってきわめて危険なポジションとなるのです。その攻撃の激しさ、疎外の激しさこそが、地として存在するからこそ、 廊下で手をつなぐ という同じ「ウチ」であるという確認は激しく、過激に行われていくことになるのです。
同じ授業取ろう?
同じ授業を取ろう、というのが、選択を旨とする単位制の高校生では要諦となる黙契となります。同じ教室で弁当を食べよう、この延長戦にこのタイトルの問題は存在するのです。いかに、高等学校の教室には、同調圧力が激しいのか、つまり、そこから排除された時の疎外の力が激しいのか、この激しさを物語るのが、廊下で手をつないで歩くという異常な事態だ、と考えればいいでしょうね。これ以外に、自己保身は無いのです。ま、だれだっていいんです。自分を守れれば、そういう適当な人を絶えず高校生は探しているのです。個性など高等学校にはどこを探しても、普通の人間たちの集団形成をみるかぎりないですね。
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30年の余も高校生と対してくると、明らかに教室でものが言えない階層というものが確実に存在することをいやというほど知らされます。教室には、
ものがいえない構造
ができあがっているのです。その構造が、手をつないで廊下を歩かせるといってもいいのかもしれません。その構造は重層的で、単純ではありません。
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いわゆる「ウチ」と「ソト」という二つの集団が、排他的に存在している。「ウチ」でないものは、「ソト」へと排除されることになる、ということを示しました。「ウチ」という集団は同時発生的に「ソト」への排除という機能を発揮するのです。
さて、高等学校のクラスには、基本的には、自分から発表をしないという同調圧力がかかっています。それを感ずる「ウチ」の集団があるのです。その「空気」を読むことがまず高等学校のクラスで暮らしていく要諦なのです。
「自分から発表する下品はよそうね」
という同調圧力に対して、
「そうだよね」
と答える、これが高等学校のクラスの「ウチ」の和を形成するのです。
そこからソトへと自分から出ていこうとはしない、これが学校でうまくやり過ごすコツなのです。これを破ると、生徒同士でクスクス笑いを浮かべ、嘲笑の笑みを浮かべながら、友だち同士目をあわせ、舌打ちをする、という制裁が待っているのです。
ヘゲモニーという「ウチ」
もうひとつ、確実に存在するのが、そのクラスのヘゲモニー、つまり、決定権を奪取している階層の「ウチ」の存在ですね。ヘゲモニーを握った生徒たちが内部を形成し、さらに、そのなかにボス的な押しの強い存在があり、その人物が「ウチ」の主導権を握る。こういう姿があらわれるわけです。
身分階層があり、同級生でありながら、上下関係が存在する。つまり、上と下という「ウチ」が存在するわけです。上を差し置いては発言できないのです。差し置いて発言すれば、
「なまいき」
という制裁がまっているのです。
そのときに、
あなたと私は「ウチ」という
「下」の人間の和が形成され、それに従順にしたがうことが要求され、空気となっていくのです。
このとき、この「和」を形成するなかまに自分が入っているか、どうか、はきわめて重要な問題です。なぜなら、そのウチのなかに確実に入っていなければ、いつ「ソト」という烙印を押され、攻撃の対象になるか分からないからです。 教室で一人 はしたがってきわめて危険なポジションとなるのです。その攻撃の激しさ、疎外の激しさこそが、地として存在するからこそ、 廊下で手をつなぐ という同じ「ウチ」であるという確認は激しく、過激に行われていくことになるのです。
同じ授業取ろう?
同じ授業を取ろう、というのが、選択を旨とする単位制の高校生では要諦となる黙契となります。同じ教室で弁当を食べよう、この延長戦にこのタイトルの問題は存在するのです。いかに、高等学校の教室には、同調圧力が激しいのか、つまり、そこから排除された時の疎外の力が激しいのか、この激しさを物語るのが、廊下で手をつないで歩くという異常な事態だ、と考えればいいでしょうね。これ以外に、自己保身は無いのです。ま、だれだっていいんです。自分を守れれば、そういう適当な人を絶えず高校生は探しているのです。個性など高等学校にはどこを探しても、普通の人間たちの集団形成をみるかぎりないですね。
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私は学校の先生ではありませんが、高校生・大学生に何度か講演をしたことがあります。このとき彼らの「発言しない圧力」に何度も押しつぶされそうになりました。ですから、この記事に示された同調圧力の分析を大変興味深く読ませていただきました。
こうした「特性」から少しでも脱却すべく、グループ分け学習というのを実践している大学の先生がいらっしゃいます。その先生にご紹介いただいたのが「タイプ分けを知ってアプローチするとうまくいく」という本です。
http://muratyan.cocolog-nifty.com/book/2010/08/post-fc3d.html
授業の様子をビデオで拝見しましたが、学生の様子が変化してゆくのが顕著でした。
お返事が遅くなって申し訳ありません。今もそうですが、後期がはじまり、てんやわんやでした。さて、この「ウチ」と「ソト」という二重性は、いかにして壊れるのか、大変難しい問題です。社会学者のマックス・ウェーバーは注目すべき発言をしています。営利だというのです。営利こそがこの二重性を破壊してきたのだ、と。私が単位制に注目するのは、この点です。以前、『野ブタ。をプロデュース』というドラマがありました。このドラマは、きわめて示唆に富むものでした。このドラマの批評をかつてしました。このドラマは、実は営利がいじめを解決するという、ウチとソトの対立を止揚する、という提案をしているように思えました。もしよろしければ、そちらもどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/ae6e888ea340c06802041d86e4272498