高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

ボコすという耳鳴り

2008-01-11 02:37:38 | 政治分野の授業
全員パンパース

 一見、学校は、宅間守元死刑囚のような凶悪な侵入者でもないかぎり、身体については安全であるかのように見えるのでしょうか?もちろん、あとで論じることになりますが、いじめという最大の問題はあるし、大体、体罰って何よ?といえば、国家自らの身体への露骨な侵害なんですね。
 で、あらためて

「国民たる生徒さんに学校は身体の自由について、国民たる生徒のみなさんを守っているのでしょうか?」

と問うてみるわけです。で、まあ、ここ数年、全員に聞きたいので、本当にシンプルにこの問に対して、

Yes or No

で生徒さんに回答を迫ってみているのです。すると、多くのみなさんは

「No」

と答えるのです。
  もちろん、私は授業をやっていて、そんなことは当たり前のように感じているのですが、あえて聞いてみたのです。そして、決して全員ではないけれど、多くのみなさんが危険を感じているわけです。それが証拠に、授業中、みずからの発言がほとんどないのです。それは、下手なことをいうと、「やられる」という恐怖が前提なんですね。学校での表現の自由をまた別にとりあげますが、そんなもの、ありませんよ。それは、国民から国民への身体の自由の侵害の危険性、蓋然性、可能性、なんとでもいえばいいのですが、それらが現実的な恐怖として存在するのです。

「みなさんは、ここにいる人間が全員パンパースをはめている幼児だったら自由にものが言えるね」

そりゃあそうだ、発言をつぶしにきたら、こっちがつぶし返してしまえばいいのだから。

呼び出してボコす!

 憲法は国家への命令を基本にしています。しかし、こと身体の自由に関する限り、国家自体への規制という意味はもちろんですが、国民の他の国民から受ける身体への侵害から守るという意味も当然含まれるべきはずです。当然、その要求から通常国家は合法的に警察力をもつことになっているわけですから。
 で、あらためてこの身体への危険は存在するのか、というと、学校社会は実は、その危険で満ち満ちているのではないか、というのが私の仮説なのです。学年のボス的存在、不良、先輩、こういった階層からの暴力的な身体の自由への侵害の危険性、これは確実に存在するわけです。

「ボコすぞ!」

という最後の脅迫が、多くの人たちの耳の奥で、鳴っているのではないでしょうか。絶えず、通低音として多くの生徒の耳の奥で流れているのではないでしょうか。
いじめが模範的なケースですが、この危険性にたいして、どうも国家=学校はほとんどあてになる機能を果たしていないようにみえるのです。
としたら、それはなぜなのか。国家=学校がなぜ、機能を果たしていない、あるいは、果たしそうもないと思われてしまうのか?


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