高校公民Blog

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田中康夫の敗北 2 理念はいいが手法が独裁的

2006-08-09 12:07:26 | 政治時事

トップダウンとしての投資信託

金融にまったく知識がない方もいらっしゃるかもしれないが、投資信託という金融商品がある。この投資信託、トップダウンもいいところのものである。仕組みはこうなっている。あるファンド(「村上ファンド」みたいな)が自分に投資しないか、と客にもちかけるのだ。自分たちが株を買う。絶対儲かる。そう、宣伝して、投資家をつのるのだ。ところが、この投資信託は、ここからが変わっている。その集めたカネをどう運用するのかについては客はいっさい物を言えない。意見をいうとか、指示するとかそういうことはできない。まさに「お任せ」なのだ。もちろん、大まかなコンセプト――たとえば、ベンチャー系のリスクの高い株を買うとか、安定的な大企業を買うとか――は公表されるし、大雑把にはどこの会社の株を買ったかも発表される。因みにどういう値動きをするかはリアルタイムで知ることができる(上の図はフィデリイティ小型株ファンドの値動きを示している)。1口いくらか(大体1口=1万円からはじまる)、まあ私たちはそこに最後の関心はあるのだが、それは私たちは当然知ることができる。しかし、どこへどう組み込んだかにかんする詳細はわからないのである。それでも買ってくれと言うのである。

「株式を買うのは俺達が買う。何をどのくらい買ったかはいちいち君たちに本当の詳しいところは言えない。企業秘密だ。とにかく任せろ。しかしカネは出せ。しかも、元本割れもある。その責任はもちろんあんただ。しかし、悪いことはいわん。カネ出せ」

 まあ、こういわれて私は200万円出したわけだ。これだけ見ればお人好しもいいところである。まさに、トップダウンという形式で運用しているのが投資信託である。しかも、シティバンクは最低5年はやめるな、と希望するのだ。
 しかし、このトップダウンにはこれだけ書いても、もちろん実際には息詰まるような窒息感はない。逃げられないという閉塞感はない。独裁で抑圧されているなどという感覚はまるっきりないのである。ここに不思議がある。驚きがあるのである。

小沢一郎

 日本社会は民主的でないといってトップダウンをきらう。トップダウンというと政治家では小沢一郎現民主党党首があげられる。小沢一郎が自民党にいて、幹事長をやっていたときの総裁選で、総裁候補が小沢詣でをしたとき、この印象は鮮明に私たちに焼き付いてしまった。その後の新進党、自由党という変遷のなかで、旗印を鮮明にして純化路線を辿っていったときにも世間は小沢のトップダウンにある脅威を感じこそすれ、トップダウンなるものをよく評価しようなどという空気はこれっぱかりもなかった。小沢は常々独善とも取られがちなその手法の非難にこう答えている。

「いやなら、選ばなければいいだけの話ではないか」

 実はここが問題なのである。日本の社会は「いやなら、選ばなければいいだけの話ではないか」ということがそう容易に実行できる社会ではないということなのである。
 日本の会社だけではないのかもしれないが、一般に我が国のトップダウン=ワンマン社長の会社は独裁的であり、しかも、私物化されがちな印象を私たちは持つ。閉じきった世界のなかで統制され、個人の自由がない。まるで北朝鮮や旧東ヨーロッパにいるような印象をもつ。だから、トップダウンなどとんでもないと思うのである。宗教教壇のオウム真理教もそういう印象を与えた。

理念はいいが手法が独裁的という見識

  今回の田中康夫の県知事選敗北にかんして、このような言い方をする人たちが多数いた。県の役人にも根回しをして、議会ともよく話し合いをして、という見解は一つの見識ではある。しかし、ここでアメリカの大統領制という極論を考えてみればいい。アメリカでは共和党から民主党に大統領が変わるだけで、ホワイトハウスから膨大なスタッフの入れ替えがあるという。少なくとも、幹部となるスタッフ人事は一掃されるのだ。これがトップダウンの前提だ。つまり、行政の幹部というものは、大統領がこの指とまれとというメッセージを出し、その際に同時に発表される理念に同調する人たちが幹部となって、リクルートされるのだ。そして、以下のスタッフは、こうした幹部の意図のもとに仕事をこなしていくことになるのだ。ここに、「理念はいいが手法が独裁的という見識」などという評価がでてくるはずがないのだ。
知事になったら、十分県議会のみなさんの合意をとりつけなさい。これまで役人たちがやってきた経験をよく聞いて彼らの納得を得るようにしなさい。こんなことをいっていたら、ただただ、合意を獲得することだけに汲々とし、ただただこれまで通りという以前のお侍知事になりはててしまうではないか。
 田中康夫はそこに切り込もうとしたのだ。明確な理念を掲げ、県民の支持を仰ぐ。県民は支持をした。そこで、その理念を現実化する。ところが、そのとき、県民は議会選挙があったにもかかわらず、まったく田中と相反する人間たちを主流として選んだのだ。そして、従来のありきたった行政をよしとしてきた官僚を切断することも制度上田中はできなかったのだ。
  これでどうやって、明確な理念を実現するという行為をおこすことができるのだ?
トップダウンが悪いのではない。日本の社会はトップダウンができない構造になっているのだ。好きでもない人が同居することを好み、同じ考えでもない人が同居せざるを得ないという空間にしか「理念はいいが手法が独裁的という見識」はでてこない。
そうなのだ。県議会とうまくいかないということこそ、田中が存在する理由である。県の役人との軋轢を繰り返さざるを得ないというのも田中の存在の理由である。なぜなら、トップダウンという形式いがいにおいて、伝統主義からの脱却ができないからだ。行政は本来、トップが理念を明確にし、その理念を実現する方途を幹部以下の職員から募る。
 私たち教育公務員の職場は概ねトップダウンなどない。校長が意志を表明し、自ら決断を下すなどということはほとんどない。そのかわり、一体この団体はどういう方向へ向かっているのか皆目わからない。そして、それに異議を申し立てたい人間にはこの上なく息苦しい社会なのである。それは真綿で首を絞められるように曖昧に息苦しいのである。

選択の自由・自己責任・横断性・リスク社会

 最初に投資信託はトップダウンだと書いた。もちろん、そうはいっても何を買うかの最低限の判断の材料はあることはくどいが付け加えておく。どこへつっこんでいるのかという大まかな材料は与えられている。肝心な値動きはリアルタイムでわかる。だから、公務員の職場に比べればよっぽどその意志とその結果が明確にわかる。ファンドによってはだれがつっこんでいるのかも発表されている。トップダウンは一般に明確なその団体の意志をトップが下すこと、したがって団体の意志が明確であること、機能的に敏速であること、責任も明確なことなどがあげられる。そのくせ息苦しさがない、というのはどういうことなのだろうか。
 まずいえるのは、投資信託でいえばいつでもやめられるということである。欧米は国家レベルでも比較的移動に対する感覚が自由である。職場でいえばいつでも転職できる。横断性が柔軟に存在する。ここがポイントである。日本の社会は閉じきったシステムとなっている。いったん就職すれば転職はなかなか基本的にしにくい。いやならやめる、とか、いやなら他をということを容易にはできない。そのかわりこれまでリスクを回避することができ、自己責任を痛切に感じる必要もなかったのである。投資信託は自己責任である。泣いてもわめいても、値下がりし、塩漬けになればそれはあんたの責任、とこうなる。そのかわり、横断性はある。どれにするかは自分で選択し、自分の好きなものを選べるという原則がビルトインされている。そのうえのトップダウンである。要するに「この指とまれ」がトップダウンである。小沢一郎がいうとおり、「いやなら他の指に止まればいいだけ」なのだ。しかし、日本社会はその〈他〉というのが基本的に少ない社会なのである。横断性もない。閉じきった閉塞感のある社会なのである。
  田中康夫は終始県民に向けて会話していたのだ。県民に約束したことを実現しようとしたのだ。そして、「いやなら選ばなければいい」という選択を終始県民に、県民にのみ、つきつけていたのだ。そして、今回

「いやなら田中を選ばない」

という選択を県民は下したのだ。ここに、県民の、県民による、県民のための政治という田中の理念が現れている。田中はしたがって選挙に敗れたことをもって、県民の意志を、県民の不支持をもって去っていくのだ。どこが独裁者なのだろうか?
 
単位制高校

 私の勤務する高校は単位制高校である。クラスもない。学年もない。自由に単位を選んで自分の計画で卒業できるというのが謳い文句である学校なのである。しかし、このおもしろいはずのシステムを教員の閉じきった社会主義体質が腐らせていく。生徒は自己責任の学校である。自分で計画し、自分で選択できる。ダメになればそれは自己責任である。
 この仕組みを本当に生かしたいのならば、教員組織を投資信託システムにすることである。
「この指止まれ!」
「俺はこんな授業をしている来てくれ!」
 こうしてトップダウンで生徒を募集し、生徒の募集がなければ退場。これが自己責任原則というものである。生徒は中身を吟味し、いつでも横断的に移動できる。そのかわり責任は自分。これが単位制のほんらいである。ところが、現状は教員の都合に合わせて生徒の希望を調整する。教員には何のリスクも責任もない。他方今の教育システムでは生徒がリスク感覚をもって授業選択などできない仕組みになっている。
 さて、トップダウンはこれからある程度社会に導入すべきシステムである。たとえば私はもっと職場を選びたいのである。ひとつの理念を校長が立ち上げる、その趣旨に同意する教員が集まって学校を形成する。その際に校長はその応募してきた教員の職能を見る。そして、「こういう売りの教員がいます。来て下さい」と生徒を募集する。これでこなければ校長もろとも退場である。まさに、自己責任の世界である。そのとき、私は「はたして私は何なのか」を客観的に示し、それが売りになるのか、ならないのか、試されることになる。客が来なければ退場である。こうした「職能の客観化=専門化」「横断の自由」「自己責任」「リスク」という要素を内在させるシステムを実はトップダウンは前提とするのである。


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