オタクの基礎学力
老人臭はどうやら耳のしたの付け根のあたりから、それと、口のなかから臭うようだ。妻に、僕もよくいわれる。
「臭い!!」
僕は、生徒の基礎学力が問題だ、とか、こんなことも知らないといって、生徒をバカにしている教員を見ると、どうにもならない
「老人臭」
をかいでしまうのだ。この基礎学力を云々する教師と、道徳を振り回す教師には共通した老人臭がする。もちろん、生徒はその臭いをかぎつけ、目をそらし、相手にしない、話もきかない。つまり、結論からいうと――基礎学力をうんぬんする教員を精神分析すると――〈基礎学力〉という意識の真下には
「生徒から相手にされていない」
という無意識の不安が存在し、それを抑圧する合理化の機制として、〈基礎学力〉なるものが出てくる。〈基礎学力〉〈基礎ゼミ〉・・・、デキの悪い教師どもの〈年寄り&若年寄(これがけっこういるんだが)〉が考え出した、合理化の山である。
世界史オタク、日本史オタク、反戦オタク・・・学校には学校と家庭の往復という暮らしをつづける世間知らずが、これまた世間知らずのガキを相手にさらに、オタク化し、世間様にふれることのない教科指導をするという形式がえんえんと続いている。僕は、日本史オタクの教師にある古代史の固有名を知らないといったとき
「小学生レベル」
と決めつけられたことがある。本人はけっこうまじめにそう断じ、舌打ちをしていた。ところで、僕はその固有名を人生でこれまで通常の会話の世界の中で聞いたことはない。教員に採用されてすぐ、悪態をついて断りつづけたが、押し付けられて一年だけ日本史を教えたが、その固有名詞を触れたかどうかも定かではない。その程度の、ま、どうでもいいと今でも僕は思っている固有名詞だ、因みに、いま、その固有名詞を思い出せない(それって、精神分析的問題かなあ(笑))。僕はもちろん、日本の歴史をいまでも断続的に勉強している。丸山眞男が僕にとって日本史を読み解くための中心的思想家であるのだが、丸山政治学をとおして、僕は僕なりにおそらく、このとんちんかんな日本史オタクには比べものにならない、と自負するメッセージを現在日本の歴史から勉強している。しかし、僕は「基礎学力」がないことになるのだ。生徒の場合は以下のような具合だ。
教師の問「イスラム教とキリスト教の共通の聖地は?」
生徒の答「ペキン」
「ペキンだってよう!バカ!基礎がなってねえ!」
基礎学力の逆転
私たちはむしろ、こう考えなければいけない。
歴史の単語が生徒の意識の中で、通常の文脈として連結していかないという事態は何を意味するのか。そこを不可避の層で認識することが、必要なのだ。
歴史の映画を君は見ないか?そのときに、その国が、地図上のどこにあるか、などということがなければ人は歴史映画をみることができないか?このオタクどもの基礎がなければ、私たちは、その歴史映画を理解できないのだろうか?私たちはむしろ、こう考えたほうがいい。私たちはまず、歴史映画に〈ドラマ〉をみるのだ。いや、そのドラマという形態から感動をもらうのだ。そこに人がい、そこに人間関係があり、そして、その時代の――と映画作成者に想定されている――問いが私たちに突き刺さるのだ。そこに〈感動〉が生まれる。その感動をより、詳細につまびらかにしようとしたときに、私たちは、歴史オタクどもがいう〈基礎〉を問うことを必然的にされるのだ。
「一体これはどういう時代なのか?」
「このとき、この映画の人たちはどのような階層に属しており、全体の社会の構造はどうなっていたのか?」
マルクスやウェーバーという人たちを見ていると、彼らは決して、最初から基礎理論へと入っていくという道をとっていない。基礎とは、ある意味で当該社会や文明が行き詰まりみせ、当該思想家がその事態を〈危機として〉対面する中からそこへと回帰していくものだ。そういう回路がかならず伏在するものなのだ。つまり、ある自明性の崩壊をとおして、嫌々問いかけられるようにして私たちは〈基礎〉へと回帰する。
中学以前の子供なら頭ごなしも当然ありである。いや、頭ごなしでいいのだ。もちろん、そこにご褒美が明示されていれば、「巨人の星」(我ながら古いなあ(笑))みたいに。しかし、自我が発生した高校生に、頭ごなしに基礎などといってとんちんかな地図だの、国の名前だの、歴史の固有名などを彼らの生活の文脈と切り離して垂れ流したところで無意味であり、定着しなかったことは、現在の彼らが実証しているとはいえないだろうか。これができなければ銃殺、とか、入試でどうしても、とかという脅迫があればともかく、そうしたものが脱落した層に必要なものは、何はおいても
〈意味〉
なのである。なぜ、という〈問い〉なのである。それらを包摂した〈感動〉なのである。
何年か前に、『タイガーアンドドラゴン』というドラマが好評で、若い人が落語を見、寄席にくるようになった。長瀬智也が主演をしたことが、もちろん、インパクトをもってよかったのだが、宮藤官九郎(くどうかんくろう) の脚本もよかったのだ。現代を落語として重ね、その物語を現代のセンスに受け入れられる形式として提起できたのだ。そのよさの中で、落語の基礎知識もご相伴にあずかって伝達されていったのだ。これが典型だったと僕は思っている。
基礎学力のない教員
生徒の中には、成績をともかく〈正〉の刺激として享受できる層がいる。彼らはこのオタクに適当な相づちを打ち、適当な点数をとることができる。しかし、どうにもこのオタクの無意味についていけず、つい正直に生きてしまう層が確実に存在する。点数も悪い、気力も見せない、すると、オタク教師は
「基礎学力がない」
という結論をだす。そして、最前かいたとおり、地図の色塗りとか、国当てクイズのような知識を基礎ととりちがえ、そういうことをしてあげることが基礎だと考えるのだ。因みに、こういう発想をするアホ教師が愛読するのが、「少年ジャンプ」あたりだったりするのだ。受験参考書や、一橋出版その他が教師の指導書だの、ノート集だのといって作成した、安易な冊子を熟読玩味して丸写し(笑)というレベルなのだ。せめてよ、岩波新書ぐらい読めよ!「歴史のこぼれ話100選」ばかりじゃなくてさ!の世界なのだ。僕の職場に、このてのバカがいるが、歴史の単語集のようなものと、教科書をもとに、いまだにお受験のノートをつくっているのだ。目もくらむばかりのレベルである。机にあるのは、参考書の山である。お受験参考書で、感動がつ・く・れ・ま・す・か?勘弁してもらいたいねえ。このての「老人臭」の臭さに僕は鼻が曲がりそうだ!!!!
基礎という安易
基礎学力という教員の努力の最後の問題は、その目的が
手抜き
であるという点だ。メンドーくせえ、これに尽きる。僕がもっとも危惧するのはここなのだ。結局自分で自分のお墓を掘るのだ。そして、おそらく、郵政のあとにくるだろう、学校の民営化で、自分の埋葬をすることになる。
「おめえのような高給をあたえなくても、若くてぴちぴちした〈いうことを聞く〉若いのに任せる」
その前に、基礎学力オタクを僕たちが一掃できるか?
答えはわかりますよねえ。
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しかし、奇妙なのは、特に地歴/公民関係は、ハリのアナをとおすような競争率だったってことですよね。先生方、すくなくとも「もと秀才」では、あったはず(笑)。やはり、無競争/無風状態は、腐敗をうむと……。
企業が、選抜機能を大学にみとめなくなったら、全部崩壊するんですねぇ。おきるかどうかは、わからんけれども、えらいこっちゃ(笑)。予備校の先生もくっていけなくなるんだから、「基礎学力」先生は、路頭にまよいますね。でも、若年失業者がたまっている現在、当然の結果ですけど。
物理的にムリがある分量だとおもうのですね。しかも、大学の先生よりも勉強ができていないひとびとが、通史をやらかすというのは、犯罪的にヒドいかなと(笑)。実証史学がエラいとはおもいませんが、学界でハジかかないように、わきをかためようと、周囲の歴史情報をあつめますよね。大学の先生は。ところが、受験参考書しかよまないんでは、受験参考書未満の情報しかあつまらんのが通常なわけで(「1をきいて10をしる」ひとが、チンタラ授業をするはずもないから)、縮小再生産というか、劣化コピーですよね(笑)。そんなもの、あてがわれる生徒は、いい迷惑だ。ホント(笑)。
やっぱり、義務教育でない高校は、民営化しますか(笑)? 大学もくさっているみたいですけど、高校よりは、ナンボか マシみたいだし、おそらくそれは、羞恥心の差ですね。
なんとなーく予想できる範囲のお話でした。それでも現場からの報告として見ると、何だろうと思ってしまいます。
中学の一年生の一学期を終えた後、学校を辞退したので、その後のわたしは歴史については独学です。(韓国では不登校のことを辞退生といいます。)
十代のころに、P・アリエスの「子どもの誕生」の翻訳を読みまして、時系列に沿ってものを見る不思議さを知りました。
また、網野善彦さんの啓蒙書を読み、歴史を知ることでかえって伝統(とされているもの)から自由になれる魅力を覚えました。
そのほか、トクヴィルを読んで、フランス革命についても賛成・反対などいろいろな角度から歴史が書けることも学びました。
あとは、中世・ルネッサンス期の音楽や文楽などからも、歴史の空気を教わりました。
そうした独学者から見ますと、歴史は細かな知識の暗記だという発想は理解しがたいです。多分、わたしなどもそうした教員からすれば、「低学力」とか「小学生」並みとかいうことにされちゃうんでしょうね。
そういえば、1960年代にアメリカでフリー・スクールがはやり、公教育のなかにも学年・クラス・学校の壁を取り払ったオープンスクールなどが流行ったあと、バックラッシュがやってきました。そのときにの運動は“Back to the basic”(基礎に戻れ)。そして、子どもの科目選択や、実験中心の授業や、討論による学習を拝して、暗記やドリルづけの教育に戻ったんですよ。
確かに、子ども一人一人に気をくばったり、公式だけではなく実験もやったり、ディベート型で覚えるだけではなく考える授業をするのは、教員にとって負担になりますね。だから嫌になって反対した層もいたのでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/7f60094ac26fae8b8f15ee180ff897b7
●こういう高度経済成長を支えたエトスがなぜ崩壊しないのか、私にはわかりませんが、衰退産業の学校ではいまだにここなのです。したがって、大学進学を目指すでもない生徒にとっては、普通科目はホント無意味が剥き出しになるだけなのです。私が「田舎のパラドクス」で書きたかったのは、そういう生徒が意味をもって受け入れていく知の体系を学校はもっていないということだったのです。総合学習は本来その意味では正解なのです。ところが、今、総合学習はお遊びの時間か進学校では、自習かなんかの時間に化けているはずです。
前回の書き込みは激しい口調で申し訳ございませんでした。
さて、私は理系だったのでよく解るのですが、上記の指摘は、数学について同様です。
ここ数年、一部の数学者と言われる人達が、「数学を入試必須科目にせよ」とよく叫んでいます。『分数のできない大学生』の執筆者になっている人達です。確かに、「受験で必要ないから」というような理由で授業さえロクに聞かない学生もいることには感心できませんが(退屈な授業しかできないダメ教師もいるので全ての責任が学生にあるわけではない)、「受験の数学をやらせて何の足しになるのか」と私は大いなる疑問を抱かずにはいられません。そもそも受験の数学なんて、彼らが「数学を学ぶ意義」として強調する論理的思考力の養成が存在目的ではない。本来の数学とは全く異質なものであり、少なくとも、それに卓越するには(試験で高スコアを叩き出す)、論理的思考自体が障害になるケースさえある。そんなことやらせて一体何になるのか?でも、彼らはそれをやらせようと血眼になっている。
結論を言うと、そんな人がのたまう「数学を学ぶ意義」なんて大義名分はホント胡散臭いもので、「数学を入試必須科目に」という類の主張も、実は、単に自分の拠り所である数学とそれによって築いた社会的地位を失いたくない、という理由からものとしか思えない。そんな個人的かつ保身的理由で「数学、数学」なんて騒ぐな、というのが私の本音です。
■かきこみありがとうございます。私は、つるた様が前回お書きになられた気分を十分理解します、困ったことに(苦笑)。ただ、なぜか、公務員村にはつるた様のご発言に見られるようなお怒りが届かないようになっています。その仕組が存在することと、先の公立中学の方のご意見は重なるんです。その仕組を壊すことはどういうことを意味するのか、私にはいまひとつわからない。■今回のつるた様の書き込みをお読みして、最近ニーチェを読んできたことで触発されることがありました、で、本文でつるた様の書き込みへの返事をさせていただきたいと思います。
http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/cf29cc6e745acb0bbf8b4ea76be8c7c1